第40話 本名(一話完結)

 とある休日の昼下がり。

 舞夜はクッションを腹に乗せたまま寝転んで、ぼんやりとテレビを眺めていた。

 彰冶は新聞のテレビ欄を熟読している。見たい番組がいくつも重なってしまったと、この世の偶然という名の悪意を嘆いているらしい。

 いつもの怠惰な日常だった。


「マイちゃん、ねんねしたの?」

「マイちゃん起きとるぅ」


 普段と異なる点といえば、福美子が舞夜の隣にいることだろうか。

 しかし、彼女が遊びに来るのなんて平日休日問わずよくあることなので、兄妹二人は通常運営でだらだらとしているのだった。そのままふと気付けば三十分は無為に経過しているようなぐうたら加減である。


「休日の時計の針の瞬間移動っぷりは異常」


 なんてしみじみした彰冶のぼやきを、舞夜が相槌すら打たずぼけーっと聞いていると、


「マイちゃん! あのな、フミな、ラブレター書いた!」

「誰に!!?」


 舞夜は飛び起きた。腹に乗せていたクッションが飛んで彰冶と新聞を襲撃したが、それどころではなかった。

 福美子はくしゃくしゃした、とても手紙とは思えない紙を取り出した。


「見せたろか?」

「うん! ありがとう!」


『やきそばとぶたにくとキャベつおいしかったです』


「……?」


 国語が得意な舞夜の読解力をもってしても、さすがに何も読み解けなかった。とりあえずこれが、舞夜の想像するラブレターでないことだけは確かである。

 しかし福美子の表情を見れば、彼女が求めている言葉はすぐに分かった。


「フミちゃんカタカナも書けるんやね。すごいなぁ」

「あとな、フミコって書ける! 見て!」


 福美子は掌に書く真似をしてみせた。


「わー、ほんと! 上手。マイヨは書ける?」

「うん! だってフミ、マイちゃんだーい好きやもん!」

「(かわいい)じゃあマイちゃんも、フミちゃんからのお手紙欲しいなー」

「おっ、それはめんどうくさいなぁ」

「……」




 と、舞夜が放課後、紫苑に語ったのは、そんな他愛のない日常の一コマだった。


「フミちゃんかわい過ぎやけどちょっと酷ない? お兄ちゃんには犬の餌…? かなんか忘れたけどお手紙書いててさ、私にはなしでさ。なんかさ、くそっ……。でも片仮名でマイヨって書けるくらいマイちゃんのこと好きってもう……フミちゃんかわい過ぎやん?」


 福美子が彰冶に送った手紙の内容は、『あきくんは、いぬの、ごはんのね、いろとにおいがするね。』というものだった。彰冶は泣いた。


「舞夜ってさぁ、なんでマイヨって名前なの?」

「なんでいきなりその話題に?」


 話がつまらなかったのかと尋ねる舞夜に、紫苑はそれもあるけど、と前置きしてから、


「片仮名って聞いてふと思ってさ。あの『舞』に『夜』って漢字なら、他にも読み方あるじゃん。マイヤとかマヤとかマヨとか。そっちの方が有りえそうなのに、なんでその中から選ばれたのがマイヨなのかなって」

「分かりづらいから、やって」


 訝しむ紫苑に、舞夜はさらに説明をしようとするが、両親や祖父母から聞きかじった程度なので、うまく言葉が浮かばない。詳細を忘れてしまった。

 名前に一工夫いれて、悪いものから誤魔化す、というような説明をされた覚えがあるが。

 いくらか悩んで、結局、


「んっとな、シオンくん家みたいな感じやと思うよ? あそこまで変えたりしやんし、苗字と名前ってところが違うけど。私のほんとの名前はたぶん、マイヤかマヤかマヨ……とか? んー。悪いもの避けのおまじない、みたいな感じやと思うんやけど…ごめん、かなりうろ覚え……」


