第47話 迎えに行く

 紫苑は体育館前の壁に凭れかかり、ぼんやりと雨垂れのしたたるのを眺めていた。雨宿りである。鞄の中、教室のロッカー、玄関の傘立て等あらゆる場所に傘を備えている紫苑だが、さすがに体育館にまで置き傘はしていない。

 『雨宿りの鬼』の噂を拡散している、田中という同級生から話を聞きたかった。放課後は部活動のため体育館にいるかもしれない、というのを以前舞夜から聞いていたため訪ねてみたのだが、すでに中はもぬけの殻だった。複数ある出入口は全て施錠され、生徒が上履きをしまうための棚も空っぽである。

 金にならない件に積極的になる気もないが、仕事も入っていないしと来てみればこれである。まだ片付けまで済ませるには早い、というより早過ぎる時間だが、周囲に話を聞けるような人影もない。

 紫苑は舞夜に電話をかけた。かくかくしかじか、事情を説明したところ。


『今日は低気圧がすごくって天気が悪くなるから、早めにおしまいやってー。私の友達もさっき戻ってきて、……もしかして今体育館?』

「うん。……事前に確認するべきだったか。じゃあね」


 返事を待たずに通話を切った。これ以上話すこともないし、舞夜に通話をしながら安全に帰路につく器用さがあるとは思えなかった。彼女は鈍臭いところがある。

 運悪く、雨も本降りになってきた。大粒の雨が地面を叩き、アスファルト舗装の凹凸を埋めるように水溜まりを広げていく。雨宿りも嫌だが、降られながら戻るよりマシか、と紫苑は冷静に考える。

 舞夜は少し勘違いをしていた。紫苑も訂正しなかったが、彼が避けたいのは雨自体というよりも、それに付随する現象だ。一に雨に打たれること。二に雨宿りすること。そして三に、この二つを引き起こす雨がランクインする。

 まあつまり雨天の日は、何をどうしても気が滅入る。


「――から、で……」

「それ……うん……」


 激しい雨音にまぎれて、女子生徒の声と足音が近付いてくる。こんな所に、と自分を棚にあげて、紫苑は背後の壁の向こうへと視線を向けた。

 知らない女子生徒二人だった。体育館の軒下に入ったところで落ち着いたらしいショートヘアーの方が、ポニーテールの方を「鳴海」と呼んだ。


「部活、来てくれてありがとう……。その、足も痛いのに色々動いてくれてるし……」

「凪のくせに余所余所しくない?」

「ちょっと」


 冗談、と鳴海は笑う。

 凪と鳴海。舞夜から聞いた二人だろう。特徴も一致している。まあどうせこのまま帰るのだろうと、紫苑は素知らぬフリでまた壁に背を預けて時間を潰すことにした。こんな状態では行動する気も起きない。

 しかし二人はそこから動く気配もなく、会話を続け始めた。両者とも紫苑の存在には気付いていないだろうし、意図せずして盗み聞きのようになったがどうでもいい。あっちが視野の狭いまま、勝手に喋っているだけである。


「こういうのも楽しいかも。敏腕マネージャー、みたいな。今までも皆の動きとか見てたつもりやったけど、思い込みやったみたい。じっくり見ると、やっぱり色々分かることもあってさー」

「鳴海……」


 気遣うような凪の声。しかしそれに気付いてないらしい鳴海は、明るい笑い声でそれをかき消す。紫苑はそれに妙な印象を受けた。


「怪我の功名ってやつかもね。のんびりできるし、これはこれで悪くないかもなー」

「またそんなこと言って……」

「え、なに?」

「……だってさ、試合もあるのに。まだ一年生でも、鳴海なら絶対出れるって、私は今でも信じとるよ。あんなに頑張って練習して、速くて、強くて――なのに怪我して。私はショックやったけど、鳴海はもっと辛かったって……私、そう思っとったのに……」

「ありがとう。でもまあ、試合なんて別に今年だけじゃないし、何度もあるし。別にそんなこと気にしなくてもいいのに」


 そんなこと・・・・・呼ばわりである。紫苑の抱いた違和感はこれだ。鳴海の声は、怪我をした者とは思えないほど明るい、というよりどこか浮かれている。部外者の紫苑ですらそう感じるのだから、側にいる凪は尚更だろう。

