第4話

水を統べるもの



「川だ!」

 先を行くイクタラとピリカを追い抜いて、ノンノが走り出した。たしかに微かなせせらぎと水の匂いが漂ってきていた。

 まもなく目の前に陽の光を砕いて散りばめたような小川が現れた。昼寝でもしているように緩く静かな流れ。澄んだ水面の向こうを悠々と泳ぐ魚。ノンノは、その魚と目と目が合った気さえした。一行は、川の清水でたっぷりと喉を潤した。

「ね、ね。水浴びしようよ。ノンノ、まだ体の中に虫がいる気がして気持ち悪い」

「いいかも」

 イクタラも、旅の汚れを落としたかった。

「でも、あいつは、どうするのよ?」

 ピリカの視線の先にはホモイがいた。川の水を飲んでいるウバシを見下ろしている。

「あいつだって男だろう。あいつの前で脱ぐのかよ」

ノンノには、ピリカが言っている意味がよく解らなかった。

「いいんじゃない?」

「裸なんか見せたら、男は我慢できないんだって。何が起こっても知らないよ」

 ノンノには、その「何か」がよく分からなかった。

「恥ずかしいの、ピリカ?」

「そういう意味じゃないって」

「目をつぶっててもらえば?」

「こっそりのぞくに決まってる」

「じゃ、こうすれば? 誰か一人が残って、順番であのひとの見張りをしてる、っていうのは」

 イクタラが提案した。

「いいね。じゃ、言い出しっぺからお願い」

 本当は、ピリカだって水浴びをしたくてたまらなかったのだ。

「お願い」

 ノンノに背中を押されて、イクタラはホモイの方に追いやられた。水辺の大きな石の上に並んで座った。川に背を向けて。ホモイは、別に不平は言わなかった。背後では、水を掛け合ってはしゃぐピリカとノンノの声が聞こえている。

「子供のころは、どんなところにいたの?」

「大したところじゃない」

「身内はいないの?」

「いない」

「今はでしょう?」

「ああ」

「思い出したくないんだよね?」

「ああ」

 質問するたびに、どんどん相手が遠くなるのをイクタラは感じた。

 イクタラの次はノンノの番だった。

「ウバシとは、どこで出逢ったの?」

「ウバシに家族はいないの?」

「ウバシは、何が好物?」

 ノンノの話題は、すべてウバシのことばかりだった。

「本人に訊けよ。言葉、分かるんだろう?」

 ホモイのその一言で会話は息絶えた。

 最後はピリカの番だった。

「その槍、変わってるな?」

「そうか?」

「どこで手に入れたんだ?」

「長い話だ」

 いくら待っても長い話は始まらなかった。話す気がないのだろう。それっきりピリカは何も言わなくなった。

黙って二人で目の前の藪を見つめていた。ホモイにとっては、その方がありがたかった。だが、ピリカは、肩のあたりでホモイをずっと意識していた。だから、ホモイが急に自分の方を振り向いたとき、思わず両肩がびくりと上がった。

「何?」

 驚きを顔に出すまいと努めながらピリカが言った。すぐに自分の誤解に気づいた。ホモイが見ているのは、自分ではなくて背後の茂みだった。

ホモイは、足下の小石を拾って、茂みの中に投げた。すると、緑色の影が、茂みから飛び出して逃げ出した。逃げるものは追う。野性の本能でウバシが駆け出した。ホモイも、槍を手にあとを追った。

「のぞき魔? さっきからのぞいてたってこと?」

 ピリカが緑の逃亡者の背中を睨みつけた。とたんに、そいつは前のめりに倒れた。ピリカはホモイのあとを追った。「今の私?」とつぶやきながら。

 そいつは、ホモイとウバシに捕まっていた。子供くらいの大きさで、緑色の皮膚、背中に甲羅、手と足に水かき、頭には一枚の皿をのせていた。

「河童?」

 駆けつけた三人の少女が、口々にその名を呼んだ。見るのは初めてだった。三人の村タアタアンワでは、川遊びに行く子供たちに、いつも大人たちが言っていた。「気をつけないと河童にさらわれるぞ」でも、河童の姿を見た子供は、誰もいない。