 舞夜の兄、彰冶の『冶』の字も少し異なっている。これは鍛冶かじの冶、艶冶えんやの冶だ。

 分かり辛いが、一般的に人名でハルという読みで用いられる、サンズイの治とは異なった、ニスイの漢字である。

 これも名前に一癖入れる、昔からの慣習、あるいは古いまじないのようなものなのだろうが……余談だが彰冶本人は、(ただの書き間違いでは?)と心底疑っている。


「……へー。通りであっさり受け入れるわけだ」

「なんて?」


 紫苑は「別に?」と言いながら紙パックのジュースをすする。甘味のないタイプの野菜ジュースだった。無駄に健康志向である。


「昔はよく変な名前って言われたなぁ。まー変やしな。私は気に入っとるけど。いやそうでもないな…?」

「綺麗な字だと思うよ」


 舞夜はちょっと照れた。

 紫苑は、褒めたのはお前じゃなくて漢字だけどな、と内心思ったが口にはしなかった。


「こういう変な風習って、どこにでもあんの?」

「今の時代そうそうないけど、昔はいくらだってあったよ。時代小説とか読むんだから知ってるだろ? 名前が多い者の強みもあれば、名前を一つしか持たない者の強さもあると思う。僕はどっちでもいいけどね」


 語ったわりに、本当にどうでもよさげに紫苑はそう付け足した。


「なんで名前ってそんな大事やったん?」

「写真が無かったからじゃない? ……はぁ。僕が知るわけないだろ」


 なんて溜息をつきながら、なんだかんだで説明してくれるのが紫苑だ。


「──呪いとかって、対象を必要とするだろ。念を込めるときは、その対象の輪郭がくっきりとしいてればしてるほどいい。ほら、目標も強くイメージした方が頑張りやすいとか、そんな感じ。『俺の記憶の中のあの役職のあの時嫌がらせしてきたあの野郎呪う!』より、『柊舞夜呪う!』の方がくっきりしてるし意識しやすいじゃん」


 舞夜は自分の名前をあてはめられたことをちょっぴり複雑に思った。


「本名って、つまるところそれだけだからね。『そいつ』という個そのものの、象徴的なモノというか。だからこそ役職名とかじゃない、産まれた瞬間に個人を個人として切りとった本名は特別だと思う。えーっと、つまり、犬に名付けると大多数の中の唯一の犬になる、みたいな感じ」

「なるほどなー。人間も同じかぁ」

「そうだね。名前なら対象を意識しやすいし、それなりに格好もつくし、……顔とかより覚えやすいしね。昔は写真だって無かったし、呪いのために肖像画書いて、全然似てない! ってなったらバカみたいじゃん。外見は歳とともに変化するし……」


 紫苑は薄く笑んだまま、興味深く聞き入る舞夜への説明を締める。


「後は何だろう、漢字文化とか関係あんのかもねー。知らないけど」

「シオンくんの話、面白いから好きー」

「自分で頑張れよ……」


 満足げににこにこする舞夜に、紫苑は溜息を吐いた。




「名前かぁ、」


 とぼやきつつ、舞夜は福美子のことを考えていた。

 彼女の名前は美しい。この名を付けた人は、心から子供の人生を、幸せを祈ったのだろう。

 しかしながら、当の福美子と、その名付けに関わっただろう父親の仲は、傍から見ていても明らかにうまくいっていない。

 和気藹々と親子らしく会話はしており、互いが互いを気にかけてはいるものの、福美子はまるで当たり前のように、父親のいる生家より、舞夜や彰冶がいる柊家の方が落ち着く、と公言して憚らない。

 そして彼女の父親は父親で、そんな娘からどことなく距離を取っているように見える。


 柊家でも、なんとかその状況を改善できないかと試みてはきたのだが、実際のところ、現在に至るまでその成果は芳しくなく。

(なんかもうちょっとこう、対応するべきやったんかなぁ……)

