第13話

結界破りの槍



 ノンノは、すでにタアタアンワに着いていた。キラウとオワツも、一時的に結界を解除してもらい、村に入った。

「ただならぬ気配は感じていました」

 ノンノの報告を聞いたハポさまは、全てを予期していたように見えた。

「大変な目にあいましたね。あとは私に任せて、あなたは、家族とのんびりしてなさい」

 ハポさまは本当に事の重大さを分かっているのだろうか? いいえ、ハポさまが「任せて」と言ったんだから大丈夫……きっとそう。拭いきれない不安を引きずったまま、ノンノは、ハポさまの小屋を出た。

「誰?」

 誰かが呼んでいる。言葉にならない声に導かれ、ノンノは、村はずれまで歩いていていった。結界の向こうに幻獣が来ていた。

「鬼たちは、我々の森を越えた。残念ながら足止めはできなかった。奴らには怖れるものがない」

 幻獣たちは、ノンノたちにしたように鬼たちが一番怖れるものの幻を見せて足止めする計画だったのだ。

「奴らは死さえ怖れていない。来世を約束されている。鬼神のために死ぬ覚悟ができている」

 ノンノは天を仰いだ。それはキラウが半ば予測していたことではあったが、わずかな可能性に賭けた。少しでも時間稼ぎをして、ホモイたちの到着を待ちたかったのだ。何か他に、いい方法はないの?

「そうだ! 怖いものがないなら、大好きなものを見せるっていうのは? 好きすぎて戦いなんか忘れちゃうもの」

 ノンノは会心の思いつきだと思った。幻獣は、自信なさそうに小首をかしげたが、それでも仲間のもとへと走り去っていった。

「案外、いい考えかもしれない」

 ノンノの背後には、いつのまにかキラウが立っていた。何人かの村人が、ノンノとキラウを見て、顔をしかめて通り過ぎていった。

「大丈夫?」ノンノはキラウのことが心配だった。「攻めてくる鬼たちの中には、お友達もいるんじゃないの?」

「軍隊から逃げ出したときに全て捨ててきた」

「キラウも怖いものはないの? 鬼神さまを信じているんでしょう?」

「自分が信じる神は、自分でみつける」

「で、見つかったの?」

「いや。だが、ともに生きたいと思う者なら」

「誰のこと?」

「よそう。言い過ぎた」

 キラウは背中を向けて逃げるように立ち去っていった。


 鬼たちが担ぐ輿に揺られながら、ヤテブは、天下制服の夢を広げ、ひとり悦に入っていた。掌中には、結界破りの槍がある。我が軍を妨げるものは何もい。さっきまでは。

 不思議なことに、ここへきて行軍の足並みがぱったりと止まった。道が狭くなっているとか、川が増水しているとか、そんなことだろうとヤテブは高をくくっていた。だが、それにしても時間がかかりすぎる。前線の方から何か報告があってもよさそうなものだが、それもない。様子を見に走らせた鬼も、戻ってこない。業を煮やしたヤテブは、自ら足を運ぶことにした。

 前線が近づいてくると、徐々に規律と緊張感が緩んでいくのが感じられた。その場に寝ころがってだらけていた鬼たちが、ヤテブの姿を見て、あわてて立ち上がった。それでも、更に前線の連中よりはましだった。やがて、ヤテブの耳に、手拍子と調子はずれの歌声が聞こえてきた。最前線の部隊が丸ごと酔っ払って大宴会の最中だったのだ。

「おまえたち、何をしている!」

 ヤテブの怒鳴り声も、荒ぶる鬼神のような顔も、彼らには聞こえないし、見えないようだった。それほど彼らはべろんべろんに酔っ払っていた。なのに酒甕ひとつ見当たらない。酒の臭いもしない。おかしい。何者の仕業だ? ヤテブは、神経を研ぎすましてあたりを探った。

「調子に乗るな!」

 ヤテブは、草むらに向かって槍を突き出した。槍先から青い閃光が走って、草むらに大きな火柱が上がった。小さな獣が、あわてて逃げ出すのが見えた。あとには、急に酔いから醒めた鬼たちが、わけも分からず立ち尽くしていた。

「何をボヤボヤしてる! 進め、タアタアンワへ」

 鬼たちは、こんな近くにヤテブがいることに仰天した。大あわてで隊列を整えると再び進軍を開始した。鬼たちが、もとの規律と士気を取り戻すのに、さして時間はかからなかった。


