第26話 女同士の喧嘩って陰湿だよ
2,3分たって世界の危機にたった一人で立ち向かう覚悟がようやく出来上がったとき、俺はやっと二歩目を踏み出すことができた。
もういっそのこと、あの手紙が嘘っぴょーんであってくれればいいのにと思うことしかできない。
“僕もそう思いたいですね”
そうだろう。実は俺もなんだよ。
“しかし、今は何をおいても成し遂げなければならない任務があります。ここで別行動を取ることは致し方ありませんよ”
これがホラーか推理モノだったら全滅している展開だよ。
“そういわずに、どうにかお願いしますよ。僕もベストを尽くしてすぐに戻れるようにしますから”
お前に会えるのを楽しみにしてるよ。
“光栄です”
ふふっ、という笑い声まで、テレパシーだから脳の奥に直接息を吹きかけたかのようにリアルに聞こえた。これじゃあ、坂道を登る足に力が入らなくなるのも無理はない。
“なんなら、空中を飛んで向かってはいかがですか?”
そんなことも出来るのか?
“ええ。念力の応用ですよ。要は、念力で自分の体を浮かせて動かすだけですから”
『だけです』と言われて「はい、やります」とはならなかった。今ここで空中浮遊して学校へ向かえば、新たな怪談がこの地で誕生することだろう。俺はただ、燃え尽きようとしている世界の坂道を一歩ずつ登り続けるしかなかった。
登りながら、俺は思い出していた。今日の朝、鶴屋さんとここで会ったことを。あの人は今、元気にしているんだろうか。それとも元気なフリをしているだけなんだろうか。
どちらにせよ俺が望むことはただひとつだけだ。
もとの退屈な日常に戻りたい。
ようやく校門前までやってきた。足が痛んだ。眼下に広がる住宅地は、半分くらいは山の影に隠れていた。空も、黒板の下半分に赤い絵の具をぶちまけたような感じだ。あらためて母校を眺めるが、朽ちた墓石にしか見えない。
でも俺は行くしかなかった。
“大丈夫ですよ。こっちが終わったらすぐに向かいますから”
なぜだが、あっちがすぐに終わる予感は無かった。これが俺の天性の勘の良さなのか、古泉から譲渡された未来を予知する超能力のおかげなのかは今でも分からないし、どっちでもどうでもいい。ただ、俺は古泉の励ましに対して「出来るだけ早くこっちに来てくれ」と教科書でも読み上げるように、半ば無意識で答えただけだった。
ただでさえ足が重かったが、この時間になると学校そのものがタチの悪いお化け屋敷と化したかのようだった。しかし、ずっとこうしている訳にもいかない。なんせか弱い女の子二人をお化け屋敷に待たしとくわけにはいかないからな。
俺は勇気を出して校門をくぐり抜けた。そのまま靴も履き替えずに土足のまま校舎に上がった。靴をはきかえる時間すら、俺にはまどろっこしく感じたからだ。
すでに校舎も暗くなっている。ファミコン時代のドラクエの洞窟より不気味な廊下を、なるべく音を立てないようにして部室まで歩いた。
なあ、古泉よ。
“なんでしょうか?”
なんかこう、心が和むような話をしてくれないか?
“難しいお題ですね。強いて言うなら、僕は今灰色の街をはるか上空から見下ろしています。とても景色が良くて気持ちいいですよ”
そりゃどうも、よく和んだよ。
“そうなっていただければ僕もさいわ――
そこで古泉との通信はブツッと途切れてしまった。
悲鳴こそ上げてなかったが、心の中では悲鳴に満ちていた。周囲の空気が深海と同じくらいの気圧で俺を圧迫し始めていた。そのくせに、足元は宇宙空間に放り出されたように頼りなかった。
おい、古泉。返事はない。
おい、古泉! 頼むから何か答えてくれ!
