第58話 紫苑と徳幸

「はじめまして。僕は紫苑といいます」


 大切な札の隠し場所。別れ道もない単純な一本道で、正しい道に入ることができれば、すぐにでも札の在り処にたどり着けるだろう。

 誰も訪れないその中間点たる木製の戸の前で、徳幸の前に、そう名乗った少年が現れた。整った顔立ちは、どこか冷ややかな印象を受ける。

 知らぬ顔だが、聞いたことのある名前だった。福美子から。そして、友人の娘である舞夜から。

 思わず、しおん、と口の中で呟いて、考え込むように目を伏せる。


「お前が――いや。なぜ、お前はここにいる?」

「なんでって、白々しいなぁ。――それ、その扉の向こうのもの、渡してもらえます?」


 浮かべられていた愛想笑いが消え失せる。冷えた表情のなか、欲にぎらついた瞳だけが浮かび上がる。


「それとは、」

「『閂札』、あるいは『戸籠札』――知ってますよね? 戸籠サン?」


 次いでにっこりと浮かべられた笑顔は、張り詰めた雰囲気にも浮かないほどに上っ面だ。


「……僕はね、あれが欲しいんです。必要なんです」

「どうやって私達のことを知った?」

「僕の大切な、唯一の友人である舞夜ちゃんが、うっかり口を滑らせてくれたんですよ」


 紫苑は笑っているのに、苛立っているようにも見える。彼女に対して何かしら、思うところがあるのかもしれない。

 先日舞夜が、札のことなど尋ねてきたのはこのせいだろうか。てっきり彼女の父が口を滑らせたのだと勘違いしていたが……。

 徳幸の唇が、皮肉気に歪んだ。


「騙した、いや、こちらが勝手に騙されたのか」

「あれ、手でも組んでたんですか?」

「まさか……」


 徳幸は失言だったとでも言うかのように目を伏せたが、それも一瞬だった。揺れた内心を落ち着かせて顔を上げ、凪いだ湖面のような心境で、得体の知れない少年をまっすぐ見据えた。


「お前は、それで舞夜に近づいたのか」

「いや、…………そうですね。僕の悲願のためという意味では、合っていますよ。ああ、僕が彼女を取り込んだとでも思ってます?」


 舞夜のことを尋ねると紫苑は舌を躊躇わせたが、すぐに滔々と続けた。


「恐らく一応友人なので、彼女の名誉のため弁明しておきますが……彼女は本当にうまく隠していましたよ! 本当に、上手に。あんなのんき馬鹿のくせに、なかなかの演技派だったみたいですねぇ? 彼女がそれについて何かを知っているだなんて、僕はとんと、思ってもみなかったんですから。なのに友達友達って、はは、馬鹿にしてんのかよ……」


 片手で顔を覆って俯く、その表情は窺えない。舞夜の名を出すとやっと人間らしく動揺するが、それが愛憎故なのか、もしくは他の感情故なのかは分からない。


「事情は分からんが――こうして隠しているものを、はいどうぞと渡すとでも?」

「そんなもの、貴方には不要でしょう? どうせ扱いきれないし、守りきれない」

「それは、……お前にも、誰にも、関係のないことだ。これは、私の問題だ」

「守ったところでどうせ報奨もないでしょうし、感謝も、称賛もない。押し付けられただけのゴミなんて、厄介なだけでしょうに」

「亡くなった妻との約束がある」

「……死人如きに囚われるなんて、馬鹿らしい、くだらないことだとは思いませんか」

「思わない」


 徳幸がきっぱりと断言すると、紫苑は少しばかり不快げに目を細めていた。


「私は、今でも彼女を愛している」

「では、貴方の妻を生き返らせてあげましょうか」


 目の前の少年は平然とそう言ってのけて、微笑んでみせる。人間に取引を申し出る悪魔のようだった。


――美祝みのり。私の妻。

 福美子。私と彼女の唯一。彼女の生きた証。血を分けた娘。可愛い子。

 その仕草に彼女がほの見える一瞬、あまりにも輝いてみえる。眩しく、心に翳りの生まれるほどに。愛おしい。ただただ愛おしい。そしてそれ以上に、自分は彼女を愛していることを知る。身をもって知らされる。福美子はひたすらに、心底に可愛いく尊い存在で。ただ彼女の行く末に、美しい幸福の満ち溢れるように、産まれたときからそれだけを祈っている。

