第56話 傷の付け合い

 福美子はすぐに見つかった。図書館で、一人で本を読んでいた。本当に、一人だった。

 名前を呼ぶと、嬉しそうに笑って舞夜を見上げてくる。舞夜は堪らず抱きしめようとしたが、嫌がられたので止めざるを得なかった。


 福美子の望んだ本を借りてから図書館を出た。しかし彼女をそのまま家に送っていくのも憚られて、舞夜はとりあえず、図書館の横に置かれたベンチへと移動した。

 此処に来たのは久しぶりだった。紫苑と顔を合わせ辛かったので、彼とよく会っていたこの場所には訪れていなかったのだ。舞夜は久しぶりにそのベンチに腰掛けて、これからどうしようかなと、福美子の小さいポニーテールを見下ろしながら考える。

 しばらくぼんやりしていると、福美子はキョロキョロしてから、不思議そうな顔で舞夜を見上げた。


「今日はしおんくんはー?」

「……シオンくんは、今ちょっと喧嘩して……会ってない、かな」

「ふーん。仲直りは?」


 福美子のくりくりした大きな目に、いつになるか分からない、そもそも仲直りできるかも不明だ、なんて言えず。舞夜は苦笑を浮かべようとして失敗し、深い溜息をついた。

 俯く舞夜のほっぺたを、福美子の小さな手のひらが励ますように軽く叩く。


「マイちゃん寂しいねえ」


 うう、と呻き「フミちゃーん!」と舞夜が抱きつこうとすると、顔を押しのけるように拒絶された。


「くっつくと暑いよ!」

「ごめんごめん。…………あの、フミちゃん?」

「んー?」

「私、フミちゃんに、その、少し聞きたいことが――」


 どう切り出したものかと怖ず怖ず尋ねる舞夜だが、福美子はそれを気にも留めず、すでに他所を向いていた。真剣な話なのだが、と舞夜は内心苦笑しかけ、「あ、」と、彼女の視線の先にいた人物に、動きが止まった。


「マイちゃん、しおんくんやね!」

「う、うん……」


 舞夜は紫苑から目を離せぬまま、よかったね、と無邪気にはしゃぐ福美子の体を抱き寄せた。庇うようなその仕草に、紫苑は一瞬顔を歪めたが、それもすぐ笑顔に取って代わった。


「久しぶりの挨拶にしては酷いね。僕が子どもに手をかけるような人間に見える? あーあ、さすがに傷つくなー」


 反応に困り狼狽える舞夜の耳元で、福美子がひそひそと囁いた。


「マイちゃん、仲直り?」

「う、ん。だからちょっと、静かにしとってね」


 心得たとばかりに福美子は頷く。

 舞夜が改めて前を向くと、久方ぶりの帝釈紫苑が、口元に相変わらずの薄い笑みを貼り付けて立っていた。しかしその苛立ったような、探るような鋭い視線は、恐らく今までは怪異に向けられていた――きっと舞夜には、向けられたことのないものだった。


「……そうやって僕から隠すってことは、もう色々と思い出したんだ?」

「思い出しては、ない、けど」


 けど、思うところはある。歯切れの悪い舞夜の腕のなか、状況の分からぬ福美子だけがきょろきょろと、相対する――どう見ても仲直りする雰囲気にない――二人の様子を窺っている。


「ふーん、へえー、あっそ。…………記憶がなくても、君は僕よりその子を選ぶんだね」

「それはっ……庇うのは当たり前やんか。フミちゃんはまだこんな、こんなに小さいんやよ? それを一人で……そんなの、ほっとけるわけないやろ!」

「うるせぇな分かってるよ、君が僕のことなんかどうでもいいって思ってることくらい」

「そんなこと、」

「ああそうだねごめん、間違えた! 君は今幸せだから、それさえ崩れなければ他のことなんてどうだっていいんだ。今あるもので十分満たされているから、何が自分の周りに増えようが減ろうがどうだっていいんだろ。僕も、それ以外も」


