第9話

狒々神の神殿



 再び旅が始まった。鬼と河童と狼が道連れでは人里の近くは通れない。当然、行く手に続くのは、山の獣道か荒野になった。これで、どうやって修行先を探せばいいのだろう? それに、いつ鬼の襲撃を受けるか分からないという不安もあった。ならば結界の堅固なルペシュの村に戻るという選択肢もあったが、イクシベからは、もう教わるべき初歩は教わっていた。仙人も「あとは自習」と言っていた。結界の中に閉じこもっていては、イクタラたちの使命である修行が果たせない。それにホモイが村にいることを好まない。結局、とりあえず旅を続けながら、どこかにひそんでいるまだ見ぬ師匠を探すことになった。

 ひたすら歩きの旅で音をあげたのは、本来水棲動物のオワツだった。水かきのある足にマメができるなんて初めての体験だ。それに、精神的にも彼を落ち込ませるものがあった。

「あんたさ、全然、役に立ってなかったよね~」酔っぱらったピリカの言葉が、今も胸焼けのように心にもたれている。「なに、あの口から出すお水は?」

「あのときは水分不足だったんだ。その前に汗かきすぎてて。水が十分だったら一吹きで鬼のどてっ腹にでかい穴を……」

 言い訳も、まったく信じてもらえなかった。本当のことなのに。もっともピリカ本人は、もう、そんなこと言ったことすら忘れているようだけど。それに、ノンノが、やけにキラウと仲良くやっているのも腹が立った。こいつは鬼だぞ。仲間を殺されたのを忘れたのか?

「鬼なんか、そんなに信用しちゃダメですよ」

 ノンノと二人きりになったときに、そっと忠告してやったのに。

「キラウは、そんなひとじゃないよ」

 彼女は完全にだまされている。以来、おいらに対して距離をおいていると感じるのは、気のせいだろうか? オワツは、そんなことを胸の中でぶつぶつ繰り返しながら、一番後ろからみんなの背中を追いかけていた。人間の女なんて、やっぱり人外を見る目がないんだな。あ~あ、ついてこなきゃよかった。

 道は、徐々に踏み固められて広くなっていった。

「人里が近いのかも」

ノンノが期待をこめて言った。

「でも、結界の気配がしない」

 ピリカが否定した。結界なしに村が存在できるはずがない。

「昔、村があったとか」

 そう言ったものの、イクタラは疑問に思っていた。この道は、つい最近、誰かが通った道だ。そうでなければ、もっと荒れ果てているはず。

「人の臭いだ!」キラウが叫んだ。「我々は隠れましょう。驚かせてはいけない」

 ボーッと立っているオワツの体を引っつかんで、キラウは近くの茂みに飛び込んだ。その二匹と入れ替わるように、一人の女が、道の向こうから駆けてくるのが見えた。女は、イクタラたちの方にまっすぐ駆けてきた。息は切れ、顔も苦痛にゆがんでいる。だが、イクタラたちを見つけると、死んでいたその目に光が宿った。今にも地につきかけていた膝が最後の力を振りしぼって、歩みを進め、ホモイの胸の中に倒れ込んだ。

