第8話

ヤマビル娘



 イクタラたちが駆けつけると、オワツが結界の外で待っていた。村人たちは、結界の内側から警戒しながら見つめていた。

「あの男、行っちゃいましたよ」

「あの男って、ホモイのこと?」

 イクタラの問いに、オワツは、うなずいた。

「なんで?」

「一緒にいると迷惑かかるからでしょう」

「ホモイが、そう言ったの?」

「いや、あの男が言ったのは『俺は行く』だけで、今のは、おいらの推測だけど……」

 そこでオワツは、鬼女エンレラとの出来事を語って聞かせた。

「大丈夫かな?」

 ノンノが心配そうに言った。

「あいつのことだから大丈夫だと思うけど」

 そういうピリカも、不安を払拭しきれなかった。

「追いかけよう」

 ピリカに、ノンノに、そして自分自身に向かってイクタラが言った。

「大丈夫か?」

「私たち、足手まといにならない?」

 ピリカにもノンノにも、それが正しい選択なのか分からなかった。自分の弱い部分がしゃしゃり出た。

「でも、あのひとは私たちを助けてくれたんだよ。ほっとけないでしょう」

「怖くないのか?」

 ピリカが目の奥までのぞき込むようにして訊いた。

「怖いよ」

「でも、行くんだな。なら、私も行く」

 そう言ってピリカはノンノの方を見た。

「じゃ、私も行く。ウバシと会えなくなるの、いやだから」

「じゃ、これで決まりだ」

 二人の顔を見てピリカが言った。

「あの、おいらには聞いてくれないの?」

 オワツが、おずおずと訊いてきた。

「おまえは好きにしろ」

 ピリカに言われて、オワツは、ガッカリしたようなホッとしたような気持ちだった。それでも、ついていくか残るか、決めかねていた。

「でも、ホモイ、どこに行ったんだろう?」

 ノンノは、人影ひとつ見えない地平線の彼方を見つめていた。

「どっちに行った?」

「あっち」

 ピリカの問いに、オワツは西の方角を指差した。その先には、何の目印もない平原が地平線まで続いていた。

「見つけるまでが大変かも?」

 ノンノが、早くも疲れたような声を出した。

「見つけられればな」

 ピリカは、そう言葉にしたあと、ハッとしてイクタラの方を見た。イクタラは、西の方をじっと見ていた。ピリカの言葉が聞こえたのかどうか分からなかった。

「ま、それは何とかなるかもしれん」

 いつのまにか仙人が背後に立っていた。

「仙人さま、どこにいってたんですか?」

 ノンノが訊いたのも無理がない。三人とイクシベを引き合わせて以来、仙人は姿を消していた。

「いやな、この先の村にも、年増だけど色っぽい巫女がおってな。ついでに、そちらにも……」

「いいです、その話は!」

 イクタラに怒られて、仙人は、しおらしく口をつぐんだ。


 ホモイは、ウバシを連れて人けのない山道を歩いていた。イクタラたちと出会う前は、ほとんどそうだった。人と会わずにすむからだ。ホモイにとって、誰かと出会うことは、わずらわしい以外のなにものでもなかった。これまでは。だから、なじみの生活に戻っただけのはずだった。なのに何か忘れ物をしてきたような気がする。取りに戻った方がいいような気もするが、それが何だかよく分からない。ホモイは、それを振り切るように先を急いだ。急ぐ当てなどありはしないのだが。

 突然、六本の足が同時に止まった。何かが聞こえた。一人と一匹は耳を澄ました。また、聞こえてきた。若い女のすすり泣く声だ。道の先の方から聞こえる。ホモイは足を速めた。すぐに見えてきた。人間の女だ。しゃがみ込んで両手で顔を覆って泣いていた。

