第19話 帰還

 店の中にはステージがあり、そこで演奏会なんかを行えるようになっていた。しかし俺たちが店に入ってきたときには視線はAクラスメイドに釘付けになっていたし、席についてからは他のテーブルの影なんかで死角になっていたし、注文が来てからは古泉すら眼中にないほど料理に夢中だったため、今まで全く気付くことはできなかった。

 壇上に鶴屋さんがいたのも驚きだったが、まあ本来の目的が鶴屋さんを迎えに行くことなのだから、いてもおかしくはない。むしろここにいなければ、俺たちはただ単にメイド喫茶にお食事をしに来ただけのコスプレイヤーになっちまう。それも機関の金でな。

 それはさておき、俺が国士無双に心臓を吐きだすんじゃないかと思ったのは、その横にいるAAランク+のメイドのせいだった。

 壇上の二人は静まり返った店内の客に向かって軽くお辞儀をすると――パチパチと拍手があがる――さっきよりも深い静寂――鶴屋さんは横のピアノへ、AAランク+はひとあし前へ歩み出てから持っていたバイオリンを高く掲げた。

 俺は古泉に、なんでここに朝倉涼子がいるのかききたくてしょうがなかったが、どう見てもそんな雰囲気ではなかった。いまここで口を開くことは、授業中に立ちあがってマスタベーションするに等しい行為に思える。

 俺が戸惑っている間に、朝倉と鶴屋さんは目線で合図を交わしてからリズムをとって、演奏を開始した。

 よく優雅さを表現するときに『水面を舞う妖精のようだ』というが、最初の音はまさにその妖精が水面に足を乗せた瞬間だった。俺は音楽なんて全く知らないが、それでもそれだけは分かった。

 情熱的なバイオリンとピアノの儚げな伴奏。この曲をなんていうのか未だ知らない。あのあと探してみたがどうしても見つからなかった。いまでもこの曲を思い出すと、なぜだか七夕の夜に校庭にナスカの地上絵を描いていたハルヒの姿が思い浮かんでしまう。

 やがて二人は音の階段を駆け上がり、駆け下がり、曲調が変わってまた音階を駆け上がって――最後の音が店の壁に吸収された。

 店の中は静まり返っていた。演奏が始まるまではしゃぎまわっていたガキも、最後まで静かにお行儀よくしていた。それだけの効果があった、てことだろうな。

 それから鶴屋さんが立ちあがり、壇上で二人並んでお辞儀をした。さっきよりもひと際大きな拍手があがった。

 二人が壇上から消え去った後、客たちはさっきの演奏がどれ程素晴らしかったのかを賞賛しながら料理にナイフやフォークを突き刺していった。俺も、国士無双十三面待ちが張り付いたまま少し冷めたミネストローネに視線を戻した。手を休めていた麗しきメイドたちも、すぐに持ち場に戻っていった。

「それにしても、すばらしい演奏でした」

 古泉が何か微笑ましいものを見たような表情で言った。いや、確かに微笑ましい光景ではあったが、自分を殺そうとしたやつを目の前にするのは相当心臓に悪い。それがたとえ異世界の別人であったとしてもだ。

「どうしたんですか? 早く食べないとその国士無双が冷めてしまいますよ」

「んなもんはどうでもいい」

 本当にどうでもよくなっていた。鼻汁並にぬるくなっていたし、残したとしてもどうせここの代金は古泉持ちなんだからもったいないと思うこともない。

「それより、どうしてやつが――朝倉涼子がここにいるんだ」

 それは古泉に言っているのではなく、むしろ独り言に近いものだった。だいたい『どうして』なんてことはわざわざきく必要がない。なぜなら全てのことは――

「おそらく涼宮さんがそう望んだからでしょう」

「ワンパターン極まりないな」

 そこら辺のAVでももう少しひねってあるぜ。

「全くその通りですね。まあ、だからこそ我々の仕事というのがあるわけですが」

 その我々の中には俺も含まれるのだろうか。だとしたら労働基準法違反もいいところだ。イカレ女のお守りをこちらから金を出して請け負ってやっているんだから、自分で自らの大いなるボランティア精神を褒めてやりたい。自画自賛とか言われそうだが、別に構わない。どうせ文句を言ってくる奴はボウフラ並にこの世に満ち溢れているが、誰かが褒めてくれることなんて滅多にないんだからな。だったら、たまには自分で褒めてやるくらいいいだろ?