 それなのに何故、自分はまだこうも死人を想っているのだろう、と我ながら不思議な心地になる。いつまで死人への恋に囚われているのだろう。なぜ現実を、我が子ことだけを考える、それだけのことが出来ないのだろう。親のくせに。ただ一人の親のくせに、身勝手にも程がある。

――死ぬのが私であればよかったのに。

 彼女と福美子ならこんな泥沼に陥ることなく、きっと逞ましく現実を歩んでいけただろうに。

 自分のような者が父親である資格はないと常々思っている。こんなに可愛く尊い命の傍らに、このような存在がいてよいはずがない。健やかに育てることが私のような未熟者にできるはずもない。いや、実際に、未熟な私だけでは、福美子は育てられなかった。妻の死を忘れられぬまま一人で子育てをし、精神を病みかけてしまったとき。友人に助けてもらえてなかったら、私は、福美子は。どうなっていただろう。

 私は福美子と同じくらい、死人である妻を未だ愛している。これはきっとよくないことだ。

 私がそのことに内心では満足している、それが特によくない。


(分かっているとも)


「代わりに、貴方の命を頂きますが」

「……ああ、真にそれだけならば、喜んで差し出したのに。それだけなら……」


 福美子のため、そして妻のためなら、徳幸とくゆきはいつだって死ねると思っている。

 今自分が着いている席に、妻が座ってくれたら。彼女なら福美子を幸せにできる、二人で幸せになってくれる。徳幸にとって、それより嬉しいことはない。紫苑が今してみせた提案、それ以上の幸福はない。

 だが。


「だけど、この札だけは譲れない。彼女の最期の、願いだからだ」


 妻の――美祝みのりの言葉以上に優先されるものなんて、この世に存在しない。


「お前は美祝ではない」


 断固と拒絶した徳幸に、紫苑は落胆の溜息を吐いた。それでも、徳幸の答えを予想していたかのように平静を保っている。


「そう、ですか」

「そもそもあんな札、今更何に使う? いや、何に使える、と言ったほうが正しいか? あんな触れもしない札、何も生み出さないただの紙きれに過ぎない」

「僕は別に、それを使って世界征服だとか、無差別に人様に迷惑をかけるつもりは全くありません。ただ――長年温めてきた悲願に、報いてやりたいだけなんです。だから、それは、どうしても僕が頂きます」

「ああ、お前が何をするつもりかは知らんし興味もないが、何があろうとも引き渡すことはできない。――この札について知る者が私達だけになった今でも、ただそれだけが、私が彼女から継いだ義務だ」


 断言する徳幸に、


「交渉決裂ですね。残念です……」


 紫苑は表情一つ変えず、そう言い放った。彼の背後で、何か影のようなものが伸び上がって。そして。




 ぐったりとうつ伏せた徳幸の横を通り、紫苑は粗末な作りの戸に手をかけた。そんな彼の顔を、背後から狐が覗きこむ。


「殺しちゃ駄目なのよね?」

「殺さない。……相手が人間だって分かってる?」

「やりようなんていくらでもあるじゃなーいっ」


 ふひひ、と目を山なりにつり上げて狐は笑う。

 何もしないよ、と紫苑が告げれば、どうして、と狐が問う。


「舞夜がいる」

「んっふっふー。やっぱり! やっぱり仲良しなんじゃなーい。知ってたけどっ、知ってたけどぉ!」

「それにまだ使いようはあるし……聞けよ」


 急に機嫌を良くした狐は、紫苑の周りをぴゅんぴゅん飛び回りながら、「泣き止んだかしら?」「今から会いに行かない?」「どうするどうする?」などと捲し立てている。

 しばらくはこの話題で、一人で馬鹿みたいに盛り上がっているに違いない。紫苑が内心うんざりしつつそんなことを考えると、


「……でも冷静に考えると、アンタさっきのやり取りで既に嫌われてんじゃない?」

「うるさい!」

「嫌われてないにせよ、もうではないのでは……?」

「……お前には、関係ない」


 急に冷静になった狐の顔を押し退けると、奥の影に消えるのだった。

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