第55話 2
梅雨に入り、本格的に雨が続くようになっていた。じめじめと汗ばむ季節に、そろそろ制服が夏服に変わる頃だとクラスメートが囁いていたのを思い出す。確かにこうも湿度の高い日が続くと、ブレザーなんて羽織っていられない。ベスト一枚で十分だ。
今日の土砂降りは特にひどい。雨の嫌いな人間にとっては、さぞや憂鬱なことだろう――などということを考えて、舞夜は小さく溜息を吐いた。午後の気だるい数学の授業のなか、彼女の言動を見咎めるようなクラスメートはいなかった。
あの日からしばらく、舞夜は紫苑に会っていない。
舞夜は紫苑を避けたし、恐らく紫苑も舞夜を避けている。クラスも異なり、二人が友人であることを知る者もおらず、自然と顔を合わせる機会もない。元来接点のない二人だ。互いに、相手に関わろうとする意志があったからこそ、今まで友人でいられた。会おうという意志さえなくなれば、簡単に繋がりはなくなった。
寂しいが、安心もしていた。顔を合わせても、どうしたらいいか分からない。謝ろうにも話し合おうにも、そもそも舞夜が何があったのかを理解できていないのだから、それも出来ない。
あれから舞夜は考えた。出来るだけ冷静に論理を積み重ね、想像を働かせて考えた。
あの場での紫苑の言葉から推測するに、彼が探し求める古い、昔話の御札は、『戸籠』という福美子の名字と、深い関わりがあった。そして、記憶を失う前の舞夜は、その事実を知りながら、紫苑から意図的に隠していた。――『ごめんね』という言葉と、苦々しい罪悪感には覚えがある。
かつての舞夜が、それを隠していたのには理由があったはずだ。が、しかし残念なことに、それら全てを忘れ、うっかり紫苑に『戸籠』という福美子の家の名字を伝えてしまった。……確かに紫苑が、『顔剥ぎ』野郎なんて呼ぶネムレスに感謝するはずだ。舞夜の記憶を消した彼のお陰で、彼はそれを得ることができたのだから。
――と、ここまで考えたが、所詮ただの推測だ。当たっているかも分からないし、そこから先のこともさっぱりだ。何も思い浮かばないし、傷口をまじまじ眺めるような気分になるから、あまり考えたくもない。……事情が分かったら謝って、彼と仲直りできるかもしれないと思ったから懸命に考えてはいるが、(本当に?)とその楽観を冷やかに見る自分もいる。
このおぼつかない感覚は、以前、ネムレスと二人で旧校舎を彷徨ったときと似ていた。あの時の結末を思うとゾッとする。
(うーーーん……)
舞夜は机に肘を置いて、頭を抱えた――傍から見れば、数式に手こずっているだけに見えただろう。
ここまでやらかして放置するほど無責任でもない。しかし今回は、いつも助けてくれる紫苑がいない。舞夜は何かあればすぐ彼に尋ねていたが、さすがに今はそれもできない。以前の記憶を取り戻せたらそれが一番手っ取り早いのだろうが、そう都合良くいくとも限らない。
そもそも、紫苑が探していた『札』とはなんなのか。あまり有名でもないらしいが、それに『戸籠』が何かしら関係している――?