 完全に虚を突かれた舞夜が目を丸くする。意識の外にあったことを持ち出され戸惑う彼女に、紫苑は悪意で更に言葉を尖らせる。


「家族だとか幼馴染だとかそこにいるガキだとか、そいつらさえあればいいんだろ? その周りで何が起きようがどうでもいい。近くで僕みたいなクズが喚こうが、『顔剥ぎ』みたいな化物が擦り寄ろうが、まあいいかって受け容れる。幸せだから。現状さえ崩されなければどうでもいいから! 無関心な相手にも適当に付き合う! 友達友達って適当な言葉使ってさあ、……大切なものを守るためには真実を隠さなきゃいけないような危険人物を? よく、友達だなんて呼べたねぇ。本当に大事なものが傷付けられそうになったときは馬鹿みたいに反応するくせに。……反吐が出る」


 吐き捨てる紫苑に舞夜は絶句した。

 彼の言葉が分からなかった。理解はできる。しかし分からなかった。そんなことを考えたこともなかった。そしてその針のような言葉に狼狽えるのは、自分の中に思い当たる節があるからだろうか。

(私、は……)

 ぐ、と喉に小石の詰まったような息苦しさに俯く。

 辛そうな舞夜を、福美子がその大きな瞳で見上げた。そしてその目をきゅっと釣り上げて、彼女の腕の中から紫苑を力いっぱい睨みつけた。


「マイちゃんいじめるの止めて! しおんくんダメでしょ!! よくない!」

「ただ話してるだけだろ。口挟まないでくれる?」

「なんでそんなに怒るの! マイちゃん可哀想や! しおんくんのこと好きやのに!」

「分かってるから喚くなよ。それに、僕は別に好きじゃない」

「好きと違うならあっち行って! なんでマイちゃんのとこ来たの!? あっち行って!!」


 ぐ、と紫苑は一瞬たじろいだように顔を顰めた。そしてキツく奥歯を噛みしめると、ふいと顔を背けてしまう。

 舞夜は彼を呼び止める言葉を持たなかった。その背中を見送る彼女の腕のなか、福美子が小さな体をぷるぷると震わせた。見ると、福美子は口を引き結び、懸命に嗚咽を堪えながら、ぼろぼろと大粒の涙を零していた。

 怖かったのだろうか、と思いきや、


「フミのせいで、しおんくんどっか行ってごめんなさい……」


 と、舞夜に引っ付いて、謝ったのである。自分のせいで紫苑が離れて行ってしまって、それで舞夜に申し訳ないと、この幼い子どもが泣いて謝るのである。

 舞夜は堪らなくなって、福美子をぎゅっと抱きしめた。


……本当は、彼に聞きたいことが山程あった。

 今更誰も狙っていないだろうに、それでも隠され管理されるほど危険な札。なぜそんなものを探していたのか。ただその札を手に入れることだけが目的なのか、それとも、それを使って何かをするつもりなのか。


帝釈紫苑あなた柊舞夜わたしと友達になったのは……あの日、図書室で、唐突に声をかけてきたのは――)


 わんわん声を上げて泣く福美子の背を宥めるように撫でて、もう姿も見えない紫苑のことを考えた。何を言われても言い返せなかった、彼のことを。


(こんなところに、何しに来たんやろ)




(…………何しに行ったんだ僕は)


 歩きながら紫苑は自問自答していた。何しに行ったんだと、もう一度己に問いかける。赤信号に足を止め、やがてそれが青に変わっても、彼は我に返るまで動かなかった。

 ほんの一時前のことだった。


「おっ」


 図書館にでも行こうかと歩いていて、ふと届いた声の方を見れば、長髪を一つにくくった少年がいた。舞夜の幼馴染――総太である。スーパーのポリ袋を振り回しながら紫苑を見ていた。市内唯一のショッピングモールの近くなので、知人との遭遇は珍しくもない。

 無視して通り過ぎようかと思った紫苑に対し、総太はなんの躊躇いもなく声をかけてきた。


「今から晩メシ?」

「いや」


 へー、と総太は興味なさ気である。それから聞いてもいないのに、自分は明日の休みに備え、スナック菓子とゼリー飲料を買ったこと、明日はトマトが安い、というようなことを紫苑に話した。そういえば家事ができると舞夜が褒めていた、と死ぬほどどうでもいい情報を思い出し、脳裏によぎったあのゆるい笑顔に苦い気持ちになる。