神人との交戦中に何かあった。これだけは疑いようもない。今までにないくらいの規模の閉鎖空間らしいから、それに比例して神人もヘビー級を用意していたに違いない。
俺はただ、古泉が無事で生き延びてくれることだけ祈った。この通信途絶は交戦中の一時的な現象で、古泉自身は無事でいるに決まっていると信じたかった。俺は古泉からもらった千里眼的超能力を発揮した。目をつぶると夢の中みたいに、自分の感覚だけが浮遊して街を上空から見下ろしている景色が浮かんだが、それはいつも通りの街でしかなかった。多分、閉鎖空間に侵入する能力も古泉が持ったままになっているからだろう。
俺はもう観念して、ドアノブをひねって自分の棺桶のフタぐらい重い部室のドアを押した。
古泉、お前は本当にいい奴だったよ。でもな、できれば無事でいて欲しいんだ。
こんなささやかな俺の願いも聞き届けてくれない無慈悲な神がこの世を支配しているのなら、それこそ俺はこんな世界なんて崩壊してくれればいいと思うよ。
ドアを開けると、いつもの部室だった。ただいつもと違って部室には蛍光灯もついてなく、灯りと言えば窓から差し込む夕陽の残照が床にこびりついているだけだった。
「遅かったですね、キョン君」
朝比奈さんの声が聞こえた。そこには、朝見たのと同じ朝比奈さんの笑顔があった。
「今日はキョン君のために二人で用意して待ってたんです」
「二人で?」
「そう。二人で」
俺は部屋の隅で本を読んでいる長門に目を向けた。長門はここで始めて俺という宇宙のゴミクズ以下の存在に気付いたかのような素振りでこちらに向けて視線を持ち上げると、そっと本を閉じて机の上に置き、俺の方へ歩み寄った。朝比奈さんと長門が、俺の目の前で横一列に並んだ格好だ。
この二人が一体何を考えているのか、それがわかる超能力が欲しかったが、それは備わっていないようだった。どうやら自分で考えろ、てことらしい。
「キョン君の誕生日があまりにひどかったので、長門さんと二人で用意してたんですよ」
そういって、朝比奈さんはどこからともなく花束を取りだした。
「誕生日おめでとうございます」
「誕生日おめでとう」
二人のまばらな拍手だけが湿った空気の部室に鳴り響いた。
「本当は涼宮さんが3人で、北海道で盛大に祝うつもりだったんですけど、なくなっちゃったじゃないですか。それで、急遽二人で祝うことにしたんです。ささやかですけど、どうぞ受け取ってください」
これほど受けとりたくない誕生日プレゼントもあまりない。幼稚園のときにもらったミミズ入り泥団子以来だぜ。
俺は躊躇していた。それこそ、長門のことだから花束の隙間からミミズが這い出してきてもおかしくない。そんな俺の気を知ってか知らずか、朝比奈さんがおずおずと花束を俺に向けて差し出してきた。
受け取らないわけにはいかなかった。
受け取ってみると、見た目に反して花束はずっしりと重かった。こんな重い花がこの世に存在するのか? 花が鉄で出来ていない限り、ありえないような重さだった。そしてこの花が鉄で出来ていないことは、花弁から漂ってくる生命の残り香で十分わかる。
「わたし、長門さんと相談してみたんです」
むしろ、重さは花にはない。というよりかは花の中心に、ずっしりとした重心の手応えを感じた。
「どうすれば互いに納得できて平等な解決ができるかって」
いや、花束の中に、確かにそれは存在した。ミミズよりもっとタチの悪いやつが。俺はもう居ても立ってもいられなくなって、花を全部むしり取った。床にどれだけ花びらが落ちようが関係なかった。
「それで、キョン君に決めてもらえば一番公平なんじゃないかな、て思ったんです」
花びらが全部落ちたとき、俺の手にはあるひとつの鉄塊が握られていた。
「長門さんも、賛成してくれました」
もう笑わないでくれ。俺にはどちらとも決められない。俺は決められないんだ。自分の進路も決められないんだぜ? こんなことがあるかよ。ましてや世界の進路を決めなきゃならんとはね。
「そのショットガン……ていうんですか? この時代で手に入る一番信用できる武器らしいですね。それでどちらか選んでください」
決められない。そう言いたかったが、そう言える雰囲気ではなかった。
「わたしと長門さん、どちらが消えて欲しいか、キョン君が決めてください」
選択肢は3つあった。ひとつは長門、ひとつは朝比奈さん、そしてもうひとつは、俺だ。
3つとも、俺には選び難い。
俺たちは同じSOS団の仲間じゃねえか。だからこんなことは止めて、今すぐおうちに帰ろう、ね?