「どうした?」

 ゆっくりと近づいて、ホモイは声をかけた。女は、まだ泣いていた。女というより女の子だった。イクタラたちより十は若い。

「父ちゃんが化け物に」

「やられたのか?」

 女の子は、泥と涙にまみれた顔でうなずいた。ウバシを見てもおびえない。芯は強い子なのだろう。

「化け物は?」

「どこかに行っちゃった」

「おまえの村は、どこだ?」

「山を越えた向こう」

「送っていこう」

 ホモイは、女の子の手を引いて歩き出した。だが、すぐに女の子の足は止まってしまう。

「もう歩けない」

 仕方なく。ホモイはおぶってやることにした。河童に仙人、そして、今度は、女の子か。ホモイの背中でも女の子は泣いていた。ホモイの気分も、足取りも重くなっていく。

いや、重くなっていくのは、そればかりではなかった。小さな女の子にしては重すぎる。

「おまえ、何者だ?」

「やっと気づいたかい?」

 ホモイの問いかけに、さっきまでとは違う枯れ切った声が返ってきた。

 ホモイは、背中のモノを振り落とそうとした。だが、それは、ヒルかなにかのようにぴったりと貼りついている。後ろ向きに走って木の幹に叩きつけてみた。メキッという木が凹む音がしたが、肝心のそいつは離れない。あざけるような笑い声だけが聞こえた。急に立ちくらみを感じて、ホモイは片膝をついた。槍を杖にしなければ倒れてしまいそうだ。今まで感じたことのない倦怠感が、体にのしかかっている。足下の地面が、遠くなったり近くなったりしている。

「おまえの生気を吸い尽くしてやるよ」

 ホモイは、槍で何とかできないものか、と考えた。だが、相手が貼りついている位置が悪すぎる。ウバシが、さっきから何度も飛びかかっているが、牙も爪も役に立たないようだ。そして、更に悪いことが重なった。

「あらあら、いい格好だねえ」

 鬼女エンレラだ。三匹の鬼を引き連れている。

「こいつも仲間だったのか」

 霞のかかる目でエンレラを睨みながらホモイが唸った。ホモイとエンレラの間に入って、ウバシが牙を剥いている。

「こんな奴、関係ないね。ただ、あんたをずっと見張っていたんだよ。こんな機会に巡り会えないかと思ってさ」

 笑うたびに鬼女の口は耳へと裂けていく。

「こいつは私の獲物だよ!」

 ホモイの背中から怒りのこもった声が聞こえた。この一言が鬼女のプライドを傷つけた。

「ふん。何様のつもりだい? あんたなんか地虫の生き血でも吸ってるのがお似合いだよ。さっさと、その男を渡しな。さもないと二度とおんぶのできない体にしてあげるよ」

「やれるもんなら、やってみな」

 その一言で殺意をつなぎとめる鎖が切れた。

「やれ!」

 三匹の鬼が放たれた。


「う~ん。来とる、来とる。やっぱり、こっちの方じゃ」

 杖の頭を地面近くに下ろし、仙人は、ホモイが去った方角を探っていた。杖の先に良く利く鼻があって、ホモイが残していった匂いを嗅がせているように見える。その後に続くのは、イクタラ、ピリカ、ノンノの三人と鬼のキラウ。オワツも結局ついてきた。

「そのエンレラっていう鬼女は、どういう鬼なの?」

 ノンノがキラウに訊いた。

「ヤテブの一番の側近です。残忍で狡猾で、風のように速く走り、隠し持っている爪は、鬼族の誰よりも鋭いと言われています」

「できれば会いたくないなあ」

 ノンノの独り言は、風にさらわれて消えていった。みんなは聞こえないふりをした。


 ホモイの前に立ちふさがるウバシを蹴散らして、三匹の鬼がホモイに襲いかかった。ホモイには槍を構える力も残っていなかった。鬼の牙と爪が視界いっぱいに広がった瞬間、ホモイの意識は、ぷっつりと途切れた。

 硬い石と石がぶつかり合うような音がして、鬼たちは、一斉にホモイから飛びのいた。牙も爪も折れていた。ホモイと背中の妖怪が一つの岩のかたまりと化していた。

「クソ! 背中のあいつを引っぺがすんだよ!」

 エンレラの命令で、鬼たちは、岩となった妖怪を叩いたり引っ張ったりした。だが、岩は、びくともしない。鬼たちの指先が血に染まっただけだ。その間も、ウバシは、鬼たちの周りを遠巻きに走りながら吠え立てていた。

