第48話 作り話に憑かれる
「ああアレぇ!? もう飽きた! 見間違いやった気がする! それより俺いま編みぐるみにハマっとってさー、写真見る!?」
誰かから『雨宿りの鬼』のことを聞かれて、大声でこう答えていた田中に対し、「アイツってホンマ飽きっぽいんやな……」と美夏が舞夜にぼそりと呟いた。怯えていた凪のことを考えてだろうか、やや苦い呆れ顔である。
そして、
「そういえば、あれからなんか不幸っぽいことあったんか?」
「いいことも嫌なこともあったけど、通常運転かつ許容範囲内!」
とのことだった。
この調子なら凪もそのうち落ち着くだろうと、美夏は気を取り直したように笑った。
美夏の願望混じりの予想に反して、凪の様子は変わらなかった。雨を、特に雨宿りを恐れ、未だ『雨宿りの鬼』なんてものに怯えている。
「鳴海を怪我させたのに、忘れられるわけない」
そんなこと、鳴海本人が否定している、と言っても無駄だった。
普段明るい彼女には珍しい頑なな態度に、美夏もそれ以外の人間もやがて匙を投げた。その噂さえ関わらなければ、凪の様子は普段と何も変わらないためだ。
まあそのうち落ち着く、と、以前と同じことを述べ、美夏は溜息を吐いたのだった。
「これでほんまに落ち着くんかなー? ただの噂なら安心やけど。凪ちゃんは大丈夫なんやろか……。……シオンくんはどう思う?」
「同情する」
「……怪我した鳴海ちゃんに?」
舞夜の問いかけに、紫苑からの答えはない。その姿になんとなく不安になったが、彼はただ紙パック飲料を飲みながら、何事かを考えているだけのようだった。
何もないならそれが一番いい、と舞夜は久方ぶりに春の日和を覗かせた青空を眺める。『雨宿りの鬼』なんてただの噂で、凪があそこまで怯えていたのも、ただ単純に怖がりだったから。その噂にはなんの脅威も潜んでいなくて、全ては舞夜の勘違い。それだけ。それが一番だ。
なんて、少し雲の多い空を眺めつつのほほんとしていたのだが、じっとこちらを見つめる紫苑の視線に気付いて、舞夜はそっとそちらを見た。目が合う。
「なんでしょう……」
「面白い話をしてあげようか」
「遠慮します」
「深夜の洗面台で」
「あーだめだめ。実生活に支障をきたす系のやつや。やめてください」
紫苑が口を閉ざしたのを見計らって舞夜も耳から手をどけた。
「鏡の中の」
「やめろや! あかんって言ったやんお前っ……私の毎日、毎日怖いぞ!?」
「自分の黒目をじっと覗きこむとおかしなものが映ってるって話」
「あーっ。あーもう駄目。実生活に支障をきたす系のやつ」
深夜でないにも関わらず、夜の洗面台で鏡と向き合う度に挙動不審になる自分がありありと想像できる。自分と目が合う度にあっと慌て、鏡に何かおかしなものが映っていないかと、びくびくしながら視線を彷徨わせるに違いない。
「これから歯磨きとかどうすんの。独りじゃ怖い……」
「誰かに電話すれば? あ、だからって僕にすんなよ!」
そんな面倒くさいのはお断りだと、紫苑は嫌そうな顔をする。
「えっ、でも他の友達とかに電話したら、深夜に電話してくる面倒くさい奴みたいになるやろ!?」
「家族に言えば?」
「それは恥ずかしいやん……私もう高校生やし……」
「めんどくせー。今の適当につくった話だから気にしなくていいよ」
「ああうんよかった……。なんでそんな嘘つくん?」
さらっと告げられたネタ晴らしに、舞夜は安堵と呆れ混じりに肩を落とした。そんな彼女の不平じみた問いにもどこ吹く風で、紫苑は考え事をしているらしく宙を眺めたまま、彼女には目もくれない。
彼が口を開くと、そこから噛み潰されたストローの先端がこぼれ落ちた。
「こういうのってさ、言った本人も結構信じちゃったりするんだよねー。まあ百信じるわけじゃないにしろ、心のどこかで意識しちゃったりさ。適当に吐いた嘘が流行ってにやにや、なんて風にはいかないモノもある」
「そんなもんかなぁ」
よく分からん、と首を傾げる舞夜をよそに、紫苑はほとんど空になった紙パックをゴミ箱に放り投げた。すこんと入ったのを見て舞夜が拍手すると、彼は誇らしげに「まあこれくらい簡単だよね」と笑った。
「そうなん? 私やったら入ってへんけどなー。シオンくんはすごいねぇ」
「…………マイはさぁ」
「うん」
「誰かに――何かに成りたい、成り代わりたいって思ったこと、ある?」
紫苑はこの穏やかな空気には相応しくない、冷ややかなほど真剣な目をしている。
当然それくらいある、と舞夜は軽い気持ちで頷くが。