「だから今日はここに招待したんですよ」

「どういう意味だ?」

「実をいうと、すでにお二人には事情を話してあります」

「どういうことだ?」

「つまり、今日はあなたをもてなす為にここにお呼びしたというわけです。鶴屋さんと朝倉さんをこちらに連れてくるだけなら僕だけで十分ですから」

「じゃあ、鶴屋さんが行方不明とかいうのも全部嘘だったのか?」

「いえ、それは全部本当ですよ。ただ、あなたの誕生日があまりに……その、あまり良くなかったようなので」

「ああ、あれは最悪だったよ。神が見えたな」

「なので、せっかく鶴屋さんが異世界のこのような場所にいるのだから、というわけで、こちらで用意させていただきましたよ。任務のついでで申し訳ないですが、これは機関のあなたの献身的活躍に対するお礼です」

 俺が「それは何なんだ? かたつむりケーキ2号機か?」と言おうとした時、

「キョン君、誕生日おめでとうっ!!!」

 と背後から久しぶりに聞き覚えのある声がしたので、重くなった胃袋ごと体をひねって後ろを向いた。そこにはメイド姿の鶴屋さんと朝倉涼子の姿があった。といっても、鶴屋さんは大きなラピュタ城を持っているせいでほとんど顔が見えなかったが。朝倉は例のバイオリンをまだ持っていた。それで俺の後頭部でも殴るつもりなのかと思ったが――

 “大丈夫です。外見は似ていても、実際には異世界の別人ですから”

 俺は自分でも意識してない内に、まじまじと朝倉の顔を見つめていたらしい。朝倉は、それを急な誕生日イベントでビックリして呆然としているのだと思ったのだろう、子供がクリスマスの翌朝目を覚まして靴下の中を見てみると欲しかったモノが入っていて「何これ、すっごい!」と言ってふとママの顔を見上げた時に目にするであろう表情をこちらに向けてきた。

 俺はそれでも、この急な誕生日プレゼントにしばらくはあっけに取られたまま――多分、そこのクソガキみたいにアホみたいな顔をしていたに違いない。そうしている間にも、鶴屋さんは懐からロウソクを取り出し、目の前にそびえたつチョコレートの城に手際よく突き立て始めた。古泉がご自慢のライターをさも当然というかのように取りだして、ロウソクに火を灯してゆく。気がつくと、いつの間にか店内の照明が暗くなっていた。チョコレートの表面にロウソクの火が反射している光景が、これ程美しいなんて今まで知らなかったな。テーブルの上が中世の夜景のようだったよ。

「それじゃあ、いくよっ!」

 鶴屋さんは朝倉に合図を送った。朝倉が頷いてバイオリンを持ち上げる。朝倉の伴奏に合わせて、鶴屋さんが誕生日定番の曲を歌い始めた。すぐにその中に古泉も加わり、他のメイドも加わり、いつの間にか調子のいい他の客も加わって軽い合唱のようになっていった。そして最後の1小節で、いったん全員の声が止まって――

「ハッピーバースデイ、トゥーユー…… おめでとうっ! キョン君っ!」

 最後は鶴屋さんが一人で歌った。意外にも、しんみりとした歌声だったのが今でも印象に残っている。

 歌声が壁に消えていった直後、店中を揺るがすかと思えるほどの大きな拍手の渦が巻き起こった。それはいつまでも続くように思えた――が、しばらくするとようやく止んだ。

 客の視線がなぜか俺に集中していた。俺は悪いことをしてクラス全員の前で説教を受けているような気分で―― 一体みんなは俺に何を期待しているんだ?

“早く、ロウソクの火を”

 そんなことは小学生の低学年以来だったので、完全に忘れていた。

 煌々とともるロウソクに顔を近づけ、一気に吹き消す――2,3本は、火が小さくなってからまた燃えだしたが、それに構わず、さっきの鶴屋さんと朝倉の演奏の時より大きな拍手が鳴り響いた。

 ロウソクはキレイに消したかったが、まあ仕方あるまい。俺の年齢よりかなり多かったから、一回で全部消すには肺が4つくらいないと無理だっただろう。

 拍手が鳴りやむと同時に、店内の灯りが元に戻った。鶴屋さんが消えたロウソクを忙しく片付ける。

 あとに残ったのは廃墟になったようなケーキの残骸だけだった。いや、確かにロウソクの挿した後以外に何も変わるところはない。ないが、店の照明がついた瞬間に俺の目に映ったのは中世の夜景ではなく、すでに住民も消えて時の流れに取り残され、遺跡になったケーキの残骸でしかなかった。

 さっきのは夢だったのか? 今でもそう思うときがある。

 ポンッ!

