第5話

人面岩



 少女三人に、男一人、狼、河童各一匹の一行は、川沿いを上流へと向かった。鬼が築いた堰は、河童たちが破壊していて、川は、いつもの流れを取り戻している。

「ね、私たちが河童の村で捕まってる間、何してたの?」

 ピリカが、すぐ後ろを歩くホモイに訊いた。

「待っていた」

「待ってたって、どのくらい?」

「三日くらい」

「そんなに? 普通、どっかに行っちゃうでしょう? なんで行かなかったの?」

「約束したからだ」

「バカじゃないの?」

 スピカは走って先に行った。

「でも、おかげで助かったんだよ。ねえ?」

 ノンノが、ホモイに気をつかって言った。イクタラは、何も言わなかった。言う必要はなかったのだ。

 山を登るにつれて、川の流れは勢いを増していく。一行は獣道を登っていった。

「ここから先は、俺たち河童族でも行った者はいなんだ」

 先頭を行くオワツが、振り返ってそう言った。

 川の周りを鬱蒼とした森が囲み、太陽の位置を隠していた。でも、日没までには、まだ間があるはずだ。一行は先を急いだ。

「水の匂いが変わった」

 不意にオワツが立ち止まった。

「何も感じないけど?」

 ピリカが怪訝な顔をした。他の三人も同様だった。

「いや、確かに違う」

 オワツは、川の水をすくって口にした。

「味も違う」

 人間たちも、川の水をすくって飲んでみた。違いは分からない。イクタラは、もう一度、すくってみた。掌の上に留まる水の中を、微かに黒い筋が一本、流れるのが見えた。イクタラは、あわててその水を捨てた。すると、急に空気が冷たくなって、思わず体が震えた。

「女がいるな?」

 憎悪の念とともに、突然、その声は聞こえた、今まで一度も聞いたことがないおぞましい声。でも、その声が出ていたのは、見間違いようもなくオワツの口だった。

「ここは女人禁制の神域だ」オワツは、少女たちを睨みすえた。その目は、死んだ魚の目だった。「女は帰れ!」

 その声と同時に、身を切るような風が吹きつけてきて、人間たちは吹き飛ばされそうになった。

「女は、バカで、嘘つきで、残酷だ。帰れ!」

「ふざけないで!」ピリカが、ツバが届きそうな距離まで迫って、オワツを怒鳴りつけた。「しっかりして! どうしたのよ、あんた?」

 ピリカは、肩に手をかけて揺さぶった。だが、その手は乱暴に払いのけられた。水かきのついた二本の手が伸びて、ピリカの首を締め始めた。

「や……やめ……殺されたいの……」

 その時、急にオワツの腕から力が抜けた。腕だけでなく体全体から力が抜けて、その場に崩れた。ホモイが、槍の石突で後頭部に一撃をくれたからだ。

「河童さん、どうしたの?」

 気絶しているオワツを見下ろしてノンノは心配していた。

「何かにとり憑かれたんだわ」

 ドス黒い怨念を感じながらイクタラが答えた。

「こいつは連れていけない」

 ホモイがつぶやいた。

 意識を失ったオワツは、そこに残していくことになった。ウバシを見張りのために残して、人間だけで先を進んだ。草は深く、川の流れは、ますます激しくなっていく。さっきまで聞こえていた鳥の声がぱたりとやんだ。

「あ、来た!」

「私も!」

「気持ち悪~い!」

 娘たちは,悪の元凶に突き当たったと感じた。あたりの空気が、どんより濁って肩にのしかかってきた。額に嫌な汗をかいていた。川の真ん中に、激流に抗って大きな岩が顔を出している。気持ちの悪い空気は、その巨大な岩から放出されていた。岩は、人の顔に見えた。その顔は憎悪にゆがんでいた。

 何かが頭上から襲いかかってきた。三人の少女は、岩に気をとられていて気づくのが遅れた。すでに鋭利な刃が目の前に迫っていた。でも、すくんで体が動かない。そのとき、目をつぶることもできない三人の前に、ホモイの背中が飛び込んできた。ホモイは、高みから振り下ろされる二つの刃を槍で受け止めた。三人は、襲ってきたものの正体を知って、更に大きな衝撃に打ちのめされた。

