第10話(神野藍子)
「灯ちゃん、蒼ちゃん振り切ってきちゃったみたいだけど…。」
私の手を引いて走る灯ちゃんに訴える。
「大丈夫。航太がいるから。」
私には2人のあの人への信頼がよくわからない。いったいあの人は何者なのか。
「あいつは俺と蒼のかつての部活仲間で、稀代の変人。」
私の沈黙を正しく疑問ととってくれたのか、説明してくれるが、それはまったくもって私を納得させない。あの人が変人なのは、あの短い時間でもよくわかったのだが…。
「悪いな、急に走らせて。ハイ飲み物。」
「ありがとう。」
あまりの驚きに忘れかけていた動揺が、落ち着いたことによって思い出される。今度の沈黙は疲労ととったらしい灯ちゃんは心配そうな顔でのぞき込む。
「疲れたか?帰る?」
「大丈夫だよ?」
「無理するなって。このあたりならいつだって俺が案内してやるから…。帰ろうか。」
「あ、ゴメン。少しお手洗い行かせて。」
「ああ、うん。」
灯ちゃんに動揺を悟られたことにさらに動揺したことを隠したくて、思わず逃げ出す。
「…せっかく灯ちゃんと一緒にいるのに…」
私が戻ると、灯ちゃんはスマホをしまう。
「じゃあ、行こうか。」
大学を出て、灯ちゃんは歩き出すが、方向が違う。
「駅あっちだよ?」
「車借りてるんだ、返すついでに藍子送ってやるよ。」
そういって助手席の扉を開ける。
「蒼ちゃんおいて帰っちゃうの?」
「航太がいるから大丈夫。」
納得できるようなできないような魔法の言葉で言いくるめられる。正直電車があまり好きではない上に、一時間強かかる家まで送ってもらえるのは助かる。それに灯ちゃんの助手席、でも、どうしてもそのうれしいはずの時間に兄のことが引っかかってしまう。
もともと話すことがなければ口数の多いほうではない私たち二人の空間は、沈黙に包まれる。
「藍子。」
「ん?」
「大丈夫か?抱え込むのはつらいだろう?」
抱えていることは、言いたい。でもこんな事他人には言えないし、ましてや血のつながった従兄に話していい話なのかも分からない。それでも私は抱えていられなかった。
「灯ちゃんは知ってたの…?」
かすれた声で私はなおも言い募る。
「お兄ちゃんのこと…。お兄ちゃんは血がつながってなかったこと…。」
小さく灯ちゃんが息をのんだのを感じた。
「お兄ちゃんの部屋で見つけたんだ…・。見たことのないくらい小さいころのお兄ちゃんの写真。その家族写真に一緒に写っているのは、見たことのない人たち…。一枚もお母さんとお父さんが写ってる写真がないの。
言われてみたら違和感はあった…。顔も似てないし、性格も違う。頭のできも違えば、体も違うんだもの…。私は風邪一つ引かないのに、兄はあれだけ病弱なんだから。」
灯ちゃんは黙って聞いている。
「それで悪いと思ったけど、アルバムにあった名前を調べたんだ…。そうしたらお兄ちゃんの事故の記事が出てきた。そこには両親とおなかの中にいた命が失われ…。たった一人長男だけが生き残っていた。
お兄ちゃんは私を大切にしてくれるけれど、その愛をなんの疑いも抱かずに、受け取り続けて…。ひどい妹だよね…。」
「藍子。」
「ん?」
「お前は、優ちゃんが本当の兄じゃないと知って、嫌いになったか?」
「まさか!」
灯ちゃんは優しい声で続ける。
「俺と百奈は知ってた。でも、いう必要を感じなかったんだ。」
「なんで…。」
「俺と、百奈が言うべきことではないし…。いつかはきっと叔父さんと叔母さん、それに優ちゃんが話しただろう。それに、優ちゃんは、お前が生まれた時からずっとある意味、叔母さんと叔父さんより愛を注いでいたからな。ときどきお前らが血のつながりがないことを忘れていたよ。」
そうやって愛を注がれていたことは知ってる、でもだからこそ苦しい。
「その愛は、私のものじゃなかった。私が当たり前のように受け取っていいものではなかった…。」
「違う。」
「何が?」
「お前はどうせ、身代わりだと思ってるんだろう?」
「違うっていうわけ?」
「優ちゃんは確かにかつて失った命がある。その痛みが藍子で癒されていたのも事実だろう…。俺が二十歳になって、優ちゃんが帰ってきた後、俺と百奈と優ちゃんで飲んだとき言ってたよ。その事故で失ったものももちろん大切だったけれど、今一番大切なのは、自分の居場所であるこの家族だって。藍子が”兄ちゃん、兄ちゃん”って言ってくれたから、俺は本当に家族になれたんだって。ものすごく大切で、守るためなら何でもする、って。そう言っていたよ。」
「お兄ちゃん…。ねえ、灯ちゃん、私は兄ちゃんに対して…いい妹かな?」
「いい妹、ねえ…。」
灯ちゃんは私の頭に手を伸ばしてかき混ぜる。
「藍子。お前はいつまでだってまっすぐに愛されて、優ちゃんのことを”兄ちゃん”って呼んでやれ。それが一番優ちゃんが喜ぶ。
同じ兄の俺が言うんだ。信頼しろ。」
ずっとこらえていた涙が決壊して、止まらなくなる。
久しぶりに泣いた私はいつの間にか疲れて眠ってしまった。
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