 俺の耳元でコルクの栓が抜ける音がした。

「どうぞ、召し上がって」

 朝倉はそう言って俺の目の前にそっとグラスを置くと、中に赤い液体を注ぎ始めた。

「では僕もいただくとしますか。やはり、誕生日と言えばワインでしょう」

 いったい何をもってそう断言しているのか分からなかったが、とにかく俺たち二人は俺が生まれたことに乾杯してから一気にグラスの中身を飲み干した。

 こりゃあいい。俺の疲れた体の中にじわじわ染み込んできやがる。

「どうぞ、どうぞ、もう一杯」

「悪いな」

「もうキョン君っ、こっちが主役なんだからっ!」

 少し呆れながらも、鶴屋さんが廃墟と化したケーキを皿に切り取ってくれた。

「僕も少しもらっていいでしょうか?」

「ああ。どうせひとりで食いきれん」

「ありがとうございます。それでは」

 パリパリと音を立ててまたもや城が切り取られ、中の飛空石が露わになった。

 俺もまず一口、ラピュタ城をスプーンですくって口の中に放り込み、しっかり味わってからワインと一緒に流し込んだ。

 その間だけ、俺は全ての面倒なこと――明日も学校の退屈な授業があるということやハルヒの相手をしなければならないということ――を忘れることができた。

 そして誕生日に初めて、自分が生まれてきて良かったと思えた。



 もはや白いテーブルクロスの上には、空になった食器以外何も乗ってはいなかった。

 まあ、俺の予備の胃袋が急遽作動し、すべてをブラックホールよろしく飲み込んでいったからなんだが。俺の食いっぷりに、古泉はもちろん、俺自身ですら驚いていたくらいだ。

 多分、長門の家で味わった『新世紀ディナーゲリオン“残酷な食事のテーゼ”』のせいで俺の食欲の一部が欠落していたのが、今回の料理で復活したというのが理由だろう。今まで抑えつけられていた食欲が、今回の料理で復活、抑圧されていた分、凄まじい勢いでラピュタ城を食い散らかしたというわけだ(ついでに人型決戦ケーキ弐号機の下半身と反逆のミルフィーユの半分も食べた。ミルフィーユは俺の胃袋に入るとすっかりおとなしくなったが。もう少し反抗的でもよかったと思う)。

「さて、まだまだ鶴屋さんが仕事を終えるまでに時間がありますが、どうしますか?」

 さすがの古泉も、満腹感を隠せないでいた。

「ゲーセンでも行きますか」

「それもお腹いっぱいだ」

 古泉がゲップを抑えながら笑った。

「全く、その通りです」

「しばらくはここで休んでよう」

 そうしないと、道中で俺のブラックホールがホワイトホールと化すことだろう。

「2,30分休んで歩けるようになってから、どこかゆっくりできそうなところを探す」

 なんとか吐かずにそれだけ言い終えることができた。

「ちょっと、いつまでここにいるつもりだいっ!?」

「鶴屋さん、あと2,30分だけここに座ってあなたの麗しい御姿を眺めていてもよろしいでしょうか?」

「ちょっとキョン君っ、そうやってごまかさないでよっ!」

 鶴屋さんは、俺自身も社交辞令なのか本気なのか分からない戯言に少し顔を赤らめながらも

「並んで待ってる人がいるんだからっ!」

 メイドとしての任務を最後まで遂行した。いや、あなたはメイドの鏡ですよ、あのアホ女にも見せてやりたい。

 鶴屋さんが指さした方を見ると、うざそうなクソババアとエロそうなクソジジイの集団が待合席に座っていた。

 ここに来る前に天国に行ってくれと思ったが、来てしまったものはしょうがない。俺たちは重くなった胃袋を引きずりながら何とかレジまでたどり着いた。

「誕生日だからって、割引はやってないよっ!」

 俺が言おうとしたことを見事に見透かしたつもりだろうが、今日に限っては関係のない話だった。

 合計9430円を、俺の心強い財布野郎が全額支払った。

「まいどありっ!」

「そうそう、鶴屋さん」

 俺は去り際にきいた。

「ここら辺でどこかゆっくりできそうな場所、知りませんか?」



 それから2,3時間、俺たちは鶴屋さんが教えてくれたネカフェでオタク集団と満腹感に首までどっぷり浸りながら過ごした。

 俺はずっと、最近気になる漫画『ガツン』を読みふけっていたが、時間がくると古泉が声をかけてきたので、そろそろ良い頃合いなのを悟りながら長門と血のつながりでもあるのかと疑いたくなるようなくらい無愛想な店員に料金を払い――店を出た。

