第24話 解決編1

 舞夜は今単独で、伊藤初司の尾行をしていた。前回と異なり、本人の許可も取っている。ちなみに紫苑は別行動を取っているため近くにはいない。


 しかし彼が直前に焼き魚定食を奢ってくれたため、舞夜は割と上機嫌である。店内で焼いていたため、着ている制服に匂いがついたかもしれないが、それがどうでもよくなるくらいには美味しかったのである。

 今日の紫苑はやけに太っ腹だ。何故か、メニューは選ばせてくれなかったが。


 今回の計画自体は非常に単純だ。とりあえず彼が藤原七々子の霊に必死で謝罪する、舞夜はその隙に乗じて彼女の説得をする――予定なのだが。


(どーなんのかなぁ)


 これだけで本当にうまくいくのか、と紫苑の立てた作戦を疑う気持ちが半分、それから。

 前方を行く伊藤の様子を見て、舞夜は溜め息を飲みこむ。

 彼の足取りは、まるでゾンビのように重たい。


――先ほど話し合ったときも、必要最低限のこと以外はろくに口も利かなかった。初対面時と比べると、まるで人が変わったかのようである。


「先輩、大丈夫かなぁ? ちゃんと寝てないんかな……」

「どっちがお化けだって感じだよね」


 紫苑は他人事のようにくすくす笑っていた。舞夜が溜息を吐くと、彼は「君が頼りだよ」と彼女の肩をぽんと叩いた。さすがにあの状態の人間に任せることはできない、と舞夜も頷く――。


 そして今、こうして物陰に潜んでいる。紫苑も傍にいないため、緊張する。


 一度、右手の袖を確認した。




 霊はすぐに現れた。ちょうど曲がり角のところ、前回とは違う地点ではあるが、風景は似ている。伊藤が足を止めて石のように固まったためすぐ分かった。

 彼女はやはり人間となんら遜色のない姿かたちをしていた。写真で見たそのままの血色の良さを残していて、幽霊とは思えない、と舞夜が足を踏み出そうとしたそのときだった。


 伊藤は、叫び声こそ一つもあげなかった。――そして、ただそのまま回れ右した。

 舞夜が「えっ」と目を丸くしている間に、彼女が隠れている小道に見向きもせず、そのまま全力で逃走した。


 舞夜は半ば呆然と、人間死に物狂いで走ればこうも俊足になれるものかと、すぐ横を駆け抜けていった伊藤の背中を見送りった。


「あー……」


 失敗したかと思ったが、藤原七々子は未だその場に留まっていた。

 恐る恐る近づいてみても、まるで霊には見えない。舞夜の姿を捉えたその目なんて、どこかきらきらと輝いているようにも思える。


「あの、藤原さんですか?」

「藤原。そうね、そうよ」


 彼女はその目元を山なりに緩めた。言葉もはっきりして、会話もできる。不思議な感覚だったが、舞夜としてはありがたい。


「あの、お話に来たんですけど……」

「あいつに頼まれた?」


 あいつ、とは伊藤初司のことだろう。正確には異なるが、舞夜は曖昧に首肯しておいた。そう、と七々子は相手を愛でるような、柔和な表情で微笑んでいる。

 ずいぶんと、優しそうな人、いや、霊か。

 落ち着いて考えれば霊にそのような顔をされるのは恐怖でしかないのだろうが、しかし舞夜には、その表情は本物であるように感じられたのである。


「――ねぇ、よかったら、私の話、聞いてくれる?」


 舞夜は頷いた。一人残されて、他にできることも思いつかなかった。




 藤原七々子は、かくかくしかじかと語った。


――伊藤初司は私にとって初めて出来た恋人で、初めこそ優しかった。

 彼は家で鳥や魚を飼っていて、私が飼っている子猫の写真を見せたら、可愛いと笑って、家に見に来たこともあった。


 しかし、徐々にその態度はすげなくなっていった。私の扱いもないがしろになっていった。約束が破られることも少なくなく、ある日、二股をかけられてると知った。浮気を繰り返されたと知った。

 私は気持ちは重かったが、それでも話し合ってみよう、と考えていた。何度ものらりくらりとかわされてきたが、今度こそきちんと話し合って、それから、今後のことを決めよう、と。