「ええい、うるさいね!」

 エンレラの爪が、一メートルも飛び出してウバシを襲った。この一撃を間一髪でかわしたウバシは、そのまま山道を駆け下りて、どこかに走り去ってしまった。

「とうとう、あのうるさい狼も、こいつを見放したか」

 エンレラにとっては小さな喜びだったが、満足には、ほど遠かった。目の前には難問が居座っていたからだ。その難問の周りで、部下たちは、傷ついた指先をなめながら途方に暮れている。

「しょうがない。このままヤテブさまのもとに運ぶよ」

 三匹の鬼は、力を合わせて岩を持ち上げようとした。だが、岩は、小さな山ででもあるかのように大地から離れようとしない。

「もういい! 役に立たない奴らだね。援軍を呼んでくる。あんたたちは、見張っておいで」

 そう言うと、エンレラは、一陣の風となって走り去っていった。


 イクタラたちは、山の麓まで来ていた。仙人の杖は山の中を指し示していた。

「どうやら山登りをせんといかんようじゃな」

 仙人の言葉にオワツが大きな溜息をついた。

「本当に山の中にいるんですか?」

「今度こそ間違いない」

「でも、さっきは池の中だって言いましたよ。だから、おいらが、汚い泥の中に飛び込んで探したのに、『あっ、間違えた』」

「人は過ちから学ぶのじゃ。逆に言えば、過たないものは、いつまでたってもバカのままじゃ」

 言っていることは正しいと思うのだが、何かだまされているような気がした。この仙人は、本当に信用できるのだろうか? 会って以来、まともな仙術は見せてもらっていないんだけど。イクタラでさえ、そう思い始めていた。ノンノも同様だった。ピリカは、もっと思っていた。

「待って! 何か聞こえる」

 突然、ノンノが声を張り上げた。みんなも耳を澄ましたが、何も聞こえない。

「なんにも聞こえないよ」

 イクタラも、ピリカも首をかしげた。

「ううん。聞こえる。ウバシの足音だ」

 そんなもの、誰の耳にも聞こえるはずがなかった。だが、数秒の静寂のあとに確かに聞こえてきた。狼が吠える声だ。

 声に続いて、ウバシが山道を真っすぐに駆け下りてきた。両腕を広げて待ちかまえるノンノの胸の中に飛び込んできた。

「うん? うん? 本当に?」

 ノンノの耳をペロペロなめながら、ウバシは、なにやら告げているらしい。他のみんなは、それを黙って見ているしかなかった。

「大変! ホモイが岩に閉じ込められちゃったって。あと鬼の女がいるって」

 とにかく大変だ、ということは一同に伝わった。

「エンレラが来ているのか」

 キラウが低くつぶやいた。

「ともかく行かなくちゃ」

 イクタラは焦っていた。

「ウバシ、案内して」

 ノンノの言葉を聞くや否や、白い狼は、いま来た獣道を駆け戻っていった。一行も、キラウを先頭にあとを追った。もっとも、キラウの足は、大股すぎて、速すぎて、後続との間にかなりの距離ができてしまった。

 イクタラたちがあえぎながらキラウの背中に追いついたときには、キラウは、ウバシとともに大木の陰に身をひそめていた。三人の少女が追いつくと、キラウの背中越しに三匹の鬼が見えた。鬼たちは、不自然な形をした岩の周りを落ち着きなくうろうろしている。

「あの岩がホモイのなれのはてなの?」

 そう言ってピリカはイクタラに睨まれた。

「そうみたい」

 ノンノがウバシの表情を読んだ。

「どうしたらいいの?」

 誰にともなくイクタラが言った。

「ともかく、あいつらを何とかしよう」

 キラウが言った。

「それがいい」

 そう言ったのは、ようやく追いついてきた仙人だった。少し遅れてオワツがたどり着いた。オワツは汗びっしょりで、ぜーぜー喘いでいたが、仙人は、汗もかかず、息も乱れていなかった。

