第10話
白き雪の砂漠
雪のように白い砂が続く荒野だった。生えているのは、砂の中から必死で虚空に腕を伸ばす枯れ木ばかり。生き物の気配がない、死に絶えた砂漠。そんなところで野宿をすることになった。だが、砂の粒が月光を反射して、雪明りならぬ砂明りが夜を照らす。闇に包囲されたいつもの野宿と違い、どこか安心感があった。
長い旅の間に、各々が座る位置は、おおむね決まってきていた。イクタラとピリカは、やや距離をおいて並んで座り、ノンノは大きなキラウのそば。オワツは、これまで三人の少女の誰かにしつこくまとわりついては邪慳にされてきた。でも、今はアマメチの隣にべったり張りついている。そんな彼らと更に距離をおいて、炎の明かりと闇のはざまにホモイがいた。そのホモイのそばには絶えずウバシが控えている。いつもと変わらぬ、おなじみの光景。だが、今夜は、ちょっと違った。
「ホモイさん、お願いがあるんですけど」
アマメチがホモイのそばに歩み寄って、そう言ったのだ。オワツの目が不安そうにアマメチのあとを追っていた。イクタラとピリカも、ホモイの方に目をやった。
「私に槍の使い方を教えてください」
アマメチの声は真剣だった。
「なんでだ?」
暗がりの中でホモイの唇が動いた。
「私にはイクタラさんたちのような不思議な力はありません。みなさんに守られてばかりで迷惑になるばかりです。せめて槍でも使えるようになれれば」
返事はなかった。ホモイは考えているようだ。
「槍なんか習うことないよ。俺が、いつでも守ってやるからさ」
そう声を張り上げたのはオワツだった。アマメチのすぐうしろまで来ていた。
「それが頼りないから言ってんじゃないの?」
火のそばからピリカが突っ込んだ。
「何だと!」
目を吊り上げてオワツが怒鳴った。
「私、守られているばかりじゃ、辛いんです」
アマメチが水かきのある手を握って訴えた。
「だけど……」
オワツの怒りがへなへなと萎れていった。
「分かった。教えてやろう」ホモイが暗がりの中から顔を出した。「そこの枯れ枝を取れ」
「ありがとうございます」
ホモイは、落ちていた枯れ枝を手にしたアマメチに槍の突き方を教え始めた。
オワツは、すごすごと焚火のそばに引き返した。膝を抱えて炎をじっと見つめている。他の者たちも、しばらく二人の稽古を眺めていたが、やがてそれぞれの物思いに返っていった。
「イクタラも教えてもらえば?」
からかうようにピリカがイクタラに囁いた。
「ピリカこそ。ああいうの好きでしょ?」
「私には弓があるもん」
それっきり二人とも焚火の方に目を向けた。背中でホモイとアマメチの声を聞きながら。
砂漠を蒼白い月が照らしていた。砂明りの夜がしーんと冷えて、妖しく輝いている。
その眩しさに当初、安眠を妨げられていた七人と一匹も、今は深い眠りについている。聞こえるのは、静かな寝息といびき、ときどき焚火の火がはぜる音。
イクタラは月光の下で目が覚めた。誰かに呼ばれた気がしたのだ。夢を見ているんだと思った。夢の中で彼女は立ち上がっていた。体がゆらゆら揺れている。気がつくとアマメチも立ち上がっていた。同じようにゆらゆら揺れている。イクタラの足が、歩く気もないのに歩き出した。体がいうことをきかない。誰かに呼ばれている。声が聞こえないのにそう感じた。イクタラとアマメチは同じ方向に向かっていた。二人の足だけが行く先を知っているとでもいうように。
ホモイもキラウも目覚めていた。イクタラとアマメチの身に何が起こっているかも知っていた。だが、何もできないのだ。全身が金縛りにあって、彼らの強靭な肉体を大地に縛りつけていた。イクタラとアマメチが視界から消えていく。足音が遠ざかる。なのに体が動かない。ホモイは焦った。
イクタラの目の前に巨大な穴が見えてきた。砂の斜面が深い底まで続いている。こんな穴に見覚えがある。幼い頃、父親に教えてもらった。この穴の底には不気味な虫がいて、穴に落ちてくる蟻を食べてしまうのだと。穴から逃れようともがけばもがくほど、足下の砂が崩れて外へは出られない。落ちたが最後、蟻は食べられるしかない。あの時、むなしく穴の底に落ちていく蟻をただ黙って見ていた。今は、その蟻が私たちなのだ。
ホモイの金縛りは続いていた。歯を食いしばり、全身に冷たい汗をかいていた。それでも体が動かない。手の中にあった槍を握りしめた。それだけはできた。力を振り絞って槍を握った。爪が掌の肉に食い込むほどに。その時、槍先の石がまぶしい輝きを放った。見えない鎖が解けて、ホモイは、イクタラたちのあとを追って走り出した。