「本当にいたんだ。はじめまして」

 ノンノは。うれしそうだった。

「甘やかすなよ。こいつ、私たちの水浴びをのぞいてたんだぞ。とんでもないドスケベだ」

「おいらは、そんなことしてないぞ。長老の命令で縄張りの見回り……」

 そこまで口に出して、河童は、あわててくちばしを押さえた。

「ここらは、おまえらの縄張りなのか?」

「そうだ。いろいろ物騒な敵も多いから警戒してるんだ」ホモイに言われて、河童は、あっさり認めた。「なあ、放してくれよ。俺、何も悪いことしてないだろう?」

「じゃ、なんで逃げたのよ?」

 ピリカの冷たい視線が河童の顔にチクチク刺さった。

「すいません!」突然、河童が四人の前に土下座をした。「のぞいたのは事実です。出来心です。本当にすいませんでした」

 これにはピリカも拍子抜けだった。

「どうする?」

「ね、河童って特別な秘術とか持ってないの?」そう訊いたのはイクタラだった。「それを教えてくれたら許してあげてもいい」

 三人の旅の目的は、外の世界でいろんなことを学ぶことだった。そろそろ最初の何かを学んでもいいころだった。

「ありますよ。シジミの雄と雌の見分け方とか、ミズスマシの美味しい食べ方とか」

「そんなのじゃね~」

 三人の娘は顔をしかめた。

「あっ、長老だったら、もっといろいろ知ってます。川の流れを逆にするとか、川の水を二つに分ける法とか」

「それ、すごいんじゃない?」

 ノンノが食いついた。

「それ、頼んだら、私たちにも教えてくれるかな?」

 イクタラも、心惹かれていた。

「ええ、たぶん。おいらが頼んだら」

「じゃ、その長老のところに連れていってちょうだい」

 かくして一行は河童の村に行くことになった。ただ、ホモイだけは、河童がやたらに調子いいのが気にいらないようだった。


 河童の名前はオワツといった。河童の中では若者になるらしい。

「いや、三人ともお美しいですね。役目を忘れて思わず見とれちゃいました」

 オワツは、一行を案内しながら喋り続けた。

「またまた、そんなこと言って」

 ノンノは、うれしそうだった。他の二人も満更でもなさそうだ。ホモイは、ますます気に入らなかった。オワツの調子よさも、それを真に受けている少女たちも。

 三人はオワツのあとについて川に沿って山を登っていった。徐々に川が騒がしく急になっていった。少女たちが水浴びを楽しんだのどかな川は、もうどこにもない。激流と呼んでいい荒々しい水の流れがそこにあった。泳ぎが達者な者でも向こう岸までたどり着く前に逆巻く波にのまれて押し流されてしまうだろう。

