10 酔いどれディナータイム

 慎重かつスリリング。帰宅に神経をすり減らすような経験は、人生で後にも先にもこれ一回だろう。

 いや、そうであってくれ……。


 帰宅して玄関先で待っていたのは父さんだった。


「ルイ、無事だったか……」

「えへへ……色々と、ごめんなさい」

「いいんだいいんだ。無事ならそれでいい」


 わしわしと、頭を強めに撫でられる。


「父さん、やめぇ」

「ははは、スマンスマン」


 そして、隣にいるベガを見つめる。

 上から下までじーっと見つめ終えると、笑顔になった。


「君が、ベガだね」


 ん……? どこか表情が硬い気がする。理事長の時もそうだったけど、口角が若干下がっているというか。

 隣にはユメも居た。やはり不思議そうな目で彼を見ている。

 無理もないか。境遇が不思議というか、不自然そのものなわけだし。


「よろしくお願いします」


 ぺこりと、結構深めに頭を下げる。何というかその様は、いいトコ出の礼儀正しい子だった。

 ベガって丁寧語を使わないイメージがあったけれど、しっかり使うんだね。

 僕の家族だから、そんなに警戒してないってことなのかもしれない。


 この言葉と礼儀正しさに安堵したのか、父さんはふうと胸をなで下ろしている。

 とりあえず抜き打ち検査(のようなもの)には受かった様子。


「さて、立ち話も良くないだろう。上がりなさい」


 父さん……いつもよりカリスマ度増してる気がする。

 父親の威厳っぽいものがにじみ出ているが、僕にはわかる。無理をしている。そう長くは持たないな、多分直ぐに崩れるだろう。


 僕はベガをリビングに案内していく。

 玄関を上がって、すぐ右にリビングがある。非常に分かりやすいと思う。


 リビングに入ると、美味しそうな焼けたハンバーグの香ばしい匂いが漂ってくる。

 美味しそう……。


「ふへっ」


 思わずその声を出したのは僕ではない。ベガだ。


「お肉もそうだけど……いい匂いだなぁ……」


 一体何のことを言っているのだろうか。気になる所であるが、夕食になったら聞くことにしよう。


「ってベガ! よだれがっ」

「はっ……」


 瞬時に口を手で覆い隠すベガ。包帯が巻かれた手が一瞬見て取れるが、もう既に血は止まっているようで、本人痛そうではない。

 それよりも、恥ずかしい所を見られたと言わんばかりに顔が真っ赤だ。トマトみたい。


「う、ルイ……拭くもの、あるか……?」

「はい」

「ありがとう……」


 リビングに置いてあるティッシュを渡す。

 見えないように隅っこに行って、ふきふきとするベガ。

 その動作一つ一つが何だか可愛らしいというか、本当に男の子なのかと感じてしまうものが多い。

 あざとくない可愛らしさと言えば良いだろうか。普通の女子でもこんな子なかなか居ないと思う。


「さあ、二人とも、腹が減っていることだろう。まずは夕飯だ―」


 いい匂いによって食欲が増していたし、丁度良かった。

 ベガも笑顔だ。物凄く嬉しそう。

 本能に忠実なのかな。さっきまでは表情が読めなかったのに、今なら手に取るように判る。というか判りやすい。


 この後二人で手を洗ったが、説明をせずとも、彼は分かってくれた。

 もしかしたら、習慣付いていることは、何となく覚えているということなのかもしれない。

 後に分かったことだが、トイレや歯のブラッシング、更にはお風呂等、必要最低限のことは基本的に理解していた。


 そして全員がキッチンに着席し、いただきますと言う。

 ベガは多少もたついたものの、見様見真似で乗り切っていた。


 本日のメニューは、ハンバーグとサラダ。

 先ほどのサラダ予想は当たりで、あったのは『我が家のサラダ』だ。

 一点違ったのは、トマトだけは切られたものが別の皿に盛られていたという点だ。


 テーブルマナーとか分かるだろうかと思いつつ、隣のベガをチラリと見やる。

 驚いたことに、綺麗にこなしている。

 ナイフとフォークの持ち方も完璧だし、しかも音を立てずにハンバーグを切り分けている。

 ……もしかして、僕より上手いんじゃ……。いや、そんなはずは。

 ってか怪我をもろともしないその姿勢、凄まじい……。


『カチャン』


 あぁあ、鳴っちゃった……。

 って、ユメがニヤニヤしながらこっち見てる……!


