もうひとつの還る場所

「あなたは私の敵です」


 拙い軌道で刃が何度もアカツキの前を行き来する。彼女は決して戦い慣れている訳ではない。まるで刃に振り回されているかのように手元が覚束ない。だが、彼女が目の前にいるだけで、アカツキの脚は止まってしまう。


「俺が君をここから連れ出す。だからもう、この国の為にこんな君が戦う必要なんて無いんだ」


 刃を必死に振り回す彼女の眼が潤んでいる。彼女は心の中で、奴隷としての使命と葛藤している。彼女にこんな顔をさせるこの国を、そんな辛い思いをさせるこの国を、絶対に許せない。


「帰って!!」


 歯を食いしばりながら、その瞳に涙を浮かべた彼女が、刃を大きく振りかぶって、アカツキに向けてその刃を思い切り振り下ろした。


 金属同士がぶつかる甲高い音が人気のない廊下に響き渡る。その衝撃で彼女の持っていた刃が、彼女の手から失われる。刃を失った彼女が、アカツキを追い返す手段を失い項垂れる。


「もう、君がこんなことする必要はないんだ」


 アカツキが彼女へと手を伸ばそうとした瞬間、彼女の瞳が不意に揺らぐのを感じた。そしてその視線はアカツキではなく、その後ろに向けられている気がして。


 アカツキは振り向きざまに刃を後ろに振りぬき、襲い掛かってきた刃を受け止めて、そのまま彼女を飛び越えて、背後に飛び退いた。


「ちっ、もう少しで賊の首を切り落とせたのに」


 そう吐き捨てるように言いながら、彼女の元へと近づいていく一人の兵士。そして、彼女を一瞥すると、何の躊躇もなくその腕を振り払った。


 手加減のない平手打ちが彼女に襲い掛かる。その衝撃に彼女は地面へと倒れこみ、動かなくなる。


「何をっ!!」


 突然の出来事にアカツキも戸惑いを隠せない。あまりの出来事に怒りが湧くよりも前に、目の前の事態を受け入れられずにいた。


「お前が役に立たないから、賊を取り逃がしたじゃねえか」


 侮蔑するような視線で彼女を見下ろしながら、ついには彼女の頭を脚で踏みつける。声にならない悲鳴が、喉の奥を這い蹲るように彼女から漏れ出す。


「辞めろっ!!」


 悲鳴にも似た声がアカツキから発せられる。ようやく事態を飲み込めたアカツキの中で、一瞬で怒りの炎が燃え上がる。その怒りに任せて、脚を踏み出そうとした瞬間、兵士の声によってその脚は止められる。


「おいおい、動いたらこの女の命は無いぜ」


 彼女の髪を引っ張りながら、男は無理やりに彼女を立ち上がらせる。そしてその首元に剣の切っ先を突きつけ、憎悪を煽るような醜い笑みを浮かべる。


「感謝しろよ。奴隷のお前に意味を見出してやってるんだ。良かったな、人間様の役に立てて」


 男はそんな言葉と共に、銀色の光をちらつかせながら声を上げて高笑いする。アカツキが動かなければ、男が彼女に手を出すことはないだろう。それくらいのことを判断できるくらいには、アカツキの頭は何とか冷静さを保っていた。


「さあ、この女を殺されたくなければ自害しろ。そしたら、この女は助けてやる」


 男の醜い笑みに歯噛みする。謝った判断をすれば、彼女の命はないだろう。恐らく、男は彼女を手に掛けることに躊躇しない。だから、軽はずみに動くことはできない。


 彼女を助けることはできない訳ではない。だがそれは、自分の中の決意を踏みにじる行為だ。それに、その行為が本当に彼女の為になるのだろうか。


 彼女は自分に刃を向けた。彼女は変化など望んでいないのではないだろうか。自分が勝手にわかった気になって、一人で暴走しているだけではないのだろうか。レジスタンスの時と、同じように。


