第54話 御札
舞夜が美しい字でノートを埋めていくのを、正面に座った紫苑が退屈そうに眺めていた。
此処は市立図書館二階の自習室である。広く静かで勉強のしやすい環境なのだが、あまり人が訪れない目立たない場所だ。今日も他に人がいないため、二人の貸し切りのようになっていた。
長机には舞夜の勉強道具の他に、紫苑が一階の書架から持ってきた数冊の本が積まれていた。郷土資料の棚にある地元の伝説や民話を集めたもの、地元に根付く祈祷札についての資料集、果ては札所めぐりの観光ガイドブックまで。分かりやすいような、分かりにくいようなラインナップである。
歴史の年表の書き取りを終えた舞夜は、オレンジ色のシャープペンシルを置いて小さく伸びをする。紫苑がそれを見て「お疲れ様」と薄く笑ったので、舞夜も相好を崩した。
「ありがとう。シオンくん、本読むの早いね」
「不要なところを読み飛ばしているだけだし、普通だと思うけど」
謙遜などではなく、淡々としていた。それもまた技術の一つだと思うが、ということを舞夜が伝えても、至極どうでも良さそうにしていた。
とにかく、自習も一段落ついた。紫苑がまさか無意味に他人を待つはずがないと、舞夜も理解している。やっと本題に入るのだろうと居住まいを正した。
「……なに、急に変な顔して」
「(変な顔……)いや、あの、この前の話をするんかなーって思って」
「この前のって……君が夢の中で、僕に謝ってたってやつ? へー、ずいぶん気にするね」
そう指摘されて舞夜は驚いた。無自覚だった。紫苑の呆れた顔に、少し恥ずかしくなって俯いた。
あのことを考えるとそわそわする。取り返しのつかないことに、心臓が凍ったような心地。ただ一言、友人に謝るだけの夢なのに。
「まあ、僕もすっごく気になるけどね! 君は何をしでかしてくれたのかなー。……本当に、覚えてないんだ?」
「お、覚えてないです……。やっぱりシオンくんも、気にします、よ、ね……?」
「ああ、気になるよ。――ほんと、嫌になるくらい、ね」
自嘲するような声に舞夜が顔を上げると、紫苑は「でも、」と綺麗に微笑んだ。上手な笑顔だな、と舞夜は今更ながら不思議に感じた。彼がよく浮かべる笑顔はどうしてか、無表情のときとあまり印象が変わらない。
「今日は違う話だよ。少し、相談に乗ってほしくてさ」
「相談……」
いつものそんな笑顔に、似つかわしくない単語だった。
「うん。探し物があってね。とある札を探してるんだ」
「御札……」
舞夜はオウム返しに呟く。その、どこか心ここにあらずな様子に、紫苑が眉を顰めた。
「――君、なんか今日少し……変じゃないか? いや、いつもおかしいけど」
「そんなことな……いつもおかしいって何??」
聞き捨てならない発言だったが、紫苑が「大丈夫そうだね」と笑うので舞夜はムッとしただけで口を噤んだ。一応心配してくれたようだし、それに言及して彼と口で戦っても、確実に負ける。
(それにしても、御札……。札……?)