「嘘でしょ」

 ピリカは、隣にいるノンノの方を見た。ノンノは悲鳴を上げることもできず、固まっていた。

 それは、ホモイよりも大きなカマキリだった。そのカマキリが二本の鎌で斬りかかってきたのだ。しかも、ホモイのことは眼中にないらしい。狙いは娘たちだった。ホモイの槍に跳ね返されたあとも、しつこく彼女たちの方に向かってくる。そのたびにホモイは、カマキリと三人の間に割り込んで鎌を受け止めた。

「女どもめ! 俺たちに何をした?」

 どこからともなく声が聞こえた。さっき、オワツの口から聞こえたのと同じ声だ。

 カマキリの鎌が三人の間を切り裂いた。鎌のつくる風が頬に当たった瞬間、三人には見えた。雌カマキリに頭を食いちぎられる雄カマキリの姿が。その悲痛と憤激が、三人をその場にしばりつけた。その幻影が消えた瞬間、三人の目に飛び込んできたのは、頭上に迫る巨大な二つの鎌だった。

 だが、その鎌が振り下ろされることはなかった。鎌を振り上げたまま、カマキリは息絶えていた。その胴体の真ん中には、背後からホモイが突き刺した空ろな穴が開いていた。

 しかし、ほっとしたのも束の間だった。頭上から今度は粘つく糸が飛んできて、三人の体をからめとった。そのまま三人は宙に吊り上げられた。くるくる回る彼女らの目の前に、木の上から降りてきたのは、巨大なクモだ。クモの糸を通して、怨念が彼女らの中に流れ込んできた。雌クモにむさぼり食われている雄クモの最期が見えた。その復讐の肩代わりに、クモは三人を食べようと口を開けた。だが、その口づけが三人に達する前に、クモは、ホモイの投げた槍に貫かれて地上に落ちた。

「早く下ろして!」

 粘つく糸の気持ち悪さに耐えかねて三人は叫んだ。ホモイは、もう一度槍を投げて、彼女らを吊るしている糸を断ち切った。悲鳴とともに落ちてくる三人をホモイは受け止めた。というより押しつぶされた。糸の粘着力にしばられて、三人は、ひとかたまりになって地面に転がった。彼女らは、糸のいましめから早く逃れようともがいた。次にどんな敵が襲ってくるか分かったものじゃない。そして、残念ながら、その予感は当たった。

 長く尾をひく振動音を発しながら、敵は、空中から急降下してきた。巨大なハチだった。ハチは、ひとかたまりの娘たちの上に飛来すると、六本の脚でつかみ上げ、どこかに運び去ろうとしている。槍は? ホモイが捜すと、一本の古木の根方に突き刺さっていた。ホモイは、それを引き抜き、すぐにハチのあとを追った。

 連れ去られる三人の脳裏には、またしても忌まわしい幻影が侵入していた。巣から捨てられ、衰弱し今にも息絶えようとしている雄バチの姿だった。女王ハチとの交尾という役割を終え、用済みとなった雄たちの哀れな末路。

「俺たちは、女に子供を産ませるための道具じゃない!」

 また、あの声が聞こえた。今度は、どこから聞こえたのか、はっきり分かった。あの人面岩からだ。巨大バチは、その岩の顔の前にある平なところに彼女たちを乱暴に放り出すと、飛び去っていった。そこは、岩の神に供物を捧げる祭壇のようだった。

「あなたが、すべての元凶ね? 河童の女の子が産まれなくなったのも、あなたのせいね?」

 岩の顔を睨みつけてイクタラが言った。

「ああ、そうだ。女なんか、この世から消えてしまえばいい」

 岩の口が動いたように娘たちには見えた。だが、それは錯覚だった。ただ、声は、そこから聞こえている。

「私たちをどうしようっていうの?」

 ピリカも、岩の顔を睨みながら言った。なんだかムカムカしていた。

「俺は何もしない。するのは、あの男だ」

 三人は、近づいてくる足音に振り返った。ホモイだった。一跳びで岩の祭壇に飛び移ったホモイは、槍を人面岩に突きつけた。だが、突然、岩の影が動いて彼を呑み込んだ。娘たちにも、ホモイ本人にも、何が起こったのか分からなかった。