 やがて、三人の耳に三つの嵐が同時に襲いかかってくるような音が聞こえてきた。空気が振動している。

「何、この音?」

 ノンノが叫んだ。恐怖はなかった。わくわくする何かが待ってる気がした。

「すご~い!」

 イクタラが息を呑んだ。

 それは巨大な滝だった。タアタアンワには、こんな大きな滝はなかった。

「この下に、おいらたちの村があるんです」

 泡立つ滝壺を指差してオワツが言った。

「ええ!」

 声の大小高低に差はあるものの、三人の少女が口々に反応した。

「まさか、この下に行かなきゃいけないの?」

「死んじゃうよ」

「私たち、魚じゃないんだから」

 三人の不満の声にもオワツは涼しい顔だった。

「大丈夫です。ちゃんとお客様用の乗り物がありますから」

 そう言うと、水底に向かって一声大きく鳴いた。それは、どんな鳥の声より高くて耳ざわりな声だった。少女たちは思わず耳をふさいだ。

 三人の鼓膜が、まだ余韻に振動しているうちに、水面に一匹の河童が顔を出した。

「オワツか。何かあった……」

 その河童は、人間たちの姿に気づいて絶句した。

「この人間たちなら心配ないよ」

 安心させるように言ったオワツは、仲間のそばに飛び込んで何やら耳元で囁いた。囁かれた河童は、人間たちをチラリと一瞥して、ゆっくりうなずくと、水面下に戻っていった。

「あいつが乗り物を持ってきます。ちょっと待っててください」

 水の中からオワツが叫んだ。激流の中で流されもせず一定の位置を保っている。さすが河童だ。水の中に戻れて心から安心しているように見えた。

「乗り物って、何?」

 ノンノは他のみんなに訊いた。でも、誰も、想像すらできなかった。

 その乗り物は、すぐに水面を割って浮上してきた。大きな小屋ほどもある巨大なナマズだった。

「これ……なの?」

 ピリカは、あからさまに顔をしかめた。

 ナマズは、大きな口を開いた。

「さあ、口の中へどうぞ」

 オワツが手招きしている。

「大丈夫? 食われるんじゃないの? それに気持ち悪いし」

 ピリカは、ひいていた。

「そんなこと言っちゃ失礼だよ」

 イクタラが小声でたしなめた。内心は、自分も同じことを思っていた。

「私たちに危害を加える気はないみたい。このナマズさん」

 ナマズの小さな目を見ながらノンノが言った。

「ノンノが、そう言うなら」

 イクタラは腹を決めた。

「河童から教わることなんて、そんなにないんじゃない?」

 ピリカは、まだ二の足を踏んでいたが、ノンノに「怖いの?」と言われて行くしかなくなった。三人はナマズの口の中に乗り込んだ。

「詰め合せて座ってください。天井が低いんで」

三人とも生臭い匂いに思わず吐きそうになった。あわてて口と鼻をつまんで我慢した。

「あっ、すいません。定員三名までなんで」

 三人のあとから乗り込もうとするホモイは、オワツに止められた。

「彼女たちを運んだら、すぐ迎えに来ますから」

 大ナマズは、口を閉めて三人を収容すると、ゆっくりと潜水していった。あとには、波立つ水面だけが残った。オワツの姿も消えていた。


 口が閉まると、暗闇と悪臭だけが充満する空間になった。口を開くと臭いが入ってきそうで口もきけなかった。三人には、自分たちが下へ下へと動いていること以外、何も分からなかった。やがて下降が止まると、今度は水平方向への移動が始まり、まもなく上昇に転じた。

 上昇が止まると、すぐにナマズの口が開いた。悪臭をともなわない新鮮な空気が流れ込んできて、三人は、ようやく止めていた呼吸を再開した。だが、しばらくすると、その空気も大して新鮮でないことに気づいた。

 目の前には岩だらけの岸が見えた。ナマズが接岸すると、三人は我先にと上陸した。ナマズの口の中にいるのは、もう耐えられなかったのだ。上陸して分かったのは、そこが巨大な洞窟だということだった。ナマズが顔を浮かべている地底湖の前に、三人が上陸した広い岩場。そこを囲む岩壁には、いくつもの横穴があって、いずれもどこかへ続いているようだった。そこここに燃える水を使った灯りがあるが、全体に薄暗く、ひんやりと黴臭い空気がよどんでいた。

「我が村ウオロにようこそ」三人が呆然と地下の世界を眺めていると、いつのまにかオワツがそばに来ていた。「長老さまの御成りです」

 オワツの視線の先に目をやると、一番大きな横穴から何匹もの河童が出てくるところだった。誰が長老か、すぐに分かった。一匹だけ白くて長い髭をたくわえていて、太くて立派な杖をついていたからだ。

「地上のお嬢さん方、よくいらっしゃった。ウオロを代表して歓迎いたします。さあさ、どうぞ、こちらへ。歓迎会の準備は整っておりますぞ」

 長老のあとについて三人は進んだ。よほど人間が珍しいのか、ウオロの住民たちが押し合いへし合いしながら三人を眺めていた。「おお」とか「ああ」とか、なにやら小さな歓声も上がっている。強面の河童が押し戻さなければ、今にも群集に押しつぶされそうだ。

「あの、他にも連れがいるんですけど」

 イクタラが、忘れられているんじゃないかと心配になって長老に言った。

「もう迎えをやりました。すぐに来るでしょう」

 それを聞いてイクタラはホッとした。河童の群集を見ていると、そう思ってはいけないと思いながら、理由のない不安が込み上げてくるのだった。

 長老の家―といっても広めの岩穴だがーには、三人を迎える宴席の用意がされていた。目の前には、脂ののった川魚が並んでいる。焼かれているのは、たぶん三人に気をつかってくれたのだろう。その証拠に、河童たちは生でかじりついている。デザートに地上から採ってきた果物まである。

 村を出てから初めて目にした御馳走だった。三人は貪るように食べた。

「さあさあ、一杯飲んで」

 長老が勧めたのは、白く濁った酒だった。鼻にツーンとくる刺激臭にイクタラは思わず顔を背けそうになった。

「ウオロ自慢の酒です。大切なお客さまにだけ、お出しするものです」

 そうまで言われると飲まないわけにはいかない。飲んでみると意外に口当たりが柔らかくて飲みやすい。匂いは気になるが、ナマズの口の中のことを思えば、どうってことはない。その匂いも、やがて気にならなくなってきた。鼻が麻痺してきたのだろう。あとの二人も同じだった。ノンノなどは、顔を真っ赤にして何杯もおかわりしている。

