第46話 4

 翌日、舞夜が陸上部が活動しているだろう体育館へ向かったのは、美夏がうっかり教室に忘れていった水筒を届けるためだった。道中、同じく体育館に向っている鳴海とばったり出くわした。彼女は、ついでに美夏の水筒を持っていこうかと申し出てくれたのだが、さすがにテーピングをしている相手に、二リットル分の重たい水筒を持たせる気はしない。二人は並んで歩き出した。


「……足、だいじょうぶ? 私歩くの速い?」

「余裕余裕。寧ろちょっと遅いくらい」


 そんなに気遣わなくても大丈夫、と鳴海は軽く笑い、ポニーテールが揺れる。舞夜としては普通の速度で歩いているつもりだったので、遅いと言われて内心複雑な気持ちである。遅いのか。


「あ、柊って陸上部来るのはじめてやろ?」

「うん。でも話はよく聞くよ! どんな練習したとかー、タイムが変わったとか変わってないとかー……。あ、凪ちゃんと鳴海ちゃんのことも聞くよ」

「美夏か。あの子のことやし、どーせ変な話やろ?」


 冗談半分、本気半分といった鳴海の言葉を、舞夜は笑って否定した。


「普通の話やよ。凪ちゃんは元気で明るいとか、鳴海ちゃんは真面目で前向きとか、二人はめっちゃ仲良しとか」

「へ、へー。美夏も結構いいこと言うなあ。へー? ふーん?」

「あと鳴海ちゃん、めっちゃ足速いんやろ? 私なんかほんまに足遅いから羨ましくて……」


 実際には足が遅いだけでなく、運動競技全般が著しく苦手な舞夜である。そのため、自らの身体能力を以て競技に勤しむ人間に対して、奇妙な尊敬の念があった。

 しかし、しみじみ感心している舞夜への鳴海の回答はというと、


「あーうん、まあ……」


 と、ひどく鈍い。歯切れの悪さに首を傾げた舞夜だったが、その理由はすぐに分かることとなる。


「ちょっと足が速いからって調子に乗っとったし、しばらくこのままでいいかも。今なら優しくできるわ」

「しばらくっていうか、ずっとこのままでよくない? 二度と走るなって感じ?」


 体育館の横を歩いていると、そんな声が漏れ聞こえてきた。湿気が籠もるためか倉庫の窓が開いていて、そこで作業をしているらしい女子達の声である。会話後のくすくす笑いのなか、窓がピシャリと閉められた。