「あとは、わしが何とかする」

 話はまとまった。キラウは、大きく鼻から息を吐くと、三匹の鬼の方に向かっていった。

 最初、鬼たちは援軍が来たのかと思った。だが、一匹というのはおかしい。彼らが、近づいてくる鬼が何者なのか気づくのに時間はかからなかった。

「おまえ、裏切り者のキラウじゃないか?」

 だが、気づいたときには、すでにキラウの豪腕の射程範囲に入っていた。遠心力の加わった裏拳が一匹の頚動脈を捕らえた。不意を衝かれて吹っ飛んだ鬼は、岩石と化したホモイに顔面から激突して、そのままズルズルと地面に沈んでいった。ホモイの顔だったあたりから地面まで血の線ができた。その間に、他の二匹は臨戦態勢に入っていた。その内の一匹が、背後から迫る荒い息づかいに気づいて振り返った。その瞬間、ウバシの牙が、その鬼の喉笛を食い破っていた。残った一匹は、当然、それに気をとられた。すかさずキラウが、肩から鳩尾に突っ込み、そのまま一気に突き進んだ。二匹の鬼は、もつれ合って崖から転げ落ちていった。

イクタラたちは、慌てて崖っぷちに駆け寄った。ほぼ垂直に切り立った崖だった。いくら強靭な鬼の体だって、落ちたらひとたまりもないだろう。イクタラたちの脳裏に最悪の結末が浮かんでいた。だが、三人が見たものは、足元の壁面に鋭い爪を突き立ててぶら下がっているキラウの姿だった。

 キラウは自力でよじ登ってきた。一同は、岩になったホモイの前に集まった。

「ふ~む。こいつは、なかなか大変じゃぞ」

 自分の白い髭をいじりまわしながら仙人がつぶやいた。

「たしか、わしが何とかする、って言いましたよね?」

 イクタラの声は険しかった。

「言った。ただし、ちょいと時間がかかるかもしれん」

 仙人は胸の前で合掌した。力を入れて二つの掌を押しつけ合った。左右の腕が小刻みに震えている。力んで力んで、もう、これ以上、力を入れられないというところで、両の掌をホモイ岩に向かって突き出した。掌の前の空気が陽炎のように揺れた。その振動が伝わっていって岩もまた振動した。だが、それっきり何の変化もない。仙人は、また合掌した。それから同じことを繰り返した。何度も何度も。

 イクタラたちは、それを見守っているしかなかった。その状態が一時間近くも続いた。やがて、巨大な地鳴りが山道を登ってくるのが聞こえてきた。

「奴らが来た。すごい数だ」足音だけでキラウには分かった。「早く逃げた方がいい」

 だが、もう遅かった。イクタラたちは、またたく間に鬼の軍勢に包囲されていた。ざっと見ても二十匹はいる。それ以上は誰も数えたくなかった。三人の少女は小さく固まっていた。その前にキラウが立ちふさがった。その間に、オワツが、なんとか割り込もうとしている。仙人だけは黙々と岩に振動を送り続けていた。

「おやまあ、裏切り者までお出ましかい」

 エンレラが、鬼の群れの中から一歩前に出てきた。

「おとなしく、そこの堅物坊やを渡してもらおうか?」

「いやだと言ったら」

 キラウが言ったが、答えは聞く前から分かっていた。

「どっちにしろ死んでもらう。やれ!」

 前後左右から鬼たちが一斉に襲いかかってきた。イクタラたちは、教わったばかりのやり方で結界を張って対抗した。だが、三人だけでつくれる結界は、まだ傘程度のものにすぎなかった。猛進してくる鬼を一瞬たじろがせることはできても、それだけだった。鬼が見えない傘にぶつかってくるたびに、三人の手が衝撃で震えた。唯一、敵にダメージを与えているのはキラウの拳だった。だが、あまりにも多勢に無勢だ。キラウの背後にピッタリ貼りついているオワツは、口から水鉄砲を発射するのだが、一瞬、鬼に目をつぶらせる程度の効果しかない。

「そのジジイから片付けろ!」

 指揮官エンレラが、無防備に背中を向けている仙人を指差して吠えた。命令に即応した三匹の鬼が、仙人に背後から飛びかかった。だが、次の瞬間には、三匹とも空中高く跳ね上げられて、エンレラの上に降ってきた。危うく身をかわしたエンレラは、無様に尻餅をついてしまい、傷ついたプライドに顔を赤く染めた。

