第15話 逢魔時

 掃除の時間。ゴミ捨てに出ていた舞夜は、早足で教室に戻ろうとする途中、男子生徒と肩をぶつけてよろけた。


「ご、ごめんなさい」

「や、俺こそ――あ、柊。大丈夫か?」


 はっとした顔で心配そうに舞夜を見つめるのは、隣のクラスの隆樹という少年だった。同じ中学校であったため言葉こそ交わしたことはあるが、互いのことは簡単な印象しか知らないような知人である。

 しかし隆樹は、その程度の知人の名(苗字だが)をわざわざ呼んで、おまけに丁寧に気遣うのだから、評判通りの人の好さだといえるだろう。

 彼は温厚篤実で聡明と、友人の多いタイプだった。


「怪我無い? 俺、よそ見しとって。ごめんな」

「あ、うん、大丈夫。こっちこそごめん」


 ふと、遠くから彼の名を呼ぶ少女の声が聞こえた。隆樹は舞夜にまた一言謝ってから、慌ててそちらの方へと駆けて行った。




 今まで舞夜が紫苑とだけ呼んでいた彼の名は、帝釈紫苑というらしい。本人のイメージに反してひどく頑丈そうだ。


「あ、帝釈くん」


 ちょうど彼が現れたため、舞夜は試しに苗字の方で呼んでみることにした。

 いきなり切り替えたりして距離を置きたいのかと思われたら嫌だったが、こう呼ぶ方が相応しい気がしたのだ。それに彼女も年頃であるから、気恥ずかしさも手伝って、寧ろ堂々と下の名前で呼んでいた方がおかしかったのかもしれないとまで思っていた。


「なにその呼び方」

「調べた!」


 というより、普通に図書の貸し出しをする際に出てくるのだ。個人情報も何もあったもんじゃないが、蔵書の行方を追うのに必要だししかたがないことなのかもしれない。

 紫苑も方法を彼女に問いかけたところで、その事実を察し、ああ、と頷く。


「フツーに紫苑でいい。そもそもウチ、帝釈じゃないしね」


 何気ない風を装ってはいるが、かなりの問題発言だ。お前は誰だという事態になりかねない。


「じゃあなに!?」

「イツキだよ。まず一鬼って書いてイツキで、そこから漢字だけ変えて樹。そこから文字どころか読みまで変えて帝釈」

「そういうのって大丈夫なん?」

「昔の話だからね」

「へー。なんか、すごい変わっとるね」


 変という意味でもそうだし、数段階飛び越えてしまったかのような変わりっぷりもおかしかった。漢字は変化する程度なら、在り得なくもない話だと思えたのだが。


あざなとか幼名とかいみなとか、本当の名前は決して教えないってあるだろ? あれだね。あれが行き過ぎて、もういっそ苗字すら隠してしまおうってやつ。我が御先祖ながらこじらせ過ぎだっての」

「ふーん」

「紫苑も本来なら片仮名だしねぇ。真名なら一鬼シオン……? いや樹紫苑か……? でもここまでくるとどれがホントなのか分かんねーよな! マジめんどい!」


(活き活きしとる……)

 舞夜は、実家に文句をつける彼の表情の輝きっぷりに、ツッコム以前に少しほっこりした。

 彼女の視点からすると、紫苑は、まるで対象と隔絶したかのような、酷薄とした物言いの多い少年だった。そんな不健康そうな彼がこうも心から溌剌と笑んでいるのに、そっと温かな気持ちになったのだ。内容はともかく。


「あ、樹紫苑やったらすごい植物って感じやねぇ」

「ああ。ウチは多いね……。別に植物が好きってわけじゃあ無いんだろうけど……いざという時相手に、色々とごまかしが利くんだろ。多分だけどね」


 彼がどこか遠い目をして話す内容は、正直舞夜にはあまり理解できなかった。

 冷静にみればかなり突飛な事なのだろうが、紫苑の泰然とした態度に巻かれるように、舞夜は自分を納得させてしまっていた。何より彼女にとっては、彼の荒んでいない一面を見たという安堵が大きかったのだ。


「じゃー今度から片仮名意識してシオンくんて呼ぶな。あ、内緒の方がいい?」

「なんでもいいよ、別に。名前ってさ、もう昔と違って一つだけで、しかも皆素直に表に出してるだろ? そういう時代だからね、そんなに重要じゃないんだ」


 湖に浅く張った儚い氷のような自嘲を口元に浮かべる紫苑だが、そんなこと初めて知る舞夜としては、へーと感心を込めて呟くくらいしかできない。


「帝釈くんて言うとさ、たいしゃっくんって感じやね。くが二個続くから言いにくいんかな? たいしゃっくん……借款?」

「まあ君からの呼び方なんて死ぬほどどうでもいいけどね! さて、それより今日は何の話をしようか。怖い話と不気味な話と嫌な噂、どれがいい? 前は花見についての嫌な噂だったから、別のがいいか」