「助けて……」

 女は、それだけ絞り出すのがやっとだった。

「ちくしょう」

 茂みの中から見ていたオワツが、思わずつぶやいた。おいらが人間だったら、あの胸はおいらの胸だったのに。それほどいい女だった。

「大丈夫ですか? どうしたんですか? 何かあったんですか?」

 イクタラが、女の耳元でうるさいくらいに質問を浴びせかけた。だが、女は、まだ口がきける状態ではなかった。

「たぶん、あれ」

 ピリカが冷静に指差した。彼女の指の先、女が逃げてきた方角から五人の男たちが駆けてくるのが見えた。それを見た女は、あわててホモイの背後に身を隠した。

「やっと捕まえたぞ」

「アマメチ、何てことをしてくれたんだ」

「早く村に帰るべ」

 男たちは、口々に女を責め、説得し、村に連れ帰ろうとしている。だが、女は、その一言ごとに身を硬くして、ホモイの体にしがみついた。

「あの~、嫌がってるみたいなんですけど?」

 イクタラが低姿勢で抗議した。

「あんた、どこのもんだ?」

「これは、うちの村の問題だ。よそ者は、口出さないでけろ」

 男たちにとって彼女たちは素性の知れないよそ者だった。しかも、狼なんか連れている。五人は、あきらかにウバシに腰が退けていた。

「私を渡さないでください。殺されてしまいます」

 女は、必死でホモイに訴えた。

「どういうこと!?」

 これは聞き捨てならない言葉だった。ピリカが目を吊り上げた。

「あんたらには関係ねえ」

「いいえ。助けを求められた以上、もう関係あります。ちゃんとした事情を話してくれないなら、彼女を渡すわけにはいきません」

 イクタラの態度は毅然としていた。

 男たちは、とたんに口ごもりだした。

「おまえが言え」

「おまえが一番の年上だべ」

「そんなの関係ねえ」

互いに責任を押しつけ合っている。

「私、狒々神さまの人身御供なんです」

 結局、女が叫んだ。

「人身御供って?」

 イクタラが息をのんだ。

「それって、このひと、狒々神さまに食べられちゃうっていうこと?」

 ノンノがピリカに訊いた。

「狒々神さまが何をなさるかは知んねえ。ただ、年に一度、狒々神さまに村の娘を捧げなくてはなんねんだ」

「捧げられた娘で帰ってきた者はいないわ。きっと食べられちゃうのよ!」

 女は、男たちの顔を睨みつけて怒鳴った。

「だども、それをしないと村に祟りが」

「こらえてくれ。村のためだ」

「おまえのことは一生忘れねえ」

 男たちは、急に無力で憐れな民となって懇願した。

「なに、それ? あんたたちの村の巫女は、何してんのよ?」

 ピリカの憤懣が噴き出した。

「そんなもの、とっくに死んでまったわ。代わりに狒々神さまが村を護ってくださってるだ」

 巫女じゃなくて狒々神という得体の知れない怪物が村を護っている? 少女たちには信じられないことだった。おかしい。そんなことありえないことだし、あってはいけないとも思った。

「さあ、アマメチを渡せ!」

 男たちは、女を捕まえようと一歩前に踏み出した。だが、ホモイに槍を突きつけられて動けなくなった。男たちは丸腰だった。

「村に戻って助けを呼んで来よう」

「おお。そんときになって後悔すんなよ」

「逃げたって、すぐ見つけるからな」

 男たちは、口では強気なことをわめきながら、村の方に逃げていった。

「ありがとうございます。助かりました」

 アマメチという名の女は、ホモイたちに礼を言った。年は十五。イクタラたちと同い年だった。

「かわいい~」ノンノは、うっとりとアマメチに見惚れていた。「あんな可愛い子、初めて見た」

「そうか?」

 ピリカは小さく鼻を鳴らした。

「どうするの、これから? あの人たち、また来るよ」

 イクタラが心配して言った。

「私たちと一緒に来る?」

 そう言ったのはピリカだった。

「人数が多い方が楽しいし」

 ノンノは大歓迎だった。

 アマメチは、うれしそうに微笑んだ。だが、その微笑も、すぐに曇った。

「でも、私が逃げると、他の誰かが……」

「じゃあ、おとなしく生贄になるの?」

 ピリカが声を荒くした。怒っているのは、もちろんアマメチに対してではない。

「それは……いやです」アマメチの顔も声も、うな垂れた。「でも、どうすればいいのか……分かりません」

「狒々神って奴をやっつければいいんだよ」

 その声は、予想外のところから聞こえてきた。みんなが振り返ると、オワツが胸を張って立っていた。キラウも、仕方なく藪の中から這い出してきた。

「あの、この人たち……って人じゃないけど、見掛けはこうでも、いい人……じゃなくて、いい方たちなのよ。仲間なの、私たちの。でも、だからって、私たち、魔物じゃないわよ」    

