『戸籠』
第52話 幼馴染1
「……ごめんね、シオンくん」
舞夜ははっと目を覚ました。心臓が脈打ち、体は強張り、冷や汗が流れる。
しかし、やがて視界がいつもの自室の様子を認識すると、肩から自然と力が抜けた。緊張が解けて、そのまま長い息を吐いた。
舞夜は生ぬるい深夜の布団を蹴った。夜気が汗に濡れた身体を冷やした。
謝っているだけの夢だった。ごめんと、独りぽつりと零す夢。友人の、帝釈紫苑に謝る夢。それだけなのに。
――何故こんなにも、悪夢を見た心地と似ているのだろう。
嫌に騒ぐ心臓、取り返しのつかない事に触れたかのような緊張感。
彼に謝ることはしょっちゅうだが、こんな気持ちで謝罪した記憶はない。
記憶には、ない。
「……」
舞夜は寝返りを打ち、己を覆う宵闇から逃げるように深く目を瞑った。
「なーなーシオンくん」
「なに」
「私ってさ、なんかシオンくんに悪いことしたっけ……?」
「また漠然と聞くね」
突飛な質問に呆れた紫苑だが、舞夜のどことなく真剣な眼差しに気付くと、やがて手にしていた本を閉じた。
人気のない放課後の教室だ。舞夜は相変わらず部活中の友人を待っているし、紫苑はそのクラスに人がいないときに限り、暇潰しのように彼女の元に遊びにくる。いつもの光景だ。唯一変わった点といえば、6月になり梅雨入り間近であるという予報に、紫苑が苛立っていることくらいだろうか。
「悪いこと、ねえ。顔剥ぎにびっくりするくらい騙されてくれたこと? すぐ腰抜かすこと? いっつもなかなか協力してくれないことかもなー」
「なんかごめん……」
あれこれ並び立てられると、今までどれほど彼に迷惑をかけ、助けられてきたのかと、身を摘まされる思いである。
「冗談だよ。記憶がなくなる前のことだろ? うーん、言いづらかったんだけど実はさ……」
「な、なに?」
「金貸してるんだけど」
「嘘、えっ!? ごめんいくら!?」
「嘘だよ」
「怖い!」
「そういうの他人に訊くなってこと。まあ君、意外と警戒心はあるから大丈夫だと思うけど」
「んー、分かったー。……意外とってなに?」
難しい顔ながらも、舞夜が頷くのを見届けてから、紫苑はまた話題を戻す。
「悪いことね。……なんだろう。いくつかあるけど、僕が覚えている限りではないはずだよ。――それとも、僕の知らないところで何かしでかしたとか?」
「ええー。そうなんかなぁ?」
素直な、というより間抜けな声に、紫苑の肩から力が抜けた。一瞬でも真面目になったのが馬鹿みたいだった。
「……ま、覚えてないんだもんね。聞いても分かるわけないか」
「うん……」
申し訳なさそうに、そして不安そうにしょぼくれる舞夜に、紫苑は微笑みかけた。
「ま、とにかく! ちゃーんと謝って反省してくれたら、それでいいよ。やさしー僕は、ちょっとやそっとじゃ怒らないからね」
「……」
「何だよ。なんか文句ある?」
意図的なほどの無言に、紫苑は思わず喧嘩腰に問いかけた。
「……ちょっとやそっとじゃ、なかったら?」
予想だにしない言葉だった。舞夜の窺うような声色はあくまで真剣で、その瞳には不安げな色が見て取れる。
紫苑は彼女の瞳を眺めながら、しばらく黙り込んだ。
「そうだね。代わりになんかしてもらおうかな。肩でも揉むとか。……なんでもしてくれるんだろう?」
「いいよー。でも肩揉むの? 痛ない?」
まだマッサージの良さが分からない齢の舞夜は、眉を顰めた。
「平気」
「シオンくんの肩頑丈やね」
肩が頑丈ってなんだよ、と紫苑は笑った。つられて舞夜も頬を緩ませた。
その翌日、土曜の午前のことだった。紫苑の眼前にある柊家のドアを開けて現れたのは、ひょろっと背の高い、穏やかで落ち着いた雰囲気の男だった。長い黒髪は後ろで結われている。その平凡で柔和な顔立ちは、醸し出されるのん気さを除けば、あまり舞夜とは似ていない。
休日の、朝というには遅い時間帯。唯一の友人に会いに来た紫苑は、いかにも愛想よく微笑んだ。
「柊舞夜さんの同級生の、帝釈紫苑といいます。……舞夜さんはいらっしゃいますか?」
「お、おお……」
たじろいだような、納得したような微妙な顔をして、男は紫苑をまじまじと眺める。
――兄、だろうか。
値踏みでもするような視線だと紫苑が思った瞬間、男はあっさりドアを開けて彼を玄関に招き入れ、そのまま屋内に向かって声をあげた。
「マイー! 洗いもん俺が代わるわー! ……あ、そのスリッパ使って」
言われるがまま室内に上がると、やがてリビングにたどり着く。
そこに鎮座するソファから、ぱたぱたと伸びる細い足があった。が、ひょいと引っ込む。
「もう全部終わりましたー。急にどうし、」
ソファの背から、ぐいと反るように顔を見せた舞夜は、
「えっ」
と紫苑の顔を見た瞬間、唖然として動きを止めた。
咄嗟に「どうも」と挨拶する紫苑に、舞夜は悲鳴にならない悲鳴を上げ、慌てふためくあまりソファから転がり落ちた。あらーと、隣の男がのん気に苦笑いを浮かべる。
