第44話 2
凪がその時何を言いかけたのかは、結局すぐに分かることとなった。
次の休み時間に現れたのは、別の陸上部の少女だった。早瀬鳴海というしっかり者の彼女は、部活動について独自の記録帳をつけていて、そのことで美夏にも話が聞きたいとやって来たのだった。
ポニーテールのよく似合う彼女は、中学の頃から、美夏や凪と同じ陸上部。短距離走者のなかでは断トツで足が速いのだ、と舞夜も聞いていたのだが。
「えっ、怪我? 大丈夫?」
「あ、うん。今は部活お休み中。雨やし、ちょうど良かったけど。今なんかもうほぼマネージャーみたいなことばっかでさー」
あっけらかんとした口調だった。左足首に巻かれたテーピングは痛々しいが、本人自身はあまり気にしていないらしい。
なんとなくほっとした舞夜の隣で、美夏が呆れたように溜息を吐く。
「明日タイム計るって言われた日に怪我する? しかも足首!」
「……なんかあった?」
「え、あー」
尋ねた舞夜から、というより、その横にいる美夏のじとっとした視線から逃げるように、鳴海は明後日の方を向いた。
「……そーやってすぐ嫌なことから目を逸らすの、鳴海の悪い癖やと思う」
「なんか今日厳しい……」
「だって。雨の日にバス待ってたら、ちょっと足滑らせたって……。しばらくは絶対怪我しないようにーとか、私達に言ったくせに」
「もー、ごめん! 反省してます!」
まあまあと軽く宥めて詳しい話を聞くと、鳴海は本当にただの不注意で足首を捻ったらしい。
雨宿りできたことにほっと気を抜き、濡れた地面で足を滑らせ、軽度の内反捻挫。医者に診てもらったが、恐らく十日と経たずに治るだろうとのことだった。
「今流行りの『雨宿りの鬼』のせいで怪我したー、なんて噂もあったけど、関係無いから」
「私そういうの信じてないし」と言い切る鳴海に、舞夜と美夏は顔を見合わせた。ずいぶんタイミングのいい話題である。
「あ、でもこけたのを凪に見られたのはちょっと恥ずかしいというか――」
「それでか!」
「えっ、なにが?」
「さっき凪が来て、その『雨宿りの鬼』の話にすっごい怯えとったから。なんでかなーって思って」
凪は恐らく、目の前で鳴海が怪我をしたために、あれほどまでに怖がっていたのだろう。友達の怪我のことだ、気軽に言い触らせないからと口を噤んだのも分からなくはない。
「ああ、凪は怖がりやから――って、あれ? でも私、凪からは『そんなに怖い話じゃない』って聞いたけどなぁ。鬼の影を見るだけって」
「影? 不幸とかはなくて?」
反応したのは舞夜である。鬼の影を見ると不幸になる、あるいはその影に付き纏われるようになる、など、いくつか種類があったはずだが。
鳴海は穏やかに頷く。
「うん、そう。結構前やったかなー。バス停で、独りぼっちで雨宿りすると、雨の向こうに鬼の影が見えるって。――まあ、影が見える
「そ、そう言われれば……?」
曖昧に首を傾げている美夏に、絶対覚えてない、と舞夜は思ったが口にはしなかった。
「あーあ、あの頃はずっと晴れやったのに……」
それからまたぐだぐだと話題が移り変わっていくなか、舞夜は内心、凪と『雨宿りの鬼』のことを考えていた。
……なんで凪は、あんなに怯えていたのだろう。
さして怖い話でもない。鬼の影が見える
怖がりだから? ――自分から鳴海に、それほど怖くない怪談として話したほどなのに。
不幸になるとか、影にまとわりつかれるとか、そういう点を恐れた? ――後から付き始めた尾鰭ほど、信用できないものはない気がするが。
友達が怪我したから? ――うん、これかもしれない。
もしくは、以上の要素全てがひっついて、ああもこの噂を怖がるようになったのかもしれない。
舞夜はとりあえず納得して、いつこのじめじめ天気が終わるかの予測立てに混じることにした。
近ごろの雨のせいだろうか、それとも少し遅い時間だからだろうか。利用者が一人もいない、放課後の図書室。窓の外、どこか遠くに聞こえる雨音を耳にしながら、舞夜が本を棚に片付けるためしゃがんでいると、
「図書委員サン」
「……あ、シオンくんっ」
顔をあげると、紫苑が悪戯っぽく微笑みながら立っていた。舞夜も思わずにこにこした。
「昨日はタオルありがとー。明日には乾くと思うんやけど……あ、今日は貸出ですか? 返却ですかー」
「いや、いたから声かけただけだよ」
「用無いの?」
「無いよ。無いならかけるなって? ごめんねー」
舞夜は軽く否定しながら、内心、珍しいなぁと思っていた。学内でわざわざ、紫苑が舞夜に声をかけてくる時には、だいたい何かしらの目的を持って、というのが多い。
いや珍しい。
改めて向けられる舞夜のまじまじとした視線に、紫苑は一瞬嫌そうな顔をして、すぐに取り繕ってからかうような表情になった。
「……僕のこと考えてる?」
