第25話 2

 舞夜は思わず手を伸ばしそうになったが、そっと開かれた猫の目を見て動きを止めた。

 彼女を見据えて濡れたようにきらきら輝くその双眸が、あまりにも見覚えがあったものだから。


 舞夜が窺うように紫苑を見ると、彼は溜息を吐いていた。


「こんな小さいなら、わざわざこんなでかいネット用意しなくてよかったな。化ける動物ってさ、なんでか巨体ことが多いよね」

「へー。いやそれより化けるって、えっと、つまりあれなん? そういうことなん?」

「そういうことだね。こいつが『いつまでお化け』――伊藤初司に付き纏っていた、藤原七々子の霊の正体だね。ほら、なんとか言えよ畜生。口だって利けるんだろ? おらっ」


 子猫は、薄ら笑いを浮かべたまま己を見下す紫苑を睨みあげた。そして喉を、なんとも形容しがたい、とにかく不快を表しているだろう低音で鳴らす。

 紫苑は躊躇なくそのネットから手を離した。


「うわっ」


 舞夜がまるで反応時間の確認に使う落下棒のキャッチのようにネットを掴むと、紫苑は気の無い拍手をした。


「今のはいかんやろ。というかこの洗濯網――昨日、私に電話してきたときにはお化けの正体が猫って分かっとったってこと?」

「ああ、うん。藤原七々子の家で偶然聞いてね。拾って育てていた子猫が、七々子が亡くなった直後に失踪したってさ」


 餌入れだけでなく、水を溜めておける給水器さえ空っぽだった理由もこれだ。


――ドアや窓の開閉の際にはきちんと気遣っていたし、おかしなところへ入り込まないようにと色々仕掛けも施していたのだが、それでも子猫はいつのまにか、雲隠れでもするかのように居なくなってしまった。

 あちこち声をかけてもいるが、目撃情報すら聞くことができない。

 変わったことと言えば変わったことかもしれない、と口元だけの下手くそな作り笑いを浮かべ、七々子の母親は語っていた。


「亡くなった女主人のために猫が化けてたって考えてたら、だいたいのことに納得がいくからね。ウチの生徒のフリをすれば噂だって流せるし。まあ、生まれたての子猫がっていうのは珍しいけど」


 言って紫苑は猫を見下ろす。

 それも素知らぬフリで、ネットの中にも関わらずじっとしている仕草は、どうにもただの獣には思えない。


「そういえば七々子さんは動物好きなんやったっけ。……でもさ、なんで化け猫って先に言ってくれへんかったん?」

「言ったら断られるだろうと思って」

「お前ふざけんなや」


 こんなの詐欺だ、むしろ裏切りだ。

 舞夜の憤慨にも関わらず、紫苑は「敵を欺くにはまず味方からって言うじゃん」と平然とのたまった。

 あまりにも大雑把な言い訳だった。そもそも彼が欺いたのは、味方の舞夜だけなのだから。


「それで焼き魚定食!?」

「野良で、しかも子猫だ。絶対食うに困ってると思ったからね。こうもうまくいってよかったよ。動物の捕獲なんて、幽霊退治よりも難しいからねぇ」

「それシオンくんだけやよ」


 確かによくよく目を凝らせば、子猫は哀れなほど痩せ細っていた。くすんで薄汚れた毛皮に骨が浮きあがっているのが、触れずして分かってしまう。

 舞夜は先ほどの恐怖と紫苑への怒りがしぼんでいくのを感じた。代わって浮かび上がってくるのはささやかな哀れみと同情だ。こんな両手の平に乗りそうな小動物が、ここまで餓えているのを目の当たりにして平然としていられるほど、舞夜の精神は頑なではない。


「同情してる? ちょろいなー」

「うん。だってさ、お腹空いてて焼き魚なんて、そんなん私だって飛びつくよ!」

「嘘つけよ。でもマイって自制心ないもんなー、分かんないか」

「それよりこの子どうすんの?」

「ただの食欲に駆られて人間を襲おうとしたんだから、普通なら即処分だよ。まだ手をかけてない僕の寛大さに感謝してほしいくらいだね! ……まあ、人様の飼い猫だからだけど」


 舞夜も、さすがに友人が子猫に手をかける姿を見たくはない。


「だって、まだこんな赤ちゃんやのに。ほら、まだちっちゃいよ? かわいいよ?」

「いや、子猫ったって化け猫だよ。こっちの同情を引くために子猫被ってるだけで、実際は相当の年寄りかもしれない」


 長生きした猫はいずれ化ける、というのは有名な話だ。その年数は地域によって異なるが。


「ほんま? 猫ちゃん今何歳? 名前は?」

「……母の腹から出て既に一月以上。名は既に葬った」


 舞夜が尋ねると、子猫は、外見に不釣り合いな淡々とした喋り口でそれだけを喋った。高い女の声だった。


「ほんとに喋るんやねぇ」


 その小さな口がもにゃもにゃと人の言葉に合わせて動くのは、舞夜にとっては見ていて興味深かった。

 人語を操る猫なんて、声帯などは全て無視しているに違いないが、それでも口はこのように動くらしい。


「人語を操る畜生ってよく見るとほんと気持ち悪いよな」

「シオンくんて動物嫌いなん?」

「どっちでもいいけど、君みたいに特別好きってわけでもない。アニマルプラネットは好き」

「ふーん。生態とかは興味深いってこと?」

「的確だね」


 言いながら紫苑は舞夜が持っていた洗濯ネットを受け取ると、それを開いて、猫にそこから出るように言いつけた。

 猫はそろそろとした足取りでアスファルトに一歩二歩と踏み出す。異常がないと分かると、彼女はその場に座り込んで項垂れてしまった。

 逃げ出すような素振りは見せなかったが、それが自主的なものなのか、紫苑が何かしたからなのかは、舞夜には分からない。


「母は二月に私を身ごもり、四月には消えた。取り残された私を拾い救ったのがもう一人の母である。だというのに、ああ口惜しい……」


 母とはそれぞれ母猫と、藤原七々子のことだろう。

 猫はぐつぐつと恨み言を続ける。


「あの男がまさか、母が死んですぐ別の女といるなんて。見かけてそのまま甚振ってやろうかとも思ったが、耐えた。……彼女は平素からあいつのことを私に語っていた。たおやかな彼女が表情を陰らせる、その全てがあいつのせいである。憎し、と一言も口にしない、そんな優しい母が」