「そうじゃない。そういうのじゃなくて、もっと真剣な――その全てを手に入れてやりたい、とか……。……奪ってでも欲しいとか、自分を失くしてもいいとか、くだらないお願い事じゃなくて、もっと執念じみた願望とか。そういうのだよ」
表面上淡々と語られた言葉を、舞夜は丹念に飲み込んで、粛々と考える。運動神経抜群になってみたい、なんでも人並以上にテキパキこなせる器用さがほしい、男性になってみたい……。ふと浮かび上がる願望はいくつもあるが、どれもよくよく掘り下げれば泡のように掴めないほど心許ない。
紫苑はそのことを彼女の表情から読み取ったのだろう。舞夜が口を開く前に、自嘲するように唇を歪めた。
「……そうだよね。君って見るからに満たされてて、幸せで、現状さえあれば後はどうでもいいって顔してるもんねぇ」
「どんな顔面?」
自分の頬をこねる舞夜をよそに、紫苑は遠い目をしてぼやいた。
「――ほんと、同情するよ」
凪は教室で一人、自席に着いていた。普段な快活な姿はなく、ただ静かに机の木目模様に視線を落としている。彼女の向こう、窓から覗く空は、昨日の青色が嘘のように曇天に覆われている。
彼女は先日のことを振り返っていた。
「――なんか、平気そう」
「え?」
「なんか平気そうやね、鳴海。……なんで?」
凪の問いに、鳴海は大きく目を見開いた。
凪は、バツが悪くなって目を逸した。変なことを尋ねてしまったと思った。そして先程の問いを撤回しようと口を開いた瞬間、鳴海がくしゃりとその表情を歪めた。「ほんとは、」今、泣いていてもおかしくないような、弱々しい声だった。
「ほんとは、ちょっと安心してて……。怪我したから出れない、残念、でもしかたないよなぁっていうのに、安心してて……」
情けないよね、こんな格好悪いことないよね。
鳴海は崩れた泣き笑いを浮かべている。
「なんでそんな……」
「だって、実力を計られるのってすごい恐い」
――鬼なんかよりも、ずっと。
震える声で告げられた率直な言葉に、凪は何も返せなかった。
しばらくの静寂の後、鳴海は自嘲するかのように唇を歪めた。
「……凪は考えたことない? そういうの」
高校一年生になった鳴海はなんとなく、自分の実力と、その将来性について考えられるようになっていた。自分はきっと精一杯がんばったら、高校生の大会では、並程度の成績を取る選手にはなれるだろう。
それ以上はない。その先は、恐らくないのだ。
「自分が大したことない奴なんてさ、皆に知られて、自分も思い知るの、恐い」
まだ高校生だ、諦める必要はない。その言葉は出てこなかった。「まだ高校生だろう」なんて言って、思春期に悲観的になってるだけだと嘲笑う者もいれば、諦めるなんてと眉を顰める者もいるだろう。
しかし、小学生の頃から走り続けてきた鳴海には、分かってしまったのだ。勝利の女神が微笑みかける一握り、自分はそこには決して辿り着けないのだろうと。
「本当は走るのが怖かった。凪は期待してさ、応援してくれてたけど……、私は凪の方が羨ましい。いつも、いつも、楽しそうに走ってるなー、凄いなー、妬ましいなー。――なんちゃって」
凪がふと顔を上げたとき、既に外では雨が降っていた。普通であれば嫌がるだろう天候に顔を顰めることもなく、彼女は淡々とした仕草で学生カバンを取り上げると、そのまま教室を後にした。
「凪ー?」
しばらくして、教室の戸を引いたのは鳴海だった。まだ部活に向かっていない友人を迎えにきたのだ。以前、彼女がそうしてくれたように。
しかし教室に人気はない。暗く、冷ややかで、湿気の篭った教室特有の匂いがする。がらんとした空間に、雨の音だけがざあざあと響いている。
「あ、鳴海」
「美夏。凪知らん?」
「凪は今日休みらしいよ。さっき遭って、なんか家の用事らしくて。先生にも伝えといてほしいってさ」
だから行こ、と鳴海の先を行こうとして、美夏ははたと振り返った。舞夜から伝え聞いた、心無い陰口のことを思い出した。
「……部活行ける?」
「当たり前やろ?」
は?と言わんばかりに視線を斜めにして、鳴海は訝しげな顔をする。
「……ああ、分かった。心配してくれてありがたいけど、平気平気。あんなの、嬉しくはないけど慣れるというか……。気合入れれば雑音以下って感じ」
理屈はよく分からないが強い。美夏は改めて鳴海のことを見直した。
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