「な、何?」

「お兄ちゃん、わかりやすいの」


 笑顔で言われた。まずい。考えが読まれている。間違いない。ユメはそういう子だ。

 ぐぐぐ……絶対にもっと上手くなってやる……。

 ベガにも負けないぞっ!


 ふと、ベガを見る。


「……えへ、へへへ」


 何をそんなに喜んでいるのか。と思ったけれど、ヘタが空いた小皿に置かれている所を見るに、トマトを食べているようだ。

 恍惚とした表情でもぐもぐとゆっくり咀嚼して、しっかり飲み込んでいる。

 はぁむ、っとまた一つ、口の中に消えていく。


 ――そればっか食べてない!?

 あぁ……サラダのトマトが消えていく……。


「これ、おいしいなぁ。ふへ、へ」

「そっか、良かったね、ベガ」

「うん、いいにおいらった、おいひい……」


 ん……?

 若干呂律が回っていないような。

 どういうことだろう。

 僕は顔を覗き込む。


 ベガの顔、真っ赤だった。まるで、酔っぱらった人みたいだ。

 目がとろーんとして、今にも変なことをしでかしそうな、なんかちょっとヤバい感じの人と同じになっている。まるで溶けたスライスチーズだ。


「父さん、これって」

「ふぉ? 俺か? 多分その、なんて言ったら良いんだろうなぁこの感じさあ。何かさあ、気持ちいいんだよぉ。缶ビ、缶ビ、ああ違うわこれ。つか俺ビール苦手だったわ! あっははははははは!!」


 親父、お前もか。ボケてしまわれたご老人みたいになってしまってるじゃないか……。


「ハンバーグ、おいひい……。トマトも、おいひい。えへへ、ぽわぽわすりゅぅ……」


 まあ酔っているだけなら別段問題になるわけでも無さそうだし、とりあえず放っておいていいかもしれないな……。




 酔った二人を放置してから数分が経過。

 ハンバーグは既に食べ終え、残ったサラダとどのように格闘しようか悩んでいる時だった。

 突然、ベガに左腕を「ふみゅっ」と抱きしめられる。


「るーいー、とまとちょうだーい……」


 顔の赤みがさらに増して、お前がトマトかと言わんばかりの色になっている。

 うるうると、上目遣いでこちらを見てくる。

 そんな目で見られたら、本当に、ドキドキしてくる……。変な気分になってくる。


 そんな僕の反応を知ってか知らずか、彼は更に、僕の腕をぎゅーっとして、まとわりついてくる。


「ねーえー……とーまーとー……」

「えーちょっと待って、頬ずりまで……」


 どうしよう、かわいい。


 これが男の子なのか、本当に。

 こんな子が、女の子じゃないなんて……。


「こんな子が、女の子じゃないなんて……」

「頼むから心を読まないで」


 また、ニヤニヤとこちらを見ているユメ。

 こっちは君の心が読めなさ過ぎて困ってるよ。心理を見透かせる少女か君は。


 うーん……僕はそこまでトマトは好きじゃないし、あげてもいいのかなぁ。

 別にベガがこうやって甘えてくれるのに、別段抵抗は無い。寧ろベガならいいかなと思える。

 どうして会って間もないのに、ここまでの感情になれるのかが不思議だよ。


 僕は盛り切りされていたトマトを、フォークでベガの器に移す。


 ベガは不服そうだった。


「何で!?」

「お兄ちゃん、乙女心がわかってないの」


 いや、違うよ。男の子だから……。

 ユメへのツッコミには疲れてきたので、心の中だけにとどめておく。


「こういう時、口まで運んでいくの」

「え、えぇ……」


 ベガをチラ見する。


 目がキラキラしている。


「それ!? 求めてるのはそれなの!?」


 酔っぱらうと普段は抑えているリミッターか何かが外れるのだろうか。

 仕草が完全に女の子のそれだ。


「るいぃ……。あーん……」


 口をこっちに向けてくる。

 ああ、ああぁあ。

 うぅ……ええい、ままよ!