 地下道を飛び出すと、イクタラは、まっすぐピリカのもとに走った。どうか間に合ってくれますように、と願いながら。

「おお。戻ってきたか」

 横たわっているピリカの横には、仙人がいた。

「ピリカは?」

 イクタラが知りたいのは、そのことだけだった。

「応急手当はしといたがな。あとは、お嬢ちゃんで治療できるじゃろう?」

 イクタラは安心と同時に力が抜けた。倒れずにすんだのは、ホモイが支えてくれたからだ。

「そうだ! でも、鬼たちがタアタアンワへ」

 安心などしていられる場合ではなかったのだ。

「そうらしいの」

 仙人は落ち着き払っていた。いつものことだ。

「あの槍も、あいつらが持ってるし。今からじゃ間に合わない」

 イクタラは、ホモイと仙人にすがるような目を向けた。

「そうでもないぞ」

 仙人は、空に向かって指笛を鳴らした。その音は槍先のように鋭くて、イクタラとホモイの耳をキーンと突き刺した。余韻を長く残して天高く昇っていった。その行く先を仙人はまぶしそうに見上げている。イクタラとホモイも、空を見上げが、何も見えない。青々とした空に小さな雲がひとつ浮かんでいるだけだ。だが、見ているうちに、その雲が急に大きくなった気がした。いや、気のせいではない。実際、大きくなっていた。いや、大きくなっているのではなくて、地上に近づいているのだ。それも、ものすごい速度で。

 雲は、イクタラたちの目の前にふわりと降り立った。地面との隙間は、ほんの三センチほどだ。

「雲?」

 イクタラは、それだけ言うのがやっとだった。

「どう見ても雲に見えるじゃろう? だが、こいつらは雲じゃない。雲に似た生き物じゃ。いつもは、空の上で自由気ままに暮らしとる。本来、人間なんかにゃ馴れない連中なんじゃが、わしとだけは馬が合ってな」

 それは目も鼻も口もない、頭も尻も分からない、どう見ても生き物とは思えない代物だった。

「さあ、これに乗っていけ」

「乗れるんですか?」

 イクタラは躊躇した。乗るには、あまりにも頼りなげだったからだ。

「なかなか快適じゃぞ」

 仙人は、意識のないピリカを抱き上げると、雲に似た生き物の上に、乱暴に放り投げた。雲は、ピリカをふんわりと優しく受け止めた。イクタラも、それを見て安心して、雲に乗り込んだ。何だろう、この感じ? 手応えがないのに安心できる。誰かに優しく抱き締められているような感触。

「前から雲に乗ってみたいと思ってたんです」

「わしも昔、そう思った。それが仙人になるきっかけじゃ。遠い遠い昔の話じゃがな」

 ホモイとウバシも乗り込んだ。ホモイは努めて無表情を作っているように見えた。

「この子らを頼んだぞ」

 仙人が雲に顔を寄せて囁くと、雲は一気に上昇した。手を振る仙人も、鬼の穴も、みるみる小さくなった。耳が遠くなって大きな耳鳴りがした。下界を見下ろしていると、地上の魔力に引っ張られて、自分から飛び降りてしまいそうになる。だから、イクタラは、下を見るのは止めた。そのときになって初めて、自分がホモイの腕にしがみついていることに気がついた。あわてて手を放して、体を離して、気を失っているピリカを抱き締めた。ホモイは何も言わない。

空の上がこんなに寒いとは思わなかった。そのとき、温もりがやってきた。ウバシだった。ふたりの少女と狼が身を寄せ合って暖を取った。ホモイは雲が向かっていく方角を黙って見据えている。たぶん、おそらく、寒くないはずがない。


 鬼の軍隊は、結界の前に到達していた。千匹近い鬼たちが、十重二十重に連なってひしめいている。村人たちは、村の奥で息をひそめていた。

 結界の前は、這い出る隙間もない鬼の壁だ。その壁が真ん中で割れて一本の道ができた。その鬼の花道を通って、ヤテブが歩いてきた。

「出て来い、クソばばあ! ヤテブさまが帰ってきたんだよ! 何の歓迎もないのかい?」

 ヤテブの声は、風に乗って村の隅々にまで伝わっていった。その余韻が治まったころ、村の中から小さな人影が現れた。ハポさまだった。ハポさまは、亀の歩みよりもゆっくりと歩いてきた。ヤテブは、それを黙って見ていた。