 走ることに直向きに打ち込んでいた少女が、足を捻挫し走れなくなったという割には――


「――なんか、平気そう」

「え?」

「なんか平気そうやね、鳴海。……なんで?」


 鳴海の答えは聞こえない。

――二人はずっと親友で、喧嘩もしたことがないらしい、と、何故か嬉しげだった舞夜の姿を思い出す。

 他人事なのに何をそんなに上機嫌なのかと、紫苑なんかは訝しんだものだった。友情なんて不確かなものに対して、彼女は何故あんなにも確信めいて笑うことが出来るのだろう。紫苑の背後で、今にも崩れ落ちそうになっているこんなに脆いものを、何故――。


 壁の向こうの二人は、未だ無言である。あるいは小声で話しているため、紫苑の耳にまで届いていないか。

 このまま修羅場にでもなったら面白いな、と考えて、ふと聞こえた足音に顔をあげて――紫苑は思わず呆気に取られた。


「あっ、シオンくんおった」

「マイ?」


 ビニール傘をさし、のん気な笑顔を浮かべて歩いて来るのは、既に帰宅したはずの舞夜であった。

 ぽかんとしていた紫苑だが、はたと我に返ると、背後にいる凪と鳴海に声が聞こえるのを懸念して、その場から距離を取るように移動した。舞夜は何の疑問にも思っていないような顔で、のこのこ付いてくる。そして開口一番、


「迎えに来たよー」

「……何を?」


 こんな誰もいない体育館に、と振り返った紫苑が視線を戻すと、舞夜は閉じたビニール傘からぱたぱたと雨粒を払い落としている最中だった。


「シオンくんしかおらんやろ? 雨嫌いって言っとったから来たんやけど……あ、イケメンの舞夜ちゃんはこうやって鞄に折り畳み傘もいれて……、……シオンくん、ピンクの傘ってどう?」

「……」


 彼女の鞄から取り出された、桜のようなパステルピンクは、確かに紫苑の好みではなかったが。

 言葉もなく、ゆるく頭を振る紫苑に、舞夜は何を得心したのかうんうんと頷く。


「せやな。じゃあ私がこのピンクのやつ使うから、シオンくんはこのビニール傘な」

「そうじゃなくて、」


 焦れるような紫苑の声に、舞夜は傘から視線を上げてきょとんとした。言いあぐねる紫苑を前に、不思議そうに首を傾げたまま、その言葉の続きを待っている。

 紫苑は開きかけた口を一度閉じてから、深い溜息を吐いた。


「……君、僕のことなんだと思ってるわけ? 知り合いの子と同じように考えてない?」

「こんな子どもおったら嫌やわ……」

「じゃあなんで雨が降った程度で迎えに来るかなー」

「やっぱり舞夜ちゃんはイケメンで優しさの塊みたいなところがありますからね……なんで笑うの」

「真顔で睨まれたい?」


 紫苑がにやっとすると、舞夜はぷるぷる首を振った。


「で、本当のところはなんで来たんだよ。また怖い目にでも遭った?」

「なんでって、割りとノリで来たから別に……」

「ノリ」

「電話かけ直しても出やへんし、どうせ学校内やし、じゃあ行ったろーって。暇やったし……。それより冷えるし、はよ帰ろ?」


 はい、と手渡された傘を受け取る。何の変哲もないビニール傘だ。男の手には若干余るほどに細い手元を、紫苑はその存在を確かめるように弄ぶ。消えるはずのない、つるりとした重みをしげしげと、物思いに耽けるように握り直す。

 舞夜が折り畳み傘を開きながら、「どうしたん?」と尋ねると、彼はやっと傘から目を離した。


「別に……なんでもない。帰ろうか」


 そして傘を開く直前、彼は凪と鳴海のいるだろう方向を振り返った。もう何も聞こえないし、何も見えない。

 暫くの沈黙のあと、やがてふいと目を逸し、紫苑は先を行く舞夜の後を追った。

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