第17話 今まで
「……つまり、僕に関する記憶だけが欠けてるってことか」
「うん」
未だふわふわと落ち着きのない記憶を整理するため、舞夜なりに色々と遡ってみたのだが、作為的なくらいに紫苑との記憶だけが定着しない。既に他のことはほとんど思い出せているというのに。
「マイ、あの顔剥ぎ野郎になんか言われた?」
「なんかって何?」
「………そうだな、例えば、記憶なんて無いままで――いや。記憶なんて戻らなくても僕は気にしないから、君も気にしない方がいいよー、とか?」
舞夜は息を詰めた。確かにネムレスに、そのようなことを諭された。
言葉も出ないまま紫苑を見ると、彼は笑顔で「違った?」と尋ねてくる。しかしもう答えは分かっている、というような表情だった。
舞夜が不思議に思いながら素直に頷くと、
「やっぱりなぁ。で、舞夜も舞夜でそれでもいいかって受け容れたんだろ」
また頷く。
確かに、思い出せなくても大丈夫かな、なんて気楽になってしまった覚えがあった。あの時の舞夜は、それでずいぶんと精神的に救われたものだが。
「……なんとまぁ、分かり易いというか。単純で助かるよ。いや、厄介なことに変わりはないけど」
「すごいなぁ。なんでシオンくんそんなん分かるん? すごいなーエスパーなん?」
「君が単純過ぎるんだよ。多分だけど、記憶が戻らない原因はそれだ」
「え?」
舞夜が目を丸くして聞き返すと、紫苑はしばらく苦虫を噛み潰したような顔で黙っていたが、溜め息混じりに喋り始めた。
「まず、僕のことはどこまで思い出してる?」
「鏡を割ったとこくらいまで。割って、腕が出て、そこまでかなぁ」
「どこだよ。あ、いや思い出した。そこかよ! また中途半端な……せめてあと一日無理だったわけ?」
「ごめん」
自分でも気付かないうちに寝落ちしてしまった。だけどそこまでの努力は認めてほしい。
舞夜はちまちま弁明したが、紫苑が「こいつ…」と睨みつけると慌てて頭を下げた。
「……まあいいや。大体はその鏡割った次の日に話したことなんだけど、紫苑くんがもう一回説明してあげよう」
感謝しろ、みたいな雰囲気を醸し出していたので、舞夜がすぐさま「やったー。ありがとうございます!」と喜ぶと、紫苑も分かりやすく上機嫌になった。
「おお、いい心がけだね。じゃあまず、僕の言うお仕事のことから、かな。帝釈家は、なんて言ったらいいのか、代々民間陰陽師のようなものをやってるんだ」
ずいぶん曖昧で慎重な言い回しだった。
しかし彼なりに、舞夜に分かりやすいように伝えようとしてくれているのだろう。紫苑は探り探り話を続ける。
「割と独学要素の強い亜流というか、深く正統性について考えたら完璧にパチモン。陰陽師名乗ろうもんなら完全に詐欺だ。密教僧の影響も強いしね、関係は無いけど。だけど、実際に、鬼――化け物退治をすることは出来る。その手段、方法だけは持っている。それについての理論理屈正統性なんかはともかく、殺し方だけは大正解。それで長年、その降魔だか祓魔だか、とにかく化け物退治を家業として代々受け継いでいるってわけ」
「へぇ。うーん。へぇー…。なんかすごいなぁ」
にわかには信じがたい事実なのだろうが、舞夜は既に顔剥ぎことネムレスに出くわしていて、実際紫苑が彼を消してしまったのも目にしているわけだから、納得する外なかった。新鮮味があるような無いような、なんともリアクションの取り難い新事実である。
以前の舞夜はどのようにして、彼のこの言葉を受け容れたのだろうか……。
紫苑も二度目の説明だからか、彼女のいまいちな反応にも構わず淡々と話を続けていく。