「何をやってるんだい? 役立たず!」

 だが、エンレラには、もう分かっていた。このジジイがタダモノではないことが。

 イクタラたちは疲れてきた。肉体的にも精神的にも。結界で押し返しても押し返しても、鬼たちは次から次へと押し寄せてくる。結界の傘が破れるのも時間の問題に思えた。

「ピリカ! なんとかできないの、あの呪術で?」

 ノンノの悲鳴のような声がピリカに届いた。

「やってるわよ!」

 でも、上手くいかないのだった。呪いの念波を集中できない。敵の数が多すぎるということもあるが、もっと大きな原因は、たぶんキラウだった。キラウに見せられた彼の記憶が、呪いの集中を邪魔しているのだ。それまでは、鬼は、心のない悪の権化でしかなかったのに。

「お嬢ちゃん、憎しみに頼りなさんな」

 突然、仙人の声が聞こえた。まるで耳の中で囁いているような声だった。でも、実際の仙人は、ピリカに背を向けて、ホモイの岩に衝撃波を送ることに専念している。

「憎しみではなくて憐れみだ。憎しみにとらわれている間は、相手と同じ高さにしかいることはできん。憐れめば、相手より高いところにいける。相手より強くなれる。さあ、この可哀そうな連中を楽にしてやれ」

 その声に気をとられてピリカの心にすきができた。それに乗じて一匹の鬼が結界を破って突っ込んできた。牙を剥いて迫ってくる鬼の顔。その顔が、一瞬、憐れで可哀想に見えた。次の瞬間、鬼の体は大きくのけ反って、水平に吹っ飛んでいた。地面に胴体着陸した鬼の体は、ぴくりとも動かない。

「ピリカ、すご~い!」

 ノンノが歓声を上げた瞬間、彼女の結界が砕けた。鬼の巨体が、世界の全てを覆い隠してのしかかってきた。ノンノには、ただ「でか!」とだけ思った。次の瞬間、キラウの豪腕が、その鬼をふっ飛ばしていた。鬼の爪はノンノに届く寸前だった。

「ありがとう」

 ノンノの声は、キラウには聞こえなかっただろう。なぜなら、他の鬼を迎撃するのに、もう忙しかったからだ。そのとき、ノンノの耳にも仙人の声が届いた。

「お嬢ちゃん、怖くないか?」

「うん」

 ノンノは、目の前にあるキラウの背中を見ながらうなずいた。

「そうか。あんたは、あんまり怖がらん方がいいからの」

 仙人は、相変わらず岩だけを見つめて衝撃波を送り続けていた。

「仙人様、まだなの?」

 イクタラが、いらいらした視線を仙人の背中に送りながら、我慢できずに言った。

「これじゃ埒が明かんのお」

 仙人は、タメ息をつくと衝撃波を送るのを諦めた。

「お嬢ちゃん、こっちにおいで」

 仙人は、イクタラの襟首をつかむとグイと引き寄せた。

「えっ?」

 イクタラは驚いた。仙人とイクタラの間には、かなりの距離があった。手を伸ばしても届かないだけの。なのに、彼女の体は、もう仙人のかたわらにあった。

仙人の杖は、いつのまにか釣り竿になっていた。イクタラの衣に釣り針を引っかけると、竿を大きく振るって、彼女の体を天空高く放り上げた。舞い上がったイクタラは、海にではなくホモイの岩めがけて落下していく。ぶつかる! 誰もがそう思った瞬間、彼女の体は岩をすり抜けて消えていた。

「イクタラに何をしたの?」

 ピリカが、仙人に怒鳴った。

「自分の仕事をしとれ、お嬢ちゃん」

 岩の中に釣り糸を垂れながら仙人が答えた。

 たしかにイクタラのことを心配している場合ではなかった。鬼の顔が目と鼻の先に迫っていた。ピリカは、念波を眉間の真ん中に叩き込んで撃退した。だが、その鬼のすぐ後ろに、もう一匹いたことに気づかなかった。エンレラだ。耳まで避けた口でエンレラは笑っていた。ピリカは念波を発射した。だが、外れた。エンレラの姿が、ピリカの目の前から、突然、消えた。ピリカが胸の中で「外した!」と舌打ちしたときには、もう背後に回り込まれていた。