 ようやくハポさまが結界の境界に到着した。

「とうとう小屋から出てきたか? 何年ぶりだい?」

「さあ、十年ほど前に一度出たような……。その前は、五十年くらい前だったか……」

「光栄だよ。私に会うために、わざわざお越しいただいて」

「私も、あなたに会えてよかった。生きていてうれしい」

「は! 嘘つけ!」

 ヤテブは、苦々しげに吐き棄てた。


 ヤテプはタアタアンワで生まれた。物心つくころには両親は死んでいて、彼女は伯父の手で育てられた。だが、その伯父は、ろくでもない男だった。虫の居所が悪いと彼女を殴り、彼女が泣くと更に殴った。幼い娘に山菜採りや魚釣りにいかせ、何もとってこれないと、やはり殴った。ヤテプは伯父のことを恨み憎んだ。殺してやると呪い続けた。

 その日も、伯父が振り上げた拳を見上げながら「死ね」「死ね」と念じていた。殴られるのは覚悟していた。いつもどおり目をつぶり、歯を食いしばっていた。でも、拳は降りてこなかった。伯父は胸をかきむしって、その場に倒れた。以来、彼女が殴られることはなくなった。伯父が寝付いてしまったからだ。

 ヤテプは伯父の世話と看病を続けた。伯父のことを愛していたからでも、かわいそうに思っていたからでもない。楽しかったのだ。胸の中で「苦しめ」「苦しめ」と念じるたびに伯父が血ヘドを吐き、のた打ち回るのだから。

 ヤテプは自由になった。これからは楽しいことしか起こらない。そう思っていた。だが、そうではなかった。いつの間にか、彼女が伯父を呪っている、という噂が広まっていた。誰も彼女に寄りつかなくなった。数少ない友だちだと思っていた女の子さえ。「ごめんなさい。ヤテプちゃんとは遊んじゃいけない、って言われて……」その子が走っていく先で彼女の親がこっちを見ていた。その突き刺すような冷たい視線を今も憶えている。

 ヤテプは十五になった。伯父は骨と皮だけになって死んでいった。ハポさまの使者がやってきた。

「苦労しましたね」ハポさまはヤテプを抱き締めて言ってくれた。「これからもっと辛い目にあわせてしまうかもしれないけど、信じていますよ。大きくなって帰ってきて」

 不覚にもヤテプの瞳から涙が溢れた。

 ヤテプと他の二人の少女の旅は、想像以上に過酷なものとなった。同行者の数は徐々に減っていった。ついには三人だけになった。それでも、同じ修羅場を乗り切るたびに三人の絆は深く、固くなった。ヤテプは、生まれて初めて感じた。これが本当の「友だち」というものなのだと。

 三人の少女は確実に成長していた。巫女としての能力も日増しに高まっていた。特にヤテプの力が。ヤテプの力は他の二人を圧していた。持って生まれた才能なのかもしれない。あるいは彼女の幼少期の過酷な環境のせいか。ヤテプは、吸収できるものなら何でも貪欲に呑み込んでいった。あとのふたりの少女との実力差は明らかだった。もし、三人でタアタアンワに戻れたとしても、巫女の座につくのはヤテプ。そうとしか考えられなかった。

「ヤテプが巫女になって」「私たちがそれを支えるから」

 二人は言ってくれた。ヤテプにとって、二人は「友だち」から「かわいい妹たち」になった。だから、度重なる魔物の攻撃から、ヤテプは必死になって妹たちを守り続けた。それが巫女としての使命だと思った。

 そして、イオチが現れた。イオチが率いる鬼たちの攻撃は、強力で執拗だった。ヤテプと二人の妹は協力して結界を張った。三人でなければ結界が持たなかった。鬼たちの攻撃でどんなに結界が揺れても三人ならば平気だった。だが、イオチは狡猾だった。

「なかなかしぶといじゃないか、女ども。だが、いつまでそうやって頑張っていられる? いずれは力尽きて、三人とも俺たちの餌食だ。だが、それじゃあ、かわいそうだ。俺は優しいから、二人だけは助けてやろう。最初に結界を張るのをやめた奴と、その次にやめた奴。その二人は逃がしてやる。早い者勝ちだ」