「それシリーズ化されとんの? 雑談ならいいけどさ、私怖い話あんま好きっちゃう……。あれ、これ前も言わんだっけ」

「忘れた。じゃああんまり怖くない、雑学めいたのを一つ」


 自分のしたいことをする彼だ、口答えをしても無駄だ、と思いつつ、紫苑が窓の外に視線をうつすので、舞夜もつられたように外を眺める。


 二人が今いる高校は小高い丘の上に建っているため、他の建物や電線などの邪魔なく、空を一望することができる。さすがにもう放課後ということで日も西に傾いてきているが、空はまだ澄んだ青一面に染まっていた。


「君が帰る頃には、外はもう夕焼けだよね。夕日が沈んですぐの時間って、なんて言うか知ってるかい?」

「夕方?」

「もっとピンポイントに」

「夕暮れ?」

「考える気ねーだろ。黄昏だよ」


 紫苑はまるで楽しみに水をさされたかのように白けた顔をする。

 だからといって謝る気も無い舞夜は、聞いたことがある気がする、と曖昧な表情で頷く。あんまり真剣に耳を傾けて、後々ぞっとする話だったら嫌だからだ。

 しかし彼の言葉はやけにするする耳に入ってくるので、いつも気付かぬうちに聞き入ってしまっているのだが。

 ついでにその内容も中々興味深いのが、性質の悪いところである。


「黄昏時は、誰そ彼時――日が沈んだあと、ただ赤だけが夜空に残されているのをイメージすると分かりやすいかもね。闇に隠れて顔が見えない、相手が誰か分からない。誰そ彼、というのが由来らしいよ」

「でも、夜も暗くて人の顔なんて分からんのに、なんで夕方だけ誰そ彼なん?」

「僕に言われても知るはずないだろ。まあ、昔の人は夜中にうろうろと出歩かなかったんじゃない? 黄昏時――夕暮れ後くらいがぎりぎり外出時間だったとかさ。それで誰かと出くわす、と」

「はー、なるほどなぁ」


 互いに真相なんて知るはずもないが、舞夜の唐突な問いにこういう理屈がぱっと出てくるあたり、紫苑は頭の回転が速いのだろう。

 自分なんてぽかんと考えて終わりか、後でネットで適当に検索するくらいだからな、と舞夜は一人感心した。

 そんな彼女をよそに、さてここからが本番、と紫苑はいっそう笑みを深める。


「人と人の顔の判別すらつかないその時間。それこそ人じゃない、おかしなものが混ざっていてもおかしくはないよな?」

「え、何が?」

「さあ? それこそ尋ねるしかないかもな。黄昏時は不思議な時間で、そして、禍々しくも不吉な時間。別名、逢魔時とも呼ばれている。なによりも魔と遭遇しやすい時間帯だ。君も帰り道には、気を付けた方がいいかもね?」


 舞夜は石を飲まされたような気持ちで、無言のまま頷いた。


 実際、舞夜が下校を共にするため待たなければならない友人は、放課後遅く、活動できる時間全てを費やして部活に打ち込んでいる。そのため必然的に、二人の下校時刻はなかなか遅くなる。それこそ、紫苑が語ったような黄昏時まで。

 まだ日のあるうちに学校を出て、そのまま帰り道を歩いていると、落ちる夕日に伸びきった影が、そのまま闇に溶け込んでいくのだ。


「あ、ここまで言っておいてあれだけど、化け物より人間に、人間より車に注意した方がいいと思うぜ。なんであれ視界は悪いんだし」


 そっちの方がよほど問題、と言い切る紫苑に、舞夜はようやくほっと破顔した。


「うん。あ、もしなんかお化けとかおったとしても、霊感なんてないしなぁ」

 自分では気付く以前の問題だろう、とへらへら笑う舞夜を眺めていた紫苑だが、ふと思いだしたように自分の胸ポケットに触れ、そのまま口角を吊り上げた。

「……手、貸してくれる」


 いきなりの頼みに理由を尋ねるが、いいから、と押し切られ、舞夜は渋々両手のひらを彼に差し出した。

 すると紫苑は勢いよく引っ掴んで、ペンで親指の関節に寄った皺をなぞるように線を二本引き、その中心に黒い点を描きいれてきた。驚いて手を引っ込めようとするが、かたく握られているため動きやしない。

 それからすぐ次の手へ、舞夜が言及するより早く手慣れたようにちょちょいと描きこまれ、そのまま何事もなかったかのように解放された。


 我に返った舞夜が、満足げな彼からペンを奪い取って確認すると、普通に油性だった。


「何コレ」

「手相にかけるおまじない、みたいなもんだよ。……お、なかなか似合ってるじゃん」


 いつもと変わらない笑顔だが、絶対嫌味だと舞夜は確信した。そもそも許可なく人の手に落書きをすること自体が何コレといった感じなのだが。図書委員の仕事もあるというのに。