「みなさんは修行の旅をしているそうですな」

 長老の方からその話を切り出してくれて、イクタラはホッとした。肝心の話をするきっかけがつかめずにいたのだ。

「巫女になるために、いろんなことを学ばなくてはならないんです。長老さまにも何か教えていただければ助かるんですが」

「いくらでもお教えいたしますぞ。ウオロに伝わる秘術をね」

「よかった。教えてもらえるかどうか、とっても不安だったんです」

「なにも心配には及びません。ただし、この国に三十年ほどいてもらわなくてはなりませんが」

 イクタラも、ピリカも、ノンノも、一瞬、引きつった顔で固まった。

「というのは冗談で」

 長老の言葉に、三人の口からぎこちない笑いが漏れた。

「よかった。本気にしちゃった」ノンノが、隣に座っている河童の若者の肩を叩いた。「長老様って面白~い」

「すぐにでもお教えしますぞ。この国で子供を産んでくれたら」

「またまた」

 三人は笑ったが、すぐに長老の目が笑っていないことに気がついた。周りの河童たちの目も、誰ひとり笑っていなかった。

「あの、でも、巫女は、男と結ばれるわけにはいかなくて……」

 なにか誤解がある。その誤解を解かなくては。イクタラは説明しようとした。でも、酔っぱらったのか、舌がうまく回らない。

「お相手をするのは、知力体力ともに優れた優秀な河童ばかりです。それに子供を産んでくれたら、自由に出て行ってくれて結構。そう。十人も産んでくれればいいでしょう」

 もう長老が何を言っているのかも、よく分からなかった。世界が、ぐるぐる回っていた。ダメだ。もう目を開けていられない。イクタラが最後に見たのは、ピリカとノンノが河童たちに担がれて運ばれていく姿だった。


 滝の前には誰もいなかった。三人が大ナマズとともに水底に消えてから三日三晩が過ぎていた。聞こえるのは、激しく流れ、渦巻く水の音だけ。動くものも水だけだった。

いま、そこに二つの影が現れた。誰かに見られるのを怖れるように、大きな体を小さくして、音もなく川に接近している。二匹の鬼だった。二匹は川の中をのぞき込み、ひそひそ何かを囁きかわすと、また音もなくその場を離れて、山道を登っていった。それを岩陰から見ていた一人と一匹の存在には気づかずに。


 三人の少女は、岩の牢獄に幽閉されていた。苔でぬるぬるした岩壁に囲まれた、三人が膝を寄せ合ってどうにか座っていられるほどの空間。そこに彼女たちはツタで編んだ綱で下ろされた。出口は、天井に開いた人ひとり通れるその穴だけだ。そこから定期的に水と食料が下ろされ、ときどき河童の長老が顔を出した。

「どうだ、決心はつかんか?」

 最初は、抗議や懇願をしていた少女たちだが、今は徹底した無視で対応していた。

「まあ、よい。おまえたちが拒もうとどうしようと、明日は結婚の儀式だ」

 長老の顔が消えて、あとにはポッカリ黒い穴が口を開けているだけだ。

「どうする? 河童の子供、産まされちゃうよ」

 珍しくピリカが弱気な声を出した。

「なんて名前つけたらいいか分からない~」

 ノンノは、違うことで悩んでいた。

「そういうことじゃなくて。あの力、使えないのかよ?」

 言われたノンノは、きょとんとしている。

「あの森で妖怪を追いはらった力さ!」

 ピリカが怒鳴った。

「できないよ。どうやって、あんなことできたのか、自分でも分からないんだから。ピリカこそ、なんとかできないの?」

 実は、ピリカは、とっくに試みていた。長老が顔をのぞかせるたびにその顔に向かって憎悪の気持ちを集中させていたのだ。でも、なんの効果もなかった。結局、あの力が使えたのは、子供のころのあの一回だけだ。

「あのひと、どうしてるんだろう?」

 イクタラが、思い出したように言った。

「誰? あの狼男のことか? あいつが、どうにかしてくれると思ってるの?」

 バカにしたようにピリカが言った。

「そういうわけじゃないけど。約束したんだ。私たちに何かあったら助けてくれるって」

「そんな約束……。もう、とっくに忘れて、どっかに行っちゃってるよ」

「だよね」

 確かにそうだ、とイクタラも思った。


「長老様、長老様」牢獄から引き上げてきた長老をオワツが待ち受けていた。「なんで、おいらが選抜組に入ってないんですか? あの女たちを連れてきたのは、おいらなんですよ」

