第23話 藤原家
紫苑は藤原七々子の実家を訪れて、リビングにある彼女の仏壇に手を合わせていた。遺影の中の彼女は、ただただ穏やかに微笑んでいる。
彼女の母親は、それとそっくりな微笑を浮かべながら紫苑を迎え入れてくれた。
ちなみに紫苑は七々子と、その恋人である伊藤初司を介して、時おり顔を合わせていた――という設定である。
「わざわざありがとうね。七々子も、喜んでると思います」
「いえ、こちらこそ手を合わせるのも遅れてしまって……申し訳ないです」
藤原家は、比較的最近建てられた一軒家だった。
紫苑が通された限りの屋内はどこも綺麗に片付けられており、ペットでも飼っているのだろうか、リビングの隅には餌用の皿と、タンクが備え付けられた給水器が置かれている。今はどちらも空っぽだが。
絵に描いたような幸せな家庭だったのではないか、と紫苑は想像した。
しかしそれも娘の事故死というあっという間の出来事で、ただ虚しいばかりとなってしまう。無常とはこのことだろう。
そういえば、と思い出して、紫苑は途中で買ってきた菓子折りを取り出した。
「これ、七々子さんが好きだと言っていたお菓子です。邪魔になるかもしれないとは思ったんですが、よかったら……」
母親は遠慮した素振りを見せたが、友人皆でお金を出し合ったので、と紫苑が適当なことを付け足すと、ゆっくり頭を下げてそれを受け取った。
「ご丁寧にすみません。お茶でも飲んでかれます?」
「いえ、大丈夫です。これから用事もあるので」
七々子の母親は語り口も温厚で、不安定さは微塵も感じられなかった。彼女自身、とてもやつれているようには見られない。
しかし、よくよく目を凝らすと、化粧で肌色を整えているのが分かる。時おり無意識に目線が遠くへ飛び、嘆息が零れる。客人である紫苑に気を遣って、朗らかに振る舞っているのだろう。
――彼女の娘、七々子もこうして他人に配慮する性質だったのだろうか。
七々子の恋人、伊藤初司が語っていたことを思い出す。
曰く、浮気を何度か繰り返していたという。二股だってかけた。
七々子の扱いは徐々にぞんざいになり、あれこれ問われても、のらりくらりと無視してきた。彼女は激昂こそしなかったが、どうにも彼への態度がしおらしいというか陰気になり、それも気に喰わなくなっていった。二年になってから彼女が亡くなり、体面上一度手を合わせにはいったが、結局それっきりである――など。
とりあえず、まさかこの母親を前にしては口が裂けても言えないようなことだった。
これを友人、しかも女性に説明しなければならない自分の身にもなってほしい、と紫苑は玄関へとついていきながら考えた。舞夜のことだから適当に誤魔化すか黙るかしても、変に追及はしてこないだろうけれど。
(言わないでおくか)
それから玄関口で互いに頭を下げ合った別れ際、紫苑はゆっくりと藤原七々子の母親と目を合わし、そのままほんの少し、発する言葉に
「ところで、最後に聞きたいことがあるんですけど」
「はあ」
「何か最近、お宅で変わったことは起きてませんか? 例えば、七々子さんのことで」
「七々子の、ことで……」
もしも藤原七々子が、伊藤初司に降りかかる異常の原因なのだとすれば、この人にも何か関係があるのではないか、と紫苑はうっすらとではあるが考えていた。
まず、七々子の霊が現れるのは、彼女の実家もあるここT市内のみに限られている。そしてその姿は、狙いとなっている伊藤以外にも目視できるようだ。また、霊を目撃したときの伊藤のあの錯乱っぷりは、事情を知らぬ者からすればあまりにも異常である。
――以上のことから、この市内で、七々子の霊について伊藤本人の知らないところで噂になっていたとしても、おかしくはない。
だとしたらその噂が、七々子の母親に届かないのもおかしいだろう。敢えて耳に入らないようにする者もいるだろうが、そうでない者の方が人間には圧倒的に多い。