 僕は意を決してトマトをベガの口まで持っていく。


「は、はい、あーん……」


 とろぉんとした目つきで、ふわりと口を、プチトマトが入るぐらいに開く。

 求めていたものが目の前に来たのが、それほど嬉しかったのだろうか。

 ゆっくりと獲物トマトに近づいて、きゅぷん、はむり。

 ……もきゅもきゅと噛みしめ始める。


 そして飲み込んだ。

 ぱあっと笑顔になる。


「ありあとぉ」


 いえいえどういたしましてと、僕は引きつった笑顔で答える。


「若干幼児退行化してない?」

「酔うって面白ーい」


 ええ、こっちは何も面白くないんだけど。寧ろ怖いってジャンルに入るんだけど。


「えへへへへ~」


 またも腕に絡みついて、頬ずりを始める。

 会って間もない人にここまで心を許すベガもなかなか凄いよなぁ……。


「お兄ちゃんって、会って間もない人にそんな気を許すんだね」


 ちょっと呆れたようにユメに言われる。顔は相変わらずニヤついてる所がなんだか腹立たしい。

 というかこれ、どちらかと言えばベガが気を許している気がするんだけど……。


「なんか、特別な感じがするから、かな」


 理由といっても、これぐらいしか浮かばないや。僕もベガに悪い気持ちは持ってないし。


「ふふぇ……わたし……とくべつ?」


 じーっとこちらを見つめるベガ。

 何だろうと、思い、こちらも見つめ返してみる。


 すると、今度は酔っているのとはまた別に、もっとこの子の顔が赤くなっていくのを感じる。


 それを自分でも感じたのか、それを隠すためなのか。


「えっベガ、な――ン」


 突然ベガのその真っ赤な顔が近づいてきて、そして口の中に広がっていく、甘いトマトの味。

 美味しいけれど、それ以上は考えられない。

 思考と、そして呼吸が停止してしまった。


「ふへへ……うれしい。ごちそうさまぁ」



 僕の唇は、初めては、この日、ベガに奪われてしまったのだった。




 それから数十分が、本当に長かった。

 キスされた後に、恥ずかしながら僕は泣いてしまったのだ。

 ユメはそれを見て笑う笑う。

 まあこれだけなら何も苦労はしていないのだが、この後が問題だった。


 なんとそれを見たベガも、拒絶されたと勘違いしたのか泣き出してしまったのだ。

 まるで収拾がつかなかった。行ったり来たりである。


 しばらくして、僕も落ち着いてきて泣き止めば、ベガも泣き止んでまた僕に甘え始めてきて。

 口の中が涙の味でしょっぱい中、必死に相手をしていたら、段々とベガは反応が鈍くなってきて。


 気付けばそのまま眠ってしまった。


 スヤスヤと寝息をたてて眠るこの子にもやはり、女の子らしさが付きまとっている。

 見てると何だかモヤモヤしてくる。不思議な気分だよなぁ……。


 それから僕は、ベガをお姫様抱っこでリビングのソファーまで運んでいった。

 あの時は焦っていたから気付かなかったけど、背中も結構柔らかいんだなぁこの子。ぷにっとしてた。


 …………何考えてるんだ僕。

 ブンブンと首を振って、変な感覚を抑え込む。ああもう、ベガが変なことするから。


 酔うと生き物はおかしくなるんだね。ベガを見て確信した。

 今までは父さんしか見たことが無かったし、酔った人がどうなるかはあんまり意識してこなかった。父さんが酷いから何となく察していた程度だ。

 あくまで推測だけれど、どうやら酔っぱらうと、その人自身が普段考えもしないことを言い出すケースがあるということも分かった。


 うーん、将来お酒は飲みたくないなぁ。こわい。



 僕は夕食の席に戻って、すっかり冷めてしまったハンバーグの残りを平らげる。


「何だか、物寂しい気分……」

「ユメじゃ不服?」

「いや、そういうことじゃなくて」

「いいの。ユメも新しい恋を見つけたから」

「そうじゃないって」


 どうして僕の周りには話を聞かない人が多いのだろう。


 そんなことより新しい恋って一体何があったの!?