「確かにそうだな。だが、今回の結婚には、我が一族の命運が懸かっておる。こういう機会は、今後、いつ訪れるか分からないのだ。確実に質のいい子供を産ませる必要がある」

「それは、おいらの種が悪い、っていういうことですか?」

「良くはないだろう」

 その一言で十分だった。オワツは、頭も良くないし、魚を獲るのも下手、相撲も弱かった。落ちこぼれのイジメられっ子だ。必死で何か反論しようとしたが、すべての記憶が、その足を引っ張った。

「見回りは、どうした? 鬼たちが不穏な動きをしておるのだ。しっかりやってくれ」

 オワツはおとなしく引き下がった。「はい」という返事は、口の中でうごめいただけだった。


 ホモイとウバシは、こっそりと鬼のあとを尾けていた。獣道を登りきると、眼下に川が見えた。あの滝へとつながる川だ。いま、その川の周りには、五十匹ほどの鬼たちが群がっていた。鬼たちは、岩や大木を運んでは、川に投げ込んでいる。何をしようとしているのか? ホモイには分からなかった。だが、水の流れが緩み、下流に流れる水量が、目に見えて減りだして、鬼たちの目的が理解できた。彼らは、川を堰き止めようとしているのだ。川を堰き止めれば、川底への道が開ける。鬼たちは、河童の村を襲おうとしているのだ。


 昼も夜もない河童の村で、時間の感覚は失われていった。三人の少女は、また巡ってきた睡魔で、今が夜なのだろうと推測するだけだ。目が覚めて朝になったら、河童と無理やり結婚させられる。三人は、暗澹たる気持ちを抱えて、断続的な浅い眠りを繰り返していた。

 突然、天井の穴から何かが落ちてきた。三人は、もう朝が来たのか、とドキリとした。だが、それは、ツタで編んだ綱だった。

「お~い。起きてるか?」

 遠くから囁く声が降ってきた。松明の明かりに浮かんだのは、オワツの顔だった。

「それを上ってこいよ。今なら逃げられる」

 躊躇している場合ではなかった。三人は、綱をつたって穴から這い出した。穴の中の暗さに比べれば、外は、夜明け寸前のように明るい。

「なにたくらんでるんだよ? また、私たちを騙す気か?」

 ピリカの目は険しい。

「違うよ。あんたたちを助けたいんだ。長老のやり方は酷すぎる」

「よかった。あなた、悪い河童さんじゃなかったんだね」

 オワツの言葉を本気で信じたのはノンノだけだった。ピリカもイクタラも、半信半疑だった。でも、他に選択肢はない。今は、この河童を信じるしか。

「早く、こっちへ」

 三人は、無言のままオワツのあとに続いた。迷路のような地下道は、ときに上り、ときに下り、三人には、どの方角に向かっているのかも分からない。たぶん河童の世界でも真夜中なのだろう。静まり返った細道には河童一匹いなかった。