 語り言葉尻が強まるなか、愛らしいばかりであった猫の表情も凶悪に釣りあがっていく。目は鋭く細まり、口は裂け、まるで火でも吹きだしそうである。


「私はあの男が憎い。母を傷つけ忘れたかのようにしている。しかし彼女の愛した者でもあるため、いたぶり殺すわけにもいかぬ。しかし放っておけるはずもなし。いつまでも・・・・・彼女を忘れるなと、いつまでも・・・・・お前を憎んでいると、伝え続けただけである」


 しゃあっと紫苑に牙を剥いた。しかし彼は羽虫が寄ってきた程度にしか感じていないようで、素っ気なく息を吐く。


「んなこと言われたって僕が知るかっての。元の家に帰って、それだけ物を考える頭も捨て去れよ。ただの猫に戻れ。それが多分、一番まともな幸せだよ。とりあえず伊藤初司に付き纏うのは止めろ」

「それだけはできない。気の済むまで、それだけはできない」

「はぁ? 今ここで僕に殺されるか、いつまでいつまで言いながらアホみたいに付き纏って衰弱死するかって、それだけだろ! なんだよいつまでもって!! 馬鹿かよ! 何の意味もねーだろ!! 馬鹿かよ!」

「あっすみません何でもないです、大丈夫です。――ほらシオンくん、ここ普通に人も通るからな、ちょっと落ち着いた方がいいんちゃうかな」


 通りすがりの女性は会釈して、そそくさと離れていった。人通りが少ないからといって、怒鳴り散らしても誰にも見咎められないというわけではない。


「舞夜もなんか言ってやれって! そのままじゃお前も死ぬし無意味ですねって!」


 いきなり言われて舞夜は一瞬戸惑ったが、そういえば説得を任されていたな、と今さらながら思い出した。

 下心ありとはいえ定食も奢ってもらった身だ、頼まれたことを遂行しないわけにもいくまい。


 舞夜はとりあえずしゃがみこむと、子猫を見つめた。今は彼女の表情も落ち着いて、どこにでもいる、つぶらで無垢な猫の目に見えた。


「えっとな、七々子さんのためにも、伊藤先輩の前に出るのは止めた方がいいと思うよ?」

「彼女がこのようなことを望んでいないのは私としても承知している。しかし、それでは私の気が済まない。あまりにも、あまりにも彼女が哀れだ」

「いや、それだけじゃなくてさ」


 猫は小首を傾げる。可愛い。可愛いが、哀れなのはこの子もそうだろう、とやせぼそった体に舞夜は一人思う。


「今のって、周りから見たら、七々子さんが伊藤先輩に死んでからも未練がましく付き纏っとるって風に見えると思う。その、私も最初そんな風に思ったし。噂では七々子さんの名前は伏せられとったけど、いつバレるか分からんよ? 他の人にも変身した姿は見えるし、もしかしたら伊藤先輩がもう我慢ムリ! ってなって色んな人に訴えるかもしれんし。――そうなったら七々子さん本人もやけど、七々子さんの友達も嫌な気持ちになると思うし、七々子さんのお母さんも可哀想やよ。家族がそんなんになっとるなんて、辛いと思う……」


 子猫は何も言わなかった。ただ無言のまま、ぺたんと耳を下げてしまっている。


「なんか私、すごい酷いこと言ってない?」

「事実だろ。抉る感じで、すごくいい説得だったんじゃないかなぁと僕は思うけど」

「あの、ごめんなさい。大丈夫?」


 舞夜が尋ねるが、子猫は髭までだらんと下げて黙ったままである。

 困って紫苑を振り返ると、彼は彼女のそのあまりにも情けない表情に溜め息を吐いた。


「自分を食おうとした奴にそんな気遣うことないって。大らかなのは結構だけどさ、ただ危機感がないだけっていうのは違うだろ」

「まともなこと言っとる感じするけど、食欲煽るために焼き魚奢った奴のセリフっちゃうよね、それ」

「分かったごめん許して」

「オッケー」

「馬鹿かよ……情をかける相手はちゃんと考えた方がいいよ。自分で言うのもなんだけど、僕みたいな奴と普通に友達になってる時点で不安しかない」

「自覚あるなら直して?」


 二人の掛け合いもよそに子猫はしばらく沈み込んでいたが、やがて項垂れたまま、重たげに口を開いた。


「話を聞いてよくよく分かった。全く、情けのないことだ。これではまるで私怨だ。主人の名に、家に、泥をかけてしまっていた」

「おっ、物分かりいいね。帰り辛いってんなら別の飼い主を捜してやってもいいよ。舞夜が」

「なんで?」


 結局すぐさま言いくるめられて、舞夜はスマホをいじり始めた。とりあえず生後一ヶ月程度の子猫の飼い主募集、というメッセージを友人らに送り始めた。完全にパシリである。

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