第16話 鏡
「シオンくん、シオンくん」
紫苑を見かけた舞夜は、学内で周囲にいくらか人がいるにも関わらず、咄嗟に彼に声をかけた。
近くに友人知人は見当たらないからいいだろうと思ったし、なにより今日は彼に話しておきたいことがあった。
「どうしたの。そっちから声をかけてくるなんて珍しいじゃん」
紫苑は一瞬迷惑げに眉を顰めたが、舞夜だと気付くとすぐさま笑顔を貼り付けた。
舞夜も当然それに気付くし、もしかしたら本心では嫌われているのか、と思わなくもない。しかし彼が愛想どころか小想も足りない人間であることは既に知っているし、それなのに自分に対してこうやって愛敬を振りまいてくれるのは別に悪いことではない、とあまり気にないようにしている。
「で、急にどうしたの?」
舞夜は黙って紫苑をちょいちょいと呼び寄せ、人目を避けるように声を潜めた。
「急にごめん。ただあの、この前会った公園あるやろ? そこ、あんまり行かん方がいいかも」
「へえ。何で?」
「……林のとこで、猫がいっぱい死んどったんやって」
「知ってるよ。鏡の欠片が散らばってたんだろ?」
先を越されて驚きもしたが、それより舞夜はどこか安堵の溜息を吐いた。
「なんや…。変な人やったら危ないし、それだけ言いたくて」
「それだけ? なんというか、ご苦労様」
「でも知っとんのなら、言わんでもよかったねぇ」
無駄に焦ったのが今更ながら照れくさくなって、舞夜ははにかんだ。そのまま、呆れている紫苑にもう一度念を押した。
「危ないからな。行ったらダメやよ」
「それは無理。今日行くから」
さらっと言われ、思わず声を上げる。慌てて理由を尋ねると、家業の手伝いがあるらしい。
「へー。葬祭かなんか?」
「お祓いだよ」
「おはらい」
耳にしたことはあるが、日常ではあまり縁の無い言葉である。
鸚鵡返しになったが、紫苑はすんなりと頷いた。彼は自分のことについてほとんど語らないため、プロフィールの類もほとんど知らないのだが、まさか家がそういった事柄に従事しているとは思ってもみなかった。苗字を変化させるという、変わった風習を持っているとは聞いたが。
ああ、それで彼はその手の本をよく読んでいるのかと、舞夜は一人納得した。そういえば理由を尋ねたときに、義務がどうとか言っていた気がする。
「すごいねえ、なんかテレビみたい。手、合わせたりすんの?」
「……一緒に来る?」
「えっ、いいの? 邪魔にならん?」
「まあ、君が静かにしてるなら」
舞夜は頷きかけたが、ふと、この前福美子とともに眺めた猫が脳裏をよぎった。写真にも収めた、あの猫のことである。さすがにどの猫が殺されたのかまでは分からないが。
「……やっぱり、止めとく」
口にこそ出さないが、なんとなく、興味本位で近づきたくはない、と思ったのだ。それはあまりに、無礼な行為に思えた。
急にしおらしくなった舞夜を、紫苑は不思議そうに眺めていたが、すぐ微笑みかけてみせた。
「気になるなら来てみたら? 手の一つでも合わせてあげればいいし。ほら、慰めにはなるよ。それが君のか、猫のかは知らないけど」
「シオンくんてさ、なんか一言多いよな」
なんて言いながら、舞夜は気付けばこっくり頷いていた。
学校も終わり、舞夜は友人の美夏に断っていつもより早めの帰路についていた。
紫苑とは同校生の姿も減るだろう地元駅のバス停で合流し、そのまま市民公園へと向かった。
彼に連れられ雑木林のなかにある現場に着くと、そこは意外にも、平時通りの有り様であった。噂に聞いていた猫の死骸や鏡の破片は見当たらず、凄惨たる事件の現場だとは思えない。立ち入り禁止を示すために引かれた、頼りないほどか細いテープだけが、時おりその存在を主張するかのように揺れている。
紫苑はひょいとそれを乗り越えていく。舞夜も後を追おうとしたが、ふと、もしかしたら、地面に赤茶けた落ち葉が散っているせいで、血痕が分からないのかもしれないと思ってしまい、急に足がすくんでしまった。
タイミング悪く、太陽が厚雲に隠れてしまい、彼女らのいる場所に影が振り落ちる。急に風が冷えた気がして、舞夜はその身を震わせた。
紫苑が、一人尻込みする舞夜を振り返る。
「……なに、怖いの?」
「暗いし…」
言い訳にもならないぼやきに、紫苑は呆れとも嘲りともつかぬ様子で、わざとらしく溜息を吐いた。結局彼からの圧に負けて、舞夜も手を合わせてから怖々とそのテープを跨いだ。
足を踏み入れたところで、何かが劇的な変化を見せるわけでもない。それでもなんとなく身動ぎすら躊躇われる気がして、舞夜は借りてきた猫のように大人しくしていた。
紫苑はというと、慣れ親しんだ場所であるかのように堂々とその辺を歩き回っている。豪胆というより、厚顔故な気がした。なんとなくである。
彼はしばらく足でをその辺をがさごそ引っ掻きまわしてから、おもむろにしゃがみこむと、地面を覆う落ち葉を掻き分け始めた。舞夜も恐る恐るその手元を覗きこむと、そこには一枚の鏡が横たわっていた。長円型の掛け鏡だ。ヒビ一つない新品同様に綺麗なものであるため、噂で聞いた、現場に破片を散らばらせていたそれとは違う物なのだろう。
しかし、何故こんな地面に捨て置かれているのだろう?
