雨宿りの鬼

第42話 夕立に打たれながらも、雨宿りを躊躇する理由

 唐突に激しさを増した夕立から庇うように学生鞄を抱え、舞夜は懸命に駆けていた。

 帰路途中にある屋根付きのバス停に、どうしようかと逡巡しつつも、結局あまりの雨の勢いに負けて飛び込んだ。


「あ」


 互いに眼が合って、第一声がそれだった。

 そして第二声は、息を切らせている舞夜よりも、既にそこにいた紫苑の方が早かった。彼は一拍間を置いてから、


「バタバタうるさいなぁと思ったら君だったの」

「え、えぇ……? うるさかった?」


 運動が得意とは言えないため、走り方に胸を張れるわけではないが。そんなにドタバタ走っているだろうかと、若干ショックを受けた舞夜に。


「ん」


 おもむろにタオルが差し出された。舞夜は目を丸くした。




 底の抜けたような雨は止む気配を見せなかった。大ぶりの雨粒が叩き付けるせいで、空気がバリバリとひび割れているかのようである。

 舞夜は、脱いだブレザーを試しに摘まんで振ってみた。水分を吸ったせいか、いつもより幾分重たく感じる。


「うわー、ブレザーびっちゃびちゃ……」


 しかし、この厚みのある上着が雨を防いでくれたお陰で、肌寒いからと着てきた白地のベストがそこまで濡れなかったのは幸運だった。

 普段持ち歩いている折り畳み傘を、教室に忘れてきたと気付いた時点で、横着せずに取りに戻るべきだった。まあたぶん大丈夫だろうと、最近の崩れやすい天気を舐めた、過去の楽観的な自分が恨めしい。

 こうして紫苑にタオルを貸してもらえなかったら、今ごろ冷えと不快さで嫌な思いをしていただろう。

 舞夜はちらっと紫苑の様子を窺った。雨宿りしているということは彼も急に降られたのだろうが、さほど濡れている様子はない。


「なに?」

「ううん。タオルありがとう。……シオンくんはほんまに大丈夫?」

「だから、さっきから大丈夫だって言ってるだろ。タオルならまだあるし、それに僕が濡れてるように見える?」

「ううん。これ、ちゃんと洗って返すから――えっと、いつがいい?」

「別にいつでもいいよ」


 一方の紫苑はというと、濡れて普段より黒味を増した、舞夜の長い髪を眺めていた。一応拭かれた後だというのに、腰に届かんばかりのそれは、それこそタオルのように絞れそうだった。


「それより、もっと髪拭いたら?」

「んー、キリないからなぁ。適当に結んどくー」


 適当に、と言いつつ、扱う指先は慎重である。櫛で梳かして水分を払い、柔らかなヘアゴムで丁寧に結った。

 こうも美しい髪を維持するためには、彼女らしからぬ努力が必要なのだろう。恐らく。


「……切ったら? それ」

「悩むとこやね。これお婆ちゃんの趣味でさ。髪は長ーく、文字はキレーに」

「平安時代かよ」


 舞夜はちょっと笑った。


「めんどくさくないわけ?」

「めっちゃ面倒臭いよね、うん。手入れとか必死やぞ……」


 笑い飛ばせないくらい真に迫った、いっそ疲弊感すらうかがわせる表情だった。

 別に彼女の見目なら他の髪型だってなんだって似合いそうであるのに、何故そこまでしてその髪に拘るのか。男の紫苑には分からない。折角だと思い尋ねてみると、


「んー……」


 舞夜はちょっとばかし考え込んでから、


「髪型とか、割りとどうでもいいからさ。どうせならお婆ちゃんの喜ぶようにしとこかなーって。ちょっと面倒臭いけど、ちょっとだけ愛着もあったり。……まぁいつかは切ると思うよ」


 気負いなく軽く笑った。そんな彼女になんとなく、(それはそれで勿体無い)と、言い出した当人ながらそう思わないでもない紫苑であった。

 他人から見ればよほどの拘りが無ければ行われなさそうな事であっても、本人からすれば大した理由無く行われている事もままあるらしい。


 紫苑から借りたタオルと、雨を吸ったブレザーをテキパキと畳んでいる舞夜を眺めながら、やがて紫苑は口を開いた。


「――なんで、そんなになるまで走ってきたわけ」


 問い掛けにしては平淡だったが、舞夜は一瞬口籠った。


「なんでって、急に雨が降ってきて、それで」

「そうじゃなくてさ。さっさと適当な近場で雨宿りすればよかっただろ。僕みたいに」

「……できるとこが無くて、」

「あるよね?」


 確信めいた問いかけから、舞夜はそっと目を逸らした。

 二人とも同じ駅から同じ高等学校に通っているのだから、道中どこに何があるのか把握しているのは当然だった。


「今の時間なら電車に間に合うために急いでたってわけでもないし、……できるだけ雨宿りがしたくなかった、とか」


 紫苑は歌うように喋りながら、夕立に打たれながらも、この場所に飛び込んでくるのにやたらと躊躇していた足音を思い出していた。それがまさか唯一の友人たる彼女だとは思わなかったが。

 悪足掻きのようにたっぷり間を置いてから、舞夜は拗ねたように紫苑の様子を窺った。彼女なりにそっと睨んでいるのかもしれなかった。


「あのー、帝釈さん」

「なに」

「分かってますよね?」

「……」


 負け惜しみのような敬語を使う舞夜が紫苑を見ると、先ほどまで浮かべられていた笑みが表情ごと死んでいた。


「……何か言っていただきたいです」

「じゃあ、」


 ずいっと見下ろされ、舞夜は思わず圧倒された。彼は目に凄味があって怖いのだ。


「お前あんなの信じてんの。馬鹿じゃないの?」


 舞夜は何か言い訳をしようとして、呻き声のようにもごもご言っていたが、やがて両手で顔を抑えた。

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