「この娘の命が惜しかったら、抵抗はおやめ!」

 攻める側も守る側も動きを止めた。エンレラの長い爪が、ピリカの喉に突きつけられていた。

「ほう、こりゃ、まずいことになったぞ」

 仙人の間延びした緊張感のない声が場違いに響いた。

「ジジイ、おまえもだ!」

 エンレラは、仙人の背中から目を離さなかった。一番警戒すべきなのは、このジジイなのだ。

「それが、そうもいかんのじゃよ」

 釣り竿に当たりがきていた。かなりの大物だ。腰を落として踏ん張った仙人は、一気に竿を振り上げた。獲物は岩の中から飛び出してきた。糸の先にはイクタラが。そして、彼女は、しっかりとホモイの手を握っていた。

「こりゃあ、大漁じゃ」

 仙人は、会心の笑みを浮かべた。そこにいる誰もが、宙を舞う二人の姿を、口をあんぐり開けて見上げていた。二人の体は、今、ピリカとエンレラの頭上にあった。イクタラが握っていないホモイのもう片方の手には、あの槍があった。イクタラが手を放すと、ホモイはエンレラへ向かって急降下した。エンレラは、素早く身をかわしたが、青い石が肩を切り裂いていた。エンレラの絶叫が山中に轟いた。森の鳥たちが一斉に飛び立った。

「憶えておいで」

 エンレラは、鬼たちに支えられながら退散していった。どす黒い血を点々と山道に残して。

「よかった」

 そうつぶやいてから、イクタラは、仙人にお姫様だっこされている自分に気づいた。落ちてきたイクタラを受け止めたのが仙人だったのだ。オワツだって受け止めようと走ったのだが、捕球体勢に入った瞬間、後ろから仙人に蹴り倒されていた。

「もう結構です。仙人さま」

 顔を真っ赤にしてイクタラが小さく囁いた。

「おお、そうじゃな」

 仙人がそう言ってから下ろすまでに、まだ少し時間があった。

「誰、この子?」

 ノンノの声に、みんなが振り向いた。ホモイを岩にした小娘が、こそこそと逃げ出そうとしているところだった。ホモイは目をそらしただけだった。小娘は、一目散に逃げていった。

「ほっといてよかったの?」

「ああ。もう会うこともない」

 ピリカに訊かれて、ホモイは答えた。

 みんな、疲れていた。言いたいことはあっても、乱れた息づかいが邪魔をしていた。

「鬼どもをめでたく撃退したことだし、酒でも飲んでパーッとやらんか?」

 仙人のお気楽な声に、みんなが振り返ったとき、目の前には、すでに大きな酒甕が置かれていた。


 遠くでは、オワツが歌う河童族に伝わる歌が聞こえている。酔っ払ったノンノは、気持ち悪くなって、ひとり宴の輪を離れていた。赤くほてった頬に夜風が涼しい。

「今日は、よくやったな、お嬢ちゃん」

 すぐ後ろに仙人がいた。

「そうかな? ノンノは、何にもしてなかったけど」

「そんなことはない」

「さっき、ノンノは、あまり怖がらない方がいい、って言ったでしょう?」

「ああ」

「ノンノは、小さい頃から『怖がるな』ってず~と言われてきたの」

「じゃろうな」

「ノンノが怖がると大変なことになるって」

「お嬢ちゃんの中には、とても大きな力が眠っておる。お嬢ちゃんが怖がると、それを起こしてしまうからな」

「この力、いつか使えるようになる?」

「それは、お嬢ちゃん次第じゃ。いいか。恐怖というのは、とても凶暴な力なんじゃ。見境なく人を傷つける。そして、自分自身をもな。ひとを怒鳴り、威圧し、攻撃する者は、たいがい相手を怖れている。怖れるがゆえに攻撃し、傷つけ、殺してしまう」

