第12話
鬼の穴
「おいら、何であんなことしちまったんだろう?」
オワツは、首をうな垂れて川面に映る自分を見下ろしていた。いつも以上に間抜けな顔に見えた。小石を拾って、その顔に投げつけた。粉々になった顔も、すぐに戻って元の間抜け面。すぐそばでは筏が揺れている。
「槍の力に負けたんじゃよ。力にとり憑かれて我を失った」
仙人が、頭の皿を軽く叩きながら、そう言った。
「ホモイは何で平気なんだ?」
「奴は、いつも、その力と戦っておるんじゃ。自分で意識しているかどうかは知らんがな」
「そういや、ホモイは、どこ行ったんだ?」
「いない。ウバシも一緒にいなくなっちゃった。たぶん、鬼の穴に向かったんだと思う。キラウに、どこにあるか聞いてたっていうし」
答えたのはノンノだった。出血で朦朧としていたオワツは、その間の事情が分かっていない。
「あんたに頼んだこと分かってる?」
不安を覚えたピリカが訊いた。
「ああ、分かってる。ノンノとキラウを新しい河童の村まで連れていけばいいんだろう。それから、大ナマズで、あんたらの村まで送っていく。鬼が攻めてくるのを教えるために?」
「分かってるじゃん」
「で、あんたは帰らないのか?」
「帰らないよ。だって、彼女をひとりにできないじゃん」
ピリカは、イクタラの方を見た。彼女は、キラウに鬼の穴の場所を訊いているところだった。
「本当に俺は一緒に行かなくていいのか?」
キラウが念を押した。
「うん。タアタアンワの結界が破られたら、頼れるのは、あなたしかいないと思うから。鬼たちを説得してヤテプの巫術から解放してあげて」
「でも、できるかな、俺に……」
キラウは自信がなかった。仲間の、いや、仲間だった鬼たちに会うことを恐れていた。
「大丈夫。ハポさまもいるから。ハポさまが、きっと導いてくれる」
「だといいが」
イクタラも、そう思った。
ホモイは急いでいた。行く先は、もちろん鬼の穴だ。足下にはウバシがつき従っている。ホモイの手には、奪われた槍の代わりに二メートルほどの黒光りする武器があった。
「一角という獣の角じゃ。北の寒~い海におるやつでな。死んだとき、形見代わりにもらっておいた」
仙人が、手渡すときに、そう教えてくれた。誰にも告げずに旅立とうとしているところに、どこから嗅ぎつけたか、ふらりと現れたのだ。
「ダッキは手強いぞ。心の弱さにつけ込んでくる」
仙人は忠告してくれた。
「どうしたらいい?」
「ずいぶん弱気だな。珍しい」仙人は微笑んだ。「心の声に耳を傾けることじゃ。腹がすいたとか眠いとか、そういう声じゃないぞ。もっと奥の方から聞こえてくる声じゃ。そういう声は、一生のうちに一度か二度しか囁かん。それ以外の声は、どうでもいい。もし、その声が囁いたら、迷うな。従え」
「何を言ってるのか分からない」
「ま、いい。そのうち分かる。特に、いい女に出逢ったときはな」仙人は優しくホモイの肩を叩いた。「おっと、最後のは蛇足じゃった」
歩き続けるホモイの頭の中で、仙人の声が、まだ繰り返し聞こえていた。でも、やっぱり何のことやら分からなかった。
ノンノとオワツとキラウは河童たちのいる沼にたどり着いた。オワツが水底に向かって合図をすると、長老と側近が顔を出した。
「それは大変じゃ」
キラウが悪い鬼じゃないことから始めて、ことの経緯をオワツが説明すると、長老は、一見落ち着き払って言った。
「大ナマズの用意を、すぐにさせよう」
側近の一人にそのことを命じた長老は、別の側近に何やら耳打ちした。二匹の側近は、沼の底に潜っていった。
「あなたに渡したいものがありましてな」