「もう後戻りできないんです。未来では、すでに戦局は決定的になりつつあります。このまま放っておけば人類は滅亡しちゃうんです。だからキョン君、お願いします……」
朝比奈さんが少しうつむいた。目元から液化したダイアモンドが溢れ出していた。
「終わらせてください……憂鬱な未来を……」
いや、それでも他に解決方法はあるはずなんだ。結局武器で何も問題は解決しない、ていうのは歴史の教科書にもさんざん書いてあるじゃねえか。どうして未来人なのにそんなことも分かんねえんだよ、もっと抜本的に解決しないとダメだし、みんなと一緒にいるこのSOS団でなければハルヒも納得しないだろうが俺も納得できないんだよ、というような意味を込めて、
「俺に選ぶなんて……」
というセリフにもなっていないセリフをなんとかひねり出した。
「わたしの未来の友だちも、ついこの間……」
そこから先を朝比奈さんは言わなかった。言えなかったかもしれない。未来の友だちがどうなったか、簡単に想像できた。
「朝比奈ミクルは嘘を言っている」
突如そう断言した声の主は、メガネの奥で理知的な眼光を放っていた。
「音声、心拍、発汗の分析から、朝比奈ミクルは98%の確率で嘘をついている」
嘘をついているかどうかなんて俺にどうやって調べよと言うんだ? だいたい、残りの2%は真実かもしれないんだろ?
「長門、やっぱりそれでも俺に選ぶことなんてできない。朝比奈さんも、疑っているわけじゃないんだ。だけど、俺には選べない」
「じゃあ、どうするんですか?」
「だが、俺には一つだけ信じていることがある。これだけは疑いを持っていない」
そろそろ手にへばりついて離れなくなっていたショットガンを、床に放り出した。ショットガンは俺の気の迷いを反映するかのように、ちょうど未来と宇宙の間に転がっていった。
「話し合いで解決できるはずだ。完全に解決することは難しいかもしれない。でも、妥協点くらいは見つけ出せる。俺はこれを信じているし、同じSOS団員ならそうするのが義務だと思う」
きっとこんなことを知ったら、ハルヒも悲しむだろうし。
しばし静かな時間が流れた。
「そう、ですか」
「長門も、分かってくれたか?」
「分かった」
「そうか」
「一応やってみる」
俺は二人の間を分かつ境界線のようになっているショットガンを拾い上げ、机の上に置いた。
「じゃあ、とりあえず、握手だ」
二人は急な展開に、互いに見つめ合ったまま動こうとしなかった。
「ほらほら」
俺は左手で長門の手を取り、右手で朝比奈さんの手を取って、半ば無理やりつなぎ合わせた。二人の手には糸の切れた人形くらいの力もこもってなかった。それでも無理やり手をひっつけた。ふたりとも、驚いたような表情だった。
「とりあえず、まずは形からだ。それから、次に二人とも自分がやったことをここで全部告白しよう」
「全部ですか?」
「そう、全部です。どっちが悪かったとか、そんなことは関係なく、自分がやったことを全部。未来とか宇宙人とか関係ない。ここは現代の地球です。だから、互いの利害とか背景は置いといて、きっちり相手と向き合いましょうよ」
「長門さんがそれでいい、て言うなら」
「長門、それでいいだろ?」
長い間俺を見つめ返していたような気がしたが、最後にこくりと小さく頷いた。
「それじゃあ、どっちからでもいい、自分が相手に対して行なったことを言ってくれ。ここでは善悪は問わない。最後まで終わったあと、両方の話を聞いた俺が公平になるように判断する。それだけは約束する」
頼むから、これでどちらも納得してくれ。
二人とも、最初は気まずく沈黙したままだった。そのうち長門の方が先に口を開いた。
「私は朝比奈ミクルがこれから飲もうとしていた乳飲料の紙パックの気圧を情報操作で通常の10倍にしたことがある」
多分、鶴屋さんが爆笑するきっかけになった事件のことだろう。まるで他人がやったかのように全く感情のこもってない声で朝比奈さんを見つめながら述べ上げたが、その瞳には物言わぬ感情がこもっているように見えた。