 なんか嫌なもの聞いたな、程度にぼけっと考えていた舞夜だったが、隣で鳴海が足を、動きを止めたことで全てを察した。

 彼女の表情を伺うと、苦い顔こそしているものの、深く傷付いているようには見えない。辟易とした、また嫌なものを、とでも言うような顔だった。慣れている、らしい。


「なんか言い返す?」

「ううん。ありがと。平気……」


 そして気を取り直すように一つ息を吸い込んでから、「嫌なもの聞かせてごめん」と苦笑する鳴海。舞夜は、気にしないでと首を振るくらいしかできなかった。

 美夏から話を聞いているだけでは分からなかったが、部活内にも色々と複雑な事情があるらしい。

 そんな、気まずさにも似た形容しがたい空気を切り裂くように、はずんだ声が響いた。


「鳴海! ――と、マイちゃん?」


 ぱたぱたと駆け足で現れたのは、部活動中であるはずの凪だった。


「凪? なんでこんなとこに――」

「二人が見えたから迎えに来ただけやけど……。あ、てかさ、聞いてよ! さっき美夏がさあ、水筒がないーって大騒ぎして……」


「ぷぷぷっ」と吹き出し、すでに笑いを堪えきれていない凪に、舞夜は「これ?」と抱えてきた水筒を見せる。

 美夏には一応、水筒を持っていくというメッセージは送ってあるだが、どうやら確認できていないらしい。部活中のため、しかたないのかもしれないが。


「そうそう。持って来てくれたんやね。普通、教室に忘れたかもーって言うのは分かるけどさ。アイツなんて言ったと思う!?」

「失くした?」


 舞夜がなんとなく答えると、凪は「そう!」と身を乗り出した。


「なんで分かんの!? アイツいきなり、水筒失くしたー! って。忘れたはあるけど、失くすって! ないやろ! しかもそんな大きいやつ!」


 舞夜が抱える、ステンレス製の二リットルの水筒を見て、凪はまたけらけら笑う。舞夜も美夏らしいなぁと笑い、鳴海もまた笑っている。

 ただ鳴海の笑顔には、愉快だというだけでない、どこか安堵したかのような――嬉しげな色が浮かんでいるように見えた。




「鳴海かあ。よく嫉妬されるからねえ」


 舞夜から受け取った水筒で、ごくごくとお茶を飲む美夏曰く。

 真面目で熱心で、入学後から瞬く間に周囲の評価を上げている鳴海は、羨望の的である反面、妬みの対象でもあるのだという。


「嫌やなー。かわいそう――というか、鳴海ちゃん凄いな。同じ高校一年生とは思えん。たぶん私ならすぐ辞めるわ……」

「鳴海には凪がおったからねー。凪は嫉妬……は内心どうか分からんけど、とにかく、鳴海が走るのを素直に応援できる子やから」


 嫉妬しない、と言い切らないのは何故だろうと舞夜は一瞬思ったが、恐らく自分の知らない世界なのだろう。

 競い合うことに打ち込む中で、他者を全く気にせず自らのペースのみを考えられる人間は滅多にいないだろう。心がざわめくこともあるだろうし、それはきっと、相手が好きだから、嫌いだから、ということとは関係がないのだ。

 たぶん。


「で、そういうのもあるから二人は親友……かも?」

「かも?」


 揃って首を傾げ、凪と鳴海の方に目をやった。先程の様子とは打って変わって、真剣な顔で恐らく部活のことを話し合っている。


「私、二人が喧嘩してるのも見たことないもん」


 へー、と呟いて、舞夜はどこかへ駈けていく凪と、それを微笑ましげに見送る鳴海を眺める。走れない今も明るく友人を応援している鳴海の姿を見ていると、部外者ながらも舞夜はなんだか嬉しくなった。




 あんまり嬉しかったので翌日、調査報告と称して紫苑にも伝えたら、笑顔で「あっそ」とのことだった。


「もっと優先して報告することあるよね」

「すいません」


 舞夜は謝ってから、隆樹含めた数人から集めた情報を、紫苑に話した。

 まず、目立ってはいなかったが、『雨宿りの鬼』の話自体は、かなり以前からあったこと。舞夜は知らなかったが、春らしく爽やかな気候が続いたあの頃から、凪や鳴海のいる陸上部などでは密かに広まっていたらしい。交友関係の広い隆樹もそのことを知っていて、あの時は誰も気にしてなかったのに、とそっと苦笑していた。

 次に、『雨宿りの鬼』の内容は、当初はかなり単純であったこと。鳴海が凪から聞いたものは、『バス停で独りぼっちで雨宿りすると、雨の向こうに鬼の影が見える』というそれだけの、怖がりの人間ですら「大して怖くない」と宣言するような内容。隆樹にも尋ねると、彼はその通りだと肯定した。そこそこ前の話だが、彼ははっきりと記憶していた。


「なんでこんな噂が始まったんだろう。今みたいに鬱陶しい天気が続いていたならともかく、あの快晴続きの日にこんな作り話を流し始めた奴の気が知れない」

「天気が悪くなるって知っとった人とか……?」

「もしくは、大した理由なんてなかったのかもね」

「えー……」


 疑念と驚嘆を、舞夜は平淡なトーンの声で表した。


「この程度の噂だし、別におかしくないと思うけど。ちょっと脅かしてやろうと思って喋った話が、今のこの気候と相まってビックリするほど広がったとかね。……何か深い理由がありそうなことでも、特に意味無く行われてることって、少なくないみたいだし」

「そーなん?」

「君の髪とかね」


 紫苑が笑いながら示したのは、舞夜の人一倍どころでなく長い髪である。

 大して深い考えもなく、今時流行らないそれを長年保ってきた身としては、納得せざるを得なかった。

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