(分からんなー、分からん……)
授業の終わりのチャイムが鳴る。それでもノートと教科書を開いたまま考え込む舞夜に、隣の席の友人が心配げに「大丈夫?」と声をかける。舞夜はゆるやかに首を横に振った。
「わからん……、何もわからん…………」
「へー、珍し。最後の応用問題? 今のうちに先生に聞いたら?」
その何気ない一言に、舞夜は目から鱗が落ちるだった。そういえば以前ネムレス――顔剥ぎに会った時に、こんなことを思った。
本人に直接聞けばいい。
「あの、……『御札』について、聞きたいことがあるんですけど」
思い立った翌日の放課後。
舞夜がそう切り出したとき、福美子の父親――戸籠 徳幸(とくゆき)は、いつもの無表情には珍しく、切れ長の目を見開いた。しばらくの居心地の悪い沈黙の後、短く「入れ」と背を向けられる。舞夜は脱いだローファーを揃えてから、白髪交じりの長髪に隠れている高い背を追った。
案内されたリビングの様子は、舞夜が幼い頃からずっと変わらないままだ。座布団に座ると、茶菓子として、醤油煎餅の大袋が雑に寄越された。それから目の前にある炬燵机に、小さな湯呑が置かれた。この家は、夏以外はだいたいホットの麦茶が出てくる。今みたいな初夏にはぬるいものが出てくる。
「熱くないか」
「大丈夫です、美味しいです」
遠慮せずごくごく飲んでから一息吐くと、この家の静けさが染み入るようだ。両隣の家屋には最早誰も住んでおらず、片方は近々取り壊されるらしい。いつもであれば福美子がぱたぱた走り回って、テレビを観ながら騒いでいるが、彼女がいないとこんなにも――。
「……あの、フミちゃんは?」
「外に出ている。心配ない。……それよりも、札の話だろう。どこで聞いた? お前の父親が喋ったか?」
「え、あ、その、」
「いい。アイツの、身内への口の軽さは知っている。全く……」
呆れたような溜息である。舞夜は内心で父親に謝りつつ、父がこの家の事情を知っていたことに驚いた。学生の頃からの友人だとは聞いていたが、それほど仲が良かったのだろうか。のんびり屋でのん気者な舞夜の父と、目の前のこの人とでは、どうにもタイプが正反対のように思えるのだが。
「で、アイツからどこまで聞いた?」
「ええと……まず、なんかすごい……力があって、簡単に持ち出せなくて、どっかに隠されたってことくらい、です」
煎餅の袋と格闘しながら答えたのだが、内容が曖昧なのは全て舞夜の推測なのでしかたがない。
『札』は、紫苑曰くそう簡単に持ち出せる物でなく、その辺に放置しておけるような代物でもない。なのに見つからないとすれば、誰かが隠すように管理している、ということになるだろう。有名でないのもそれで説明がつく。
徳幸は呆れた顔になった。
「なんだそのアホらしい説明は。いや、いい。それで、何が聞きたい?」
「どんな札なんですか?」
「どんなと言われても……そうだな、あれに纏わる里の伝承は聞いたか」
「里――村、と聞きましたけど」
「どちらでもいい。名も無い集落で、住人は里とだけ呼んでいたんだ」
舞夜は、紫苑から聞いた話の概略を、思い出しながら伝えた。
「――続きは?」
「教えてもらったのは、それだけです」
「それだけ、か。この話には続きがある。そう簡単な話ではなかったんだ」
徳幸は初めから語る。
――昔々、村が化物に襲われたときに、その札に仏様が吸い込まれるのを、村人が揃って夢で見た。
皆で一カ所の小屋に立て籠もり、その戸口に一枚の御札を貼った。
化物はそれに触れると、たちまち死んでしまった。
「さて、これは果たして助けられたのか、それとも閉じ込められたのか?」
「え?」
「化物だけ殺す、そんな都合のいいものが――御仏の奇跡が、信仰深くもない、何もない村に現れるとでも?」
物語には続きがあった。
――なんとか助かった村人達。ところが小屋から出ようとした男が、札を剥がそうと触れたところ、たちまちその者も死んでしまった。近寄るだけで目を回してしまった者もいた。貼ったときはなんともなかったのに、村人達は小屋から出られなくなってしまった。
もしや皆が夢見たあの仏様は偽物で、この札には実は、別の化け物が取り憑いているのではないか?
人々が小屋のなかで恐れ、騒いでいたところ、通りすがりに女が現れた。彼女は壁ごしに村人の事情を聞くと、彼らをたいそう哀れんだ。そして紙にすらすら文字を書き付けると、それを壁の隙間から村人にさしだし、目を回して倒れた者に、飲み込むようにと言い付けた。
彼が怖ず怖ずそれを飲むと、臍のあたりがカッカとした気がしたが、それも一瞬。お蔭で、その者はすぐに起き上がり、走り回れるようになった。
その者は札に寄っても目を回さず、戸口の札を剥がすこともでき、村人はやっと外に出ることができた。
それからは代々、その男の子孫が、恐ろしい札を見張ることとなった。札については、なんであれ村人が助けられたのは事実であり、祟られるのも困るということで、人目から隠すように社を建てて祀ることになった。祭事を司る者は、いずれ政(まつりごと)も司ることにもなり、村長となった。