 イクタラは、あわてて説明した。

「ごめんなさい。あなたたちを差別して言ってるわけじゃなくて……」

 これは、キラウとオワツに対する弁解だった。

 だが、肝心のアマメチは、悲鳴も上げなければ、失神もしなかった。

「珍しいお友達……なんですね」

 微笑さえ浮かべて、そう言った。笑顔がひきつってはいたが。その態度を見て、オワツは、ますますアマメチが気に入った。

「でも、狒々神さまを倒してしまったら、村は誰が護るんですか?」

 アマメチは村の心配をしていた。自分を生贄にしようとした村の。中には家族や友達もいるのだろう。

「そしたら、村を捨てて他の村に援けを求めるべきだと思う。狒々神なんかの世話になってまで村を護るのはおかしいよ。間違ってる。魔物に護ってもらうなんて」

 ピリカが断言した。誰もが正論だと思った。


 すでに深夜に近かったが、狒々神の森は、月光に白く息づいていた。今夜は、一年で四番目の満月の夜。村の娘が、狒々神に捧げられる年に一度の夜だった。少女たち一行は、アマメチの案内で狒々神の神殿を目指している。年老いた巨木が枝を広げて星空を遮り、大蛇のような根が足下を不気味に這いずっていた。それでも枝の間から漏れ射す月光を頼りに少女たちは進んだ。

「あそこです!」

 アマメチの声と同時に眼前に現れたのは、そこだけ月光が皓々と射し込む、ぽっかり開けた空間だった。そこに神殿があった。平行して直立する一メートルほどの双子石の上に、巨大な一枚岩が横たえられている。その下の暗闇は、夜を煮詰めたように黒い。これこそが、毎年、生贄の娘を飲みこむ神聖なる穴だ。

「確かに、なんかいそう」

 樹の陰からうかがいながら、ノンノが誰にともなく囁いた。

「代わりの生贄は、いる?」

 ピリカが目を凝らしたが、闇の中には、何者も確認できなかった。

「来ました」

 アマメチの声に全員が身を低くした。神殿に続く細い道をゆらゆらと炎がやってくる。炎は、やがて松明を持った村人になり、そのあとには、四人の男に担がれた輿が静々と続いた。輿の上には、若い女が乗せられている。アマメチの身代わりに違いない。

