第23話 翌日
翌日、俺はいつもよりたまたま早く目が覚めたので、そのままちょっと早めに家を出ることにした。おかげでいつもよりちょっと空いた電車に乗れたし、いつものように遅刻を気にしながらハイキングコースを登ることもなかった。
朝から太陽の日ざしは容赦なく照りつけ、まだ6月だというのにすでに空は夏の装いだった。ひとつだけ変わったところと言えば、衣替えの結果昨日より着る服が軽くなったことくらいだ。
「おはよう、キョン君っ! 珍しいね、こんな時間にっ!」
「鶴屋さんこそ、珍しいですね」
「なあに言ってんのさっ! わたしはいつも通りで、キョン君がいつも遅いだけじゃないかっ!」
そういうと、鶴屋さんは軽快な足取りで坂道を登り、見るみる間に俺を追い抜かして行った。よくあんな日なたを歩けるもんだ。体内にソーラー発電装置でも仕込んであるにちがいない。
俺が鶴屋さんの生態について考えている内に、いつの間にか校門まで来ていた。その頃には全身から汗が噴き出していた。これでもなるべく日陰を歩いていたんだがなあ。本格的な夏になったらどれほど暑いのか、想像するだけでもはや寒気すらしてくる。
下駄箱の並んだ校舎入口に入ると、朝比奈さんがいた。
「おはようございます、キョン君」
いつも通り、と言ってもこの時間に雪どけした春の大地から目覚めた女神のような御尊顔を見ることは珍しいのだが、表情はいつも通りだ。朝比奈さんの制服の袖も、すでに短くなっている。
「今日も暑いですね~」
そうですね~。でも朝比奈さんの笑顔を見れただけで、俺は朝早起きしてよかったと思えるよ。朝比奈さんの全てにありがとう。
もっと朝の優雅な時間を朝比奈さんと一緒に楽しみたかったが、日直の仕事があるそうなので足速に去っていった。そんなもんもう一人の日直に任せりゃいいんだよ、と思ったが、その優しいところも朝比奈さんらしい。俺はそういうところを大切にしたいと思っているんだ。だって俺も優しい人間だからさ。
それから自分の靴箱に移動すると、なんと1学期で一番驚くべき光景――谷口が今まさに靴箱を開けようと手を伸ばしているところだった。
そいつはそのまま馬鹿みたいに口をぽかんと開けたまま、しばらく俺を眺めていた。
「驚いたな」
いや、俺もだよ。
「こりゃ、台風直撃コースだな」
「二人合わせて隕石直撃コースだな」言いながら、俺は下駄箱から上履きを取り出した。
「ていうかキョン、お前何しに来たんだよ?」
いや、そこまで言うか? 学校来た目的なんてひとつだけに決まってる。
「真面目に勉学に励むために決まってんだろ」
「それもそうだよな。俺はてっきり寝るためだと思ってたけど、寝るために寝る時間削って早く学校に来るなんて矛盾してるよな」
俺にきくなよ。
「いや、まさかビックリだぜ、キョンとこんな時間に会うなんてよ」
「そういうお前もなんでこんなに早いんだよ」
谷口は暫く下駄箱のフタに手を当てながら、天を仰いで考えていた。
「そういや、どうしてだろうな」
まあ、最初っからまともな答えなんて期待してなかったけどな。上履きを履いて、靴を下駄箱に入れる。それから一足お先に教室に向かって寝ようかと思っていたら、谷口が
「うおっ!」と奇声をあげた。
「どうした? 猫の死体でも入ってたのか?」
「嘘じゃないよな……」
谷口の手が震えていた。ゆっくりと下駄箱から取り出したのは、一通の白い封筒だった。
「これは……ついに俺にも来たんじゃねえかよおおお!」
ああ、これは普通に考えればラブレターというやつかもしれないな。
「今まで都市伝説の中でしか語られなかったが、ついに実物を拝めるなんてな! あ~あいらぶゆ~」
そう言いながらラブレターと思しき紙にしきりに口づけしていた。封筒に青酸カリでも塗ってあればいいのに。
「どれどれ、中身は本当にそうなのか?」
「おいおい、俺への手紙だぞ? お前に見せるわけにはいかないな~」
チッチッチと舌打ちしながら指を振る光景は、昨日のサンドバッグとウザさなら十分に張り合える。
「いや、俺は一応確認しておくべきだと言ったんだよ。誰かがゴミ箱と間違えて放り込んだのかもしれないだろ」
「キョ~ン、それは見苦しいなぁ。嫉妬したくなる気持ちは分かるけどよ~」
今、横からひょい、とショットガンを渡されたら、そのままこいつの顔面に向けて発砲していたかもしれない。
「まあ、一応差出人くらい確認しておくか。あ、でもキョンには内緒だからな。封筒のどっかに書いてないかな~。願わくば差出人がかわいくて巨乳で料理が得意で優しい女の子でありますよ~に」
そりゃお前の頭の中にしかいないよ。
