第57話 2

 紫苑の去った後。舞夜は恐る恐る福美子に、ずっと保護者の目もない所で一人で遊んでいたのか、ということを遠回しに尋ねた。子どもながらにその意図を察したらしい福美子は、気まずそうにもじもじした。


「……だってマイちゃん、怒るかと思って。フミは一人で遊んでも楽しいのに、みんな変な顔で見てくるし」

「怒る……というか、心配して倒れるかと思った」

「! でも、本当に一人じゃないよ! フミのこと守ってくれる『見えない人』がおって、皆に見える時もあるよ! フミの言うこときく人!」

「そ、そんなこともあるんやね……」

「うん。フミの親っぽくして守ってくれるから、遊ぶのは一人やけど、一人じゃないから、マイちゃんも倒れなくて大丈夫! ……これ、絶対内緒!」


 福美子は声を潜め、しーっと囁いた。


「『見えない人』は内緒で、知られたら逃げてってお父さん言ったから、内緒!」


 『見えない人』。舞夜は福美子の背後を見る。舞夜には何も見えない、分からない。守護霊のようなものだろうか。どう目を凝らしても、考えても、ただ福美子が一人遊んでいる光景しか浮かばない。

 守る、というそれは、独り遊ぶ子どもをまじまじと見る視線から、福美子を守ってくれるのだろうか。一人転んで怪我したとして、元気づけたり治療したりしてくれるのだろうか。だったらいいけれど、そうでなかったとしたら――


「これからは、私とか、お兄ちゃんとか……フミちゃんのお父さんとか、誰かと一緒に出かけよっか」

「ふーん。なんで?」

「……子どもが、親の見てない遠くで、一人で遊ぶのは、すごく……危ないし、怖いことで――あ、その子は悪くないし、遊ぶことも悪いことじゃないんやよ? でも、世の中が危ないから……私、ほんと、ほんともう……心配で、心配で、倒れる……。うう、無事でよかった……!」


 舞夜は思わず、福美子をきつく抱きしめた。とても小さい。無事でよかったと百回くらい言いたくなる小ささだ。今度は福美子は嫌がらず、舞夜の腕の中でじっとしていた。

 二人でしばらくそのままでいると、やがて福美子がぽつりと呟いた。


「やっぱり、お父さんは、『悪い親』?」


 自らを『悪い親』と称した、あの寂しげな微笑みが思い浮かんで、舞夜は福美子に見られないよう顔を歪めた。


「……今まで、誰かにそういうこと言われた?」


 福美子は小さく頷いた。しかし彼女がそれを聞いたのは、自らの親からではない。福美子が一人で遊んでいることに気付いた人々が、彼女を見てそのようなことを囁いた。子どもを一人にするなんて、なんて親だ。まともじゃない。虐待だ。悪い親だ――。

 そういうとき、福美子の背後の『見えない人』は、『見える人』になってくれる。親のように振る舞って、福美子をその場から助け出してくれる。

 それでも、耳にした言葉が消えるわけではない。


「でもフミ、一人で遊ぶの好き。よく知らん他の子と遊ぶより好き。……あと、お父さんのことも好き。ふつーくらいに好き」

「そっか」

「うん。しおんくんとそんな話しした」

「そ、そっか……。へー……」

「……もしかしたらしおんくん、『見えない人』も知っとるかも」


 福美子はぽつりと呟いた。確かに彼なら、舞夜にはさっぱり分からないその存在が感知できてもおかしくはない。


「なんでしおんくんとマイちゃん喧嘩したの?」

「……分からん……。なにも、なにも分からん……」

「えー、マイちゃんなんも分からんの?」

「分からないです……」


 人形のように、力なく頭を振り続ける舞夜。その妙な動作がおかしくて、福美子は「変なのー」とはしゃぐように笑った。

 そんな福美子の楽しげな笑い声を聞きつけて、建物の角から飛び出すように、総太が颯爽と現れた。


「イエーイ、総ちゃんさんじょっ……えっ、なに……?」


 いきなり登場した総太に笑顔を向けて、跳ねるように駆け寄ってくる福美子。その背後、ぽつんとベンチに座り頭を抱える舞夜――その沈鬱とした雰囲気に、総太は戸惑った。

 飛びついてきた福美子を抱き上げた総太に、舞夜はぼそりと呟く。


「もう何も分からん……」

「お、俺も分からん……」

「フミも分からん!」


 それから総太に抱っこされたまま、福美子はひそひそと声を顰めた。一応、内緒話のつもりなのだろうが、距離は近いわ辺りは静かだわで、普通に舞夜の耳にも届いていた。


「さっきマイちゃん、しおんくんと喧嘩した」

「なんで……? アイツ謝ってなかった?」

「しおんくん、マイちゃんのことすごい怒った。フミがしおんくんのこと怒ったら、帰った」

「何やっとるんや……?」


 ひどく困惑した総太の声に、舞夜は大きな溜息を長々と吐き、顔を覆った。珍しく心底参っていた。


「何も分からん……」




「ちょっと、更に状況悪化してんじゃない。何やってんのよー」

「うるさい」

「あーあ、喧嘩して再会したらフツーは仲直りしてイチャつくもんじゃないのぉ? それをあんなに罵っちゃって……」

「……うるさい」


 紫苑は背後を睨む。ふわふわと、狐が宙に浮いている。立板に水がごとく喋りたてていた女声の狐だったが、紫苑の視線に口を噤むと、あざとく首を傾げてみせた。もちろん、それで甘くなる主人でないのは百も承知で。