さらに、あの伊藤初司の名だけが上がり、藤原七々子の名だけは隠匿されていた、どこか中途半端な噂を流した主も、もしかしたらこの母親なのかもしれない、とさえ思っていた。
二人が交際していたことを知っている者はほとんどいない、と伊藤は言っていたのだから。
もしも、彼女が娘の異常について何か知っていたら、関係していたら。
それならば、適当に諭して宥め
「……特には、思いあたらないですね」
うーん、と首を傾げ、やっぱり無い、ともう一度呟かれる。
何の衒いもなく、ぽかんと吐き出されたその言葉に嘘は無いように見られた。
「そうですか」
と紫苑は内心肩を落とした。稼ぎ損ねたというのもあるし、当てが外れたというのも大きい。
T市だけに現れる、
いざそのお化けと対面する前に、突き詰めておきたいことだった。
別に調べ尽くさなくても、霊の一人追っ払うことくらい簡単だ。さっさと始末してしまってもいいのだが、紫苑にとって下調べは非常に重要な意味を持っていた。少しでも後の不安に繋がりそうな要素は、前もってできる限り潰しておきたい。些細なことが、何を引き起こすか分からないのだから。
(些細なこと、か…)
「動物……」
「え?」
「そういえば七々子さん、動物がとても好きでしたよね。確かペットも飼っていたと聞いたんですけど、見なかったので」
実際は伊藤から聞いたのは前者だけだったが、まさかあれほどしっかりした給水器等が用意されているのに何も飼っていないなんてことはないだろう。
確か伊藤と仲良くなったきっかけもペットだったというし、何か彼に関する話でも聞けたら、という世間話の流れのような話題振りだったのだが、なぜか七々子の母親はああ、と重く沈んだような声をあげた。
「そうですね、これも変わったことと言ったらそうかもしれません」
「何かあったんですか?」
「その、今も心配なんですけどね、実は……」
と、前置きして語られた話に、紫苑は眉を顰めた。
舞夜が図書館で借りてきた心理学の本を読んでいると、紫苑から電話がかかってきた。
本にお気に入りの栞をはさんでから出ると、開口一番で「出るの遅くない?」と文句をつけられた。
「いやそんな遅くないよ。今のはちょっと短気やな」
「電話ってこんなもんなの?」
自分からかけるのにはあまり慣れていないらしい。この現代社会では生き辛いだろうが、彼は若いしすぐ慣れるだろう。
舞夜は他人事のようにそんなことを考えた。
「うん。それでどうしたん?」
「君ン家、でかい網とかある?」
あまりに突飛な発言に、舞夜は一瞬口籠った。
「お爺ちゃんのとこにならあるよ。えーっと、さすがに貸してもらえやんと思うけど……何で? 漁でもすんの?」
「待って違う違う。あー、虫取り網とか、洗濯用のネットとかでいいんだけど」
ああ、と舞夜は頷いた。この海沿いの土地で生まれ育った彼女にとって、巨大な網と言われてぱっと思い浮かぶのは
しかしこうも気軽に話題に上がるものでもないし、おかしいとは思ったのだ。
「洗濯のはお母さんのやし、虫取りは……無いなぁ、多分。百均で買ってこよか? シーツとか洗うやつでな、すごい大きいのあるよ」
「自分で買うからいいよ。じゃあね」
待って、という言葉を言うまでもなく瞬時に切られた。一時の躊躇すらなかった。
どちらにせよ、そんな網なんて一体何に使うのか。わざわざ電話し返して尋ねるようなことでもないし、面倒くさがりの彼のことだ、メールして返事がくるとも限らない。
どうせまたすぐ顔を合わせるのだし、その時にでも聞けばいいか、と結局舞夜はスマホをベッドに放り投げた。
そんなことより、彼に任された仕事について考えるべきだろう。手なんて抜いたら後が怖い。
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