俺の視界を体で遮りながら封筒を検分し始めたがすぐに何やらおかしい感じになった。谷口の全身がブルブル震え始めたのだ。
俺はゆっくりと谷口の横から回り込んで様子をうかがった。
「どうしたんだ、急に。期待値がデカかった分、失望したのかよ」
「クッソ」
「おいおい、朝から汚いな」
「お前――
振り返った谷口が鬼のような形相をしていた。
「これお前宛の手紙じゃねえか!!!」
谷口が半ば叩きつけるように差し出した手紙を、俺はかろうじて受け取めた。
「紛らわしいことしやがってよぉぉおおお……」
確かに、封筒の裏には小さな丸い字で『キョン君へ』と書かれてあった。
「クッソォ…… 多分その手紙は脅迫状か果たし状だな。それか差出人がホモか。ったくラッキーな奴だぜ。もし俺一人で見つけたらそのままゴミ箱に捨てといてやったのによ」
「嫉妬は見苦しいぞ」
「うるせえ! もうお前は友達じゃねえ!」
かなり怒りながら、そそくさと教室へ立ち去っていった。
俺はひとり残された後も、しばらく封筒の字を眺めていた。
特徴的な丸い字。
この字に、俺は見覚えがあった。それと同時に、これが決してラブレターではないことも悟った。
後になって考えれば、谷口がゴミ箱に捨てておいてくれた方がマシだったかもしれない。
今日の3時限目の体育は、幸運なことに体育館だった。こんな日ざしのキツイ日に外の運動場でサッカーやるなんて、女子には不幸としかいいようがない。まあ、体育館の中ではむさ苦しい男子が密集しているので、それほど体感気温が下がるわけではないが。
それはさておき、今は目の前に飛んできたボールに集中すべきだった。サーブを打った谷口に似たいやらしい回転を加えながら、そいつはネットを越えてやってきた。俺は、とにかく落ち着いて対処した。自分ではうまいことレシーブしたつもりだったが、いやらしい回転のせいで、いやらしい方向へと飛んでいった。古泉がそれを追いかけて、かろうじて拾い上げる。
ボールは、また俺の方へ飛んできた。
どうやら、俺にスパイクを決めろと言っているらしい。古泉の目が、俺にそう語りかけている。
だったら決めるしかないだろう。
行け。古泉が目で訴えかけてきた。その期待にこたえるように、足が自然に動いた。
助走をつけ、跳んだ。全力で天井へ向かって跳んだ。あとはボールに合わせて手を振り下ろすだけだ。
今――そう思った。体は自然に動いた。
俺は、思いっきり叩きつけるようなスパイクを打つ――と見せかけてボールの尻をひょいと押してやった。だってスパイクとか苦手だし、このときはブロックが3枚もついてやがったから、どうせ打ったって弾かれただけだろう。とはいえ、もし俺に予知能力があって幾ばくか先の出来事を予知できたなら、このときスパイクを打つ方を選んだだろうな。
だが俺はそうしなかった。フェイントで押し出したボールは、そのままブロックを超えて床に一直線に落下していった。向こうは3枚もブロックを出していた。どちらも14対14で最終ラウンドだったし、点を入れられたら終わりなのだから、当然かもしれない。
だが、そのせいで後方にぽっかり穴があいているのを俺は見逃さなかった。
そのままボールがコートに落下すると思ったが、俺が着地する頃には、谷口がボールの落下地点へ飛び込んでいた。
やばい。こいつ、完全に俺の思考を読んでやがった。谷口は体勢こそ崩したものの、落下地点を完全に読んでいたため、なかなかきれいにボールを跳ね上げた。
それを山根がボレーでつなぐ。手島がコートの後ろから走って来た。
これは由々しき事態と言えた。手島はそこそこ運動神経がいい。放課後はスーパーレジ打ち部に所属していてバレーは専門外だ。だがそれでも、バレー部員に匹敵する実力をいかんなく発揮している。警戒して、古泉ほか数名がブロックに回った。
ひょっとしたらここでフェイントが来るんじゃないか―― 一瞬そう思ったが、それはなかった。手島は俺のように、策を弄するタイプの人間ではない。
スパイクを打つ音が体育館中に響き渡った。
これで勝負が決まってもおかしくなかったが、古泉のブロックに当たったため、ボールは勢いをなくしてコート後方へ舞っていった。
後衛が走っていって、それを跳ね上げる。天井へ届くかとも思われるくらいの高さに上がったが、俺は冷静に着地地点を見きわめ、ボレーで古泉に全てを託した。ボレーのとき、もしかしたら突き指するかと思ったが、それはなんとか避けられたようだ。
古泉、あとは頼んだぞ。
――ええ、任せてください――
そんな声が聞こえるようだった。
「ふん、モッフッ!」
そんな何だかよく分からない間抜けな掛け声をあげながら、小泉は限界まで伸ばしきった腕をボールに叩きつけた。