「この角を曲がれば、湖までまっすぐだ。湖にはナマズを待たせてあるから」

だが、先頭で角を曲がろうとしたオワツは、急に立ち止まった。三人の娘は、次々に彼の甲羅に追突した。

「まずい、戻って!」

 三人にも見えた。行く手の地面に座り込んで酒盛りをしている河童の一団が。

 三人と一匹は、岩の影に身をひそめた。

「他の道は?」

「ない」

 イクタラの問いにオワツが答えた。

「どうすんのよ?」

 ピリカの問いに答えはなかった。

 四つの頭がそれぞれに答えを求めてさまよっていた。もっともノンノだけは「どうにかる、どうにかなる」という呪文を唱えていただけだが。

「おいらがあいつらを引きつける」最初に答えにたどり着いたのはオワツだった。「その間に、あんたらは湖に」

 三人の反応をオワツは待たなかった。ひとり角を曲がって、酒宴に近づいていった。

「あいつ、案外、やるじゃん」とピリカ。

「確かに見直したわ」とイクタラ。

「ノンノは、最初からやればできる河童さんだと思ってたよ」のノンノが言った。

 三人とも熱い眼差しでオワツの背中を見つめていた。

「おお、オワツじゃねえか。おまえも、ここに来て一緒に飲めよ」

 オワツの姿に気づいて、三つ年上の河童が誘ってきた。

「ふざけんな!」

 オワツは、唐突に怒鳴って、地べたに並べられた酒甕や肴を蹴散らした。

「おい!何すんだ?」

 酒の入った酔っぱらい河童たちは、呆気にとられてオワツを見上げていた。

「バ~カ! バ~カ! ウスノロのできそこない!」

 声を限りに悪口を並べて、オワツは逃げ出した。地底湖とは反対の方角に。

「何だと?」

「逃がすな。あいつを!」

「追え!」

 河童たちは、一斉にオワツを追って走り出した。散乱した酒甕と肴を残して。

「今よ」

 イクタラたちが岩陰から姿を現した。

「河童さん、ありがとう」

 ノンノが、オワツが逃げていった方角に向かって手を合わせた。

「おまえは大した河童だったよ」

 ピリカも少し目がうるんでいた。

 だが、彼女らが、地底湖に向かって歩き出したときだった。

「おまえ、何のつもりであんなまねしたんだ?」

「頭おかしくなったんじゃねえのか?」

 河童たちが戻ってきた。あっさり捕まったオワツを引っ張って。

「あれ、人間の女だよな?」

 一匹の河童が、すぐに三人に気づいた。

「酔ってんのか、俺たち?」

 別の河童が目をこすりながら言った。

「そうそう。酔っぱらってる。私たち、ここにいないから」

 答えたのはノンノだった。

「人間だ! 人間が逃げたぞ!」

 人間にはとても出せないような声で河童が叫んだ。娘たちの耳が耳鳴りで痛くなるほどの。それは、ある種の警報だった。たちまち洞窟中に響き渡って、横穴という横穴から河童たちがあふれ出してきた。

「逃げろ!」

 ピリカが叫んだときには、もう三人とも逃げ出していた。

 河童の大群が地響きを立てて追ってくる。三人は角から角へ、横穴から横穴へと逃げ続けた。彼女らにとって唯一の救いは、河童の足が陸を走るのには適していないということだった。おかげで彼女らは、なんとかリードを保つことができた。だが、敵は地下道の中を知り尽くしている。角を曲がれば、そこにも河童が。横穴に入れば、そこにも河童が。いつしか袋小路に追い詰められていた。行く手をはばんだ岩壁を背に立ち尽くす三人。ジリジリと距離を縮める河童たち。その先頭には長老の姿があった。

「そろそろ諦めたらどうだ?」

 長老の言葉を彼女たちは無視した。

「結界を張ろう」

 イクタラが他の二人に囁いた。

「無理だよ。私たちには」

「やったことないもん」

 二人とも反対した。

「みんなで念じれば出来るって。やろう」

 他にやれることがあるとも思えなかった。三人は、手をつなぎ合わせて意識を集中した。何も起こらない。つなぐ手に力を込めた。眉間にすべての神経を集中した。血管が千切れるかと思った。不意に周囲の音が一切消えた。目の前で空気の粒子が渦を巻いて流れだした。やがて、それは青白い壁となって三人の前に直立していた。

「できた!」

「私たち、すごい!」

 三人は微笑みを交し合った。それでも、壁は、安定したまま存在していた。河童たちの間に動揺が起こった。

「行け!」

 長老の命令で、体のいかつい河童が一匹、青い壁に向かって突進した。砂ぼこりのように光の粒が飛び散った次に瞬間、その河童は弾き返されていた。河童たちの間に恐怖のざわめきが伝わっていった。

「どう? 諦めて私たちを解放しなさい!」

 ピリカが、自信満々に言い放った瞬間だった。結界に亀裂が走り、粉々に砕け散ったのは。三人は、呆然と立ち尽くした。

「小娘の作る結界など、こんなものだ」

 長老の高笑いが地下道に響いた。余裕を取り戻した河童たちは、ゆっくりと少女たちに詰め寄ってくる。あとは、あれを試すしかない。ピリカは、長老の眉間のあたりに意識を集中した。やっぱり効かない。いや、そうじゃない。しばらくすると長老が立ちくらみを起こしたようによろめいた。あわてて側近が支えている。もう少しだ。ピリカは、更に意識を集中した。

「あの娘を……」

 苦しそうに顔をゆがめながら、長老がピリカを指差した。それだけで事情を察した側近の口から水の糸がほとばしって、ピリカの顔面をとらえた。ピリカは、顔をおさえてうずくまった。とたんに長老は苦痛から解放された。

「早くあの娘たちを捕まえろ!」

 長老の命令で河童たちが殺到した。もう、三人にできることは悲鳴を上げることだけだった。

「少し早いが結婚の儀式を始めよう」

 長老が言うと、洞窟が期待の声でどよめいた。その時だ。

「大変です、長老!」

 誰かの泣き叫ぶような声が近づいてきた。河童たちは、一斉に声の方を振り向いた。一匹の河童が、群集を掻き分け掻き分け、長老のもとにたどりついた。緑色の顔が青く変色していた。