「あいつの言うことを聞いちゃだめ!」

 ヤテプは叫んだ。だが、すぐに分かった。結界がわずかだが薄くなったのが。それだけで十分だった。直後の鬼の体当たりで結界は脆くも崩れた。イオチの太い腕に組み伏せられたヤテプの目に駆け去っていく二人の妹の背中が見えた。二人は一度だけ振り返った。その目は、子供の頃に見た村人たちの冷たい視線と同じだった。結局、元のところに逆戻り。

 ヤテプは美しい戦利品として鬼の村に連れていかれ、イオチの召使いになった。気が利かないと足で蹴られ、泥をなめさせられた。屈辱の日々だった。だが、その屈辱をすすってヤテプの呪力は急速に増大していった。彼女は、もはや伯父に虐待されていた無力な少女ではなかった。イオチに服従しているふりをしながら密かに鬼たちの脳髄に呪いを注ぎ込んだ。哀れな戦利品は、いつしか鬼の国の女王になっていた。

 これまでの屈辱と忍従の日々は、この日のためにあったのだ。いま思えば、巫女として村を護ることに捧げる人生など、なんてつまらないことだろう。私には、手足となって、どんな苦役にも耐える鬼たちがいる。すべては私の思い通りになるのだ。もう誰も私を蔑んだり無視したりできない。いや、させない。すべての人間を私の足下にひざまずかせてやる。

手始めは、始まりの村タアタアンワ。私の惨めな幼い日々とともに、血の海の底に葬り去ってやる。


 ハポさまは、あの旅立ちの日と同じ顔でヤテプの前に立っていた。

「私は、あなたのことを忘れたことは、一度だってありませんよ。他のみんなのこともね。私のかわいい娘たちですから」

「そんなかわいいなら、なんであんな危険な旅に出した?」

「好きであなたたちを旅に出したわけではありません。心では泣いていました」

「そんなことを言って、本当は力のある子を外に追い出したかっただけじゃないのかい?

自分がいつまでも巫女の座におさまっていられるように」

「そんなこと、考えたこともありません」

「まあ、口では何とでも言えるさ」」

「あなたの望みは何? 私への恨みを晴らすことですか? それなら、私を殺せばいい。私は、もう生き過ぎました。だから、他の人たちのことは……」

「けっ! 生憎、あんたのつまらない命なんか、もう、どうでもいいのさ。私には、もっと大きな望みができたんだ。全ての村を屈服させて、この世界の女王になるんだよ」

「何のためにそんなことを?」

「あんたには分からないさ。こんなみすぼらしい村に一生しばりつけられてきたあんたにはね」

「どうやら、あなたは、思ったよりも遠いところに行ってしまったようですね」

 ハポさまは、哀しげな目でヤテブを見た。


 村の中でハポさまに一番近いところにいたのは、ノンノとキラウだった。それでも、ハポさまとヤテブの間に、どんな会話がなされているのか、知る術はない。だが、ぴりぴりした空気が、結界を震わせる音は聞こえていた。

「ね、聞いてくれる? ノンノは、ずっと怖がらないように努力してきたの。なぜだか分かる?」

 突然、ノンノが言い出した。

「いや」

 キラウには分からなかった。いま、彼女がこの話を始めた理由も。

「ノンノね、小さいころ、すごい怖い目にあったの」

 ノンノは、まだ五つだった。大きな子たちに連れられて、山にキノコを採りに行った。そこを流れ者の野盗に襲われた。野盗たちは、子供たちを人質に村から食料を脅し盗ろうと考えていた。だが、大きい子たちの思わぬ反撃にあって、彼らは逆上した。大きな子たちは、たちまち惨殺された。気づけば残ったのは、ノンノひとりだった。ノンノだけは人質に生かしておくつもりだったのかもしれない。だが、五つの幼子に、そんなことは分からなかった。

「ノンノ、怖くて怖くて、もう死んじゃうと思ったの。そのとき、ノンノの中で何かが壊れて……」

 それは凶暴な力だった。ノンノの中から飛び出した力は、あっと言う間に野盗たちの体を粉砕し消滅させた。それでも治まらずに、木々を薙ぎ倒し、岩を削り、村へ押し寄せた。小屋は瓦礫と化し、人々は、地面に倒され、押しつぶされそうになった。