 駅のホームに着いた時はまだまだ高かった陽が、もうかなり傾いている。ビルに反射したオレンジ色の陽光が俺の目を刺した。

 思わず閉じたまぶたの裏側に、夕陽で真っ赤になった微笑を浮かべる朝比奈さんの顔が浮かんだ。

 俺たちは――SOS団は今回のことで、元通りになるのだろうか? 最後に本当の意味で朝比奈さんの笑顔を見たのはいつのことなんだろうか?――束の間、朝比奈さんが俺の美濃囲いにお茶をぶちまけたあの日に見た湯呑の底が思い浮かんだ。そんなに遠くはないはずだ。なのに今では、あの平和な時が宇宙の外側くらい遠くに感じられる。

 そして俺たちのせいで鶴屋さんの会社も倒産し、メイドに身をやつす羽目になった。

 俺たちは今まで精いっぱいハルヒの暇つぶしに付き合ってやったはずだ。何が不満でこんな訳の分からんクソのど真ん中みたいな状態になっちまったんだよ。頼むから、前の世界に戻してくれ。

 多分、俺だってなんやかんや言いながらも楽しんでいたんだ。ハルヒは俺の退屈な日常を、本当の意味で青春にしてくれていたんだ。

 頼むから、全て元に戻してくれ――そう願っているうちに、いつのまにか日陰に入ったので目を開けた。信号の向こうに鶴屋さんと朝倉涼子が、すでに私服に着替えて待っていた。鶴屋さんがこっちに向かって手を振っている。

 ああ、今ならあの時の千本ノックを受け切れる自信があるぜ。




 駅のホームに着いたので、俺はポケットから例の胡散臭い切符を取り出し、改札へ近づいていった。

「あれ、キョン君、ハンカチ落としてるわよ」

 後ろから朝倉にそう呼び止められたが、ハンカチなんて持ってきた覚えは全くなかった。多分、どっかの誰かがたまたま落として、それをたまたま朝倉が見つけて俺が落としたと勘違いしたんだろう、すぐに駅員さんにでも渡しておくか――と思って後ろを振り向くと、確かにあった。黄色の点字ブロックのど真ん中。宇宙空間を切り抜いてきたと思われるほど真っ黒で、鶴屋さんのお尻を長年に渡って保護してきたであろう布切れが。

「あ、俺ってホントどこか抜けてるよな~、大丈夫です、自分で拾いますから」

 と言おうとした。言おうとしたが、俺が口を開く前に朝倉の指先がハンカチに擬態している黒い布切れに触れる方が早かった。

 そのまま黒い布切れは空中へ持ち上げられ、朝倉の目の前で蝶が羽化するように広がった。

 しばらく時が止まっていた。それが数秒なのか数年なのかは分からない。ただ、あれほど騒然としていたホームが、急に銀河の淵みたいに静まりかえった。その空間には時間の止まった俺と朝倉しかいなかった。

 俺も朝倉も何を言えばいいのか分からないでいた。二人は無言で見つめ合っていた。少なくともロマンス小説的な織姫と彦星という意味以外で。

「ああ、それはですねえ――

 古泉が朝倉の背後から声をかけてきた。きっと何か上手いことを言ってごまかしてくれるに違いない――頼んだぞ、古泉。朝倉の信用を失うかどうか、全てお前にかかってるんだ。

「彼自身が着用するためなんですよ」

「え?」

 俺も朝倉と同じことを言いそうになった。一体こいつは、俺をどこの時空の狭間に突き落とそうとしてるんだ?

「彼は大好きな美少女アニメキャラに心の底からなり切るため、こうして女性用の下着を身につけているというわけです。いえ、決していやらしい目的のためではありませんよ」

 笑った口の隙間から見えた白い歯を、バールのようなもので思いっきり叩き折ってやりたいと心の底から思った。

「あ、それと朝倉さんがもっているのはいわゆる『お守り用』で、着用したものではありませんので、ご心配なく」

「ふ~ん、そうなんだ……」

 朝倉は古泉の説明を聞いて明らかに心配そうな表情で、布切れを摘まんだ状態で近づくと、そっと俺の手のひらの上に置いた。俺も、本当は手のひらを差し出す気なんてなかった。しかし、いきなり変態コスプレイヤーにされ戸惑っていて、どう対応すればいいのか分からなくなっていた。なにも、それが欲しかったわけではない。たまたまこっちの世界に来るときに頭に引っかかっただけだからな。

 朝倉は黒い布切れを俺に渡すと、動物園の檻から離れるみたいに素早く後ずさりして言った。

「でも趣味は人それぞれだと思うの」

 何やら意味深でいろんな意味に解釈できる言葉だったが、少なくとも俺をフォローする意味は全くこれっぽっちもミジンコの涙ほども含まれてないことだけは、何よりもよく伝わってきた。

 とにかく執拗に俺と目線を合わせないようにしながら、朝倉は俺を迂回して自動改札機の向こうへと渡った。その後を古泉が続く。

 俺はしばらく、ただ呆然としていた――俺は何を得て何を失ったのか?――じっと手を見つめる。

 古泉、ちょっと失ったものが大きすぎやしないか?