「水が……地底湖の水がなくなっています!」

 水は河童たちにとって生命線である。河童たちは、雪崩を打って地底湖に走った。三人の少女とオワツだけが、あとに取り残された。

「どうする?」

 ノンノが誰にともなく訊いた。

「とりあえず行ってみる?」

 ピリカを助け起こしながらイクタラが答えた。

 三人とオワツが、最後に駆けつけたときには、地底湖の水は、もうほとんど干上がっていた。弱った大ナマズが、虚しく尾ひれをバタつかせている。

「神の御怒りだ」「水神の祟りだ」「ウオロも、もう、おしまいだ」

 民衆は、口々に絶望的な言葉を叫んでいた。三人のことなど、もう眼中にない。

「鬼だ!」

 誰かの悲鳴が聞こえた。その言葉を引金に、河童たちが、少女たちの方に鉄砲水のように押し寄せてきた。三人を押しのけ、突き飛ばし、我先にと横穴に逃げ込んでいく。三人は、踏み殺されないようにするのに必死だった。やがて、嵐のような群集が過ぎ去ったあとには、数名の戦士と長老だけが踏みとどまっていた。彼らは、数十匹の鬼たちに包囲されていた。中の一匹が、長老の喉首をつかんで吊るし上げた。

「おとなしく青い石を渡せ」

「あれは、ウオロの宝じゃ」

 鬼の拷問に長老は抵抗していた。

「じゃあ、死ね!」

「わかった! 渡すから放してくれ」

 長老の抵抗は、あっけないほど短かった。

「長老!」

 部下たちの嘆きの声も気にしてはいられなかった。命あっての権威なのだ。

「あの石を持ってこい。早く!」

 しぶしぶ側近の一匹が駆けていった。やがて青く妖しい光を放つ石を抱えて戻ってきた。イクタラたちは、三人とも、その輝きに見覚えがあった。ホモイの槍の先についている石と同じ輝きだった。長老は、側近からその石を受け取ると、鬼の指揮官に見せた。鬼は、その輝きの針に思わず顔をそむけた。

「長老、情けないですよ!」

 オワツが、こらえきれずに絶叫していた。鬼たちの視線が一斉にオワツの方に向けられた。当然、その近くにいたイクタラたちの方にも。

「ほお、人間の娘か。ついでに、こんな獲物まで見つかるとは」

 鬼の口が、うれしそうに耳まで避けた。

「長老! いつもの偉そうな口は、どうしたんですか?」

 日頃から鬱積していた憤懣が、オワツの口をついて出た。

「うるさい! 黙ってろ!」長老も、オワツに怒鳴り返した。「ジジイをなめるな!」

 そう言うと、長老は、手の中の石を投げつけた。オワツにではなく鬼の顔面に向かって。青い光が爆発して、血潮が飛び散った。鬼の首から上がなくなっていた。

 指揮官を失って鬼の軍団は混乱した。いや、混乱の原因は他にもあった。イクタラたちには見えないところから鬼の断末魔の絶叫が聞こえてきた。

「ホモイだ!」

 最初に見つけたのはノンノだった。イクタラにも、ピリカにも、すぐに分かった。ホモイが、あの槍で鬼たちを追いたて、突き刺し、破壊しているのだ。

形勢が有利になったのを見た河童の軍隊は、体勢を整え直して反撃を開始した。口から放水する水鉄砲の一斉射撃が、鬼たちを襲った。水の弾丸は岩をも砕く威力があった。鬼たちは傷だらけになって後退した。そこをホモイの槍が突き刺した。やがて、最後に残った数匹がほうほうの体で逃げていくと、河童たちの勝鬨が地下の世界に響き渡った。


「本当に申しわけない。許してくれ」

 長老は、イクタラたちの前に土下座して平たくなっていた。それを見た彼の民たちも、同じように平たくなった。

「あやまりゃいいってもんじゃないんだけど」

 ピリカの怒りは、まだ、くすぶっていた。

「いったい何であんなことしたんですか?」

 イクタラだって許したわけではないが、納得できる理由があるなら聞きたかった。

「ウオロでは、なぜか百年前から女の子が生まれなくなったのです。いま村にいる女たちは、もう子供の産める年ではない。このままでは、村は滅びてしまう。だから、村のためにやむを得ず」