 というより今まで恋人居たことあったっけ!?


 ……衝撃の事実。妹は兄より優れていたのだ。今の心境を表に出さないよう細心の注意を払いつつ、そして忘れようとしつつ、気分の意味を答える。


「きっと、ハンバーグが冷めちゃったからだよ」

「本当にそうなの?」


 うん、きっとそう。

 僕はそう自分にも言い聞かせて、もぐもぐと食べ進めた。

 でも、サラダだけは残した。何だか食べる気になれなかった。


 父さんは寝ていたが、とりあえず放置しておこう。あ、とりあえず毛布はかけておいてあげよう。




 食器の後片付けを終えて、これから何をしようかと悩んでいる時のこと。

 とりあえず、ベガはしばらく起きる気配が無いため、毛布をかけてあげた。

 ユメは部屋で、今ハマっている本を読むらしい。変わった小説だってことは知ってる。


 僕はというと、自室に入って、とりあえず中学側から出された課題を片付けることに決める。

 小学校は卒業したのだから、課題なんて無いと思い込んでいた自分が甘かった。次に縛られるらしい一つの世界による支配は、既に始まっていたのだ。

 春休みのその全てを遊ぶことに使おうと考えていた身としては、これ以上ない悲しみだ。


 恐る恐る、課題が記されたプリントを見る。


 うわ、結構ある。

 一日二日で終わる量じゃないぞこれ……。

 おまけにこれ、まだ出来ないじゃないか。


 課題をやるには、中学で使う教科書が必要だった。

 要は、まだ教科書を購入していないのだ。正確にいうと、購入できない。

 近くの本屋さんで、特定の期日以降にまとめ買いしなければならないお約束らしい。なんじゃそりゃ。


「偉い人の考えることは、理解できない」

「そうそう、理解できない」


 …………。

 僕、今誰と話してるの?


「はぁ……顔を見れば思い出す」


 僕は恐る恐る後ろを振り返る。


 一度見たら忘れない。

 そんな、あの森で出会った金髪の米国メルカ系美少女がそこに居た。


「どうやって入ってきたの?」

「壁なんて、有って無いようなもの」

「そ、そうなんだ……」


 相変わらず、意味の解らないことを喋るなあ。


「あなたに理解される必要もないから」


 酷いなあ。まあいいけど。


「手短に話す。一つは、食べ物には気を付けること」

「食べ物……どうして?」

「今日あったことをよく考えてみて。そうすれば、きっと答えは出るはずだから」

「曖昧だなあ」


 今日あったこと……。うーん。


「二つ目。眠った後に見る夢。あなたはそれに気を配る必要がある」

「夢……。」

「現に、あなたは既に一つ、大切にすべき夢を見ている」


 いまいち、ピンとこないというか……良く解らない。


「わからなくたって別にいい。所詮あなたの人生だから」


 この子、前から思ってたけど随分と辛辣だよな。

 助言はするけど意図や意味は一切言わない。意地悪だ。


「意地悪でいい」


 少しだけムッとしている。

 自分に関してはあまり触れられたくないのかな。

 ごめんよ。


「そうだ、名前だけは教えてよ。前聞けなかったし」

「どうして話さなきゃいけないの」

「お互いを知るため……かな」


 コミュニケーションをとるためには、まずはお互いを知ることが大切だって誰かが言ってた。

 この少女は僕のことを理解しているみたいだから、今度は僕が知る必要があると思うんだ。


「――……音咲オトサキ 鈴香スズカ

「鈴香か……。良い名前」

「思ってもいないことを言わない方がいい……。用は済んだ。あなたももう話はない。さようなら」


 巻きに入ったかのような若干の早口で、半ば強引に締めくくっている。確かにもうこちらから聞きたいことは無くなってしまったけれど、そんな言い方は無いだろう。


 そして、その言葉を言い終わったところで、彼女はフッと姿を消した。

 彼女が一体何者なのかはわからない。


 でも、何か大切なことを教えてくれるかもしれないとは、薄々と感じてきたのだった。

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