後々付けられた苗字は『戸籠』(とごもり)。福美子らの、先祖にあたる者である。
「――なんか壮大な話ですね」
舞夜はやっと開いた袋から醤油煎餅を取り出すと、出来るだけ音を立てぬことを心がけてバリバリ食べた。醤油がよく染み込んでいて美味しい。
封の開いた袋を机に置くと、徳幸も全く日に焼けていない手を伸ばした。彼も同じようにバリバリ食べ、それからゆっくりお茶を啜った。舞夜も真似をした。煎餅で渇いた喉に、麦茶がいい具合に染み渡った。
「……その後も、里では札を祀り、細々と暮らしていたのだが――時が経つにつれ、誰もそんなもの気にしなくなった。過疎化も進み人も減り、かつてそこに住んでいた子孫ですら、この伝承を忘れてしまった」
遠い目をしているが、片手に齧りかけの煎餅があるためいまいち感傷に欠ける姿だった。
「それに取り残されたのが、戸籠の――私の妻や、その先祖の者たちだ。今の時代になっても、その恐ろしい札を守り続けている。まるで世間から隠れるように」
「…………今も? 昔話じゃなく、」
「ああ、今もだ。……とうに忘れ去られた札を、今更狙う者もいないと思うがな」
その言葉に舞夜は黙ったまま湯呑を置くと、揺れる麦茶の水面に目を落とした。『欲しいものは欲しい』と、そう言い切った彼の姿を思い出す。――こちこちと、静かな空間に壁掛け時計の音が響く。
舞夜は気を落ち着けるため、小さく深呼吸した。唇が震えるほどに動揺していた。
「その、……御札は」
「ん?」
「危ないのに、ずっと護るんですか? 捨てたり、燃やしたり……どこか、管理できる人に預けたり、とか、」
「余所者である私に、全てが分かるわけではないが。あれは、危険なものだ。見知らぬ人間の手に渡すわけにはいかない。……なによりあれは、彼女が――私の妻が、その先祖が、使命を受けて代々守ってきたものだ。それを絶やすわけにはいかない」
「でも、」
「私はあれを守り続ける。永遠に、この命尽きるまで。――それが彼女の最期の、心からの願いだからだ」
声は張り詰めるように真剣なのに、表情は悟りを開いたかの如く穏やかであった。
福美子の両親は、周囲が苦笑するほどに仲睦まじかった。舞夜もなんとなく、朧気な記憶ではあるが覚えている。なかなか子どもの出来なかった二人に、兄の彰冶と舞夜は、幼い時分よく可愛がってもらったのだ。ただ、舞夜が小学生になる頃にはその様子も変わった。福美子の母親は身体が弱く、静養のため実家に戻ってしまった。たまに会うと、事情もよく分かっていない舞夜がまくし立てる下手くそな話を、うんうんと笑いながら聞いてくれた。ただ以前の朗らかさとは異なる、奇妙に静かな雰囲気が漂っていた。
それから、元気な一人娘を地元で産み、しばらくしてから亡くなった。
最愛の妻を亡くした男の悲しみはあまりにも深く、何も手に付かないほどだったという。
「それで、いつかはその――危ない御札を、フミちゃんが守ることになるんですよね?」
「あの子なら、あの札に触れても大丈夫なはずだ。妻の血を引く、『戸籠』の子だから。きっと妻の志を継いでくれる」
「そうじゃ、」
なくて、と言いかけ、一体何がそうじゃないのかも分からず、舞夜は気まずげに口ごもった。
何故か今の言葉を聞いて、まるでこの人が――そんなはずないだろうに――娘よりも、死んだ妻を愛しているような気がしたのだ。わざわざ舞夜から娘の写真を貰って喜ぶような人が、まさか、そんなはずもないのに……。
「そのとおりだ」
まるで心を読んだかのような声に、舞夜の肩が跳ねた。見れば、徳幸は目を細めたままである。何も言わない。
本当に静かな家だった。物音を立てるのも躊躇われるくらい、時の流れすらないのではと錯覚するほどには静かだった。ただ古い時計の秒針だけが、染みるように現実を感じさせてくれる。
こんな時、こんな場所だからこそ、福美子の明るい声と、跳ねるような足音が恋しかった。彼女はまだ帰らないのだろうか。こんな時間に、誰と、どこにいるのだろうか。
――なぜか嫌な予感がよぎり、舞夜は気付けば先刻と同じようなことを尋ねていた。
「……フミちゃん、遅いですね」
「外が楽しいんだろう。適当に帰ってくるさ」
「誰かとお出かけですか?」
「いや、一人だ」
――一人で、どこかで遊んでいるだろう。
平然とした口ぶりに、舞夜は呆気に取られて何も言えなかった。一人? あの年齢の子が、一人で外出をしたというのか?
あまりのことに言葉を失う彼女に、徳幸は淡々と説明する。
「心配せずとも、大切な戸籠の末裔だ。安全は保証されている。お前には何も見えないだろうが、確かにあの子の身は守られている。……私は悪い親だろうが、無闇にあの子を危険な目に遭わせはしない」
言い、ほのかに溢れる寂しげな笑み。
舞夜はそれには答えなかった。学生カバンを引っ掴んで立ち上がると、口早に礼を告げ、その家から飛び出していた。
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