カチカチと、シャープペンシルの芯を出す。
――何かが引っかかる気がして、開いたままのノートの上部に、札、とだけ書き込んでみた。
聞けば、紫苑はずいぶん長くその御札を探しているが、ここのところ行き詰まっているらしい。舞夜は、そんな話をこうしてちゃんと聞くのは初めてだなと思ったが、「前も説明したよ」とのことだった。……覚えてないから、しょうがない。
今舞夜の手元にある、謎の強力な札は、その本命の札の捜索途中に、勘違いで手に入れたものらしい。
「僕の探している札は、この近くにあるはずなんだ。そう簡単に持ち出せる物でもないし、その辺に放置しておけるような代物でもない。何処かに、必ずあるはずなんだ」
「へー。そんなに凄いなら、有名な気がするけど」
「一応、昔話みたいなのはあるよ。全然知られてないし、短いけどね」
――昔々、村が化物に襲われたときに、その札に仏様が吸い込まれるのを、村人が揃って夢で見た。
皆で一カ所の小屋に立て籠もり、その戸口に一枚の御札を張った。
化物はそれに触れると、たちまち死んでしまった。
確かに短く、分かりやすい話であった。つらつらと退屈そうに暗唱されたのを見るに、完全に頭に入っているらしい。
が、シンプル過ぎる故か、舞夜にはどうしても、少し物騒なだけの作り話にしか思えなかった。
「……なんでそんなの欲しいの?」
「なんだっていいだろ、欲しいもんは欲しい」
そこは教えてくれないらしい。舞夜には分からないが、お化け退治をしている彼には何かしらの用途もあるのだろう。
その札にはいくつかの名前があるらしい。恐らく、正しい名称など存在しないのだろうと語る紫苑に、その漢字を聞きながら、舞夜はそれらを暇潰しのように、カリカリとノートの片隅に書いていく。閂札、錠前札――。
「戸に守るで戸守っていうのもあったかな。あと、戸に籠るで戸籠……」
最後の一つを書き取りながら、舞夜はなんとはなしに口を開いた。
「ふーん。フミちゃんみたい」
「は?」
「戸に籠る、で戸籠 福美子――フミちゃんの苗字」
舞夜はくるりとシャープペンシルを回した。紫苑の手は机に置かれたまま動かない。
珍しいよねえ、とのん気に言いかけて、彼女は動きを止めた。
「――ああ、それで『ごめんね』か………」
大きく見開かれた黒い瞳。吸い込まれそうで、弾かれるような。
「舞夜」
嗤うように呼ばれて、肩が跳ねた。
「……君は本当に賢い、いい子だね。――いや、いいね。あの『顔剥ぎ』野郎、いい仕事してくれたじゃないか。はは、もういないけどさ。今なら感謝してやってもいい。いいよマイ、許してやるよ。これで全部チャラだ。さすがだね、君は本当に……」
紫苑は額に手をあてがったまま、まるで独り言のように喋り立てていたが、その後は言葉が抜け落ちたように続かない。ただしその口角は黒々とした狂喜につりあがっている。
「しお、」
舞夜は呼びかけようとする。しかしそれ以上は言葉にならない。
この感覚には覚えがある。あの夢。あの悪夢。
――取り返しのつかないことをしてしまった。
そして紫苑がやっと舞夜と目を合わせたそのとき。絡まる視線に、彼女は息を飲む。
「……ばーか」
独り残された舞夜は考える。紫苑の発言。彼はネムレスが舞夜の記憶を消したことに、感謝してもよいとさえ口にした。あの彼が。
ネムレスに会う前、つまり紫苑についての記憶を失くす前、自分は何をしたのか、あるいは何に気付いたのか。何に。どうして――。
しかし思考が滲んだように頭が回らない。だって彼のあんなにつまらなさそうな罵倒なんて初めて聞いたのだ。
舞夜は両手の指先を祈るようにからめ、そこに額を落ち着かせてから、開かれたままのノートに視線を落とした。書き写した文字も、今は何一つ頭に入ってこない。断絶と空白。彼女は深く長く、そしてどこか空虚な溜息をこぼした。
しばらく顔を隠したまま、舞夜はその場でじっとしていた。
紫苑は荒んだ気持ちをぶつけるように、家の石灯籠を踏み躙るようにして蹴りつけた。靴底を叩き付けたまま、吐き出す呼気とともに苛立ちが発散されていくのを待った。
庭も家屋もしんと静まり返っている。他者を受け容れず、寄せ付けもしない空間だ。
だからこそ、砂利を踏む足音は軽くてもよく響いた。
「物に当たるのはよくないんじゃない?」
嫌な人間に会った。紫苑はふらりと現れた少女を視認するよりも先に舌打ちした。
「何があったのかはどうでもいいけど、……?」
紫苑の憎悪混じりの眼光も、彼女は動揺一つせず柳のように受け流す。彼女の弟だったら、これだけでこっちには関わってこなかったのだろうが。
ただでさえ損ねていた機嫌が、ドス黒い不愉快な感情のせいでさらによじれていく。
少女はしばらく紫苑の様子を観ていたが、やがてわざとらしく口元に手を当てた。
「えっ、なにアンタ、動揺してんの?」
小馬鹿にしていることを隠そうともせず、見下した顔で失笑する。
紫苑は本当にこの女殺そうかと思った。もちろんいくら紫苑が考えたところで、そんなこと現実にできるはずもないが。
「早く帰れよ鬱陶しい」
「言われなくても。あーいー気味」
軽やかに門扉を出ていく少女の背中を、視線だけで殺すように一瞥し、紫苑はそこから背を向けた。しかし背を向けても眼前に聳え立つのは、陰気で静かな、クソみたいな我が家である。
改めて強く思う。――あの女も、あいつの弟も。お前ら全員、今に見てろ。
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