それ何、などちょこちょこ尋ねてくる舞夜の問いを無視しながら、紫苑はその鏡を手に取ると、一番手近な木に引っ掛けた。どういう仕組みで引っ付けたのか気になって舞夜が後ろを覗きこもうとすると、紫苑がようやっとその口を開いた。
「舞夜ってさ、お化けとか信じてる? 占いは? 運命は?」
「んー、あんまり」
舞夜は、自分がしっかり信じられると確証したもの以外について、存在しようがしまいがどちらでもいいと認識していた。つまり肯定も否定も特にせず、その一時の娯楽にだけ使うような、よくあるタイプの人間であった。血液型占いも星占いも怪談も運命論も、話題にはするがそれまでである。
紫苑は無機質な鏡面に、つるりと指先を滑らせた。
「……鏡の向こうには別の世界がある、と僕が語ったら、信じる?」
「分からん……」
それはずいぶん科学的でない、今どき娯楽にすらならないオカルトじみた意見に思えた。
しかし、舞夜は今この状況に恐怖を覚えている。
鬱蒼とした雑木林の中、時折吹きつける海風で葉擦れの音だけが波のように止むことなく鳴っている。お化けなんていないと、心霊現象なんて嘘だと理性が訴える一方で、不気味だと感じる心に、素直な恐怖心に、どんな理屈もあっけなく包まれて押し潰されてしまうのだ。
舞夜がそわそわしながらそのようなことを告げると、紫苑は「なるほどねぇ」と微笑んでみせる。その顔がどこか意地悪げに見えるのは、舞夜の勘違いではないだろう。
「昔、今ほど精巧でなかった頃でも、鏡は一種の神秘性を宿す存在だった。この世界を映しとるんだから、原理も分からなかったころは、それは不可思議な物だっただろうね」
紫苑は鏡を、裏拳でこんこんと叩いた。
確かに、と舞夜は思う。彼女が授業で使う、古代日本について写真の載った資料集では、しばしば勾玉などの装飾品や刀剣やらに混じって、鏡の存在が挙げられている。三種の神器の一つに八咫の鏡が存在していることなども、人が鏡に見た神秘性、霊性を象徴しているだろう。
他にも童話などの物語においても、鏡が不可思議な力を持っている例はよく見られる。
しかし、それはあくまで架空の物語の中のことである。
「もちろんここに、鏡の中の世界なんてないよ。中学理科だかで習っただろ? 反射とか対称とか、凸レンズの辺り。そうして理論で照らされて、人間にとって鏡は光を反射する物になった──」
唇を引き絞ったような変な顔の舞夜と、薄笑いを浮かべて堂々とした紫苑の後頭部が、鏡には映っていた。
その理屈は分かっている。紫苑の言ったとおり、反射だ。植物の葉が緑なのは緑色に見える光を反射して、それが人の目に届いているからだ。鏡は性質として、全ての光を反射する。だから、そっくりそのまま全てがこの目に映るのである。
さすがに教師がやけに熱心に語っていた詳細全てを覚えているわけではないが、舞夜でも教科書にあったこれくらいのことは語れる。
「原理、理屈、科学、常識──人の知識が移り変わり、夜が灯りで照らされるようになって、人にとっての怪異は消えた」
時の流れとともに積み重ねられてきた人の知識。無知、あるいは未知という茫漠たる影は、知識という枠組みを得て、その真の姿を露わにした。それこそ、神秘の夜闇が街灯に照らされていくように。
「――だけど、本当にそう思う?」
紫苑は口角を吊り上げる。その笑みが、言葉が、舞夜を捉える。彼女は己の瞬きをスローに感じた。不思議なくらいゆったりと、瞼に視界が覆われるような気がしたのだ。それこそ、一瞬だけだったが。
思わずほう、と感嘆の溜息が零れる。
「……なんかかっこいいこと言うなぁ」
「そこはそうじゃなくてさ、ちゃんと雰囲気に呑まれてくれよ。じゃないと語ってる僕が馬鹿みたいだろ!」
「ちゃんと呑まれとったよ」
小声で言い返す舞夜に、紫苑は白けた様子で首を振るばかりだ。それでもすぐ、まあいいか、と気を取り直したように続ける。
――鏡の向こうに世界はないのか、不運が続くのは偶然か、夢はいつかの意味を持たないか、金縛りは、耳鳴りは、ただの身体現象か。
「人はどれだけ理屈で諭されようと恐怖を捨てきることはできない。どれだけ明るかろうとその隙間に、或いは灯り自体に
