第49話 向き合う

 糸のような雨が音を吸い上げるように降っていた。

 私は傘をさしたままバス停を見つめていた。屋根のあるバス停、長いベンチが一つ。その下に人影はない。

 うってつけだと思った。あの怪談に。

 私が相応しいと考えるその場所――そこにいるのは分かっている。現れるのも。


 私は冷えた空気を吸い、そして足を踏み出した。




 あれからどれほど時間が経ったのか。雨脚は止まず、天花寺 凪はただ人気のないベンチに座りじっとしていた。冷ややかな空気に肌は青ざめ、唇も変色していたが、それにも気づかない様子で静かにしていた。

 時おり、怯えたようにふと目線を上げるが、灰色の雨景色の奥、それ・・に気付くと、またはっとして俯く。

 やがて彼女は頑なに俯いたまま、顔を上げることすらやめてしまった。


 凪が次に顔を上げたのは、足音を耳にしたためだった。ぞっとして弾かれたように顔を上げたが、なんてことはない。現れたのは黒い傘を差した、同い年くらいの少年であった。

 その制服から、同じ学校にだろう、というところまでは見当が付いた。男子にしては長めの、少し無造作な黒髪で、整った顔立ちをしている。噂になってもおかしくないような顔だが、見覚えはない。

 少年は傘の雫を払うように、石突で地面をついた。水滴が点々と散って染みになった。こんな所で、余裕のある仕草だなと思った。

 彼は凪から距離を取って、ベンチに座った。


――噂のこともあるし、すぐにいなくなるだろう、と凪は踏んでいたのだが。その予想に反して、彼はなかなか帰ろうとはしなかった。ただの雨宿りではないらしい。純粋に、本数の少ないバスを待っているのかもしれない。

 居心地悪く肩を窄めていた凪だが、ふと、もしかしたら彼はあの噂を知らないのでは、という可能性に思い至った。

 あれほど面白おかしく囁かれている噂だとしても、怪談などの非現実的なものを好まない者は多いし、そういった人物の耳に、わざわざこんな話題を回す者もいないだろう。

 だとしたら、知らせなければ。何も知らない人間を、こんな所に――鬼の見張る場所に、いさせていはいけない……。


 凪は勇気を振り絞って、口を開いた。


「あの、」


 と、そこで初めて、自分の唇が寒さに強張り、震えていることを自覚した。長時間こんな場所にいるのだから、当然といったら当然だ。手も足も指先に感覚がなく、外気に乾いた頬はひりひりしている。


「……僕?」


 少年のわずかに見開かれた目に、凪は怖気付きつつ頷いた。気持ち悪がられているか、怪しまれているに違いなかった。


「その、ここ、危ないので。いない方がいいですよ」

「……どうしてか聞いてもいい?」


 凪は端的に自己紹介をしてから、『雨宿りの鬼』のことを話した。自分の友人が、その鬼のせいで怪我をしたことも。そして、二人が今いるこのバス停が、その怪談に相応しいことも。

 紫苑というらしい少年は、興味深そうに聞いていた。


「鬼を見ると不幸になる・・・・・、ねえ。天花寺さん……だっけ。ここにその鬼が現れるんだ?」

「います」


 凪はきっぱりと言い切った。


「だけどその怪談、一人のときにしか意味がないんだろう? じゃあ今は、」

「でも、います! 鬼が、そこに!!」


 雨音が、ひどくなった気がした。

 凪は青ざめた顔で、スカートを握りつぶしていた手から力を抜いた。

(……やってしまった)

 なぜ自分は初対面の人間を怒鳴りつけているのか。しかも内容が内容だ。絶対に引かれた。気持ち悪い。笑い者だ……。

 しかし彼の反応は、凪が予想したどれとも大きく異なっていた。


「僕には何も見えない。たぶん、あんたの幻だよ」


 刹那。呼吸を含めたすべてを忘れ、凪は瞠目したまま動きを止めた。


「……みえ、ない?」

「見えない。雨の向こうには、確実に何もいない。ただの思い込みだ」

「ほんとうに? なにも?」

「いない」

「なにも、いない?」

「だからいないっつってんだろ」


 苛立ちの滲んだ声だった。しつこいのは分かっている。

 しかしそれでも凪はなお、彼の言葉を心から信じることができなかった。実際に鳴海は怪我をして、自分もあの影を目撃しているのだ。雨の向こうににじむ、おぞましい鬼の影を――。

 愕然とする凪の表情から彼女の考えを読み取ったのか、紫苑は淡々と続ける。


「友達が怪我をしたのは、ただ滑って転んだだけじゃないかな」

「じゃああの影は?」


 こんなにも凪を怯えさせ、恐れさせる、あの雨の向こうにいる存在――。

 紫苑は少し笑った。


「君が流した嘘かな」

「うそ?」

「予想外に広まって、改変されて、不気味な生き物みたいになって、罪悪感まみれで怖がりの君のところに帰ってきた、ただの作り話」


 紫苑の視線から逃れるように、凪は俯いた。

 少し、脅かすだけのつもりだった、なんて、言い訳に過ぎない。

 脅かしてやろうという意志が確かにあった。それだけだ。




 春のとある雨の日、凪が鳴海と話していた時のことだった。

 二人は、所属している陸上部の話しをしていた。中高一貫とは言え高校の部活はやっぱり違うとか、毎年ランニングシャツの日焼け跡だけはどうしようもないとか、そいういう取るに足らないことを喋っていた。


