第38話 向こう側からの電話2(二話完結)

 翌日の放課後。

 舞夜は紫苑を取っつかまえて、昨夜の変事について喋り立てるつもりでいた。こんなことを話せる相手、舞夜には彼しか思いつかなかったのだ。

 しかし、こんな時に限って、彼の姿はどこにも見当たらなかった。

 教室がそう離れていないこともあって、いつもは探すまでもなく見つけることができるのに。

 舞夜と紫苑は普段、人前では喋らない。そのためまさか他の誰かに彼の居場所を尋ねるわけにもいかず(そもそも紫苑の行く先を把握している者がいるとも思えないが)、舞夜は一人ふらふらと校舎を彷徨っていた。

 スマートフォンは家に置いてきてしまったため、こんな状況なのに連絡もできない。持ってくるべきだったかと後悔したが、さすがにあの後で、アレに触れる勇気は舞夜にはなかった。


 結局紫苑は見つからず、しかたなく図書室で時間を潰したあと、自分の教室へ戻ることにした。




 西日の強い廊下だった。

 初夏の夕暮れは金色に近い、と舞夜はなんとなく思う。太陽の光が、他の季節よりもその鋭さを誇示してくる。お陰で目が痛い。


「あっ、マイちゃん!」


 弾むような声に顔を上げると、一人の少女が立っていた。離れたその位置は、ちょうど逆光にあたり、その身は窓から差し込む金光に、まるで縁取られるようにして覆い隠されている。

 舞夜は目を細め、その姿を捉えようとする。――夕日とは、こんなにまばゆいものだっただろうか。

 ただ彼女の足元、やたらと長く伸びる影だけが、不安を覚えるほど黒かった。


「昨日電話したのにさぁ。あれって……無視? それとも、寝てたとか?」


 少し拗ねた調子の声。昨夜電話をかけてきた、彼女の声に違いない。

 しかし舞夜は躊躇ってしまって、うまくその問いに答えることができない。


「……やっぱり、無視?」

「違う。その、昨日はお母さんの部屋で寝てて。充電は自分の部屋でしたから。ごめん」

「そっかー」


 安堵混じりの朗らかな声に、舞夜は挫けるように俯いた。

 恐れよりも、不安と焦燥が強かった。

 何かがおかしい。なんたって昨日からの今日、これだ。全てに違和感しかない。

 日常と非日常の境目で、舞夜はまるで足を縛り付けられたかのように動けなかった。咽喉も目玉もからりと渇き、体中の水分が抜けてしまったかのようだ。

 息苦しい。


「……えっと、」

「なにー?」

「………なんで、そんな離れたとこにおんの?」

「だってもし無視してたーとか言われたら嫌っていうかさぁ」


 なんて軽く言いながら、からからと若々しい声をあげて笑う。

 舞夜は俯いたままなので、その笑顔を見ることができない。いや、顔を上げても逆光で見えないのか。


「でも心配して損した。そっち行ってもいい?」

「えっ」

「……その『えっ』て、何?」

「え、あー。ううん」


 舞夜が否定すると、しかしまだ肯定もしていないというのに、彼女はぱっと顔を輝かせ、「よかったぁ」と両手を打った。そしてすたすたと舞夜の方へと歩いてくる。スリッパが廊下を打って、軽い足音を立てている。

 友達が気を害さなかったことに舞夜は安堵したが、その感情の唐突さに、ふと説明しがたい感覚に陥った。


 この子は本当にあの子だろうか。

 同級生の女の子。よく知っている、仲の良い、自分の友達。

 『友達』。

(あれ、でも、)


 名前、何だっけ?