「といっても残念ながら珍しいもんでもなんでもなくて、昔は色々と似たようなのがいたらしいんだよね。ま、まともなのか狂ってんのか詐欺師なのかは知らないけど。でも今に至るまでに大体は廃れちゃって、ウチみたいな酔狂なのだけが残ってるってワケ。んで、僕はその息子。当然その家業を継ぐ。ここまでいい?」
「うん」
とりあえず頷く。
「だから、僕は色々と変な――普通に聞いたら頭おかしいって言われるだろう技みたいのを身につけてる。詳細は今は要らないから省略! で、その中には、僕の言葉に耳を傾けさせるっていうのがある。これ、結構用途が多くてさ。他人の意識をこっちに向けたり、僕の演説に納得させたり……。ま、洗脳できるほど強いものじゃないんだけどねー。でもなんか色々できるから、僕は適当に『言霊』って呼んでるんだけど……それをあの顔剥ぎ野郎が、君に使ってたんだと思う」
「ネムレスが?」
「そう。言霊付きで、君が記憶を思い出さない方向に誘導した。君はその時、
「……」
「……あれが君に、特に思い出さないでほしいと願ったのは、きっと、僕のことだっただろうからね」
それを、舞夜も心で受け入れてしまった。彼女としては全くの無意識で、意図せずのことだったのだが、そのことが一番のきっかけとなったに違いない。
紫苑がすっかり説明し終えると、舞夜は困ったようにそっと首を傾げた。
「それって、」
「自覚あって使ってたんだろうね。
「便利やね」
最後に付け足されたちゃかすような言葉に少し笑ってから、舞夜は気を取り直すように天井を見上げた。疲れているのを取り繕うような表情であった。
「うーん、ネムレスに騙されたってこと? いかんなぁ」
「もっと怒れよ」
そんなことを言われても、ネムレスはもうこの世に居ないのだ。あれだけきちんとお別れを済ませた相手に怒り狂ってみせるのは、舞夜にとってはなかなか困難なことだった。
しかし考えてみると、この世にいない対象を恨むというのは、一体どういうことなのだろう。その存在は消える、感情をぶつける、或いは遠くから向けるだけの相手はもういない。されど刻まれた記憶を元に、暗い感情は繰り返される。誰を恨んでいるんだ? ということは、相手ではなく、自分の頭の中を恨んでいるのか? 怒り、恨みという感情単体に閉じ込められるのか?
舞夜は少し考えたが、そもそも実感すら湧かないことへの問いである。途中から意味が分からなくなってきたので、紫苑にもかくかくしかじか説明してみた。
彼の顔が、気難しく歪む。唇を曲げて、笑っているのか怒っているのか、判断しにくい表情になる。
「分からないのは、君が恵まれた幸せ者だからだろ」
その声のトーンこそ、平時通りだが。
軽率な問いだったかもしれない、と舞夜は内省した。他人の内面の、繊細なところを撫でるような質問だった。
こういう自分の些細な思い付きのせいで、友人の気を損ねたくはなかった舞夜が、
「私まだ若いしな」
素知らぬフリで明るく言い放つと、紫苑も釣られてにやりとする。
「既に枯れてる感じがあるけど」
「でも高校生やよ。青春やよ」
「なんか舞夜が言うと違和感あるよね。花の高校一年生って?」
「うん、入学おめでとー私」
「入学って、僕はともかく、君は中学からの繰り上げだろ。前も言ったけどさぁ」
「言ったん?」
まだ思い出せていないことだと言外に伝えると、紫苑は気だるげに頷く。
――彼は、彼女の記憶喪失が地味に面倒くさいものであることに、なんとなく気付き始めていた。だからといって絶対に、記憶を全部取り戻す手伝いなんてしてやらないわけだが。彼女の自業自得だし、別にいいだろう。
もちろん彼女は友人だし、一人だけで頑張って取りもどす分には邪魔などはしない、いや、邪魔も控えるつもりだ。
「あ。そういえば、私の記憶消したあの水ってなんやったん? あれ、シオンくんが持っとったんやん? 飲まされたんやし、なんか説明してもらっても、」