紫苑は鏡を振り返り、そこに映った顔がにやりと歪む。なんとなく嫌な察しがついて、舞夜は思わず後ずさる。彼は見えているだろうにそれには何も言及せず、鏡面に力強く掌を押し付けた。
「だから、儲かる。理由の無い恐怖は終わらない。科学的根拠にいくら諭されようが、おぞましいものはおぞましい。気持ち一つの占い、偶然の連鎖、それから、自分が犯した罪とかね」
彼の言っていることが、分からないわけではない。しかし理解できるかと訊かれても、舞夜は何も答えることができなかっただろう。
無言のまま立ち尽くす彼女に、紫苑は鏡越しにであるが微笑みかけてやる。
「その恐怖をどうにかしてやるのが、僕の仕事だよ」
「……どうにかって、どうすんの?」
「どうするって。こうだよ、こう」
紫苑は素早くポケットから何かを取り出すと、そのまま躊躇なく鏡面に突き立てた。吸い込まれるように刺さった先端を起点に、鏡面に亀裂が走っていく。
ぎょっとする舞夜が、彼が身を引いたその手元に見たのは、波打つような輝き孕んだ刃先であった。
「ほ、包丁!? ちっちゃい包丁!?」
「
「ほんもの!? あ、あぶない! あぶない!」
「ちゃんと納めたよ」
「ちが、後ろ! 鏡から離れ……」
二人が喋っている間にもヒビ割れは止まらず異常な広がり方を見せ、まるで鏡一面に細かな蛇の鱗を敷きつめたかのようになる。その隙間から光が零れたかと思えば、あっという間に光線のようになり鬱蒼とした雑木林を照らしていく。
舞夜は咄嗟に腕で顔を覆うが、紫苑の様子が気になって隙間から彼の様子を窺おうとした。彼の学ランで黒い背中、そしてその向こうには――
鏡から伸びた、明らかに人外のものである、丸太のような腕があった。
(……ゆめ?)
のろのろ上半身を起こすと、妙に頭を重たく感じた。舞夜は自分の部屋のベッドに、まるで力尽きたかのような体勢で突っ伏していた。まだ時間に余裕があることを確認すると、再び枕に顔をうずめる。あっという間にまどろみに引きずられそうになるがそこは耐え、ぽつぽつと寝起きの頭で考えをめぐらせる。
寝ていた。夢だ。今起きた。しかし、夢と言っても、一帯どこからどこまでが夢なのだろう?
帝釈紫苑と友人になったこと。偶然出くわす度ちょくちょく語りあっていたこと。彼はぞっとする話ばかりしてくるのが少し困る。だけど、きっと友達だ。だから、市民公園で猫が多く死んでいたと聞いて、彼に教えたのだ。噂では、その辺りには鏡の破片が散らばっていたらしい。それで――。
(ちがう)
舞夜は身じろぎし、ようやっと体を起こした。
(夢じゃないし、
鏡が眩い光を放ったかと思えば、そこから丸太のような腕が伸びてきた。目を白黒させて座り込む舞夜をよそに、紫苑は至極あっさりそいつに何かを――退治をして、そのまま残された鏡の枠を抱えて揚々と帰宅していった。
紫苑は最後、どこか嫌味なくらい品良く舞夜に頭を下げた。
「このことはどうぞ御内聞に願います。――なんて、言いたきゃ言い触らしたっていいけど、誰も信じないと思うよ」
「普通に言い触らすなって言われたら、言い触らしたりしやんよ」
舞夜がやっとの思いでそう言い返すと、彼はふーんといまいち信用しあぐねているような顔付きで呟いていた。
それからも、紫苑との付き合いは更に続く。
しかしその思い出の輪郭はおぼろげだ。頭の中に閉じ込められているそれを追おうと念を入れるが、その断片すら次第に胡散していく。
しばらく眉間に皺を寄せて探っていたが、結局諦めて舞夜は溜め息をつき、ベッドに寝転がった。
ネムレス――顔剥ぎとの遭遇からしばらく。大方の記憶は戻ってきたのだが、紫苑と過ごしてきた記憶だけは未だ曖昧なままだった。それを一から思い出そうと昨夜からうんうん唸っていたのだが、結果そのまま寝落ちしてしまい、このザマである。
別に日常生活に支障を来たすわけではないが、それがどうにも気持ち悪いというか、舞夜にはしっくりこなかったのだ。
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