背中あわせ・母の再婚
中学生だったある日、母さんが俺に塾の帰りに店に寄るように言った。
人が足りないのだろうか、と心配になった。ここのところ、長くいてくれたバイトの人がたてつづけにやめていって、店の状況は苦しそうだった。
十時半に店のドアを入った。閉店準備に入っているはずの店内には、なぜか見知らぬ人が二人いた。
ひとりは髪の短い中年男で、シミ一つない糊のきいたコックコートに深緑色のコックタイを締めて、カウンターの中にいた。
母さんが新しく人をやとったのだろうか、と思った。
もうひとりは俺と同じくらいの年格好の少年で、姿勢悪くカウンター席に座っていた。髪の毛はまだらに金髪になっていて毛先は透けるようにぱさぱさだった。耳にピアスをいくつもあけていた。その一つはまるで弾丸に貫通されたみたいな大きな穴で、鳩目のような金属の輪をはめていた。こちらは絶対従業員にしてはいけないタイプだと即座に思った。
少年の前には空になったコーヒー茶碗があって、二人は俺が来るのを長い間待っていたのだろうか、と思った。
母さんはなぜか恥ずかしそうにそわそわしていて、
「秋則です」
と二人に俺を紹介すると、ここに座って、とカウンター席を指さした。
俺が塾の鞄を隣の席に置いておずおずとそこへ腰を下ろすと、コックのおじさんはさっとキッチンに立った。
十分時、俺の前には料理を盛りつけたミートプレートが出されていた。
「ミラノ風カツレツよ。食べてみて」
糸のように切った紫キャベツの上に、丹念にのばされた仔牛肉がきつね色の衣をまとって横たわっていた。肉の真ん中には薄く切った輪切りのレモンが載り、さらにその上にハーブを練り込んだバターが丸く切り出して乗せられている。
てっぺんに飾られたグリーンの鮮やかなセルフィーユの葉が、一皿の雰囲気を上品にグレードアップしているようだった。
ああ、この人は本物のプロなんだ。俺はカウンターの中のおじさんを見た。中学生の俺にもそれを知らしめる風格ある一皿だった。
静まりかえった店内で、ぎこちなくナイフとフォークを使い、肉のひとかけらを口に入れただけでそれは確信に変わった。歯触りは、最初はさくさくして。そして肉の弾力がちゃんとあるのに柔らかくて。噛むたび肉汁が幸福な高揚感をもたらしてくれる。
「すげえ。俺、こんなおいしいカツ食べたことないです」
素直にそう言うと、コックのおじさんはいきなりコック帽をとってくしゃっと握り、俺に深く頭を垂れた。
一つ空席をはさんで座っていた不良少年が「だろ?」と急になれなれしく微笑んできた。
それが晶一で、コックのおじさんが父親の林田さんだった。
そこで母さんは、再婚を前提にこの人とおつきあいしてる、と俺に打ち明けたのだった。
林田さんは都内のホテルにあるイタリアンレストランで修行をした人で、そろそろ独立出店を考えていたらしい。しかし銀行は融資の条件に結婚していることをあげ、計画が難航していたという。
林田さんは母さんと二人で「花みずき」をやっていくことを決断した。
リーズナブルで質のいいランチメニュー、そして有名レストランにもひけをとらない本格的なディナーメニュー。料理に大幅にテコ入れされた店は新たな客層を呼び、経営はだいぶ楽になったようだ。
最近では、グルメサイトに隠れ家的な店として紹介されたりして休日のランチには行列ができることもあった。
「本当いうとね、俺が先にカヨコさんを好きになったんだよね」
晶一はだいぶ後で俺にそう言った。
カヨコとは俺の母さんの名前だ。晶一は家族になったあとも母さんをカヨコさん、と呼んでいた。
「オヤジにカヨコさん紹介しようと思って『花みずき』に連れて行ったんだよ。『俺、中学卒業したら高校行かないでこの店手伝うから』って言うつもりだったんだ。そしたら、あれだ。父さんのほうがカヨコさんにのぼせ上がっちゃって。まあ、血は争えないっていうか。でもそうなったもんは、しょうがねえよな。父さんはあれでも腕のいい料理人だし。俺のほうは自分の子供と年の変わらない不良のクソガキだし。どっちのほうがカヨコさん幸せにできるかなんて、考えてみるまでもねえしな」
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