第41話 福美子と紫苑(一話完結)

 戸籠とごもり 福美子ふみこは、父親と二人で暮らしている。

 自分の家よりも、柊家の方が好きだった。


 柊家は楽しい。なにより彰冶と舞夜の二人がいる。

 二人は福美子のことが好きだ。心から。それがいつだって伝わってくるから、そんな二人が福美子も大好きだ。

 きっと福美子が手を伸ばしたらそれに応えてくれるし、転んで怪我をしたら心配してくれるし、お菓子をねだったら叱ったり、甘やかしたりしてくれる。


 目の前にいる帝釈紫苑は、舞夜の友人だ。福美子はよく知らないが、変な人だと思っている。舞夜みたいに。


 一人で小さな子猫とぶつぶつ喋っている。彼の機嫌はあまり良くないようだったが、子猫は平然としていた。ずいぶんと賢そうな顔の猫だったので、これならお喋りできても不思議じゃないな、と福美子は内心そんなことを考えた。

 子猫は福美子の視線に気が付くと、そそくさと去っていってしまった。

 以前と逆だな、と福美子は思って、紫苑の表情を窺った。あの時の福美子みたいに、しょんぼりしているかと思ったのだ。


「しおんくん、ごめんなさい」

「……ええと。確か福美子、だっけ」

「猫ちゃんとお喋り?」

「独り言だよ」


 紫苑は素っ気なく答えながら、ふと視線を遊ばせた。舞夜を探しているのだろうと思った。


「マイちゃんはいません」

「聞いてないけどね。君一人? 保護者は?」

「ひとり!」

「君の親、頭おかしいんじゃない?」


 福美子は否定しなかった。曖昧に沈黙したまま、紫苑が舞夜の家に送っていく、と言うのには頷いて答えた。

 福美子が一人で遊んでいると、周りの大人達はヒソヒソとそのようなことを囁いた。――子どもを一人放置するなんて、まともな親のするこじゃない。

 しかし福美子は、あらゆる子ども達と同じように、自分の親以外の親を深くは知らない。だからその非難がましい囁きに対する答えを持たないのだった。




 紫苑は自動販売機で福美子にジュースを買ってくれた。自分でさっさとボタンを押して、待ち構えていた福美子には選ばせてもくれなかった。それでも美味しいオレンジジュースだったので、福美子は自然と頬が緩んだ。

 紫苑は、小さなペットボトルを握り締めて上機嫌な福美子を眺めていた。退屈そうに。そして一言。


「……ねえ。君、本当に一人?」

「うん!」


 福美子はすぐさま頷く。

 この質問は真っ先に肯定しなければならない・・・・。しかし実際に面と向かって尋ねてきたのは、これが初めてだ。どくどくと福美子の小さな心臓が叫ぶ。

 紫苑はしばらく福美子の様子をうかがっていたが、やがて「へー」とだけ呟いて引き下がった。

 本当は、これを聞いてきた人からは、すぐに距離を取らなければならない・・・・。分かっていたが、福美子にはそれができなかった。

 両手で握り締めたジュースの、明るいラベルをじっと見下ろす。福美子ももちろん好きだが、なによりこれは、舞夜が最近気に入って飲んでいるものだ。

 ふと、父親の顔が脳裏をよぎる。浮かれていた気持ちがじわっと沈んでいく――。

 福美子はぶるぶると勢いよく頭を振って、紫苑の後を追った。


「しおんくんも、マイちゃん好き?」

「いきなり何。僕を好きな舞夜は嫌いじゃないよ」

「……」


 福美子は黙ったまま彼の顔を眺めた。何を考えているのかよく分からない無表情だったが、機嫌が悪そうには見えなかった。

 視線に気付いた紫苑は「なに」と端的に尋ねたが、福美子は首を横に振った。


「……まあいいや。それより君、親とうまくいってないんだって?」

「そういの、よく分からん……」

「おっ、ホントみたいだね。ならいいことを教えてあげよう」


 紫苑がにこっとした。ここに舞夜がいたら何か企んでる笑顔だと内心身構えていただろうが、福美子はぽけっとしていた。そんなことより、ジュースのキャップを開けてくれないかと思いながら。


「別に親なんて気にしなくていいよ。家族なんて関係ない。自分は自分、他人は他人だ。都合の良いものを選べばいい。舞夜の家でもどこでも入り浸ってやって、うまいこと生きられたらそれでいいんだ。それでいつか、自分の願いだけを叶えてあげたらいいんだよ」

「おねがいって?」

「例えば嫌いな奴にやり返すとか、見返すとか」


 紫苑の言うことの全てを理解できたわけではないが、いくつかの単語が福美子の頭にぷかぷか浮かぶ。

 親、家族。関係ない。嫌いな奴。

 福美子は考える。まともな親じゃないという、批判の声が上がるような父親のこと。彰冶や舞夜より、ずっと距離を感じる人のこと。福美子の唯一の家族のこと――。

 そして悟る。福美子は彼が嫌いじゃない。嫌いな奴ではないのだ。

 柊家の人が大好きで、だからそのお家にいたい。だけど、父親も、嫌いではない。


 たったそれだけのことが、福美子にとっては大発見だった。こんな風に考えたのは初めてだった。嬉しかったのでぴょんぴょん跳ねると、ポニーテールも一緒にぴょんぴょん跳ねた。


 いきなり飛び跳ね始めた福美子を眺めながら、紫苑は(変なガキだな。舞夜みたい)と内心呆れたように思っていた。




「マイちゃん、あのな、しおんくんがジュース買ってくれてな、ちょっとお喋りした!」

「よかったねぇ。なんのお話ししたの?」

「んー? しおんくん、最初ねこちゃんとしゃべってた」

「?」

「それで、自分のこと好きな人が好きやなっておもった」

「!?」

「フミ、嫌いじゃないのもいいけど、好きな人のお家にもおりたいなー」

「え!? ちょっとまってえっ……帝釈!!」


 その日、紫苑が舞夜からの着信に出ると、「フミちゃんはラブレターが焼きそばぐらいでちょうどいいの!!!」と支離滅裂なことを叫ばれたので通話を切り、ついでに端末自体の電源も落とした。

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