 ノンノは、そのことを憶えていない。記憶に残っているのは、背後から彼女の肩を優しく叩く手があったことだ。それはハポさまの手だった。ハポさまは後ろから小さなノンノの体を抱き締めて、あの呪文を囁いてくれた。とたんに凶暴な嵐は、ぱたりと止んだ。ノンノは、ハポさまの胸の中ですすり泣いていた。

「だから、ノンノは、怖がらないことにしてるの。大変なことになるから。でも、もし結界が破れたら、ノンノ、もう一度、壊れると思う。でも、一度壊れたら、止める自信がないの。だから、そうなったら、みんなを傷つけそうになったら、ノンノを止めて。後ろからなら、なんとか近づけるらしいから。近づいて、ハポさまみたいに言ってほしいの。あの呪文を」


「この槍の先についてるのが、何だか分かるかい?」

 ヤテブが、青い石を陽の光にかざしながら意地悪く訊いた。

「聞きました。結界破りの石でしょう」

 表情を硬くしてハポさまが答えた。

「それじゃあ、私が何を考えてるか分かるね?」

 ヤテブは、わざと大袈裟に槍を掲げて、ハポさまを狙うように構えた。

「この村は、いただいたよ!」

 そう叫ぶと、ヤテブは、結界破りの槍を結界の向こうにいるハポさまに向かって突き出した。槍先が見えない壁にぶつかったところで青い閃光が散った。タアタアンワの結界は、粉々に砕け散るはずだった。だが、ハポさまも、手をこまねいて見ていたわけではない。隠し持っていた河童の石を、槍先に向かって突き出していた。石からも同じような青い閃光が走った。二つの衝撃波が、互いに干渉し、打ち消し合った。結界は崩れずに残っていた。

「くそ!」

 ヤテブの舌打ちが聞こえた。

だが、結界も無傷ではなかった。二つの石がぶつかったところに人の顔大の穴が口を開けていた。ヤテブとハポさまには、それがハッキリ見えた。

「臨終のときが少しだけ延びたようだね」

 ハポさまに背を向けたヤテブは、鬼たちに命じて穴の周りに整列させた。

「結界には、いま穴が開いている。おまえたちの力で、その穴をひろげるんだよ」

「何を考えてるんです? そんなことしたら、この鬼たちだって……」

 だが、すでに二匹の鬼が、ヤテブに指図されるままに結界の穴の縁に手をかけていた。とたんに青い火花が鬼の手からほとばしり、鬼たちは身をよじって苦悶の声を上げた。それでも、鬼たちは、苦痛に耐えながら結界の穴をひろげようとしていた。一匹が倒れれば、違う一匹が穴の縁に手を伸ばし、次から次へと鬼たちが結界に群がった。傷つき倒れた同胞の体を踏みつけて。

 ハポさまの耳には、結界に亀裂が入る音が聞こえた。当然、ヤテブの耳にも入っているだろう。はたして、結界は、いつまでもつだろう? 破れたときは、どうすればいいのか?ハポさまの頭には、何の妙案も浮かばなかった。


 イクタラたちを乗せた雲は、戦場を見下ろす丘の上に着陸した。乗客が降りると、無愛想な雲は、ただちに急上昇して本物の雲に紛れてしまった。

 丘の上からは、結界の前に群がっている鬼の大群が一望できた。死肉にたかるハエの群れにも見えた。

「どうしよう?」

 イクタラの声は悲鳴に近かった。

「まだ結界はもっているようだ」

 ホモイにも、状況をそのまま口にすることしかできなかった。

「すまん」

 二人の耳の中で誰かが囁いた。二人とも草の上でこんこんと眠っているピリカの方に目を向けた。だが、彼女であるはずがない。すぐに足下にいる幻獣に気がついた。

「あの娘に伝えてくれ。我々は精一杯やったと」

 イクタラには、「あの娘」がノンノであるということがすぐに分かった。幻獣は、一度は成功した足止め作戦のことを言い訳がましく語った。

「あなたたちは、よくやってくれたわ」

 イクタラは、慰めの言葉を幻獣にかけた。

「俺が行く。俺の槍を取り戻して、あの女を倒す」

 ホモイが、イクタラに言った。

「そんなの無理よ。あんなに鬼がいるのよ。とても、あの女のところまでたどり着けない」

「俺に考えがある」

「私も行く」

「ダメだ」

「偉そうに言わないで。私にだって、あなたを守るくらいの結界は張れるんだから。私が、鬼の攻撃を防いでいる間に、あなたが、あの女を倒せばいいでしょう?」

 ホモイは黙り込んだ。

 そのとき、丘の下から稲光のような光が走った。大きく亀裂の入った結界が、一瞬、浮かび上がるのが、ホモイとイクタラにもハッキリ見えた。しかも、亀裂は一本ではなかった。