「その娘をおいていけ」

 村人たちの前に巨大な影が立ちふさがった。

「狒々神さまじゃ!」「お許しください!」「ひー!」

 村人たちは、輿を放り出して一目散に逃げ去った。置き去りにされた村の娘は、声も出せずに震えていた。

「安心して。私たち、あなたを助けにきたのよ」

 そう声を掛けたのはイクタラだった。ノンノも後ろにいた。巨大な影はキラウだった。

イクタラとノンノが村の娘を安全なところに連れていくと、あとには、ピリカとホモイ、キラウ、オワツ、そしてアマメチが残った。

「あなたも一緒に行った方がよくなかった?」

 ピリカが、アマメチのことを気にして言った。

「いいえ。私のせいで、みなさんを巻き込んだんですから」

 彼女の決心を、意志の強そうな目を見て、ピリカも、それ以上、何も言わなかった。

「で、計画どおり、私が、神殿の中で狒々神とやらを待つから、あとはよろしく」

 ピリカは、すでに神殿に向かって歩みだそうとしていた。

「待ってくれ」呼び止めたのはオワツだった。「その役、おいらにやらせてもらえないか?」

 アマメチ以外、誰もが信じられなかった。誰よりも臆病なこの河童が、そんなことを言いだすなんて。

「熱でもあんじゃないの?」

 ピリカは、頭の皿に手をおいて確かめてみた。

「あんたは修行中の大事な身だろう? それに、おいら、小さいから、狒々神も女だと思うさ」

「あんた、彼女にいいとこ見せようとしてるんじゃない?」

 ピリカが、アマメチの方を見ながら、オワツの耳元で囁いた。

「そんなんじゃない。純粋に人助けがしたいんだ」

 オワツの目が泳いだ。いや、溺れていた。

「ふ~ん。じゃ、いいわ。譲ってあげる」

 オワツの言い訳など信じていなかったが、ピリカは、納得してやることにした。

「ホモイ、その槍、貸してくれないか?」

 このオワツの頼みはホモイを驚かせた。

「その槍で狒々神を退治してやりたいんだ。いいだろう?」

「だめだ」

 心からの懇願に対する答えが、その一言だった。

「なんでだよ?」

「この槍は、ひとには渡せない」

「ケチ! 皆からも頼んでくれよ」

 オワツの眼差しが、ピリカたちに助けを求めていた。

「どうしてもダメなの?」

「ダメだ」

「だって」

 ピリカは、あっさり諦めた。あの槍は、それほどホモイにとって大切なものなのだ。声を聞いただけで分かった。

「これを持っていけ」

 キラウが岩棒を差し出した。

「ありがとう。鬼でも、こんなに優しい心があるのになあ」

 オワツは、ホモイの方に厭味ったらしい一瞥をくれながら岩棒を受け取った。とたんに岩棒が地面にめり込んだ。腕が抜けるかと思った。重すぎたのだ。地面に落とした岩棒は、オワツの力では、どうにも持ち上げることができなかった。

「おいら向きじゃないや」

 オワツは落ち込んだ。アマメチに自分の非力さを目撃されたことで二重に落ち込んだ。

「これ、使えば」

 そう言ってピリカが弓矢を差し出した。狩猟用の弓矢だった。

「ありがとう」

 オワツには、ピリカが女神のように見えた。でも、これが役に立つだろうか? 実のところ、ホモイが簡単に槍を貸してれるものと思い込んでいたのだ。

 時間は、あまりない。狒々神は、いつ現れるか分からない。オワツは、一枚岩の下に潜り込んで狒々神の登場を待ち受けた。

ピリカたちも森の中にひそんで待った。銀色の光が神殿を照らす満月の下、時は凍ったように動かない。やがて、氷が溶けて時の雫が地面に達したとき、不意に満月がかげった。いや、巨大な何者かの影が、森の高みから舞い降りたのだ。

 それは、全身金色の毛で覆われた巨大な猿だった。これが狒々神か? 森にひそむピリカたちは、体を硬くして目だけを大きく見開いた。狒々神は、踊るような足取りで神殿に近づいていく。

 オワツにも、狒々神が近づいてくるのが分かった。弓を持つ手がぶるぶる震えている。いい格好なんかしなけりゃよかったと後悔していた。神殿の中に入った瞬間から何度も押し寄せていた思いだった。でも、もう、後悔は、これで最後にしようと決めた。ようやく開き直れた。そのとき、狒々神の好色そうな顔が、一枚岩の下をのぞき込んだ。顔を上げたオワツは、狒々神めがけて鉄砲水を噴射した。甲高い悲鳴が森の枝々を振るわせた。オワツは、一枚岩の下から飛び出すと、狒々神を狙って弓を引きしぼった。

 水鉄砲は、狒々神の右目を直撃していた。目をつぶされた痛みと、怒りで、狒々神は猛り狂っていた。目の前にいるのが美しい村娘ではなくて醜い河童だということが、ますます狒々神を激昂させた。咆哮が、生温かい風となってオワツに吹きつけた。

早くとどめを刺さないとやられる! 当たれ! オワツは、祈りをこめて矢を放った。矢は、まっすぐ狒々神めがけて飛んでいった。だが、的に届く遥か手前で失速して地面に落ちた。ほとんどオワツの足元といっていいくらいのところに。オワツは目を上げた。狒々神の巨大な顔が、すぐそこにあった。オワツの体は金縛りになり、思考は停止した。他に何ができただろう?