「その結果、朝比奈さんはどうなった?」
「勢い良く吹き出した中身を全部かぶった」
「やっぱりあれも長門さんのせいだったんですか。そうだと思ってましたよ」
「朝比奈さん、気持ちはわかります」
俺はとにかくなだめるのに必死だった。
「しかし、ここではとにかく、相手がしゃべっている時はその話を聞くことに専念してくれませんか? これが終わったら、次は朝比奈さんが話して、それをみんなで聞く。互いに、自分の話だけに専念する。いいですね?」
朝比奈さんは無言で頷いた。
「じゃあ、今度は朝比奈さんの番です」
「ええと……」朝比奈さんはもじもじしてなかなか話そうとしなかった。
「本当に言わなくちゃいけないんですか……?」
「ええ、そうしないと意味がない。少なくとも長門は話してくれたし、朝比奈さんにもできますよ。そんなに気負わなくていいんで、少しずつでいいから話してくれませんか。そうしないと俺も全容をつかめないですし、そうしないと公平じゃなくなる」
朝比奈さんはしばらくためらっていたようだが、やがて決意して言った。
「長門さんの上履きに画鋲を刺しました。その帰りに、下履きにも画鋲を刺しました」
「じゃあ、今度は長門のほうだな」
「朝比奈ミクルの教科書のページを全部のりづけした」
「あ…あれも長門さんだったんですか」
「そう」
「あれは状況的にクラスのとある人の仕業だとばっかり思ってましたけど……」
「そう思わせるように偽装することは簡単」
「わたしだけならともかく、ほかの一般人も巻き込むなんて」
「最終的にその一般人を信用できなかったのはあなた」
「な…何を言って――
「まあまあ」
さすがにそれはやりすぎだろうと思ったが、ここでそれをいちいち問題にしていてはキリがない。
「とにかく落ち着いてください。とにかく、自分を語ることだけに集中して」
「ええ……」
朝比奈さんもなんとか納得してくれたようだ。
「じゃあ、朝比奈さん」
「ええと……長門さんの飲むお茶にだけ洗剤を入れました」
「それも2回」
長門がすかさず口を挟んだ。
「邪魔しないでください」朝比奈さんの口調に、かなり怒気が混じっていた。
「長門、どちらかが話している間は、黙って聞くのがルールのはずだ」
「でも、私が言ったことは事実」
「分かった、そういうことは俺から質問していく。一応長門はこう言っているけど、それは本当ですか、朝比奈さん?」
「ええ、それは……本当です。でも一回目は成功しましたけど、2回目は未遂に終わったんです。2回目は私が床で転んで、お茶をこぼした日です。あの日のこと、まだ気になっています」
「何が気になるんですか?」
「やっぱり長門さんが足を引っ掛けたんじゃないか、て。どう考えても、状況的にそれしかありえないんです。涼宮さんはいなかった。キョン君は背を向けた格好で座ってましたから、体勢的に不可能です。古泉君は距離が遠すぎます。残ったのは、やはり長門さんしかありえないんです」
なおそれ以上何か言おうとしたが、
「なるほどね」
と言って止めた。これから先は、長門に直接きくしかなさそうだ。できれば、これは朝比奈さんの勘違いであって欲しかった。
「長門、朝比奈さんはああ言っているが、あの日長門は朝比奈さんに対して、足を引っ掛けるだとか、何かした覚えはあるか?」
「私は足を引っ掛けていない」
良かった、と思ったのもつかの間。
「ただ、何かした覚えはある」
「何か、ていうのが具体的に何なのか、教えてくれないか?」
「情報操作で朝比奈ミクルの足元の床の摩擦力を瞬間的にゼロにした」
「やっぱりそうだったんですね。やっぱり今まで嘘を言ってごまかしてたんですね」
「嘘は言ってない。足を引っ掛けてはいないというのは紛れもない事実」
「それ、屁理屈じゃないですか」
「朝比奈さん」俺はここで止めに入った。