「なっ、なん、しお、え!? まっ……総太あ!!!」
「えっ、俺?」
「ちゃんと言えや!! こんなっ……こんな格好で人前に出れるワケないやろ!?」
「俺は……?」
寂しげな呟きは黙殺された。舞夜は焦ったように紫苑に「ちょっと待って!」と言い残し、そのまま走って別の部屋に飛び込んでいった。何やら物の落ちる音、「いてっ」という小さな声の後、取り繕ったように明るい声が届く。
「すぐ準備するから! 待って!」
「俺は……?」
人前とはいったい。寂しげなその問いに答える者はいなかった。
「あー、なんかすまん。俺はてっきり、そのー、約束でもした彼氏かと……」
「いや。僕も……彼女の兄か、身内かと」
「えっ!? いや、ただの幼馴染、幼馴染! あとついでに言うと同い年です……」
父親でも兄でもないです……と静かに呟くのを見るに、何か事情があるのだろう。悲しげに背を曲げ落ち込む姿は、優に180センチは超えているだろう背の高さも相まって、妙に哀愁が漂って見える。紫苑だって170は超えているし、低い方ではないのだが。
彼は勝手知ったるといった様子で、紫苑を先ほどまで舞夜が寝転がっていたソファまで案内した。何か飲むかとまで聞かれたが、それは断る。総太は短く頷くと、自分はクッションを尻に敷いて、ローテーブルの前に胡坐をかいた。
紫苑は舞夜に、このような幼馴染がいることを初めて知った。
「さっき絶叫されたから知っとると思うけど、俺、総太。橘 総太。よろしく……えーと、帝釈、やったっけ?」
「帝釈紫苑。呼び方はどうぞお好きなように」
「(どう考えても『しゃっくん』か『杓子』……! 正解はどっちや……?)…………しゃっくん、とかどうや?」
「何その距離の詰め方……」
嫌な顔をされ、総太は内心悔やんだ。こっちではなかった。
「じゃあ杓子は?」
無言のまま、蔑むような目で見られた。
お気に召さなかったか、と総太は分析したが、紫苑はただ、初対面で急に距離を詰められた感覚が不愉快だっただけである。
「まあそれはどうでもいいとして……一応言っとくけど、僕はあの子の彼氏でもなんっでもないから」
「あー、うん。ただの友達やろ? なんか変なこと言って悪かったわ」
思いの外素直に謝られて、紫苑は「まあ、そうだけど」と曖昧に頷いた。内心複雑な紫苑に対し、総太はただぼけっとフツーに帝釈と呼ぶべきか、等と考えていた。
「ちなみに付け足すと、別に会う約束もしてない」
「それでよく来たな!?」
「今から行っていいかメールはしたんだけど、返事がなかったんだよね。近くに来たついでに、借りていたペンだけでも返そうと思って寄ったんだけど……まさか、あんなにすぐ家に入れてもらえるとは思わなかった」
「いや、だってそれはアイツがさー……」
総太は気まずそうに視線を逸らした。もごもごと聞き取り辛い声で言い訳をする。
しかし意趣返しがしたかっただけの紫苑にとっては、既にどうでもいいことだ。舞夜とずいぶん仲が良いだろう幼馴染に聞きたいことは、そんなことではない。
「それより……」
「待たせたな!!」
タイミング悪く現れたのは、恐らく真っ当な部屋着に着替え、それとなく髪も整えたらしい舞夜だった。しかし正直、どの辺りが変わったのか、紫苑にはよく分からない。隣に腰かけた彼女に尋ねれば、「あれはパジャマの服」とのことだが、今のパーカーを羽織った緩い服装も、そのまま就寝できそうな格好だ。
ただ、舞夜の中でははっきり区別されているらしく、先ほどとは異なり堂々としていた。
「あ、なんか借りたペン返しにきたらしいぞ」
「貸したっけ?」
首を傾げる舞夜だったが、紫苑がにこっとしたので、そっと身を引くように黙った。
「メール、いれたんだけどね」
「えっ! ほんま? ごめん、今見る……うわなんかすごい連絡きた」
端末の画面に、引っ切り無しに浮かぶ通知の数々。昨晩友人の家に泊まりにいった、舞夜の兄である彰冶からであった。
『まい!!!!!』
『!!!!!』
『きいてない』
『あかんやろ』
『家によぶ!!!!!???』
『家族より先に幼馴染に紹介する???』
『_(:3 」∠)_』
「総ちゃんなんかした?」
「『なんかイケメンきた』って送ってちょっとやり取りしたけど、ホンマにそれだけやで?」
「それやろアホ!!」
しばらく彰冶からの連絡は続いたが、途中で飽きたらしく延々と変な顔文字が送られてくるようになった。元々遊び半分のようだ。
舞夜は画面を無視した。
「あーあ。これは総ちゃんのせいで私とシオンくんが迷惑受けるやつや。これは慰謝料」
「いや確かに俺も悪かったですけどー? でもこれは絶対柊さんの責任も重いわー。寧ろ俺より柊さんの責任の方が重いわー」
「嘘やろ柊さん無罪やろ! 朝ご飯食べて皿洗っただけやん!」
総太はまるで映画俳優のように、大袈裟な動きでやれやれと肩を竦めた。彼には言い分があった。
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