 次に頭が動き出したとき、浮かんだ言葉は「俺は、まだ生きている」だった。続いて思ったのは「目の前の狒々神は体調が悪そうだ」ということだった。それもそのはずだった。狒々神は、背後からホモイの槍に刺し貫かれていたからだ。古木が倒れるような音が森を揺るがしたとき、オワツは「生きてるってなんて素晴らしいんだろう」と実感した。


 夜明け前、村の広場には、狒々神の死体があった。そばには、イクタラたち三人とホモイ、それにアマメチが立っていた。重い死体を一人で運んできたキラウは、村人たちが怖がるといけないので姿を消していた。オワツも同様だった。人身御供だった村の娘は、すでに親の元に帰っていた。

村人たちは、まだ一人も姿を現さない。年に一度の生贄の儀式を終えた安堵感からか、村は平穏な静寂に包まれている。やがて、一人、二人と村人たちが、屋外に姿を見せ始めた。彼らは、見知らぬよそ者と狒々神の死体を見ると、あわてて逃げていった。彼らの報せを聞いたのだろう。ねぐらから這い出してくる村人たちの数が次第に増えていった。だが、誰もイクタラたちに近づこうとはしない。遠巻きに不審の目を向けている。そのうち、彼らのつくる人垣は、二重になり三重になっていった。その中にはアマメチを追っていた五人もいて、周りの人間に何やら教えている。その表情を見ただけでも、けっして好意的な言葉が囁かれていないのは明らかだ。やがて、その表情は次々に他の村人たちに伝染していって、よそ者を取り巻く輪を一周するのに時間はかからなかった。それでも、彼らはイクタラたちを遠巻きに見ているだけだった。

最後に、ようやく、村長らしい年寄が人垣を掻き分けて一番前に出てきた。

「あんたたちは、何者ですか?」

「私たちは、旅の者です」

 イクタラが、外交的な微笑みを浮かべながら答えた。

「それで、これは?」 

 足元の死体に目をやりながら村長が訊いた。

「あんたらの狒々神さまだよ」ピリカの言葉を聞いたとたんに、どよめきが起こって、村人たちの輪が広がった。「悪い狒々神は退治してやったよ。もう人身御供なんか出さなくていいんだ」

 狒々神という一言で、すでに村は騒然としていた。

「何てことをしてくれたんだ?」

「罰当たりが!」

「狒々神さまがいなくなったら、誰がおらたちを護ってくれるんだ?」

「狒々神さまの祟りがあるぞ!」

「村は全滅じゃ!」

 村人たちはパニックに陥っていた。でも、これは想定内のことだ。

「一刻も早く村を捨てて、近くの村に移住するべきだと思います」

 イクタラは腹の底から大声を出した。だが、その言葉は誰の耳にも届かなかったのか? 村人たちは、ますます混乱していった。やがて、村人たちの恐慌は、ひとつの捌け口に向かいだした。アマメチだ。