ほどなく二匹目の側近が戻ってきた。その手には、河童族の宝、あの青い石があった。
「これを持っていってくだされ。あなた方が持っていた方が役に立つじゃろう」
長老の手から石を受け取ったノンノは、感動で目が潤んだ。
「ただし要返却ですぞ。必要がなくなったら返してくだされ」
イクタラとピリカは、ホモイのあとを追って急いでいた。
「やっぱり、どっかに消えちゃったね、あの仙人」
がっかりしたようにピリカが言った。内心、ついてきてくれるんじゃないかと期待していたのだ。実は、出発前に二人は頼んだのだ。一緒に来てくれと。
「自分のことは自分でやれ」答えは、予想外に冷淡だった。「わしは世の中から隠居した身じゃからな。あまり現役の者に干渉したくないんじゃ。わしが手助けしすぎると、お嬢ちゃんたちの修行にならんからの」
「これは修行じゃないでしょ!」
ピリカはムッとした。
「お嬢ちゃん、人生、お墓に入るまでが修行じゃぞ」
結局、仙人は、また、どこかに消えてしまった。
二人は、言葉少なに道を急いだ。話題の種は、とうに枯渇していた。
「イクタラさ、ひょっとして巫女の座、諦める気?」
さっきから背中しか見ていないイクタラに、ピリカが話しかけた。
「そんな気ないよ、全然」
「あっ、そう。なら、いいんだ」
あたりの景色は、徐々に荒涼としてきた。緑と灰色の割合が逆転し、寒色の世界に入りつつあった。
「ピリカ、あのこと、まだ根に持ってるの?」
久しぶりにイクタラの方から話しかけてきた。
「何のこと?」
「仙人さまの山で私が言ったこと。ピリカが、あのひとを私に押しつけようとしてる、って言ったこと」
確かにイクタラは、そう言った。ピリカが、ホモイを自分に押しつけて、巫女争いから脱落させようと企んでいるんじゃないかと。
「根になんか持ってないよ」
「そう」
「少しは本当のことだったから」
「……」
「少しよりは、もう少し」
「……」
「私って、そういう女なんだ」
黙々と歩き続ける二人の前には、ガサガサした岩肌の道が続いていた。
ノンノたちは、すでに大ナマズを降りていた。ここからは徒歩でタアタアンワまで向かわなくてはならない。
「待って。ここの森、見覚えがある」
ノンノの声にキラウとオワツも立ち止まった。そこは、ノンノたちが、最初に一夜を過ごした幻獣の森だった。
「おーい! 元気? 久しぶり~!」
ノンノは、森の中に向かって大声で呼びかけた。高い木の上で一瞬ざわめきが起こり、それが樹から樹へと伝達されていった。
「ノンノは、今から村に帰るの~! 鬼の軍隊が襲ってくるから、それを知らせなくちゃいけないの~! たぶん鬼たちは、この森にもやってくるわ~! だから気をつけてね~!」
キラウにもオワツにも、彼女が誰と話しているのか分からなかった。
「さ、行こう」
ノンノが、そう言って再び歩き出そうとしたとき、足下に小さな生き物が三匹、飛び出してきた。それは、一見、フサフサの毛に覆われたウサギのように見えたが、耳は長くなかった。顔は猿に似ていたが、額にもう一つ目があった。
「で、我々に何をしろと?」
幻獣は、頭の中に直接、言葉を注ぎ込んできた。
「何をしろ、ってわけじゃないけど」
そう言われてノンノは困った。
「できれば鬼たちを追い返してほしい」
オワツが割り込んで言った。幻獣たちは、なにやら仲間だけで緊急会議を始めた。議論は白熱しているらしい。
「でなきゃ、足止めするだけでもいいんだけど」
見かねてオワツが付け加えた。