「――ああ。やっと見つけた」



 かなり距離があったはずの『友達』――彼女の声の、あまりの近さに、舞夜ははっと顔を上げようとして、


「それは僕のセリフだ」


 その視界を、黒い背中が遮った。


「黄昏時は誰そ彼時ってね。これ、前も言った?」

「シオンくん!!」


 「あーやっと見つけた」、とくたびれたように息を吐き出すのは、舞夜の追い求めていた人物。帝釈紫苑であった。

 驚きと歓喜に叫ぶ舞夜を、彼はちらりと一瞥する。しかしまたすぐに対峙する相手に向きなおった。


「シオンくん! シオンくーん! うう、シオンくん、ほんもの……」

「人の名前鳴き声みたいに呼ぶなよ。ほら、立った立った。あー、立ってられないならしがみついててもいいから。とにかく今すぐ両足で立って僕の後ろにいろ。ほら」


 舞夜は自覚もないままに、いつの間にか廊下に座り込んで、というより尻餅をついていた。腰が抜けたとでもいうのだろうか、下半身に力が入っていない。

 結局紫苑に言われるがまま、舞夜は彼にしがみつきながら、よたよたと立ち上がった。彼女一人分の重みを受けても、紫苑の身体は揺れこそすれ不安定な様子はなく、頼もしい、頑丈な印象を受けた。

 なんにせよ、舞夜にとってみればその背中こそが、今この世で最も有り難い存在であることに違いなかった。

 計り知れない安心感と、思い出したようにどっと溢れてきた疲弊感に、気付けばくたびれたように、あるいは拝むように呟いていた。


「シオンくん神様かよ……」

「神様だったらあんなにウロウロして君のこと探さなくっても済んだんだろうけどねー」

「うわー、ごめん。ごめんなさ……待ってシオンくん大丈夫?」


 舞夜は我に返って、彼の背中を引っ張った。自分を庇っている彼が何と対峙しているのか、それをようやく思い出した。

 しかし紫苑はいつもどおり軽く笑ってみせる。


「簡単簡単」


 そして前を見据えたまま、言葉を紡いでみせた。


「あんたなんてお呼びじゃないよ。死んでからも招いてやらない。お前に敷居は跨がせない。二度とこちらには来られない。一生そっち側にいろ」


 舞夜は何が起こっているか分からないまま、言われた通り、彼の後ろでじっと立っていた。

 そこからは沈黙が続いた。といっても、十秒も経っていないだろう。

 紫苑は自分の背中のところで縮こまっている舞夜を振り返った。


「はい終わり」

「終わり?」

「うん」


 思わず繰り返す舞夜に、紫苑はあっさりと頷く。

 刺すような恐怖と非日常が、こんなにも、あっという間に。

 安堵と恐怖心の境目で、半ば混乱しつつ、気付けば舞夜はもう一度尋ねていた。


「ほんと?」

「嘘だと思う? …こんな嘘吐かないよ」


 呆然と見開かれた瞳に、紫苑は溜息を吐いた。その姿に、舞夜は張り詰めていた緊張の糸が緩むのを感じた。

 本当に、終わったのだ。

 飲み込みきれない事実と、遣り場をなくした恐怖を吐きだすように、舞夜は長い息を吐いた。


「折角探してやってたのに、どこ行ってたわけ?」

「シオンくん探しとったー」


 舞夜は「うわあー」と情けない声をあげて、へたりと廊下に座り込んだ。今さらになって、心臓がどくどくと暴れるように早鳴っていたことを自覚する。あまりにも救われた心地に、制服が汚れるのさえ気にならなかった。

