第43話 雨宿りの鬼
『雨宿りの鬼』とは、いたく単純な噂話で、独りバス停で雨宿りをしていると、雨の向こうに鬼の影が見える――という、それだけのものだ。
その後不幸に見舞われるだとか、鬼の影に付き纏われるだとか、いくつかのバリエーションもあるが、基本的にはそれだけの話である。
紫苑曰く「怪談未満」のお粗末なものではあるが、恐らく今、二人の母校で最も流行っている怪談だろう。
なんたって、実際に鬼を見たと言う人間もいるのだから。
「誰それ。名前も知らない友達の友達?」
「田中くん」
「ホントに誰だよ!」
「誰って、えーと……。隣のクラスで、髪が短くてな、背がちょっと高くてな、垂れ目で元気で……あだ名はバス停」
舞夜ははしゃいだように大声を上げていた、隣のクラスの少年を思い出す。彼のせいで、雨宿りがなんとなく恐くなってしまった。
――『俺この前それ見た!! マジで! めっちゃ見た!! 俺バス停で!! 雨のさ! 向こうにさ! なんかこう……なんかおった!!』
バス停? と首を傾げる舞夜らの元に、『雨宿りの鬼』の話が届いたのはそのすぐ後のことである。
紫苑は「ふぅん」とだけ応えたが、内心この噂の広がり具合に納得していた。
比喩でなく声の大きな人間が一人いると、噂は爆発的に広がっていくものだ。どうせ何かを見間違えただけなのだろうが、だからこそ気軽に拡散されてしまうという一面もある。今回はその、舞夜の言う田中くんとやらがスピーカーになったのだろう。
「……なーなーシオンくん」
「なに?」
「何もおらんよね? ね?」
窺うような舞夜の視線の先では、不意に沈黙に落ちた紫苑が、どこか遠い目をしていた。
意図的な沈黙のなか、舞夜の表情が一瞬で硬いものへと変わる。
「嫌です」
「冗談。何もいないよ」
「よかった!」
ほっと破顔した舞夜に、紫苑はなんとなく口を閉じた。望まぬながらも、怪異に対し様々な経験を積んだ彼女でも、この程度の噂に怯えるのだから不思議なものだ。別にこの話を信じきっている訳でもないだろうに、それでも怖いものは怖いらしい。自分みたいな稼業の人間が居なくならないはずである。
じっとしている紫苑に、舞夜は小首を傾げた。
「どーしたん?」
「別に。…鬼がそんなに気になるのなら、また手に目でも描いてあげようか?」
「いりませんー」
図書委員をしている最中に、同級生の少年、
二人はそのまま雨が収まるまで雑談していたが、結局噂の鬼は出なかった。
梅雨入りもしていないというのに、停滞低気圧のせいで天気の崩れる日が続いていた。『走り梅雨』だと国語の教師は言っていたか。
先の快晴続きのあたたかな春の日和はどこへやら。じっとりと纏わりつくような湿気のなか、時おり吹き付ける風はぞっとするほどに冷たい。
こうも気の滅入る気候だ、あの『雨宿りの鬼』の噂が広まるのも不思議ではない。舞夜が窓の外を見やると、溜息でも吐きたくなるような曇天模様ばかりが目に入る。
「はああー」
と。頬杖をつく舞夜の横で、感染うつりそうになるくらい大きな溜息を吐くのは、隣のクラスの陸上部の女子、
今にも机に突っ伏さんばかりの彼女に、舞夜は友人の
「今日も陸上部お休み?」
「そーそー。練習できないー遊びに行けないー登下校もだるいー」
妙な節をつけて歌いながら、机に顔を伏せてしまった。くぐもった声の適当な歌だが、それでも耳を傾けてしまうほど凪の歌唱力は高い。
彼女がこの教室にいるのは、同じ陸上部の美夏に会うためだ。しかし目当てであったはずの部活動の話もそこそこに、話題はすぐこの気候に相応しくぐだぐだとしたものへと移っていった。
「美夏ー、雨なら学校とか会社とかは全部休みにしてほしー。誰も外出したくない日、だから外出しなくてもいい日ってことでいいと思うー」
「私に言われても困る……。でも買い物は?」
「雨の日は我慢」
「天才の発想やね」
割りと本気の、しかし現実味一つない内容をだらだら喋っていると、やがて廊下の方が騒がしくなった。耳を澄ますまでもない、思わず項垂れていた凪も顔を上げるほどの大声量。凪と同じクラスの田中の声だった。
「で! 鬼の影に俺ビックリしてさぁ! 不幸になるって噂思い出して――」
また、あの『雨宿りの鬼』の話をしているらしい。「お前声でかいって」と嗜める隆樹たかきの声がして、その続きは様々な雑音に紛れてしまい聞こえなかった。
舞夜はぼんやり、この噂の発生源は田中くんではないらしい、というようなことを考えた。じゃあこの話はどこから来たのだろう、と思い始めた瞬間、
「……凪?」
美夏の声に舞夜が視線を戻すと、様子のおかしい凪の姿があった。視線を怯えたように伏せ、ぴたりと口を噤んでいる。ふっくらした頬はどこか青褪めて見えた。
少しの間の後、美夏が溜息を吐いた。
「あんたって、ほんま怖がり……」
「だって。最近雨も多くて嫌な感じやし、私よくバス使うし、この噂、すごい広まってるし、それに――ううん、なんでもない」
凪はゆるく首を振った。そこまで言われたら気になると、舞夜と美夏がいくらその続きを聞き出そうとしても、決して喋ろうとはしなかった。
やがて凪は、机の上で組んだ指先に視線を落とし、静かにぽつりと呟いた。
「ほんとうに、怖い話」
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