鼻を圧する硫黄の臭いが、鬼の穴が近いことを告げていた。黒々とした溶岩に埋め尽くされた生命を拒絶した世界。ときおり噴き上がる熱泉が、大地がたてる寝息のように響くだけだ。ホモイは、体を前に傾けなければ進めないほどの坂を、一角の角を杖代わりに登っていた。登り切ったところに鬼女エンレラが待っていた。
「そろそろ来るころだと思っていたよ」
エンレラのあとについて擂鉢状の火口を下ると、石斧で切った傷口のような亀裂が、不気味な笑みを浮かべて待ち構えていた。中に入ると、エンレラのもとに鬼火が二つ飛んできた。その鬼火に導かれながら、ホモイは、蟻の巣のような迷路を進んだ。地下道の中は意外に明るい。鬼火の明かりを映して、岩肌に張りついた苔が緑色の光を放つからだ。それにしても、エンレラ以外、鬼の姿を全く見ない。ホモイは、そのことが気になった。
地下道は、やがて開けた空間に出た。溶岩が地下に穿った天然の大伽藍。くすぶる溶岩が、闇を赤く焦がしている。その明かりに照らされて一人の女が立っていた。あの槍を持っていた。
「ヤテブさまだ」
跪けと言わんばかりにエンレラが言った。
鬼の神ヤテブは、まったく普通の女に見えた。ただ、その瞳に冷たい炎を宿している。
「槍を返せ」
ホモイは一言だけ言った。
「そうはいかない。せっかく手に入れた御宝だもの。でも、おまえが私の手下になるというなら返してあげてもいい。それなら私のものと同じことだから」
「なぜ俺なんかを?」
「おまえの中に魔女の血が流れているからさ。頼りになる戦士は何人いても困らないからね」
「いやだと言ったら?」
「それは考えていない」
ヤテブは自信満々だった。
「おまえも、おまえの母親も、愚かな人間どもに虐げられ続けてきたんじゃないのかい?
おまえたちをいじめ抜いてきた奴らを見返してやりたいだろう? 同じ目にあわせてやり
たいだろう?」
「俺たちをいじめた奴らは、みんな死んでしまった」
「だが、人間なんて、所詮みんな同じさ。おまえが何者か知れば、怖れ、殺そうとする」
「おまえだって人間じゃないのか?」
「私は、とうに人間を捨てた。今では立派な鬼の神だ」
「俺には関係ない。そんなことは、どうでもいい」
「母親が聞いたら悲しむぞ」
「母親は、もういない」
「それはどうかな」
ヤテプの目がいやらしそうに笑った。
「ああ、私の坊や」
その声はホモイの背後から不意打ちで聞こえた。記憶の片隅にこびりついていた声だった。振り返ると、目の前に母が立っていた。遠くでウバシが激しく吠えている。だが、その声は、だんだん遠くなって……。
ホモイに半日ほど遅れて、イクタラとピリカも、火口の中に到達した。急な斜面を登ってきたので大腿筋が千切れそうだ。口から出るのは、荒い息づかいばかりで、しばらくは声も出なかった。
「やっぱり、あんたらもやって来たんだね」エンレラが、小高い溶岩の丘から見下ろしていた。「でも、二人だけなの? な~んだかがっかり」
「ホモイをどうしたの?」
イクタラは、乾ききった喉から声をしぼり出して叫んだ。
「ふん。今ごろ、母ちゃんのオッパイでもしゃぶっているだろうさ」
「なに言ってるの、こいつ?」
ピリカが苦々しげに吐き捨てた。
「生憎、あんたらの知っているあの男は、もういないだろうよ」
イクタラにもピリカにも、ホモイの身に何か悪いことが起こっていることだけは分かった。
「どいて!」
イクタラが目一杯の声をぶつけた。
「どくわけねえだろうが、バーカ!」