 しかしそんな中事故で死んでしまい、彼は新しい彼女と付き合い始めた。

 生きていた時の浮気相手とは、また別の女だった。私にはそれが信じられなかった。


 あいつのせいで毎日気分こそ晴れなかったが、まだ死にたいとは思っていなかった。二年に進級したばかりで、楽しみにしていたことだってたくさんあったし、将来の夢だってうっすらとだが考えていた。友達と出かける予定だってあったのだ。


 なのに死んで、辛くて、そこに彼のあの態度である。

 許せなかった。


「だから、私は、化けてでたのよ」



 彼女はそこで話しを区切った。なるほど酷い話だ、と舞夜は思った。

 全体的に伊藤が悪い。七々子悪くない。十人中九人がそう答えるだろう事情だった。

 後は事故のタイミングもよくなかったかもしれないが、それにしても伊藤が悪い。

 なんたるろくでなしだ、と舞夜はとっとと逃げ出した彼の背中を思い出していた。


「最低でしょ? あなたも放っておかれたのよ? 憎いって、何かしてやりたいって、思わない?」

「いや、まあそこまでは別に……」


 伊藤のろくでなし加減に怒りを覚え、死後も縛られている藤原七々子には同情もするが、所詮他人事でもあるため、彼に対する憎悪などはさすがにない。

 文句だってつけたいし、ひどい人間だな、とうんざりはするが、それ以外には特に何の感情も浮かばないのだ。


 舞夜は「えーと」と言い淀んでから、周囲を見渡した。紫苑の姿は見当たらないが、きっと彼のことだから、その辺に隠れているに違いない。

 若干戸惑いながらも、彼女は改めて藤原七々子に向きなおった。


「事情は分かりました。多分気付いてると思うんですけど、私、貴女が伊藤先輩の前に出て来るのを止めるように、説得するために来たんです」

「だろうと思ったけど。で、何て言うつもりなの?」

「……その前に、まず一つ、聞きたいことがあるんですけど」

「何? なんでも聞いて」


 ふんわりと微笑む。

 自然な瞬きや、そよ風に揺れる髪、穏やかな声音。どれを取っても、幽霊には見えないが。


「……あの、何で標準語なんですか?」

「え?」


 七々子は、不意を突かれたようにきょとんとする。

 舞夜はじりじりと後退りながら、もう一度だけ問うた。


「七々子さんはずっとここで育ったって、それくらいは知ってるんです。だから、貴女、誰ですか?」

「……」


 細められた目が、山なりに歪んだ。


「あなたとお喋りしたのはね、今のあなた、とってもいい匂いがするからよ」


 藤原七々子の、ぐわりと開かれた口内からは尖った犬歯が覗いている。

 腰を抜かしそうなのをぐっと堪え、舞夜は右手の袖に潜ませていた一枚の御札を真っすぐに付き出した。

 ネムレスとの別れ際、握っていろと紫苑に言われたその御札だった。


「ぎゃあっ」


 と喉の潰れたような悲鳴が上がり、七々子が大きく仰け反った。

 触れてもいないのに、と思った以上の効力に舞夜は一瞬固まったが、慌てて呻き声をあげている彼女から距離を取った。

 追いかけてくるかもしれないと振り返ったが、地面に手をついたまま、頭を抑えて苦しげに息を荒げている。


(この御札強過ぎやん?)


 舞夜からしてみればただの皺の寄った紙で、そこまで凄そうなオーラなんて見るどころか感じ取れもしないのだが。

 後で紫苑に詳細を聞こうと考えたところで、七々子がようやっと顔を上げた。


「何をした!」

「な、何もしてないです……」


 ふと見ると、彼女の頭の部分に何かあるような。

 舞夜がじっと目を凝らしたところで、その視線を遮るようにひょいと紫苑が現れた。彼はうずくまる七々子の様子を眺めていたが、やがて鞄から網――といっても洗濯用のネットだが、を取りだし、しゃがんだまま、そこに何ものかを収めた。


「ふー、大漁大漁!」

「し、しお、シオンくん」

「あっ、マイ、お疲れー。怪我してないよね?」

「う、うん、元気。その、そ、それ」


 紫苑が片手でずた袋でも掲げるようにして持ち上げたネットの中には、


「――ねこ・・?」

「子猫だね」


 ぎゅっと目を閉じたまま、時おりふるふるとその身を震わす、かわいらしい猫がうずくまっていた。

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