「言いたいことはわかりますが、落ち着いて。ここで互いに討論してもしょうがないですし、長門もやったことはこうして認めた訳だから、それだけでも十分よかったじゃないですか」
「でも、あのときはあんな熱いお茶を、下手したらキョン君の頭からかけてしまう恐れもあったんですよ? わたしが被害に遭ったことは仕方ないにしても、長門さんはそうやって巧妙に、周りの人間にも被害を及ぼすようにもっていくんです。そうやってわたしを周囲の人間から孤立させようとしているんです!」
「朝比奈さん、落ち着いて。言いたいことはわかりましたから。それに俺は全然朝比奈さんがやったことなんて気にしていないし、俺がどう思っているかもここでは関係ないですから。それで、長門に一応きいておくけど、長門もそこまでやる気はなかったんだろ? ただ単に洗剤入のお茶を飲みたくないからそうしただけなんだろ?」
「その通り。それ以上の意図はない。そもそも、どの方向に倒れるかは私の予想できる範疇にない。あえて言えば、未来人の意思でしかない」
「それって、遠まわしにわたしがキョン君にお茶をかけた、て言いたいんですか? だいたい、急に倒れてその倒れる方向を自分の意思で決められるわけないです!」
「朝比奈さん、熱くならないで。俺もそうだと思うし、朝比奈さんは自分のことを正直に語ればいいんです。それだけでいいんです」
「え…ええ……」
「朝比奈ミクルはこの時代の人間を頭の悪い遅れた原始人としか思っていないし学校なんてその原始人の中でもさらに頭の悪い未熟な人間以下の人間しかいない場所だと思っている差別主義者だから一般人にどれだけ被害が出ようと本当は良心が痛むこともなくむしろ自分のためにこの時代の人間が犠牲になるのを当然だと思っている」
「長門!」
俺も思わず語気が鋭くなってしまった。
「でもこれも事実」
「事実なんかじゃないです! 全部この宇宙人の作り話です! だいたいなんですか、さっきから他人のことばっかりねちねちと……自分のことを正直に語るのがルールじゃなかったんですか?」
「あなたは自分のことを正直に語れない、だから私が代弁しただけ」
「そんなの頼んでません!」
「朝比奈さん、落ち着いて!」
もはや我慢の限界といった感じだ。朝比奈さんにそれ以上何も言わないよう手で制すと、俺は長門の方へ向き直って言った。
「長門も、余計なことを言うんじゃない。とにかく、俺は俺が知らないところで何があったか、その真実を知りたいだけなんだ!」
「分かった。でも、それももう無理かもしれない」
ふと朝比奈さんの方を振り向くと、さっきのショットガンが握られていた。銃口は完全に長門の方へ向いている。
「も、もう、これしか、な、ないん、です!」
声が震えていた。
「やめてくれ、朝比奈さん! それだけはやっちゃだめなんだ!」
最悪の事態に陥ってしまった。長門がショットガンごときでやられるとは思わないが、今回はそういう問題で収まりそうになかった。
「止めないでください! 話し合っても無駄な相手には、もう、こうするしかないんです!」
「まだ話し合いの途中です!」
「話し合いって言ったって、どうせ宇宙人は屁理屈しか言わないんです! 結局、全部私がワルモノにされちゃうんです!」
「少なくとも俺はそんなことはしない、だから銃を下ろしてくれ!」
「………じゃあ、長門さんが最後に本当のことを言ったら、そうします」
陽が沈みかけているとはいえ、部室はまだまだ暑かった。その中で汗一つかかずに無言で突っ立っている長門は地面から掘り起こされたローマ時代の皇帝像より無機質だった。
「早く言ってください」朝比奈さんが急かした。
長門、言うんだ、言ってくれ。ここで終わらせるわけにはいかない。
「朝比奈ミクルはマスコットキャラ的性格を気取っているが本当は計算高くずる賢い性格でこの時代にいる間はただそういうマスコットを演じているにすぎないただの未来から垂らされた糸に操られている人形であり時偶言う前向きな言葉はただ単にそういう言葉を国語辞典的な意味で知っているにすぎず本音では損得だけが全てのいやらしい売女でしかない哀れな人間で真実は胸についている余計な脂肪くらいしかないその本質は嘘でできた虚像」