古泉は身長もなかなか高く、つまり打点もかなり高い位置にくる。そこから繰り出されるスパイクは相手側4枚ブロックの万里の長城の頂上を乗り越えてコート後ろのラインいっぱいに突き刺さると俺は信じて疑わなかった。
まさかそのボールが、最後の力を振り絞って予想以上に高く跳び上がった谷口と手島のブロックに弾かれて、完全に試合が決まったと思ってどういうハイタッチでもしてやろうかと思案していた俺の方へ飛んでくるとはね。
気づいたときには、ボールは黒い塊と化して俺の視界をどんどん占領していった。まさに隕石直撃コースまっしぐらだな。
すぐに視界全部が黒い塊に占領された。
「ぐぐぐ……ガギっ…くくくく~ハハっ……!!」
「どうしたんだ、ハルヒ。ずいぶんと楽しそうじゃないか」
体育の後、数学の授業終了のチャイムと同時に後ろから奇声が聞こえたので、振り返ってそう問いかけてみた。しかし、当のハルヒは椅子に座ったまま、体を二つに折って相変わらず地面に向かって、必死に噛み殺した口の隙間から奇声を漏らし続けている。
「キャハハハ……ひぃひぃひぃ……」
顔に両手を当てるが、それでも指の隙間から奇声は漏れ続けていた。
「おい、聞こえてんのか? 何がそんなに面白いんだ? 俺にも教えてくれよ」
一瞬、指の隙間から眼光が覗いた。俺の顔面に視線が突き刺さる。その間だけなんとか奇声を抑えてはいたが、すぐに視線を床に戻すと、また
「ククク……きゃはははは……!」
と子猫の首を締め上げたような奇声が漏れだした。お前、いい加減にしないと本当に首締めんぞ。
「あ、ごめんごめん」
そんな俺の殺気を感じたのか、ようやくハルヒが深呼吸しながら顔を上げた。
「ふぅ~」
ため息のような吐息を吐き出したときには、その顔は砂場でかりんとう(イヌのふん)を踏みつけた同級生を笑う小学生から、いつものSOS団団長へと戻っていた。
「それにしてもひどい顔ね。新手の整形手術?」
「お前もその手術を受けたいか?」
俺の顔にはブロックで弾かれたボールが直撃し、真ん中に真っ赤な跡がクッキリ刻まれていた。ついでに鼻からの大量出血を止めるために、鼻の両穴にテッシュが詰められていた俺の顔はさぞや滑稽だっただろう。しかも鼻がふさがっているせいで口呼吸しかできないため、口が半開きになっている。鏡で自分の顔を見てみたが、その様は陸に上がって窒息死寸前のマンボウにしか見えなかった。
「遠慮しとくわ。アンタほど似合わないと思うし。あ、それ以上近づかないでね。もう笑いすぎて顔面釣りそうなんだから」
近づく元気すらなくなっていた。いまだに赤く腫れている部分にはジンジンとする鈍痛が居座っている。
「そんで、本当にやるのか? 例のやつ」
答えはもう聞かなくても分かっている。だいたい、こいつが一回やると言い出したら俺が言ったくらいで止まった試しがない。
「やるに決まってるじゃん。アンタもあれじゃあもの足りなかったでしょ? ボロ雑巾になるまで痛めつけてやるの。SOS団全員でね」
そう言うハルヒの顔面に、今度は別の意味の笑いが広がった。まあ、俺はアレで十分に物足りていたが、ハルヒは直接復讐したわけではない。俺が物足りてない、というのはハルヒ自身のこれから行うエゲツナイ行為に大義名分を与えるための泊づけに過ぎない。
「ターゲットはどうするんだ? まさかコンピ研全員じゃないだろうな?」
「それはあのクソサンドバッグだけで十分よ。頭を潰しとけば雑魚にはいい見せしめになるでしょ」
「そうだな」
そうとしかいいようがないし、全員相手にするのはさすがに骨の折れる難事業になるだろう。なにせこちらには戦闘要員が俺、古泉、ハルヒの3人しかいないんだからな。
「それで、いつその作戦を実行するんだ?」
「今日の昼休みね」
えらい急だな。
「みんなにはもうメールで伝えてあるから」
「なんで俺にだけ今まで黙ってたんだよ?」
裏切るとでも思っていたのか?
「いーえ、アンタにはね、もっと重大な役割を果たしてもらうの。事前に情報が漏れるのを恐れて今まで黙ってたけど」
あぁ、これだから雑用係は嫌になるんだよ。だいたいなんだよ、『情報が漏れる』ていうのは。忘れてて、今偶然思いついただけじゃねえのか?
「アイツをおびき出すのよ、部室までね」
そういうと、ハルヒの笑みがまるで本人の性格を表すように、さらに大きく歪んだ。それからすっかり夏模様に張り替えた空へと視線を移してから、
「はあ、朝倉涼子、また帰ってこないかなあ」
と小さく言った。
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