「すごいね、なんで分かったん?」
「なんかすげぇガンつけてきてるから。なに?」
「シオンくんて謎やなーって。謎多きシオンくん」
「僕みたいな職業で秘密赤裸々って相当嫌じゃない? 神秘性が死んでる」
「た、確かに。うーん、自分の家について熱弁するシオンくんか……」
「それたぶん詐欺師だよね」
「なるほど」
恐らく紫苑が詐欺師紛いの人間だったら、さすがの舞夜も付き合いを熟考していたに違いない。とりあえず断言できることは、絶対に今ほど親しくはなれていない、ということだ。――まあ、『今ほど親しく』なんて言っても、現在でも、彼については知らない事の方が遥かに多い。
舞夜は本の整理を終え、立ち上がるとぐっと背筋を伸ばした。
「もう帰んの?」
「ううん、カウンターに戻るだけー」
「ふーん」と気の無い相槌。振り返れば、本棚を見上げる背中と、男性にしては少し長めの黒髪が見える。
そもそも先ほど、舞夜が『謎が多い』と言ったのも、別に紫苑の職業云々だけを指していたのではなく、より些細な、彼自身の嗜好だとか趣味だとか、そういったことを意味していたのだが。
(……自分から喋るような人でもないよなぁ)
と舞夜は思った。別にあれこれ聞き出したいわけでもないが、他に話題も思いつかないし、なにより舞夜は一度疑問が浮かぶと、取りあえずでもいいのでその答えを得たいタイプだった。
(そういえば、)
「……シオンくんて、雨、嫌い?」
その反応はあからさまだった。本の背表紙に指をかけていた紫苑の動きが止まり、図書室が静寂に満たされた。
――踏んじゃいけないところを踏んだ。
紫苑の思いも寄らない反応に、舞夜は内心非常に焦り、たじろいだ。このまま勢いよく謝り、誤魔化してしまおうかとも思ったが、あまりの静けさにそれも躊躇われた。
しばらくの間のあと、彼はゆっくりと本から手を離した。
「――なんでそう思ったわけ?」
「昨日、雨宿りをされていたので……」
「『雨宿りの鬼』を調べてただけだよ」
「今も雨避けに来たのかなー、なんて思いまして」
「少し君と喋りたかっただけだよ。なんで敬語なの?」
それは、静かな口調と、ずっと向けられている背中と、怒らせた、或いは傷付けたかもしれないのが、怖いからだ。
ただの雑談のつもりだったとか、悪気はなかったとか、いくらでも思いつくような言い訳は、舞夜の口の中で消えた。
「その」
「うん?」
「すいませんでした……」
舞夜はただ項垂れるように俯いた。
「別に怒ってないよ。ただの雑談だろ? 僕もただ理由が聞きたいだけだ」
「え、なんとなく……」
「なんとなく、ねえ?」
そこでようやく舞夜が顔を上げると、紫苑はもう彼女の方を振り返っていた。少しだけ笑っていて、別段怒ってもいないように見えたけれど、いつも通りとは言えない気がした。
舞夜はちょっと口籠ってから、
「なんとなく、昨日、会ったとき、」
「うん」
「……私が来たとき、なんか、ほっとしたみたいに、見えたから」
紫苑は今度こそ完璧に黙った。
舞夜はもう駄目だと思った。気まずさや焦りから逃れるように窓の外に目を向けると、徐々に雨脚が弱まってきていた。もしかしたら紫苑は、雨間を待つ暇潰しに来たのかもしれないと思った。
だから本当に、なんとなく、だったのだ。昨日、なんとなくそう見えて、紫苑は今も図書室に来て時間を潰している。バスに電車と長距離の通学をしていて、雨が大好きなんて人も少ないだろうし、と、本当にそれだけの気持ちで、雑談がてら質問を振った。それだけだったのに。
「わ、私も、雨はちょっと嫌やなー。靴とか濡れるし、電車もお客さん増えるし」
「ああ、そう……」
ことさら明るく声を上げると、紫苑は脱力したように溜息を吐いた。くたびれてはいるが、思っていたよりも力強い声だった。
「まあ、そうだよね。うん。雨が好きって学生の方が少ないか」
「通学とか嫌やもんね。あ、でも私、家の中とかから雨を見るのはちょっと好き。落ち着く感じがする」
紫苑の様子に安堵して、舞夜はほっと顔を綻ばせる。そんな彼女の分かりやすい態度に、紫苑も微かに笑みを浮かべた。
「……僕、昔さ、小さい頃なんだけど」
「うん」
「雨に打たれ過ぎて、風邪を引いたことがあって」
「うわ、大変やね。……えっ、どういう状況? 大丈夫やった?」
「一応。今思うとただの間抜けだよね、ホント。……だから、今でも雨は嫌いだ」
淡々と、抑えるようなトーンで語り終えた紫苑に、舞夜は「うん」と小さく頷いた。これ以上、この話題について何かを聞き出すつもりはなかった。
気付けば、校舎を包む雨の音がずいぶんと収まってきていた。さすがに止む気配は無いが、存外に帰りやすくなっているだろう。
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