 影の中で、ホモイは、六歳の子供に戻っていた。村はずれの樹の陰から遊んでいる子供たちを眺めていた。人里に近づくのは久しぶりだった。家族も友達も狼だけ。それでいいはずだった。なのに、こんなところまで来てしまった。見つかる前に戻らなくては。でも、ホモイは、子供たちの姿にひきつけられていた。いや、正確には、その中のひとり、髪の長い少女にだ。他の子供たちと追いかけっこをして、はしゃいでいる少女。なぜ、その子だけから目が放せない? なぜ、胸の中で風が騒ぐ?

ホモイは夢中になりすぎた。村の男の子たちに見つかってしまった。男の子たちは、よそ者に向かって石を投げた。ホモイは逃げ出した。男の子たちは追ってきた。石の雨は、やむことなく振り続いた。ホモイは、いつしか追い詰められ、一番大きな子に押し倒され、殴られた。その様子を他の子供たちが見守っていた。口々に歓声と罵声を発していた。その中にあの少女もいた。ホモイは、殴られながら彼女の顔を見ていた。彼女の唇が動くのを見ていた。

やっちゃえ、そんな気持ち悪い奴!

 娘たちは、人面岩の影がホモイの体の中に染み込んでいくのを見ていた。見ているしかなかった。ホモイは、木の人形のようなぎこちない動きで三人の方に顔を向けた。それを見てイクタラは愕然とした。下流で何かにとり憑かれたオワツと同じ目をしていた。

「さあ、憎い女を殺してしまえ!」

 人面岩が叫んだ、その声は喜びと興奮に震えていた。

 ホモイが、ゆっくり近づいてくる。何も見ていない目を、まっすぐイクタラに向けて。

「どうしちゃったの、ホモイ?」

 ノンノの声は震えていた。

「やめて! しっかりして! こんな奴に負けないで!」

 イクタラの必死の声も、ホモイの耳に届いているとは思えなかった。

「私、いざとなったら、あいつを呪い殺す」

 ピリカが、イクタラの耳元で叫んだ。

「ダメ! それはダメ!」

 なら、どうすればいい? ホモイは、もうイクタラの目の前に迫っていた。持っている槍を足元に突き刺して、自由になった両の手でイクタラの首をつかんだ。オワツがピリカの首を締めたときのように。イクタラの首にホモイの十本の指が食い込んでくる。ピリカもノンノも、クモの糸にしばられていて、どうすることもできない。

 イクタラの意識も風前の灯だった。薄笑いを浮かべたホモイの顔が切れ切れに見える。そこにホモイの記憶が混信してきた。遊びまわる村の子供たちを見ている寂しそうなホモイ。飛んでくる石。少女の残酷な言葉。きりきりと胸に刺し込まれる痛みが、イクタラにも伝わってきた。その傷口から黒々とした怒りと恨みが流れ込んでくる。