「でしょう?」

 ホモイの目をまっすぐ見つめて、イクタラが繰り返した。

「そうだな」

 ホモイは、ようやくうなずいた。そして、幻獣に言った。

「もうひとつ頼んでいいか?」


 結界に亀裂が走る音は、ノンノとキラウのもとまで届いた。それは、時が経つにつれて大きくなり、聞こえる間隔が短くなっていた。

 ノンノはタメ息をついた。時間が近づいている。自分の中のずっと奥の方に閉じ込めた、あの怪物を解き放つときが。怪物を解き放ったあと、元の自分に戻れるだろうか?


 亀裂は、すでに結界全体に広がっていた。ハポさまには、それが見えていた。あと一、二回、鬼たちが力を加えればバラバラになって崩れるだろう。あの娘に頼るしかないか? ハポさまは、背後にいるノンノの存在に気づいていた。

 そして、ついにそのときがきた。新たに穴の縁に取りついた二匹の鬼が、悲鳴と雄叫びを同時に発して力を入れたとき、乾いた破裂音とともに結界が砕け散った。

「行け! もう、おまえたちを阻むものは何もない! 行って、村の奴らを食らい尽くせ!」

 槍を振り上げてヤテブが絶叫した。鬼たちは、土石流のように村の中へ雪崩込んだ。

 その鬼の奔流を、ハポさまは、ただ見送るしかなかった。村を覆う結界が破れた瞬間に、いち早く自分の周りに結界を張ったので、彼女は安全だった。けれど、安全な結界の中は、屈辱と自己嫌悪に満ちていた。

 あとは任せましたよ、ノンノ。

 そのノンノは、もうもうたる土煙を上げて押し寄せる鬼の津波を前に金縛り状態にあった。体も動かなければ、心も動かない。鬼たちがたてる地響きに髪の毛がそよぐだけだ。これを見て、キラウは、彼女の前に出ようとした。

「出ないで! 後ろにいて!」

 今までに聞いたことがない張り詰めた声が、ノンノの口から出た。キラウは、何も言わずにノンノの後ろに戻った。

 鬼たちは、すでにノンノたちから十メートルの距離に迫っていた。ひとつ呼吸をする間に、もう五メートルになった。鬼たちが手を伸ばせば、ノンノの首は、もうそこにあった。


 ヤテブは、とっくに勝利を確信していた。いま、自分が生まれ育った村が壊滅しようとしている。自分を過酷な運命に追いやったあの村。そして、鬼たちの生き神となった今となっては、打ち消したい過去でしかない村。私は、鬼の神、天下の支配者。気が弱くて、不器用で、かわいそうな思い出なんか、もういらない。それを知っている者は、幼い自分を不気味がりいじめた奴らは、この地上から誰一人いなくなる。輝かしいヤテブ帝国の歴史は、今この瞬間から始まるのだ。

 そのとき、手に持っている槍が何かに引っ張られた。見ると、一匹の鬼が槍をつかんでいる。

「何をしている?」

 高揚感に水を差されてヤテブが怒鳴りつけた。それでも、鬼は槍をはなさない。

「はなせ!」

 睨みつけて引っ張ったが、やはり、はなさない。

 その無礼な鬼の横から痩せたな小鬼が出てきた。

「このバカをどうにかしろ!」

 ヤテブは、その小鬼に命令した。だが、小鬼も従わなかった。それどころかヤテブの頬を思いっきり平手で殴った。予想外の出来事に、ヤテブの手が、わずかに緩んだ。そのすきに槍は奪われていた。勝利の興奮に目をくもらされていたヤテブも、ようやくおかしいと気づいた。こいつら鬼にしては腕力がなさすぎる。

「何者だ、貴様ら!」

 ヤテブの一喝が突風となって二匹の鬼に吹きつけた。幻の偽装が吹き飛ばされて、ホモイとイクタラの姿があらわになった。

「おのれ!」

 殺してやる、とヤテブは思った。だが、すぐに気がついた。ホモイは槍を持っていない。あの槍は、どこだ?