「河童さんたちも大変なんだ~」

 ノンノは早くも同情していた。

「なら、子作りの協力を?」

 長老の顔に希望の光が射し込んだ。

「だからって、そうはならないの!」

 ピリカが、頭をもたげた希望の芽を踏みつぶした。

「でも、なんで女の子が生まれなくなったんだろう?」

「きっと川の水に原因がある!」

 イクタラの疑問に答えたのはオワツだった。

「おいらのジイさまが言ってた。子供が生まれなくなるちょっと前に、水の味が変わったって」

「よけいなことを言うな、オワツ」長老がたしなめた。「そんなことを言っておるのは、あのジイさまだけだ。あの変わり者の言うことなど信用できん」

「ジイさまは、変わり者なんかじゃない!」

 オワツは、目に涙を浮かべて抗議した。

「あの、私たちに調べさせてもらえますか? 原因を突き止められれば、また女の子が生まれるようになるかもしれないし」

 イクタラは、気がついたときには、そう言っていた。ピリカの視線がきつくなったが、口から出たものは元に戻せない。

「本当に、そんなことができると?」

 長老のすがるような眼差しが、イクタラの目を見上げていた。

「わからないけど……頑張ってみます」

 語尾が力なく萎んでいった。

「正直な方だ。あなたのことを信じましょう」

 長老は、もう一度、地面に額をすりつけた。

「で、どうすんのよ?」

 勝手にことを決めてしまったイクタラに、非難の色をにじませてピリカが囁いた。

「とりあえず川上を調べてみたらいいんじゃないかな?」

 イクタラにも自信はなかった。

「行くなら、おいらも連れていってくれ。川のことなら、あんたらより詳しい」

 一度はだまされた河童の言葉だ。イクタラは、ピリカとノンノの表情をうかがった。

「まあ、なんかの役には立つんじゃない」

 そう言って、ピリカは、そっぽを向いた。

「大勢の方が楽しいしね」

 ノンノが言うと遊びにでも出かけるように聞こえた。

「オワツ、河童族を代表して行ってくれるか?」

 長老の思わぬ言葉だった。

「おいらが、河童族の代表?」

 オワツは、直立不動で感激していた。

「わしらは、第二の住みかに移動する。ここは、もう安全な場所ではなくなってしまった。鬼たちは、宝の石を狙っているようだし」

 そう言って、長老は、イクタラたちの後ろに控えているホモイの方に目をやった。

「あんたのその石、どこで手にいれた?」

「話せば長い」

 ホモイの答えは、それだけだった。あとは沈黙。

「この宝は、初代長老の時代に空から落ちてきたと伝えられておる。その槍についてるのとは、おそらく兄弟だろう。あんたたちとの出逢いも、この御宝の導きかもしれん」


 その洞窟は、硫黄の臭いに満ちていた。陽の光も届かず、中を照らすのは、ゆらゆらと浮遊する鬼火だけ。今、その洞窟に一匹の傷ついた鬼が、よろめきながら、たどりついた。

「ヤテブさま、ヤテブさま」

 力尽きひざまずいた鬼の目の前に、一匹の鬼女が現れた。

「どうした、その姿は? 河童の石は、どうしたのだ?」

 鬼女は、鬼の傷などには全く関心がないように見えた。

「申しわけありません。思わぬ邪魔が入りまして」

「邪魔だと! では、しくじったと言うのか? この役立たずが!」

 鬼女は、持っていた鞭で鬼を滅多打ちにした。鬼の慟哭が、洞窟にこだまし、コウモリが騒いだ。

「エンレラ。もうよい」

 闇の奥から女の声が響いた。鬼女は、鞭打つのをやめて、すぐに声の方にひざまずいた。

「ヤテブさま、ウオロへの侵略部隊は、情けなくも失敗をしたようにございます」

「そうか。何があったか教えてもらおうか」女の声は穏やかで寛大そうに聞こえた。「おまえの首に」

 その鬼が女の言葉の意味を理解する暇はなかった。女の声と同時に、鬼女が鋭い爪を振り下ろしたからだ。転がった鬼の首を拾い上げると、鬼女は女のもとに持っていった。女は、鬼の縮れた毛髪をわしづかみにして目をつぶった。女の脳裏に、断片的な映像が瞬いた。

混乱する鬼たちを片っ端から突き刺していくホモイ。砕け散る鬼の体。槍の先に光る青い石。

「こんなところにもあったとは。それにこの男……」女の唇にうれしそうな冷笑が浮かんで消えた。「エンレラ、今度は、おまえが自ら出向け。そして、この男の槍を手に入れてくるのだ」

 女の指が鬼女の額に触れると、鬼女の脳裏にもホモイの映像が雪崩込んだ。

「そして、この男も連れて来い。この男の中に流れる血とともにな」

「はは!」

 鬼女は、一陣の風になって洞窟から出て行った。あとには、女ともうひとつの影が残った。

「そろそろお前にも働いてもらわなくてはね」

 闇の中で、血の色をたたえた二つの目が、妖しく光って見えた。

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