エンレラは、溶岩の上から二人に向かって舞い降りた。両手の爪が一気に伸びた。その鬼女めがけてピリカが念波を発射した。これを空中で身を捻ってかわしたエンレラは、着地するやピリカに突進した。ピリカは、まだ二発目の念波を撃てる体勢ではなかったし、鬼女の爪に対して全くの無防備だった。だが、エンレラの爪は、ピリカを切り裂けなかった。その前に割り込んできたイクタラが、結界の壁を張っていたからだ。爪を受け止めた衝撃で結界は粉々に打ち砕かれたが、体勢を整え終えたピリカが、二発目の念波を発射した。エンレラにとっては間一髪だった。のけ反ってかわしたエンレラは、宙返りして溶岩の丘に戻った。
「二人で一人前ってことかい」
言いながらエンレラは、目を細めて舌なめずりをした。
エンレラが再び舞い降りた。今度は、二人の横に。そして、鬼一番の快足を活かして、二人の周りを旋回しだした。二人は、鬼女のあとを必死に目で追った。だが、速すぎる。エンレラの姿は、もはや黒い影にしか見えない。残像なのか本体なのかも見分けられない。一瞬でも見失うと二人に向かって飛びかってくる。そのたびにイクタラが結界の盾で防ぎ、ピリカが念波を撃つのだが、危機一髪の連続だ。いつしか二人の手も顔も、かすり傷だらけになっていた。それに対してエンレラには、ピリカの念波をわざと紙一重でかわす余裕すらある。
「ピリカ、キラウと初めて逢ったときのこと憶えてる?」
イクタラに言われてピリカは思い出した。結界の網に囚われた哀れな鬼の姿。
またもやエンレラが襲いかかってきた。イクタラが、結界の盾で爪を受け止めた。結界は一瞬で消えた。だが、次の瞬間、イクタラがしゃがむと、背後にいたピリカが発射した。念波ではなく結界の壁を。これを予期していなかったエンレラは、壁の一撃をまともに食らった。火花に包まれた鬼女は、悲鳴を上げながら黒い大地に叩きつけられた。
「やった!」
双子のように二人は同時に叫んだ。だが、ピリカは、イクタラほど喜んでいなかった。
「止めを刺す」
そう言って、ピリカは、倒れているエンレラのもとに走った。
「気をつけて!」
だが、不安を感じてイクタラが叫んだときには、もう遅かった。いきなり伸びたエンレラの爪が、ピリカを突き刺して、溶岩の小山に叩きつけていた。磔にされたように、ピリカは、身動きひとつできなかった。鬼女の爪は、脇腹に深く突き刺さっている。エンレラは、爪を縮めながらピリカに近づいていった。
「とうとう捕まえた~」
舌がピリカの鼻をなめそうなくらいに近い。硫黄臭い息が顔にかかった。
「ピリカ!」
イクタラの叫び声が、ずいぶん遠く聞こえた。
「さあ、今度は、あんただよ」
右手の爪でピリカを捕らえたエンレラは、左手の爪をイクタラに向けた。イクタラめがけて爪が伸びる。あわててイクタラが結界を張った。だが、その必要はなかった。鬼女の爪は、イクタラの遥か手前で動かなくなった。
「くそ!」
忌々しそうなエンレラの舌打ちが聞こえた。爪が伸びきらない原因はピリカだった。エンレラの左手の甲に念波を集中していたのだ。
「小賢しい真似を」
エンレラが、脇腹に刺さった爪を更に奥へと突き刺した。ピリカの苦悶の声が、黒い大地を渡っていった。
「ピリカ!」
イクタラには叫ぶことしかできなかった。
「行って!」
苦しい息をより合わせてピリカも叫んだ。
「ここは私に任せて! あなたは早く行って!」
「でも」
「あんたは巫女になって村を護らなきゃいけないの! こんなところで死んじゃだめ!」
「でも、ピリカだって」
「私はダメ! 私は、いやな女だもん。ひとの幸せを素直に喜べないような女なの! 私みたいな奴が巫女になったら、きっとホモイの村のあいつみたいになっちゃう!」
「そんなことない!」
「あんたなら大丈夫! あんたなら、いい巫女になれるから! だから行って!」
イクタラは迷った。でも、今の自分に何ができるだろう?