 凪は鳴海を中学の頃から尊敬していた。真面目で、努力家で、凪よりもずっと速く走る。足が飛ぶように地面を蹴って、ぐんぐん前に進んでいく。その背中をいつも見ていた。皆に応援されるその背中を。いつも代表として試合に出ることができる、彼女の背中を。

 羨ましかった。

 でもしょうがない。鳴海は毎日真剣に部活に打ち込んでいるし、なにより凪よりも、いや、誰よりも速い。それだけだ。そういった世界だ。


「――やっぱ、鳴海は速いよ」


 だが、そう呟く言葉に、嫉妬だとか、やっかみの気持ちが無かったかと言えば、嘘になる。本当に心から褒めてるつもりなのに、走る鳴海をコース外から応援する、ちっぽけな自分の姿が邪魔をする。

 鳴海は軽く笑う。


「でも先輩たちも速いからなー。ファンクラブある人もいるし」

「うん。でも……8月の試合は『一年生じゃ無理』ってよく聞くけど、でもさ、鳴海ならいける気がするんやけどなー。うーん、やっぱり、」


 と言いかけたところで鳴海の顔を見ると、彼女は曖昧に笑っていた。珍しい表情だった。


「――鳴海?」

「……、そんなことより、今度の遠足の場所聞いた?」


 そんなこと。……そんなこと?


「そこの近くに、お化けが出るって噂があって、」


 鳴海が部活の話を遮ってまでして続けたのは、何も重要な話などではなかった。どこにでもあるような怪談で、誰もぴんとこないような、つまらないお話。凪が怖がりで、そういう話が苦手だと知って、わざわざ驚かせようとしているらしい。

 胸の奥、何かが溢れるのを感じた。重たい塊が、凪の喉底に溜まる。涙が出そうになってそわそわする感覚と似ているが、それよりもずっと暗く、鋭い。――吐き出してやらないといけないと思った。


「鳴海。私も、怖い噂、一個だけあるの」


 そこで、『雨宿りの鬼』の話をした。「バス停で雨宿りをしていると、雨の向こうに鬼の影が見える」なんていう、ホラーなのかもよく分からない、拙い作り話。自分の中でふと浮かび上がる嫉妬心だとか、不安感だとか、そういったもやもやが形作られたような話だった。

 雨のなか、独り帰路についたときには、すでに後悔していた。


――本当に、ちょっとだけ吐き出したいと思っただけなのだ。少しだけ脅かしてやろうと。鳴海は全然気にしてなかったみたいだけど、それでも十分だった。


 今日を除けば近ごろは快晴が続いているし、梅雨だってまだ先だ。だからこれくらい大丈夫だろうと、自分を納得させるみたいにそんなことを考えながら、凪は携帯電話が鞄の中で震えてるのに気付いた。ちょうど屋根のあるバス停があったので、そこで雨宿りがてら、携帯を取り出そうかと思い。

 ふと、足を止めた。

 雨宿り。

 雨の向こうに鬼の影が見える。鬼の影が――。


 ぞっとした。同時に馬鹿馬鹿しいと思った。自分の頭で作り上げられ、嘘として自分の口を通って出た作り話。そんなものに緊張するなんて、本当に、本当に馬鹿馬鹿しい。

 なのに、足は動かなかった。

 凪はしばらく躊躇していたが、やがて俯き加減のまま、早足でその場を通り過ぎた。バス停に人気は無かった。


 次に『雨宿りの鬼』の噂を聞いたのは、それからかなり後のこと――友達を脅かそうとした罪悪感が、薄れ始めていた頃だった。

 凪の耳に届いたときには、その噂はずいぶんと広まった後だった。かつて凪が何気なく放ったそれは、尾鰭背鰭がつき、別の生き物のようになって凪の元に戻ってきた。雨とともに現れる度に、より不吉なものへと変化していった。

 やがて被害者が出た。凪が吐いた嘘ではない、現実の、本物の被害者が。そして、鳴海も――。



「……なんでって。どうしようって。鳴海、私のせいで怪我、して。しかも足なんて、い、いつも、あんなに頑張って、走って、なのに、速い、のに。わ、私のせいで」


 凪は洟をすすった。俯き、髪のかかった赤い頬に涙が流れた。涙は顎を伝い雨のようにぽたぽたと落ちてスカートに染みをつくった。両手で、とめどなく溢れる涙を抑えつけるように拭ったが、拭いても拭いても止まらなかった。


 鳴海を尊敬していた。ずっと。真面目で努力家で前向きで、運動神経だって抜群で――。それに先日分かったことだけど、彼女は、自分の弱さを友人に告白できるという強さも持っていた。