「どういうことなん……」

「点が目玉でこの線が瞼だとすると、目に見えるだろ? これで、君にも何かが見えるかもしれないね!」

「ええー、なんか汚いんやけど」


 結局まあいいか、と舞夜は流すことにした。そう騒ぎ立てなくても、別に手に些細な落書きされたところで死ぬわけでもない。

 それから紫苑に、ついでのように教えられたことだが、この手相はおかしなものが見えるだけでなく、直観力とか賢さとか、そういった意味も表すらしい。説明されたところで別に嬉しくもなんともないが。


 とりあえずトイレに寄って石鹸である程度落としてから、図書室へ向かった。

 すぐ洗ったためか、遠目には分からないほど薄れてくれたので助かる。

 これなら本に付着することも、誰かに指摘されることもないだろう。




 と、思っていたのだが。


 舞夜がカウンターでぼんやりしていると、今日ちょうど肩をぶつけてしまった隆樹が図書室を訪れた。借りていた本の返却に来たのだ。舞夜と目が合うと、にこっと愛想良く微笑む。舞夜も短く会釈を返した。

 そのまま返却の手続きをしていると、やけに視線を感じたので顔を上げる。彼はじっと舞夜の指の動きを見ていた。本に挟まった栞などがないか、ぱらぱらと捲っていたのだが。


「それ、どうしたん?」


 親指に描かれた目に気付いたらしい。かなり薄れたと思ったのだが。


「よく気付いたねぇ」

「んー、まあな。落書き?」

「なんか手相……の本見て、こう、描いても効果あるってあったから。この線あると賢くなるらしいよ。あ、書いたろか?」


 紫苑について隠したのは咄嗟のことだったが、友人関係であることはなんとなく内密にしているので、正しい判断だっただろう。

 舞夜がおどけると、隆樹は微かに笑った。


「女子ってそういうの好きやよな。でもそういうのって見えるとちょっとビビるからさ。……止めた方が、いいかもな」

「確かになぁ。うん、ありがとう」


 これ以上喋っていたら迷惑になるだろう。またねと話を切り上げると、隆樹もまたなと返して帰っていった。




 その後図書委員も無事終わり、舞夜は部活を終えた友人の美夏みかと落ち合った。しかしいつもと違い、何故だか表情が優れない。

 黙ったまま理由を話してくれるのを待っていると、昇降口を出てからしばらくのところで、美夏はどこか慎重な様子で口を開いた。


「今日…さっきなんやけどな、先生がちょっとだけ先に上がってってさ。先輩に理由聞いたら、なんか……誰か、身内の人が亡くなったんやって。喋っとるの、聞いたんやって」

「え、春山先生?」


 陸上部の顧問は、五十代の男性教師だ。上の学年の体育を担当しているらしいが、舞夜自身はあまり関わりがなかった。それでも色々と話には聞くし、全校集会などで見かけることもあって、顔と名前くらいは知っている。

 美夏はしょんぼり「うん」と頷いた。


「でも、体育の授業とか普通にあったよな? その、大丈夫なん?」

「分からん。でも、先生、ほんとずーっといつも通りでさ。なんか、なんやろ。変な感じ……」


 「あ」と美夏が声を上げたのでそちらを見ると、ちょうどその春山先生が車を出しているところだった。数歩下がって、車が校門から出ていくのを見る。金色の夕日が、フロントガラスをつるりと滑っていく。


 舞夜はその光に照らされた後部座席に一瞬、老婆の姿を見た気がした。


 えっと思って引かれるように振り返るが、もちろん影も形もない。幻か夢だろうかとも思うが、その老婆が眉尻を下げている様まで見えたのだ。目をしょぼつかせて曇らせた顔で、まるで貰われていく子犬――いや、それを見送る親だろうか。

 車が坂を下って行くのを見送ったところで、舞夜は尋ねる。


「……亡くなったんって、先生のお母さん? とか?」

「えっ分からん。でもやっぱり、家族の人なんとちがうかな……。あ、そういえば、お父さんはもうおらんのやったっけ」


 舞夜はぎこちなく頷く。知り合いの先輩が、舞夜らが入学する前の年にそういうことがあったのだ、と教えてくれたことがあった。確かその時はいきなり授業が潰れて、なんでだろう、と思ったのだとか。


「ということは、やっぱりそうなんかな。――なんか、寂しいなぁ。先生寂しくないんかなぁ」

「分からん……」


 舞夜のような高校生から見て、教職員というのは、とても立派に大人の姿をしていた。そんな、どれだけ強そうな人でも、やはり寂しかったり悲しかったりすると泣くのだろうか。それを支え、拭ってくれる人はいるのだろうか。

 思い返せば、大人の目に浮かぶ涙なんてテレビでしか見たことがない気がする。

 改めて考えると、それはずいぶんと説明しがたく、不思議なことのように思われた。

 舞夜は気付けば無意識に、自分の手の親指に触れていた。

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