「あ、俺これからアイツの家寄るんやけど、時間あるなら来る? 今から電話するし、ついでに――」

「行かない」


 紫苑は苦い顔を隠そうともせず答えた。嫌なタイミングだ。アイツが誰かなんて、聞かずとも分かる。

 短く「そうか」と頷いたあと、総太はしばらく変にそわそわしながら、間合いをはかるように黙っていた。面倒に感じた紫苑が帰ろうかと考えた瞬間、総太は周囲――といっても別に誰もいない――に会話が聞こえぬよう、そっと声量を落とした。


「お前ら喧嘩でもした?」


 単刀直入である。

 紫苑は一瞬顔を歪めたが、すぐに苛立ち混じりの笑顔を浮かべた。


「だったらなに。……泣き付かれでもした?」

「いや。でもなんかヘコんどるからさー。やっぱ喧嘩か、珍しいなぁ」

「珍しい?」

「あー、うん。アイツ割りと口悪いけど、友達とは波風立てたくないですーってタイプやから珍しい。まあ実際どうかは知らんけど」

「ああそう……」

「しっかしまた喧嘩かー。前も一回したやろ? あの時もなーんか変やったし……だから俺、わざわざ仲良くせぇって言ったのにさー」


 そういえばそんなことを以前、帰り際に言っていたか。まあ全てが手遅れだが。


「……前も?」

「ん。なんかボケーッとしてさ……いやいつもボケーッとしとるけど。どう言ったらいいのか――悩んで困って考えて、みたいな? まーわざわざ内容までは聞かんけどさ」


 何かあったかくらいは察する、と総太は頬のあたりを掻いた。

 正確には、喧嘩をしていたわけではない。ただ舞夜が勝手に、紫苑から距離を取っていただけだ。

 舞夜は彼に何も――紫苑の存在についてすら――話していなかったようだが、どうやら色々と筒抜けだったらしい。


「で、仲直りの予定は?」

「君に言われなくても出来たらしてるよ」

「まあそうか。どうしたもんかなー」


 そもそも、友人と仲違いしたのも初めてなのだ。友人と仲直りなんて経験、したことがあるはずもない。どう感情が動くのかすら未知数だ。

 しばらく他人事に首を捻って悩んでいた総太だが(こういうところが舞夜と似ている)、はっと閃いたとばかりに顔を上げた。


「テキトーに会いに行って謝る……?」


 舌打ちしなかっただけ褒めてもらいたい。さすが舞夜の幼馴染だと紫苑は内心吐き捨てた。

 ただその後すぐ、取って付けたように、「謝って現状が悪化することはないだろう」というようなことを言われたので、とりあえず実行してみたら謝れなかったうえに普通に状況が悪化した。

 まあ、長文で相手をべらべら罵った自分が悪いのだが。


「(最悪)」


 福美子にはいじめるな、などと言われたが、苛めたかったわけではない。舞夜が、あんな所にいたからだ。狙いすましたように、福美子と一緒にいたから。

 唖然と見開かれ、苦しげに揺れる大きな目を思い出す。泣く、と思ったが、彼女は俯いて口を閉じて。結局、何も言ってこなかった。何も。


「……」


 思えば、最初から対処を間違えていたのかもしれない。もっと取り繕って、真っ当に優しく親切な同級生を演じれば良かったのかもしれない。あの『顔剥ぎ』のように。それだってできたはずだ。目的の為ならできたはずだ。

 存外に警戒心を備えている舞夜は、見知らぬ人間にはどことなく素っ気なかった。男子に対して、特にその傾向が強いようだった。下心を上っ面で隠したような者が苦手らしい。彼女を見ていてそれを知った。愛想が無いわけではないし、常識的な対応はするが、どこか距離を取る。そう、距離を取られたから、試しに思いきり踏み込んでみたのだ。

 これが間違いだった。

 誰がなんと言おうと、これは大きな誤りだった。演じ通せばよかった。試すなんて考えなければよかった。こんな面倒なことになるなんて思いもしなかった。

――彼女に、『意外と警戒心あるから』なんて、馬鹿なことを言ったのを思い出す。

 最悪なことに、自分が、まさか警戒されていたなんて、本当に最悪なことに、考えもしなかった。舞夜がボロを出すまで、そんなことを、欠片も、自分は…………。

(信用しているのが嫌だ)

 騙されたこと自体は百歩譲ってまだいい。自分が他人を信用した、それは、心底、ありえないことだ――紫苑が生きてきたなかで、それは絶対に、誰であっても、ありえてはいけないことだった。

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