「アマメチ、だいたい、おまえが悪いだ。なんで、おとなしく人身御供にならなかった?」

「そうだ! おまえが変なよそ者なんか巻き込むから、こんなことに!」

「おまえは村を滅ぼす気か?」

 四方八方から罵声がアマメチに浴びせられた。彼女は、うつむいて耐えていた。そのうち、一人が投げた小石をきっかけに、罵声は石の雨になってアマメチに降り注いだ。

「やめて!」「やめなさいよ!」

 イクタラたちが身を挺してアマメチを守ったが、憎悪の雨は降りやまない。

「やめろ!」

 そのとき、思わぬ方角から聞き覚えのない叫び声が聞こえた。罵声も投石も、いっぺんにやんだ。声の主はホモイだった。

「おまえらは、いつもそうだ!」

 少女たちは、こんなに感情を表すホモイを見たことがなかった。いや、イクタラだけは別だ。彼女は、幻獣の森で見たホモイの記憶を思い出していた。

「さがれ! 近寄るな!」

ホモイは、大きく槍を振り回した。槍のつくる風を浴びて、村人たちは怯んだ。

 だが、いったんやんだ憎悪の雨も、すぐにまた降り出した。村人たちは、槍の円周の外側から、安全なところから、罵声と石と敵意をホモイたちに向かって投げつけた。

「さがれ、汚い人間ども!」

 その村人たちの背後から別の怒声が響いた。今度のはオワツだった。蛙のように跳び上がると、村人たちの頭上を越えてアマメチの前に着地した。

「彼女に指一本でも触れてみろ、おいらが許さねえぞ!」

「化け物だ!」

「こいつら、やっぱり化け物の一味だ」

 村人たちの敵意は、いっそう高まった。

「ああ。そうさ。みんな、呪い殺してやるぞ! ケケケケケ~!」

 オワツが威嚇の奇声を発すると、村人たちは、悲鳴を上げて逃げ出した。恐慌状態の村人たちは、互いにぶつかり突き倒し、倒れた者を踏みつけ、醜く逃げていく。

おいらって、案外すごいじゃん。オワツは、心中、満足感にひたっていた。だが、それは誤解だった。

「後ろ! 後ろ!」

 村人たちを恐怖のどん底に叩き込んだのは、オワツではなかった。その背後にいた狒々神だった。いや、正確に言えば、狒々神の首だ。その首が骸となった肉体を離れ、宙に浮かんだのだ。

ノンノに言われて振り向いたオワツは、巨大な生首が、牙を剥いて自分に向かって飛んでくるのを見た。つぶれていない片眼に自分の姿が映っていた。これまでのオワツなら呆然と立ち尽くすしかなかっただろう。だが、今のオワツは違っていた。たぎる怒りが恐怖に勝った。オワツの口から噴き出された水は、銀色の一本の槍となって、残ったもう一つの目を貫いていた。失速した生首は、ふらふらとオワツの頭上を越えると、力なく地面に落ちた。

「この野郎! この野郎! この野郎!」

 燃え残る怒りをもてあまして、オワツは、何度も何度も狒々神の顔を踏みつけた。跳ね散る血潮が、水かきのついた足から、胴体を、顔を、頭の皿を染めていった。見かねたホモイがオワツを引き離したときには、狒々神の顔の原型は、すでになくなっていた。

 村人の姿は影も形もなかった。そこにいるのは、よそ者とアマメチだけ。

「行こう」

 不機嫌そうにピリカが言うと、みんなは無言で従った。村を出るところまで、誰も何も言わなかった。

「あの、私もついていっていいですか?」

 そこまで来たところで、初めてアマメチが口を開いた。

「俺たちといると危険だぞ」

 珍しくホモイが真っ先に口を開いた。

「でも、もう戻る場所がありません。みなさんが一緒にいてくれないと、私、ひとりになっちゃうし……」

 アマメチがすがるような視線をホモイに向けた。

「たしかにその方が危険よ……ね」

 黙り込んだホモイに代わってイクタラが答えた。

「いいんじゃないか。まともな人間が一人くらいいても」

 ピリカが言った。

「え~! 私たち、まともじゃないの~?」

 ノンノが唇を尖らせた。

「まともなつもりかよ」

「普通の女の子とは言えないけどさ……」ノンノも、しぶしぶ認めた。「ま、友達は大勢いた方が楽しいしね。一緒に行こう」

 キラウは何も言わないが、反対する気はないらしい。

「じゃ、アマメチさんも一緒に行く、ってことで……いいよね?」

 イクタラの言葉は、ホモイひとりに向けられていた。ホモイは小さくうなずいたように見えた。

「大丈夫だ。何かあっても、彼女のことは、おいらが守る!」

 そのとき、胸を張って高らかに宣言したのはオワツだった。

「はいはい」

 ピリカの声を合図に一同は歩き出した。かくして女四人に男一人、妖怪二匹、狼一匹の旅が始まった。

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