「は? なんで僕がそんなことしなきゃいけないわけ?」
「体に害がないかとかさ、説明責任みたいな、」
「ない。――その水についての記憶が戻らないのも、騙されたにしろ、自分でそれを受け容れた君の
舞夜は思わずたじろいだが、謝罪はぐっと飲み込む。
「……で、でもさ、そもそも、シオンくんが私をあそこに連れてったんやろ? ネムレスが言っとったもん!」
「で、その記憶はあんの? ないよねー。聞いただけだもんねー! あの嘘吐きの顔剥ぎ野郎に君がのこのこ騙されたせいで僕があんな目にあったっていうのに、まだあいつの言葉をそのまんま信じてるって、脳みそお花畑?」
「え、うーん。でもシオンくんが私のこと連れてったのは事実やろ!? なんかそんな気がする!」
「もしそうだとしても僕は連れていっただけだからね。許したことも、受け容れたことも、後のことは全部君の責任だろ」
「ん? うん。まあ、そこらへんは私の責任やけど」
「だろ。あんま気にしなくてもいいって。それよりお菓子食おーぜ! お菓子!」
「食べるー」
紫苑はチョコ菓子を舞夜にくれた。紫苑自身あまり金には不自由していないので、何かあるとすぐ舞夜に奢って片付けようとする。彼女も楽々それに釣られるため、ある意味でこれでこの話は終了という合図のようなものでもあった。
もちろん舞夜はそんなこと、すっかり記憶から抜け落ちてしまっているわけだが。
それからも結局紫苑は、舞夜の態度について怒っているのか、それとも元々あまり話したくない事柄だったのかは知らないが、結局例の、人の記憶を消せる水については説明してくれなかった。
まあ害は無いらしいし、きっとそのうち思い出すだろうし気長に待とうと舞夜も考え直した。
二人はそれから和やかな態度で、甘味を摘まみながら適当に間を潰した。
「なーなーシオンくん」
「なに」
「鏡事件の後とかって、どんなことがあったん?」
「君にあの御札――ほら、クリアファイルに挟んどけって言ったやつ、あれをあげたのも、その後だったな。他にも理科室からマネキン事件とか、音楽室で延々ピアノ事件とか。あとは、なんかあったっけ……」
紫苑があれこれ挙げていくのを、舞夜はふんふんと聞いている。
彼と知り合ったのは、高校入学からしばらくのことだった。今はまだ五月であるが、たったそれだけの間にも様々なことがあったらしい。
「手帳のメモ見ればだいたい書いてあるよ、たぶんね」
「あれなんか怖いんよなー」
「自分で書いたくせに?」
「んー」
そういえば結局、初対面時、なぜ紫苑が舞夜に話しかけてきたのかは謎のままである。
舞夜が適当に立ててみた仮説は一つある。
――図書室に本当に頼まれて伝言をしに来て、それから更に気まぐれに話しかけてみた。それからも気が向いたから、他に誰もいない暇なときには話しかけている。
なんて考えながらも、舞夜は紫苑が、そのような人間でないことを、なんとなくであるが知っていた。
友人ではあるが、彼はどう贔屓目に見てもなかなか身勝手で傍若無人で、そしてその点を自覚している。しかし直してみせる気もないため、それをある程度許容できる人間とだけ付き合うようにしているのだ。
よって彼自身はともかく、彼の周囲にいるのは善人が多いらしい。それを見定める目を持っているからだ。「下種は下種を見抜く、さすれば善人も定められん」と誇らしげにしていたのを思い出す。
彼は聡明だが、ある意味では年頃らしく馬鹿だった。
「シオンくん」
「なに?」
「私たち、友だちやよね?」
「……アッタリマエダロ! イエーイ僕たち仲良し! 仲良しフレンズ!」
死にそうなほどの棒読みに、舞夜はちょっとだけ笑ってしまった。
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