「すぐ戻ってくる! ホモイを連れて」
イクタラは走った。後ろを振り向いている暇はない。
「待ちな!」
エンレラは爪を伸ばして捕まえようとした。だが、ピリカの念波が、まだ邪魔をしていた。
「ずいぶん友達思いだね。友達のために死のう、っていうのかい?」
「誰が死ぬもんか」
だが、ピリカには顔を上げる力も残っていなかった。
「そんな強がりは、自分のザマを見てからいいな」
「あんたこそ、自分の状況が分かってないんだね」
「なんだって?」
ピリカは、最後の力を振り絞って顔を上げた。まっすぐにエンレラの眉間を睨んでいた。
「この近さなら外さない」
ピリカの眉間から伸びた光の槍が、エンレラの眉間を刺し貫いた。鬼女は、棒のように後ろに倒れていった。
爪が抜けると傷口から一気に血があふれ出した。血液と一緒に生命も流れ出ているみたいだった。もう、痛みもなにも感じない。短い人生の中で出逢った人たちの顔が、矢継ぎ早に走り過ぎていく。私は幸せだった? まだ、果たせずにいる夢もたくさんあるのに……。でも、けっこう頑張ったよ、私。
「ま、いいか……」
ピリカは、静かに目蓋を閉じた。
ホモイは、自分の過去を繰り返し生きていた。母とともに過ごした短くて幸せな日々を。最後には、いつも母の悲惨な死で終わる物語を。ホモイは、いつも何もできずに、ただ見ているだけだった。そのたびに、激しい悲しみと怒りに、身は八つ裂きになった。炎の中から、いつも母は何かを伝えようとしていた。それは、はじめ声のない口の動きに過ぎなかったが、繰り返されるうちに、だんだん大きくはっきりと聞こえてきた。
「復讐して。虫ケラのような人間たちを、おまえの力で踏みつぶして」
憎しみが頂点に達したとき、ホモイを金縛りにしている鎖が切れた。ホモイは、村人たちの真ん中に飛び込んでいた。手には、あの槍があった。あとは、突いて、突いて、突きまくった。返り血がホモイの体を真っ赤に染めていった。それでも、残ったのは、満たされない気持ちだけだった。あと何人突き殺せば気が晴れるのだろう?
そして、ホモイは、また物語の振り出しに戻っていった。
イクタラが地下道に入ったとき、飛びかっていたのは、コウモリではなく鬼火だった。
鬼火と光る苔が照らす地下の世界は、道しるべもなく、四方八方に向かう天然の通路は、どれも深い闇の底へとつながっているように見えた。
どこ? どこにいるのホモイ?
そのとき、地下道に反響するウバシの鳴き声が聞こえた。どこか遠く、地の底の方から聞こえている。イクタラは、その声を頼りに闇の中を進んだ。
地底の大伽藍にたどり着くと、最初に目に入ったのはホモイの姿だった。いつもと違っている。半分眠っているような目で、微風に揺れる葦の葉のように揺れている。足下でウバシが懸命に吠え続けているのだが、まったく聞こえていないらしい。
ホモイと向かい合って一人の女が立っていた。ヤテブだ。イクタラは、キラウの記憶をのぞいたときに、その顔を見ていた。そのヤテブが、ホモイの槍を持って、無防備なホモイを目の前に残忍な笑みを浮かべている。ホモイの足下にも槍らしいものが落ちていたが、イクタラは、それが一角という獣の角だとは知らなかった。
「ホモイ!」
イクタラはホモイの元に走り寄った。何度も名を呼んだ。両肩をつかんで揺すった。でも、ホモイの目はイクタラを見ていない。目の前にいるのに。
「ホモイに何をしたの?」
振り返るとヤテプが冷たい目で見ていた。
「ちょっとばかり思い出に浸ってもらっているのさ」
「すぐに止めて!」
何をしているのか分からないが、やめさせなくては、とイクタラは思った。
「思ったよりしぶといけど、そろそろ私のものだ」
そう言うと、ヤテブは、大きく両腕を開いてホモイを呼んだ。
「さあ、母さんの胸の中に飛び込んでおいで。これからはずっと一緒だよ」
さっきまでのヤテブの声とは別人だった。頬を撫でる春風のような、なかなか抜け出せない朝の寝床のような温もりを持った声。ホモイは、温もりに誘われるように一歩踏み出した。
「騙されないで! そいつは、あなたのお母さんじゃない!」
だが、イクタラの声は、ホモイの耳には届かない。尚も歩み続けて、ヤテブの目の前に立った。