「ノンノの中の力も、ひとを殺す?」

「かもしれん」

「じゃ、怖がらないようにする」

「だがな。怖れることを知らぬ者は、ひとでなしじゃ」

「じゃあ、どうすればいいの?」

 ノンノは困惑した。

「お嬢ちゃんにも、いつかその力を使わなくてはならんときが来る。そのときのために強くなれ。自分の中の力を手なずけられるようにな。自分の中の化け物を飼いならすんじゃ。ときには餌をやり、頭をなでてやり、ときには叱りつけ。できるじゃろう?」

「なんとか、やってみる」

「いい子じゃ。あの気の強いお嬢ちゃんにも伝えておくれ」

「仙人さま、どっか行っちゃうの?」

「良いことを言ったあとは、さっさと消える方がかっこいいんじゃ。それにイクシベちゃんとも、まだ遊び足りんしな。ま、そのうち、また会える。神出鬼没が仙人の仕事じゃから」

 仙人は白い髭だけ残して闇に溶けた。残った髭も、風に吹かれて夜空に飛んでいった。


「あんたってホント世話が焼けるわよね?」

 ピリカは、かなり酔っていた。酔ってホモイにからんでいた。

「いいカッコして一人で出てったと思ったら、あ~んな目にあっちゃって」

 ホモイは、さっきからずっと無言だった。

「そのくせ、私たちにルペシュに帰れ、ですって? 偉そうに」

 確かにホモイは、そう言った。鬼たちに狙われるのは自分ひとりで十分だと思ったからだ。だが、その結果がこれだ。

「鬼に狙われてるのは私たちも一緒なの。それに鬼の親玉がどこかの巫女らしいし、これは私たちの問題でもあるのよ。なのに、私たちに帰れ、って」

「それは、もう忘れてくれ」

 ホモイは、ひとりで行くことは、もう諦めていた。

「忘れろ、ですって? また、偉そうに。あなた、私たちのこと、バカにしてるんでしょ?」

「いや」

「いや。バカにしてる」

「ねえ、もういいじゃない。このひとも、こう言ってるんだし」

たまりかねてイクタラが口をはさんだ。

「あんたは甘いのよ」

 矛先が自分に向いて、イクタラはゾッとした。ピリカが、こんなに酒癖が悪いとは知らなかった。

「あっ、そうだ。こいつにお礼言われた?」

「え?」

「助けてやったお礼よ」

「どうだったかな?」

「いや、言われてない。聞いた覚えないもん」

「でも……」

「何よ?」

「私たちも言ったっけ? 最初に助けられたとき」

 ピリカは、一瞬、言葉に詰まった。記憶をたどりかけて途中で投げ出した。

「それはそれ、これはこれよ。はい。お礼の言葉」

 ピリカに催促されたホモイは、困惑した表情を浮かべて黙っていた。

「もういいよ、ピリカ。よしなよ」

 イクタラは、ピリカの衣の裾を引っ張った。

「私にはいいから。彼女に言って。彼女が助けに行くって言ったんだから」

 ピリカが、イクタラの鼻先に指を突きつけながら言った。

「いいよ。そんなの」

「うっ。なんか気持ち悪くなってきた。ちょっと、ごめん」

 ピリカは、這うようにその場を離れていった。イクタラとホモイだけが残された。河童は、やや離れたところで踊っていた。鬼は、ひとり黙々と飲んでいた。

「もう、よそう。この話」

 チラッとだけホモイの顔を見て、イクタラが言った。

「なんて言うんだ?」

 ホモイがつぶやいた。

「えっ?」

 聞き取れないわけではなかったが、意味が分からなかった。

「礼を言うときは何て言う?」

「ああ」

「こういうとき、どう言うのか知らない。今まで、ひとに礼なんて言ったことがない」

 旅の途中で垣間見たホモイの苦い記憶が、イクタラの胸に込み上げた。

「ありがとう」

「えっ?」

 イクタラの声が小さすぎて、ホモイには聞こえなかったのだ。

「ありがとう、って言うの」

 今度は、顔を正面から見つめてはっきり言った。

「ありがとう、か」

「うん」

 息苦しいような沈黙があった。イクタラは、このまま朝になってしまうのかと思った。

「ありがとう」

 とてもたどたどしい「ありがとう」だった。

「じゃ、私からも、ありがとう。たぶん言い忘れてたと思うから」

 遥か上空では、星たちが、遠い目配せを交し合っている夜だった。

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