第50話 青空
「凪」
誰もいない朝早く。校門をくぐる直前、振り返ればポニーテールを揺らして駆けてくる鳴海の姿があった。
久々に、彼女の走っているところを見た。じわりとこみ上げてくるものがあって、凪は感慨深さに目を細めた。
「もう、走っていいの?」
「うん。お医者さんももう大丈夫やって。ほら、テーピングも外れてすっきり」
鳴海は左足首を、見せつけるようにしなやかに動かせる。
「――よかった」
その姿に、安堵の息を吐いてから。
これから吐きだす思いのため、そして気持ちを整えるために、凪は息を吸った。
「鳴海、私――」
「凪、ありがとう」
え、と驚いて鳴海の顔を見ると、なぜかその目には涙が滲んでいた。
「凪は本当に、私の足のこと、心配してくれた。ライバルやのに。どれだけ心配してても、私が走れなくなること、内心では……喜ぶ人も、安心する人も、いる、のに。凪は……、凪はずっと、心配だけ、してくれた。ありがとう、凪」
「それは、」
それはそうだ。当たり前のことだ。だって、妬ましかろうが羨ましかろうが、鳴海は大事な、尊敬できる友達だからだ。
彼女の走る姿は綺麗だ。後ろから見ていても、横から応援していても分かる。なのに何故、彼女が走れなくなることを喜ぶ必要があるのだろう。
「あたりまえ、で、」
言葉にしながら、なぜか凪の目にも涙が滲んでいた。今まで抱いていた罪悪感が、じわりと浮かび上がってきたかのように。
「鳴海、嘘吐いてごめん。ごめん……!」
「凪?」
「全部、全部嘘やったの! ごめん鳴海、ごめん!」
「もしかして、……そんな、」
「『雨宿りの鬼』なんて、ただの作り話やったの! ちょっとムカッときてて、それで鳴海のこと脅かそうと思って。……ほんまごめん!」
「え? いやそれは別に、ああうんって感じ」
鳴海は間髪を入れずあっさり答えた。凪が反応し損ねるほどに、淡泊で速やかな回答だった。
「……いいの? あの怪談はただの嘘で、」
「いや、怪談なんて全部作り話というか、嘘みたいなもんやろ? 私そういうの信じてないし」
何を今さら、とばかりに訝しげな顔をしている鳴海に、凪は呆気にとられた。
そうだ、凪の友達の鳴海はこういう人だった。自分はさっきまで、一体何を見ていたのだろう。何故こんなことも忘れて、己の殻にばかり閉じこもっていたのだろう……。
「というか、私も凪にイラッときて、脅かすために遠足の場所の怖い話とかしたし。その後で凪がその嘘? を吐いたってことは、お相子やろ?」
「えっ」
面食らう凪をよそに、鳴海は気まずげに視線を泳がせた。
「……私が自分の才能とか、将来性とか、陸上を続けるかとか、そういうので悩んどるときに、横で試合のこととか言われて、つい。――だからこっちこそこそ、ごめん」
凪は、その会話をしていた時のことを思い出していた。鳴海にしては珍しい、あの曖昧な笑顔のことを。そして、彼女自身の想いをぶつけてきてくれた、あの時の言葉を。
『楽しそうに走ってるなー、凄いなー、妬ましいなー。――なんちゃって』
苛立たれていたと知っても、凪には鳴海を許せないと思うような怒りは湧かなかった。それだけの事実で、視界が晴れた気がした。
「で、凪が謝ることってそれだけ?」
「え、うん」
「はああーっ」
鳴海は膝の力が抜けたかのように座り込んだ。凪が慌てると、鳴海はそのポニーテールが跳ねるくらい勢いよく顔を上げた。
「もう、焦ったーっ。凪も私のこと、二度と走るな! とか考えてたのかと思ったぁー!」
そんなこと思うはずもない。
帝釈紫苑も、鳴海と同じことを言った。鳴海の怪我を喜ばなかったのか、と。まさか思うはずがない。だって鳴海は、と思いかけて、凪ははっとした。
どんな状況でも、何があっても。凪にとって鳴海は友達だった。彼女が傷ついた可能性に喜べたことなんて一度もなかった。
それはつまり、凪のなかでは常に、『鳴海は友達だ』という意識があったということだ。凪は自覚こそなかったが、ずっとその感覚を保ち続けていた。忘れなかった。
凪は、帝釈紫苑の言葉を思い出していた。
『ちゃんと向き合わないから、何も確かめられない』
彼女と向き合って、本音をぶつけて、凪はやっとそれを理解した。
――自分はまだ、鳴海の友達でいてもいいのだろうか。
「鳴海」
「ん、なに?」
「私、あんな嘘吐いたけど――私たち、まだ、友達やよね?」
「当たり前やろ! あんな雑談で何をそこまで……よく言って繊細過ぎというかなんというか……」
「待ってなんで引くの!? というか元々は鳴海が――」
「いやそれは謝るけど、それは凪が私に――」
二人はそれからしばらく、美夏が勢いよく部室のドアを開けて現れるまで、口喧嘩をにもほど近い応酬を続けた。
両者ともに美夏が挨拶しかけたその口を閉じるほど遠慮のない物言いであったが、言葉にならないものを内心吐き捨てていたあの頃よりずっと良かった。
やがて呆れた美夏が止めるまで、二人は笑い合うみたいに騒いでいた。雨上がりの青空みたいに爽やかな気持ちだった。
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