「やめて~!」
イクタラの声は虚しく洞窟に反響した。ホモイはヤテプの胸の中に飛び込んだ。イクタラが生身の母の胸にそうしたかったように。
ホモイの顔には、初めて見せる至福の表情があった。一方、ヤテブの顔には、勝ち誇った満足の笑みがあった。それを見た瞬間、イクタラは、膝の力が抜けて両手をついてしまった。悔し涙が冷えた溶岩を濡らした。
ホモイは、母と二人だけの世界にいた。懐かしい温もりに抱かれて、もう何もいらないと思った。母さんと一緒にいれば、もう何も心配ない。母さんの言うことさえ聞いていれば。
「だまされないで!」
その声は、胸の深いところから浮上してきた。聞き覚えのある、忘れてはいけない大切な声。
「だまされないで。イムケ!」
イムケ。それは、記憶の果てに置き去りにしてきた名前だった。もう二度と使うこともないと。この名を声にのせて呼んだ者は、この世にただひとり。もう帰ってこない、あのひとだけ。
ウバシは、まだ、やかましくしく吠え立てていた。
そう。ウバシは、まだ諦めていない。私だって、まだ闘わなくては。イクタラは立ち上がった。転がっている一角の角を拾い上げた。
「ほ~。敗北を認めないんだね」
ヤテブは、鬼の声でつぶやいた。
「あの女が母さんをいじめるんだよ。どうする?」
ホモイの耳元で囁く声は、紛れもなく母親の声だった。
ホモイは、ゆっくりとイクタラの方を向いた。何の表情もない木彫りの顔だった。
「どいて! その女の前から」
イクタラの目から、また悔し涙があふれた。だが、ホモイはどかなかった。それどころか、イクタラの方に近寄ってくる。
「どいてったら、バカ!」
一角の角の先は、真っ直ぐホモイの胸に向けられていた。でも、そこから角を動かすことができない。ホモイが角をつかんだ。イクタラの手から角が引き抜かれそうになった。
「よこせ」
その声の響きがイクタラの拳を緩ませた。気がついたときには、角はホモイの手に渡っていた。
「その女を串刺しにしておやり」
鬼の声と母親の声が、同時に叫んだ。ヤテブの顔に勝利の笑みがひろがった。だが、それは、すぐに凍てつき固まった。
「そんなバカな……」
ヤテブは、信じられないという顔で自分の腹を見下ろした。一角の角が突き刺さった腹は血にまみれていた。
ヤテプの視線が疑問の答えを求めてさまよっている。そして、見つけた。
「くそ! そんなところに隠れていやがったのか……」
前のめりに倒れたヤテブは、顔を上げて、そう唸った。その視線の先を追ったイクタラには見えた。最早、吠えてはいないウバシ。そして、その上に漂うホモイの母の姿が。
「ウバシが……お母さん?」
母は、唇に人差指を当てて微笑んだ。
「何だって?」
ホモイが振り向いたときには、母は、もう消えていた。ウバシが見つめ返しているだけだ。
「ううん。何でもない」
イクタラは、しらを切った。ウバシの目が、笑ったような気がした。
「でも、やったわ。ヤテブを倒した。これでタアタアンワも安心だわ」
イクタラが洞窟中に響く声で叫んだ。
「いや、違う」
ホモイの声は冷めていた。ヤテブの横で、結界破りの槍が塵になって消えていくところだった。ヤテブの体も消えて、代わりに瀕死の狐が横たわっていた。九本の尻尾を持つ狐が。
「今ごろ、ヤテブさまは、あんたの村を攻撃してるよ。あの槍でね」
最期のときに至っても、狐は、相手を屈服させることに貪欲だった。
「初めからだますつもりだったのね」
イクタラの言葉に、狐の口が、うれしそうに笑った。
「そうさ。あの槍を返す気なんか初めからない。私の役目は、この男をモノにすることさ」
「ひとつ聞いておきたい。あのアマメチという女は、どうした? とり憑いて殺したのか?」
一角の角を突きつけながらホモイが訊いた。
「つまらないことを訊くもんだ。あんな女、初めからいなかったのさ。村のバカどもは、私の暗示にかかって、いると思い込んでいただけさ」
「そうか」
それだけ言うと、ホモイは、一突きで狐にとどめを刺した。
「仇は討った」
ホモイはオワツとの約束を果たした。
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