「売女はあなたです!」
「止めろ!」
俺の叫びは、ショットガンの発射音にかき消されて死んだ。だが長門は死にはしなかった。いつの間にかショットガンの銃口を掴んで弾丸をあさっての方向へを逸らしていた。長門も俺も無事だったが、弾丸は長門の愛蔵書に見事命中し、天使が舞い降りたような白い羽をそこらじゅうにばらまいた。その中で夕陽の当たる床に落ちた紙くずだけは血だまりに落ちたようになっていたが、それは本が出血したからそうなっているように思われた。
次の瞬間には、ショットガンは朝比奈さんの手を離れて長門の手にすっぽりとおさまっていた。長門の手つきがあまりに手馴れている(ように見えた)ので、それは我が家に帰ってきた猛獣のように見えた。俺はまた止めようとしたが、それよりも鋼鉄の猛獣が咆哮をあげる方が早かった。
長門の放った弾丸は見事に命中した。
朝比奈さんは腹から血と内蔵をこぼしながら後方へ吹っ飛んで、糸が切れたように床へ倒れ込んだ。
長門は一歩近づいてから手馴れた(ような)ポンプアクションで薬莢を血だまりに落として薬室に次の銃弾を装填すると、銃口を地面に仰向けになって今にも死にかけようとしている朝比奈さんの可愛らしい瞳のついた顔へ向けた。
「長門! それだけはやめてくれ! 頼むからやめてくれ!」
俺は長門の持つショットガンを掴んで、銃口を必死にそらそうとした。だが空中で見えない万力に固定されているかのように、それはビクともしなかった。
「長門!」
俺はそう呼びかけていた。
「頼むからやめてくれ!」
ちらりと見た朝比奈さんの口からひと筋の血が流れ、ワインでもこぼしたように見えた。このまま放っておいても、瞳の光は夕日が沈む頃には完全に消え去っているだろう。
「長門!」
長門は今まで見ていた朝比奈さんの瞳からこちらへ視線を移すと、
「ごめんなさい」
とだけ小さく言った。引き金がゆっくり絞られていった。
俺はもう一回、銃口をそらそうと必死に体重をかけて押したり引いたりしてみたが、全く動かせなかった。
「もうこれしかないの」
そういう長門の顔には明らかに悲痛な表情が見て取れた。さらに引き金が絞られ、もうあと数ミリ引けば撃針が雷管を撃ち、弾丸が飛び出していくところだった。
こうなってしまったら、長門を止める最後の手段に訴えるしかない。
俺は銃を持った手を離すと、そのまま長門を抱きしめ、本人も何が起こっているか理解しかねているまま半ば無理やり唇を重ねた。
そのままえらく長い数秒が過ぎた。
ガラン。
ショットガンが床に落ちる音。
長門、頼むからやめてくれ。
俺はそれだけを願った。ただ単に長門が超えてはならない一線を超えて欲しくなかったというのも勿論あったし、SOS団の聖地を血で汚したくないというのもあった。そして何より、大切なSOS団員を失いたくなかった。
今度は、長門が舌を入れてきた。それは俺の唇を突き進んで歯をなめてから俺の舌に絡みついてきた。俺は急にいつか食べたカタツムリのことを思い出したが、感触は驚くほど似ていた。実際、長門はこの舌でカタツムリを味わっていたんだろうと考えると、そのせいで猛烈な吐き気がしてきたが、この状況を何とかしてくれと祈ることに集中して、何とか乗り切った。
ようやく長門も満足したのか、舌が引き抜かれ俺は自由になった。
「分かった」
長門は小さくそう言った。
朝比奈さんが内蔵をこぼして倒れていた場所には、もうすでに何もなかった。俺の背後で、部室の扉がバタンと閉じられる音だけ聞こえた。
朝比奈さんが生きていただけでもホッとしたが、今日も俺は何もできなかったようだ。根本的な問題は全く解決しないまま。
「帰ろう」
なにやらどっと疲れたよ。
「まだ終わっていない」
え、あれで終わりじゃなかったのか? あれ以上は18禁だぜ?