 彼女みたいになりたかった。妬ましかった。

 自分は、実力を磨く勇気もない臆病者で、いつも本気じゃない風を装って、へらへら笑って誤魔化してきた。

 なのに、プライドばかりが大きい。友人である彼女に、こんな内面を曝け出すなんてありえない、と感じるくらいには。

 『雨宿りの鬼』の作り話をしたのは、ただの衝動なんかじゃなくて、鳴海へのこういった潜在意識が関係していたのかもしれないと、今さらになって思う。私は彼女みたいにはなれない……この暗い気持ちを他人に吐き出したり、振り切ったりはできない。

 だから、あんな話をして彼女を怯えさせたかったのかもしれない。


――だとしても、友達を傷付けたいわけじゃなかった。


 それだけのことに気付くのに、自分はどれだけ遠回りを重ねてきたのだろう。


「……鳴海、走れなくなったらどうしよう…………」


 しばらくの間、紫苑は何も言わなかったが、やがて凪の嗚咽が落ち着くと口を開いた。


「走れなくなってほしいって思わないんだ? アイツの足なんて潰れたらいいとか思ったり、呪ったりしないわけ?」

「そんな、思わ、ない。思うわけ、ない――」

「ふーん。いい子だね」


 褒めているにしては低い声だったが、凪は俯いていたため紫苑の表情までは分からなかった。凪はスカートの上で拳を握った。


「いい子ならこんなこと、起こって、ない」

「……妬んで苛立って、なのにそれを相手にぶつけないってだけで十分だと、僕なんかは思うけどね。まあ、どうでもいいや。僕にはよく分からないけど、友達のままでいたいなら、さっさと仲直りでも何でもしとけば? ああ、喧嘩もまだしてないんだっけ」


 傍から好き勝手いう人間の言葉は、傲慢なくらい率直だ。そんなことできたら苦労しない、と凪は暗い気持ちで考える。

 だけど、たぶん、間違ってはいない。


「それより俯いてばっかいないで、いい加減前くらい見てみなよ。ほら」

「……」

「なにか見える?」


 唾を飲み込み、さらに一呼吸置いてから、凪はおずおずと顔を上げた。

 自分の心臓の鼓動が、まるで耳元で鳴っているかのように煩い。怖かった、恐ろしかった。しかし、向き合わなければならないと思った。そうだ、此処にきたのはただ俯いているためじゃない。凪はそのために、此処まで来た――。

 凪の憑りつかれたような夢想では、そこには鬼がいるはずだった。カーテンのような雨の幕の向こう、灰色の鬼の影が、煙のようににじんでいる。

 現実を嘲笑うかのように、そこに鬼が立っている。はずだったのに。


「みえない……」


 ただの雨景色だった。先程まで、それはあったはずなのに。カーテンのような雨の幕の向こう、煙のようににじんでいた、灰色の鬼の影が。

 唖然とする凪の横で、紫苑は平然としている。


「だから何もいないって言っただろ。鬼なんているわけない。君の見た幻だ」

「でも、だって、」

「ちゃんと向き合わないから、何も確かめられない。そんな人間に現実が見えないのは――幻しか見えないのは当然だろ。ただの情けない現実逃避と被害妄想だよ。……よかったね、周囲から頭おかしい認定される前に気づけて」


 キツイ言葉だったが事実だった。初対面時から、『外に鬼がいるからバス停から出て行け』と喚く女、笑いものどころか、社会から疎外されてもおかしくはない。偶然だが、今日遭遇したのがこの少年でよかったと思う。


「ねえ。……なんで私が噂を流したんやって分かったの?」

「罪悪感で死にそうな顔で俯いてたから、適当言ったら当たっただけだよ。目の前で自殺でもされたら気分悪いし、お喋りにも付き合ったけど。それだけ」


 そこまで酷い顔をしている自覚はなかったので、凪はなんとなく自分の頬に触れた。氷のように冷え切っていた。

――そんなことで、と思った。あまりにも奇妙な遭遇だったので不思議に思ったのだが、現実なんてそんなものなのかもしれない。あんなにも広まった凪の噂だって、別に大それた計画があって始めたわけでもなかったのだから。

 二つ折りの携帯電話を開き、立ち上がった紫苑を引き止め、凪は改めて感謝の言葉を告げた。


「その、本当に、ありがとう……ございました。なんかちょっと、目が、覚めた気がする」

「どうも。じゃ――」

「バスは……?」

「いい。知り合いに会いに行くから」


 傘を開く彼に、凪は咄嗟に声をかけた。


「あの! 私、まだ鳴海と……友達、か、な……」

「…………それ、僕に聞くことじゃないよね?」


 振り返った訝しげな顔に、凪ははっとした。

 そして彼女に構わず歩いていく紫苑の背中に、凪はそっと頭を下げた。最初はもう少し愛想の良い雰囲気だったような気がしたが、彼が素っ気なかろうと既に気にならなかった。純粋な感謝とともに見送った背中は、一度も凪を振り返らなかった。

 凪はもうバス停に一人取り残されても平気であった。彼女が今、本当に向き合うべき相手は他にいる。そしてそれを理解している。ひどく気分が軽かった。

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