 鬼たちがたてる地響きにノンノは包囲されていた。彼女には、もう二つの音しか聞こえなかった。地響きの音と自分の心臓のたてる音。心臓の音は、最初、囁くほどだった。それが徐々に大きく強くなり、地響きに対抗するほどになった。やがて、鼓動が地響きを凌駕して、この世でただひとつの音になったとき、ノンノの中で小さな太陽が爆発した。目もくらむ光の粒の洪水が、鬼たちに襲いかかった。地面ごと引っぺがされた鬼たちは、空高く放り上げられた。つむじ風に翻弄される木の葉のように、なす術なく舞い踊った。そして、彼らが地面に戻ることは、二度となかった。みんな、小さな細胞のかけらとなって、どこかに吹き飛ばされてしまったからだ。

 そして、光の洪水は、次々と鬼の軍隊を呑み込みながら、村の外へと押し寄せていった。


 結界破りの槍は、ヤテブの背後の地面に突き刺さっていた。幻獣の幻が破られた瞬間にホモイが投げた槍は、ヤテブの右胸を貫いて大きな穴を開けていた。

「こんなことで私が倒せると思うなよ」

 それでも、ヤテブは生きていた。巫術と執念が、彼女の生命と体を維持させていた。

「私は、鬼の神だ!」

 ヤテブは、天に向かって吠えた。

 この女は、本当に鬼の神なの? イクタラは恐怖に体がすくんだ。

「私は死なない。死ぬわけがない」

 ゆるぎない信念が、ヤテブに力を与えていた。体に穴が開けられてもなお勝利を確信していた。だが、それゆえに背後に迫る光の洪水に気づくのが遅れた。ヤテブは、それが何かを知る暇もなかった。

 光の洪水に反応できたのは、イクタラだけだった。イクタラは、ホモイの腰に夢中で抱きつくと結界を張った。直後に光の洪水が全てを呑み込んだ。


 ノンノが力を解放した瞬間に、後ろにいたキラウは、光の圧力に吹き飛ばされていた。あまりにまぶしすぎて、ノンノの前方で何が起こっているのか、まったく見えない。確かにノンノより後方には、影響は少なかったが、それは単に比較の問題だった。ノンノの背後でも、大型台風並みの光が吹き荒れていた。村の小屋が吹き飛ばされて宙を舞っている。

 キラウは、大地に爪を立てて起き上がった。立っているのもやっとだが、前に進まなくてはならない。牙を剥き出し、歯を食いしばり、一歩ずつ進んだ。鋭利な光風に筋肉ごと剥ぎとられそうだ。腹の底から吠えたが、風の音で自分の耳にも聞こえない。吹きくる光風に拳を突きたて、かき分け、かき分け、キラウは進んだ。そして、ついに手が届いた。ノンノの小さな小さな肩に。

 キラウは、ノンノの体を背後から抱き締めた。壊れないように気をつかいながら。そして、約束の呪文を唱えた。光風に負けないように耳元で、大きな声で。

「大丈夫。もう大丈夫」

 嵐は止んだ。空から雪のように舞い降りているのは、砕け散った侵略者たちの成れの果てだった。

全てを出し尽くしたノンノは、キラウの腕の中で放心状態だった。もう、体を動かすことも、考えることもしたくない。

 そこへ結界を解いたハポさまがやってきた。雨上がりの太陽のような笑顔を携えて。

「成長しましたね、ノンノ。でも、もう少し修行が必要だわ」


「おい……おい」

 イクタラは、目をつぶってホモイにしがみついていた。そうしないと全てが失われてしまう。ただ、それだけを思って。

「もう、終わった……みたいだぞ」

 ホモイの声に、イクタラは、ようやく目を開けた。見えたのは、ホモイの大きな背中だった。そこから顔を上げていくと、抜けるような青空が見えた。季節はずれの「雪」が舞っていた。

 イクタラは、結界を解いた。でも、ホモイの体にしがみつくのを止めるのは、しばらく忘れていた。

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