 と、これまでのことを省みる日々である。


「で。なんでそんな相談僕にするわけ」

「シオンくん賢いから、なんかないかなーって思って」

「僕じゃなくってその父親とやらに相談しなよ」

「それは今度するつもり」


 珍しく頑なな意志を見せる友人に、紫苑はしばらく目を伏せ、野菜ジュースのパックの縁をなぞっていた。


「どうでもいいだろ、他人の家のことなんて。放っときなよ。家族なんて単語使ったって所詮は他人。大事なのは生きていけるか、成長できるかってだけで――そのフミコ? も、今の状態で無事に生きてるんだから、放っておいたらいいんだよ。無駄に何かする必要なんてないだろ。……家族だから情が必要だのなんだの、くっだらない」


 舞夜は口を噤んだ。彼の発言した内容より、その表情が気になった。

 内心が表れてもよいだろう言葉なのに、彼の双眸は先ほどから依然変わりなく平淡としていた。自分の意見を口にしているのに、それにすら興味も関心も無いような素振りであった。


「シオンくん」

「なに?」

「……だいじょうぶ?」

「は? なにが?」


 訝しげに顔を顰められた。


「大丈夫って聞きたいのはこっちだけど。いいの? 人の家の事情をべらべら部外者に喋ったりして」

「シオンくんにしか喋ってへんよ?」

「……君がそれでいいなら、いいけど」


 形容しがたい顔をする紫苑の声も聞こえているのかいないのか、舞夜は深刻な溜息を吐いた。


「それに最近ちょっと、本気で悩んどって……。二人の間で、本格的に距離が開きつつあるというか……」


 昔はもうちょっとあっただろう福美子から父親への情が、彼女が成長するにつれ、徐々にであるが薄まってきている。気がする。


「フミちゃん、週三くらいで私ん家におるし。全然いいんやけどね。めっちゃ楽しそうやし、可愛いから。でもさ……なんかこう、焦る。焦らん?」

「手遅れになりそうって?」

「そう、それ!」

「放っとけばいいのに」


 それでも、と引き下がらない舞夜に、紫苑はふと息を吐いた。


「それでも何かしたいって言うのならさ。話してやったら」

「なにを?」

「その、『福美子』の話を」




 舞夜は彰冶と一緒に福美子を家に送った後で、福美子の父親に、そのことを軽く提案してみた。雑談の流れで、あくまでも軽く、ではあるが。


「気持ちはありがたいが……私には、話すことはない」


 想像よりも遥かに強い否定が返ってきた。何も寄せ付けぬような断定である。

 理由を尋ねても、頑なに重たい口を開こうとはしない。

 彰冶は眉間のあたりを掻いた。


「……ならせめてフミに、貴方に歩み寄るきっかけを与えたらいけないですかね」

「名前、だったか。……福美子に名付けたのは私ではなく、妻だった。それ以上も、それ以下もない」


 取りつく島もないとはこのことだろう。

 まるで仙人のような白髪交じりの長い髪に、和服の良く似合う肩幅の広い体格、冷ややかで厳粛な雰囲気。

 声すらかけるのを戸惑うような、どうにも説得し辛い相手であった。


「いつも面倒を見てもらって、本当に感謝している。申し訳なく、情けないことでもあるが。出来ることならこれからも、あの子のことを頼みたい」

「それはまあ、言われるまでもないというか。家の親も受け入れてますし」

「感謝する」

「はあ……。それはそれで、もうちょっと距離縮めたらって話なんですけど」


 また沈黙。これは梃子でも動くまい。頑迷な大人である。

 ここまできたらさすがに察する。


――どうやら、単純に不器用で娘との距離が詰められない、とかではなく、彼自身はっきりとした意思を持って娘との距離を取っているのだ、と。


 予想よりも遥かに複雑な事情を抱えた家から、二人は適当な時間でお暇した。絶句し、気まずい沈黙が漂っていたからでもあるし、目当てのテレビ番組を見終えた福美子が割って入ってきて、なんとなくお開きの空気になったからでもある。


 さすがにこんなこと、提案してくれた紫苑にも相談できないなぁ、というようなことを、舞夜はなんとなく思っていた。

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