「ところで、どこに向かってるの?」

「……例の、探し物の場所」

「ふーん。何処にあるか分かったんだ?」

「なんとなくね」


 具体的な場所までは分からない。

 以前舞夜と仲違いしてから、紫苑は『札』を手に入れるため、戸籠 徳幸を調べていた。福美子についても調べようとはしたが、彼女に近寄ろうとするだけで彼女を守護する存在に邪魔されるのでやめた。

 徳幸は外出すると、いつも決まった山に向かっていった。後を追わせるも、いつも途中で行き先が分からなくなる。それでも、おおよその場所は掴めている。


「山よりも舞夜ちゃんを慰めに行かない? 今頃泣いてるかもよー?」

「関係ない」

「可哀想に、アンタのせいであんなに泣いて……今頃、あの幼馴染の子に慰められてるかもねえ?」


 囁かれ、紫苑は一瞬歩みを鈍らせたが、すぐさま鬱陶しそうに狐の顔を押しやった。


「うるさいって言ってるの、聞こえない? そもそも、外では話しかけるなって言ってるだろ」

「外、ね。外……さてさて、ここはいったい外かしら? それとも、何かの内?」


 背後に狐を浮かべた紫苑は、暗々とした道を歩いている。山への道を進んでいたはずだが、周囲の景色は全て影に溶けたように曖昧になっていく。紫苑は横目でそれを一瞥し、また前を向いて歩きだす。

 狐はくすくす笑うように、宙でくるりと一回転。


「『付いてくるのはいいけど、存在しないもののように振る舞え』。分かってる、分かってるわ。耳にタコが出来るくらい聞いてるもの」

「それだけ僕に同じことを言わせてるんだろ。どうかと思うね!」

「いいじゃない、別に。今更でしょ? ……それより、この道。ハズレみたいね」

「じゃあ次行こうか」

「諦めないし躊躇わないわねぇ。誰に似たのかしら」

「……そういうのは、お前が一番よく知ってるだろ」


 振り返りもしない少年の言葉に、狐は上品に笑ったのだった。




 しばらく項垂れていた舞夜だが、やがて気を取り直したように立ち上がった。


「うん、考えてもしょうがないことはしょうがない! フミちゃん! 今日、マイちゃん家泊まってく!?」

「それもいいけどー……、フミ、お父さんのとこ帰る」

「え!? そ、そっか。……」

「だめ?」

「駄目じゃない、駄目じゃないけど……うん、一緒に帰ろっか。家まで送ってくから――」

「家じゃなくて、フミ、お父さんのとこ行く」

「仕事場ってこと?」

「ううん。お父さんのよく行くとこ。フミは行ったことない! 『見えない人』、来て! 早く!!」


 福美子に厳しく呼ばれ現れたのは、大柄な、見たことのない人だった。背の高い総太より更に上背があるので、男性に見えるが、面長でのっぺりとした中性的な顔立ちのため、はっきりとは分からない。Tシャツにジーンズと普通の洋服を着ているが、どこか浮いた雰囲気がある。ガタイもよいし、和服の方がしっくりきそうだ。

 彼は、仲間の輪に入れない子供のような顔で、福美子や舞夜を見ていたが、福美子に「こっちに来てほしい!」と怒られるまでだった。彼は福美子に言われるがまま彼女を肩車した。親というよりも、召使いのような振る舞いだった。


「投げる高い高いして、高い高いー」


 『見えない人』は福美子の指示を聞き、彼女の体を慎重に上に投げては受け止め、ということをしている。子守のようだった。

 横で総太にこそこそと呼ばれ、舞夜はそっと彼の方に耳を寄せる。


「あの人何者? ミエ……誰?」

「たぶん……フミちゃんパパの部下で、フミちゃんの安全を見守る係の人……?」

「ベビーシッターみたいな?」

「ちょっと違うかも? 分からんけど」


 ふわっとした回答だが、総太は、「世の中にはそんな仕事が……」と、妙に感心した様子である。紫苑ならもっと正確な答えが出せるのだろうかと思って、舞夜はまた少し落ち込んだ。

 福美子はこのまま、父親の元に向かうらしい。できるだけ彼女の傍にいたい舞夜も、付いていくことにした。総太は買い物途中であるし、舞夜がいないのなら彼女の家に寄る理由もないしと、自分の家に帰っていった。

 彼は去り際、念を押すように、「そんなに落ち込むなら仲直りしとけよ」と言い残していったが、舞夜はそれには答えられなかった。

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