「そこにいる」
長門が指さしたロッカーが、ひとりでに開いた。ロッカーの闇から、白い足が伸びてきて床に着地した。続いて胴体、頭も闇から姿を表した。
「お久しぶりね、キョン君。元気だった? 長門さんも、お久しぶり」
なるほどな。
「本当の手紙の主はあなただったんですか?」
「それはもうどうでもいいことなの、キョン君。過去と未来は所詮たったひとつの因果に過ぎないから」
朝比奈さん(大)がそう俺に微笑んでいた。
「で、何をしにきたんですか、こんな時代に」
「何をしにきたのかはもうわかってるでしょ? そこの宇宙人をぶっ殺すためよ」
俺には信じられない。朝比奈さん(大)がそんな人になってしまったということと、たとえ殺そうとしても長門と朝比奈さんの戦闘力の圧倒的差を考えれば到底それは実行不可能だろうということだ。
「ふふ、私もいつまでも同じじゃないわ。あの子がこの時代で闘ってきたことは、全部データとして未来に送られているの。それをもとにして、新たな技術を開発した。もちろん、私の時代の宇宙人にはかなわない――けど今の長門さんくらいなら倒せると思う」
「本当にそうするんですか。俺はそんなの見たくありません」
「ごめんね、キョン君。この時代の人間にとってはただのとばっちりだ、てことはわかってる。でも、私たちも自分が生き延びるのに必死で、どうしても必要なことなの」
「あんまりですよ、そんなの」
「キョン君、長門さんから離れて。でないとあなたの安全は保証できない。あなたが被害を受けたら、きっと私もあの子も悲しむから」
それでも何とかやめさせようとする俺を、長門は手で制した。
「下がって」
下がるしかなかった。
「長門さん、あなたとはもっと違う形で会えたらよかったと今も思っているわ」
「私もそう思っている」
「本当に残念」
「そう」
長門が無関心そうに言った。
「それじゃあ、いくわね。未来の技術を見せてあげる」
朝比奈さん(大)は決めポーズをとった。
「ミラクル、みくるびーむ!!」
それは俺の目にもはっきりと見える強烈に発光するビームが長門へ向かって直進していった。長門はまるでハエでもはたくように手でビームを――信じられないことだが――はたいて進路をそらした。ビームは天井付近の壁に人が通り抜けられるくらいの大きさの穴をあけて、天空へと消え去っていった。
「今のでまだ最大出力の半分くらいなんだけどね。さすが長門さん。でも手のひらに火傷くらいしたでしょ?」
今だに長門の手のひらからは細く白い煙があがっていた。長門も内心焦っていたのか、早く勝負を決めるために瞬時に朝比奈さん(大)のそばに移動、得意の肉弾戦を挑んだ。早速長門の拳が朝比奈さん(大)を襲ったが、朝比奈さん(大)はそれを平手で平然と受け止めた。左の拳を完全につかまれて動かせなくなったので、長門は右の拳を打ち込もうとしたが、そのときにどうしても体勢は崩れてしまう。そこを利用して、朝比奈さん(大)は掴んだ長門の左拳をひねった。長門の体が一瞬宙に浮く。するとそのまま部室の壁に向かって長門を投げ飛ばした。途中、ハルヒの大切しているデスクトップパソコンを大破させながら、長門は窓枠と窓ガラスを突き破って――さらに吹っ飛んでいって向こうの校舎のコンクリートの壁を突き破ったところで止まった。
朝比奈さん(大)はまたビームを撃とうとしたがどうやらこの距離では当たらないと判断して、なんの技術によってか空中に浮き上がると歪んでかろうじて壁に張り付いている窓枠をくぐり抜け、そのまま長門のあとを追った。
とりあえず俺に出来たことは、古泉から譲ってもらった能力でパソコンを修復することだけだった。やり方はよくわからなかったが、とにかく以前のパソコンを頭の中で想像しながら、それをそっくりそのまま取り出すようなイメージをしつつパソコンの残骸に触れると、逆再生のように飛び散った部品が集まって元に戻っていった。
たったこれだけの超能力を使っただけで、かなりの疲労が脳にやってきた。こりゃ、古泉が煙草を吸いたくなるのもよくわかるぜ。
しばし(と言っても10秒ほど)休息がてらに自分を落ち着けてから、俺は二人のあとを追いかけ始めた。
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