 紫苑はそんな彼女を見下ろすでもなく、擦れ違いか、と淡々とぼやいている。


「めっちゃ怖かったー、死ぬかとおもったー。あーあ、お家帰りたい……」

「じゃ、帰ろうか。いやー電話しても繋がらないし。携帯しないなんて馬鹿なの? どこに忘れてきたんだよ」

「お布団の中に置いてきた……」

「は? わざと?」

「だって昨日電話すごいきて、切っても切れやんし、操作できひんくって、どうしようもなくてな、それでな、なんか怖くて、私、枕とお布団で防いで、…………」


 舞夜は堰を切ったように喋り立てていたが、それでも言葉尻は徐々に小さくなっていった。話すにつれて剥き出しにされた動揺が凪いで、落ち着きを通りこして落ち込んでいく。

 やがてそのしょぼくれた調子のまま、紫苑にそっと頭を下げた。


「探させてごめん。あの、見つけてくれて、ありがとう……」

「……馬鹿だよね、ほんと」


 紫苑はいつになく柔らかな表情をしていた。しかし舞夜が顔を上げるころにはすでに余所を向いてしまっていて、彼女にはその表情は見えないのだった。


「変な話して悪かったよ」


 きょとんとした舞夜から顔を逸らしたまま、彼はバツが悪そうに謝った。しでかした悪戯について叱られ、相手に渋々謝らせられる子どものように。

 しかしたったそれだけの言葉で、まさか相手が全てを理解できるはずもなく。


「なにが?」

「昨日のあの話だよ。だからコレ含めてごめんって言ってんの! 察しろよ!」


 いきなり大声を上げられて少し戸惑うが、これくらいで尻込みするような付き合いではない。

 しばらく彼の言葉を吟味し、大体の内容を飲み込んでから、舞夜は口を開いた。


「シオンくんが謝っとんのは分かったけどさ、もうちょい説明してほしい」

「君たまに真っ当だよね……」

「いつもって言って」


 堂々と言い返してくる舞夜に、紫苑は「だから……」と躊躇いがてら続けた。


「だから、あんな話をして、あんな変な奴を引き寄せたってことだよ。怪談がその通り現実になったってこと」


 紫苑は最後に、「めんどくさいな……」と心底嫌そうにぼそりと吐き出した。つい先ほどの気まぐれを後悔し、出来ることなら謝罪した事実を撤回したいとさえ考えていた。

 身勝手なほど感情の揺れ幅が激しい彼はともかく、舞夜はやっと納得がいった、と一人晴れやかな気持ちだった。


「なるほど、察したっ」

「もういいだろ」


 愛想の無い呟き。彼がさっさと切り上げたがっていることくらいは、さすがにすぐ分かる。

 舞夜は微笑んだ。


「そうやね。ありがとう。あんなにぱぱーってやっつけられるなんて、シオンくんすごいねぇ」


 無邪気に褒める彼女に、紫苑はしばらくの沈黙の後、「ああ、」と頷く。


「来るなって言っただけだからね。アレは招かれないと入ってこられないんだよ。……えーっと。まず、化け物と人間は違う領域にいて。大体の場合、それを超えるには、『何か』が必要になる。人間の場合は手足とかかな……。童話とか昔話を考えてみると分かり易い。今回のアレの場合は、こちらから招いてもらうことが必要だったみたいだね。恐らく」

「え? でも、私、誰も招いたりしてない…」

「ああ、確かに。――じゃあ、近くにくる許可を与えなかった?」

「それは、うん」


 そっちに行っていいかと聞かれて、否定もできず、さりとて許可するのも恐ろしく、曖昧に答えてしまったのだった。

 承諾をしたと、向こうは半ば強引に解釈したようだったけれど。


「例えば部屋の位置を教えるってことは、自分のところまで導くってことだろ。…かなりの曲解だけどさ」

「なんでもありやな。怖いやん」

「獲物を狙う吸血鬼しかり、ドアの向こうの狼しかり。――向こう側の奴に、騙されるなってことだよね」


 舞夜は気合がすっぽ抜けたような声で、「ほーん、」とこくこく頷いている。

 まるで分かっているフリでもしているかのような間抜けな様だが、彼女はこれできちんと頭を働かせているのだから奇妙だ。ふざけるのが、気を抜くのがうまいのだった。

 紫苑は頭を掻いた。


「――じゃあ、他になんか言っておきたいことは?」

「シオンくんに?」

「他に誰かいる?」


 彼の、いっそ分かり易いくらい回りくどい謝罪に、舞夜は少しばかり考え込んだが、やがて「あ」、とのどかに手を打った。


「そういえば一つだけ」

「なに?」

「エアコンが部屋に無くてもいいことはあった」

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