 でも、何かが違う。しっくりこない違和感。イクタラは気がついた。記憶が改竄されている。

 イクタラはもがいた。何とか自由になった両手でホモイの手首をつかんで必死に押し返した。ほんの少しだが気道が開いて声が出せるようになった。

「だまされないで……これは、あなたの記憶じゃない……思い出して」

 イクタラの声と想いがホモイの中に逆流した。

 六歳のホモイは、男の子たちに追われていた。いつしか村の中に逃げ込んでいた。村の中は怖くてたまらない。大人たちに見つかったら、どうしよう? 早く村を出なくては。「どこ行った?」「あっちじゃないか?」男の子たちの声だ。どうしよう? ホモイは、何の考えもなく目の前の小屋に飛び込んだ。幸い中に人はいなかった。息を殺して身をひそめていた。鼓動の音がうるさくて見つかりそうだ。突然、入口の覆いが払いのけられて誰かが入ってきた。あの女の子だ。目と目が合った。心臓も時間も止まっていた。彼女は出ていった。確かに見られたはずなのに。誰かを呼びにいったのか? ぐずぐずしていられない。ホモイは外に出ようとした。だが、入口のところで、あの子と鉢合わせした。「中にいて」ホモイは、彼女の言葉に素直に従った。彼女は、背中を見せて小屋の外を向いた。小屋の外を男の子たちが通った。「よそ者、見たか?」「知らない」彼女は嘘をついた。背中に回した手に何かを持っている。ホモイにも記憶があった。ドングリとクルミで作った菓子だ。その菓子を揺らしている。受け取れということらしい。ホモイは、こわごわと手を伸ばした。「今なら大丈夫。行って」ホモイは何も言わずに駆け出した。もっと彼女の顔を見ておけばよかった、と思った。ホモイは、村を見下ろす丘の上にいた。菓子をむさぼると、懐かしい味がした。風が涙を飛ばして吹きすぎていった。

 ホモイの目に生気が甦った。

「よかった。正気に戻った」

 イクタラの目に涙が浮かんでいた。それは、丘の上で風に飛んでいった涙と同じ匂いがした。

 ホモイは、槍を手に取って人面岩に突きつけた。

「バカが。女に言いくるめられおって」

 さげすむような声が響いた。

「あなたは、なんでそんなに女を憎むの?」

 イクタラの問いを、人面岩は、動かない鼻でせせら笑った。同時に岩の念波がイクタラたちに押し寄せた。

 ある山村が見えた。岩と同じ顔をした若い男がいた。男は女好きだった。だが、どの女も、男に見向きもしない。女は、狩りの上手い男が好きだ。脚の速い男が好きだ。喧嘩の強い男が好きだ。この男は、狩りも駆けっこも喧嘩も苦手だった。なら、仕方ない。男は、女を狩ることに決めた。次から次に女を山に連れ込んでは襲った。父親は、怒って男を殴った。母親は、男の顔にツバを吐いた。男は、母親を殴って逃亡した。村が総出で山狩りを始めた。男は、川の真ん中に追い詰められた。村の巫女が宣言した。「おまえを封印する」巫女が呪文を唱え始めると、体が重く硬くなって身動きがとれなくなった。気がつくと岩になっていた。以来、男は、ここにいた。誰かを呪うこと以外、他にできることは何もなかった。巫女を呪い、母親を呪い、村のすべての女を呪った。村が滅んでなくなったあとも、ずっと、ずっと。

「女なんて計算高くて、うわべだけで、ねたみっぽくて、浅はかで、いやらしくて、欲張りで」

 人面岩の恨みごとは、永遠に続くかと思われた。だが、それは、不意に打ち切りになった。ホモイの槍が口元に突き刺さったからだ。

「ゴチャゴチャうるさい」

 槍を引き抜くと、岩は崩れて水中に没した。重くよどんだあたりの空気が、急に澄み切ったように思えた。


 上流から戻ったイクタラたちを、長老は、新しい住みかで迎えた。もといた川の支流の支流が注ぎ込む澱んだ沼地だった。こんなところに住んでいたら体の中に黴が生えそうだ、とピリカは思った。

「原因は取り除いたから、そのうち女の子も生まれると思います」

 イクタラの報告を聞いて、長老は、またもや土下座をして御礼を言った。

「これだけのことをしてあげたんだから、河童の秘術を教えてくれてもいいんじゃない?」

 皮肉っぽくピリカが言った。

「それが……秘術と言っても、水鉄砲の吹き方くらいしかなくて……」

 三人の少女は、目と目を見かわした。正直、習う気にはなれなかった。

「それよりも、本流の川下にあるエバカシの山に、遠い海の向こうから渡ってきた偉い仙人がおるそうです。その仙人ならもっといいことを教えてくれるでしょう。オワツ、おまえ、送って差し上げろ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る