イクタラの足は、巨大な口を開いた穴の方に引き寄せられていた。必死で抵抗しているのだが、歩む速度を一瞬たりとも鈍らせることができない。アマメチも同じような状態なのだろうが、イクタラには彼女の身を気遣っている余裕はなかった。このままでは穴に落ちる。落ちたら最後だ。でも、どうすることもできなかった。あと一歩踏み出せば、そこには地面がない。
「イクタラ!」
ホモイの声が聞こえた。彼が駆けてくる足音が聞こえる。振り返れないのが悔しい。それに……初めて名前を呼んでくれた……。
その瞬間、イクタラの足は何もない空気を踏み抜いて、彼女は砂の斜面に転落した。崩れ落ちる砂が彼女をさらって、更に穴の底に下っていく。それまで彼女の体を縛っていた力は、もう消えていた。すがるように上を見上げた。上から差し伸べられるホモイの腕が見えた。イクタラも手を伸ばした。だが、ホモイの手がつかんだのは、彼女のではなくアマメチの腕だった。ホモイがアマメチの体を引っ張り上げるのを眺めながら、イクタラの体は沈んでいった。
穴の底に何かがいる。砂の中から突き出してきた雄鹿のような二本の角。その角自体が生き物のように動いている。そして、その角に続いて砂の底から姿を現した黒々とした本体。ノンノだったら失神していただろう。その二本の角がイクタラを挟み込もうと近づいてくる。
イクタラは何も考えていなかった。ただ、反射的に結界を張って、穴の底に蓋をしていた。蓋といっても、体が半分隠れるほどの小さな小さな蓋、いや、盾だった。敵の接近を抑えられたのは、ほんの一瞬だった。敵は強大な力でぐいぐい押し上げてくる。イクタラも押し返そうとするが敵の力は圧倒的だ。このままではイクタラのちっぽけな結界など弾き飛ばされる。もう気力がもたない。
「どけ!」
その時、声と月光と一緒にホモイが降ってきた。イクタラが結界を解除すると同時に、ホモイの槍が穴の底の化け物を貫いていた。
ホモイがイクタラの方を振り向いた。イクタラも見つめ返した。その時、月が翳って、砂から光を奪っていった。夜が邪魔をして表情が見えない。でも、見つめられていることは分かった。ふたりとも呼吸が乱れていて何も言えなかった。
不意にホモイの手がイクタラの肩をつかんだ。女とは違う節くれだった感触の指。その一本一本を感じる。それでいて温もりを感じる大きな手。胸の中で何かが暴れている。外に出してやらないと胸を壊して飛び出しそうだ。すぐ隣にある幹のような体に手を回したい。イクタラはタアタアンワの森の樹に抱きつき、その鼓動を聞くのが好きだった。森に抱き締められているようで心から安心できた。ホモイの体からはどんな鼓動が聞こえるのだろう?
でも、もしそうなったら、もう引き返せないのではないか? 今まで巫女になるために生きてきた。巫女となってタアタアンワの人々を護るために。それが当たり前のことだった。それしかなかった。でも、今は、薄い闇一枚向うにある肉体に抱きつきたい。その誘惑が何もかも押しのけて、イクタラを衝き動かす。引力に引き寄せられるようにイクタラの体はホモイに近づいた。もう止められない。
「大丈夫ですか?」
その時、穴の上からアマメチの声がした。
ホモイの手が素早く逃げた。
「うん。なんとか」
イクタラが上に向かって答えた。
月が穴の上に舞い戻ってきた。白い砂が輝きを取り戻した。イクタラとホモイの間には、思った以上に距離があった。
穴は深い。自力では上がれそうもない。
「みんなを呼んできます」
アマメチは駆けていった。穴の底にイクタラとホモイと沈黙だけを残して。
「さっき……」
沈黙に堪えかねるのは、いつもイクタラの方。
「ん?」
「何でもない」
「何だ?」
「もう、いい」
「さっき、何だ?」
「……さっき、彼女の方を先に助けたんだ」
言葉を引き止められなかった。口から出ていってしまった。
ホモイがつかんだのは、自分ではなくアマメチの手だった。それは紛れもない事実。今頃になって、そのことが胸の中で疼いている。思いがけない大きさで。
「おまえなら自分で何とかできると思って……」
ぶっきらぼうにホモイが答えた。
「そうだよね。彼女は普通の女の子だしね」
普通の女の子……いつでも好きなひとの胸に飛び込んでいける。
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