 わからない。何もわからない。どうすればいいのかわからない。


「早くしろ!!この女がどうなってもいいのか」


 男は怒鳴り始める。更にその刀身を彼女に寄せて、少しでも動かせば彼女の柔肌に切っ先が喰い込む距離に近づける。


 どうすればいい。彼女を見捨てれば、アカツキの思いは土台から崩れ去る。そうなれば、最早ここにきた意味がない。だが、彼女を助けるためには、自分の中の決意を裏切らなければならない。何かを切り捨てなければ、全てを失うことになる。


 何をどうすれば、この袋小路から抜け出せる。何をどうすれば、後悔しない選択肢を選び取ることができる。


「変わりたい……」


 アカツキが思考の海に溺れていると、不意に呟くような小さな声が、アカツキの鼓膜を震わせる。それが彼女から発せられた声だと理解するのに数秒を要した。けれど、それを理解した瞬間、アカツキの思考の海から這い上がれるような気がして。


 いつか、彼女に尋ねたことがある。『君は、変わりたい?』と。あの時、彼女は答えてくれなかった。そんなことを望んではいけないと、そんなことを願ってはいけないと、自分の思いに蓋をしていたから。


 けれど彼女がその殻を破ろうとしている。この世界の外に飛び出そうとしている。ならばもう、迷う必要はない。自分の決意を曲げようとも、自分は彼女を救いたい。


「私は変わりたい。だから私を、連れ出して!!」


 聞いたことの無い程大きな声で彼女は叫んだ。もう迷いはない。迷っている暇はない。


 その叫びを聞いた瞬間アカツキは地面を蹴っていた。男が彼女の叫びに意識を取られている隙をアカツキは逃さなかった。男がアカツキの接近に気付いた時には、既にアカツキの刃が男に届く場所にアカツキは辿り付いていた。


「彼女から、離れろっ!!」


 炎を纏ったアカツキの刃が、彼女の頬を横切りながら、男の肩を貫く。鮮血が飛び散り、肉を焼く音が鼓膜に焼き付けられる。生身を焦がすその臭いが、鮮明に鼻腔に刻み込まれ、死の臭いとして海馬に記録される。


「あああああああぁぁぁぁぁ」


 男が痛みと熱に悲鳴を上げる。肩を貫かれた男は、既に手にしていた剣を手放して床に落としていた。その勢いのまま、彼女から男を突き放すように、剣を肩に突き刺したまま壁に叩きつける。


 ひゅう、ひゅうと、まるで喉から空気が漏れるような音を鳴らしながら、男は虚ろな目でアカツキを眺めていた。その間も男の肩からは、鮮血がドロドロと流れ落ちていた。


「俺はあんたを、許さない」


 アカツキもまた、痛みに耐えるように歯噛みしながら、その男の虚ろな視線を受け止めていた。


 やがて、男の目から光が失われ、ゆっくりと瞼が落ちていく。そして、漏れるような吐息の音すらも失われた頃、アカツキはようやく男から、刃を引き抜いた。


 ベタリと壁に赤黒い痕跡が残る。自分の行動に後悔は無い。けれど、望んだ結果ではない。


「どうして、分かり合えないんだ……」


 こんな辛く、哀しい気持ちにならなくて済む世界が、自分たちが進む未来にあるのだろうか。こんな気持ちになるのは、もう自分たちだけで十分だ。


 アカツキは紅く染まった退魔の刀に視線を向けながら、自らが思い描いた未来を、これまで以上に強く願う。誰もが悲しまなくて済む、そんな理想の未来を。


 不意に、背後に気配を感じて後ろを振り返る。もちろんそこには、俯いて表情を隠した彼女の姿があった。命が助かったとはいえ笑えるような、そんな状況ではない。


「ごめんなさい……」


 彼女が真っ先に口にしたのはそんな謝罪の言葉だった。それが何に対する謝罪なのかアカツキにはわからない。彼女は何を思い、その言葉を口にしたのだろうか。


 だから、その謝罪への答えは伏せながら、それでもアカツキは、彼女にこれ以上心配させないために、努めて明るい表情を浮かべる。


「俺は大丈夫だよ。君こそ、大丈夫だった?」


「大丈夫なんて、嘘ですよ。だって、あなたとても哀しい顔をしてます」


 きっとそうなのだろう。自分でも、隠せている自信が無かった。


 哀しいことが嘘では無いし、人に手を掛けたことに哀しいと思えなくなったお終いだと思う。でも、後悔はしていない。彼女を救えた事を、素直に良かったと断言できる。


「確かに哀しいかもしれない。でも、君を救えたことに後悔はない」


 嘘偽りのない真実を彼女に伝える。『変わりたい』という彼女の必死な叫びが、自分を動かしてくれた。それが無ければ、自分は全てを失い、後悔の海に溺れていただろう。


「だから俺は、君の口から謝罪じゃなくて、感謝の言葉を聴きたいな」


 今度は本当に、哀しい表情を隠すためなどではなく、心からの優しい笑みを浮かべる。そんなアカツキの表情に、驚きを隠せないといった表情を浮かべながらも、彼女もまたそれに答えるように晴れやかな笑みを浮かべた。


「助けてくださって、ありがとうございます」


 その笑顔はとても美しく、まるで哀しみが洗い流されていくように、清清しい気持ちに包まれた。


「俺ずっと、君の名前を聞きたかったんだ。教えてくれるかな?」


 出会ったあの日からずっと聞けずにいた彼女の名前。今はもう、踏みとどまる理由なんて何処にもない。彼女と自分を隔てる壁は、アカツキの手によって砕かれたのだから。


「アリス……。私の名前は『アリス・スカーレット』です。あなたのお名前は?」


「俺は『アカツキ・リヴェル』。君の名前、とても綺麗だと思う」


 素直な感想だった。質素な姿をしていても隠し切れないほどの綺麗な顔に合った、綺麗な響きの名前だとそう感じた。だから特に他意が合ったわけではない。


 けれど、目の前で少し頬を赤らめているアリスを見て、自分が何を口走ったのかようやく理解する。けれどそれが本心だったので、今更弁解するつもりも無い。


「これからアカツキ様はどうするのですか?」


 アカツキがここに来た目的は、ある意味彼女を助けることだった。彼女と出会い、彼女と言葉を交わしたからこそ、アカツキは今ここにいる。


 けれど、ここで終わる訳にはいかない。自分が下した決断を信じて、今もまだ一人で戦っている親友がいるのだから。だから、この国の奴隷を解放するまでは、ここを離れる訳にはいかない。


「俺はこれから、ガリアスと戦ってくるよ」


 アリスの表情に暗雲が立ち込める。アカツキも何となくその理由を察する。彼女もこの王宮に住まう人間だ。ならば、ガリアスの強さを知っていてもおかしくは無い。その強さを知っていれば、彼に立ち向かおうとする者を止めようとするのも頷ける。


「いかないでください、と言っても、きっと聞いては下さらないのですよね……」


 アカツキがどう答えるのか、アリスは既にわかっている。その願いを聞けるのであれば、そもそもアカツキはこの場にいないだろう。


「うん。俺を信じて、戦ってくれている友達がいるから」


 友との約束を果たすために、アカツキは恐怖を勇気に変えてここにいる。だからもう、そろそろ行かなければ……。


「私にはアカツキ様を止める権利も力もありません。だから、私はこれ以上何も言いません」


 アリスは首を横に振りながら、諦めたように寂しい笑みを浮かべる。送り出したくはないけれど、送り出す他に道が無い。だから、彼女もまた送り出す覚悟を決めたのだ。


「でも最後に一つだけ言わせてください」


 それでも、彼女にも譲れないものがある。これだけは、伝えなければならないことが。


「どうせなら、私を最後まで救い出してください。生きて私の元に帰って来て、私をこの国から救い出してください」


 傲慢な願いだと自分でも思う。勘違いも甚だしいのかもしれない。けれど、これがきっと彼の一番の力になると思ったから。これ以上無い勇気を振り絞って、彼女はその言葉を口にした。


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