“確かに普通の人間ではなくなったかもしれませんが、犯罪者より良かったと思いますよ。下手をすれば、元の世界へ戻る前に駅長室へ行く羽目になっていたでしょうね”

 そしてもし鶴屋さんにバレれば、銀河の淵で時間が止まるどころの騒ぎじゃなくなるだろう。足元からブラックホールに吸い込まれるような感覚を味わうことになりそうだ。

 それでもなあ…… なんとかならなかったのかよ。お前は超能力者だろ? 

「キョン君っ、早く早くっ!」

 背後から改札機越しに、鶴屋さんが呼んでいる。

 鶴屋さんに見つかってしまう前に、俺は素早く手の中のブツをポケットの中に――さっきよりも深く――ねじり込んでから、改札に切符を通した。

“まあ、超能力者と言っても、所詮神ではありませんからね。万能ではないんです”

 なんか時間吹っ飛ばすスタンドみたいなの使えただろ? あれでどうにかならなかったのか?

 “そういえば、そんな能力もあったような気がします。それならなんとか誤魔化せたかもしれないですね。しかし、急にいろんな能力が備わって、僕自身でも把握しきれず困っているくらいです”

 今度、ハルヒに記憶力を上げる超能力を使えるように頼んどくよ。

 もう二度とこんなことが起こらないようにな。

“それはいいですね。テストで使えそうです”

 階段を上がっていくとすでに電車が到着していた。3人とも、すでに電車に乗り込んだ後だった。

 ぷるるるるるる。あの宇宙人じみたアナウンスだ。

『電車が  まもなく  発車します』 

 俺は急いで、ハルヒがよくやる2段飛ばしで階段を上がっていった。

「キョン君っ、もっと走ってっ! 乗り遅れちゃうよっ!」

 クソッ、慣れないことはするもんじゃないな。もう限界だぜ、精神的にも肉体的にも。ハルヒはこんなキツイことをスキップ・スキップ・ランランランとこなしていたんだな。しかも、今回はラピュタ城の残骸がまだ胃の中でうずいてやがる。

「あ~っ、もうっ、ヤバいよっ!」

 今度こそ落とさないように、少しポケットを気にしながら、全力で閉まりゆく扉へ向かって走った。



 目が覚めると俺はいつの間にか、ガラガラになった電車の中にいた。

 車窓から外の景色を眺めると、もう夜の帳に丸い月がかかっている。眼下には家やビルの看板が、銀色の夜に文明の彩りを添えていた。きっとあの灯りの下の一つ一つに、日常があるんだろうなあ。退屈で、うんざりするほど繰り返される日常が。でも、貴重な日常が。今では遥か彼方に逝ってしまった日常。どうすれば見つかるんだ?

「どうも、こんばんは」

 そう言われてふっと横を見ると、古泉が真横に座っていた。

「なんだよ急に。気色悪いな」

 わざわざそんなところに座らなくても、他にも座る場所なんていくらでもあるだろうに。

「いえ、なんとなくですよ。ようやく元の世界に帰れた感想はどうですか?」

「早く家に帰って宿題があったことをスッパリ忘れて寝たいね」

「同感です」

 元の世界に帰ったからか、古泉のニヤケ顔にも若干安堵した表情が混ざっているように見えた。

 俺は改めて薄暗い車内を見回した。

「そういえば、朝倉は?」

 鶴屋さんは仕事で疲れたのか、俺の向かいの席に座って寝ている。朝倉も、確か電車に乗ったはずだった。

「途中で降りて帰りましたよ。今日は長門さんの家に泊ってもらいます。明日に復学の準備ですね――と言っても復学するのはたった一日だけですが」

 それが明後日のコンピ研との勝負の日というわけか。

「大正解です」

「わざわざその日に復学させる、ていうからには朝倉も『一般人』じゃないんだろ?」

「またまた大正解です。異世界の朝倉涼子はアーケードゲーム大会で優勝するほどの腕前を持っています」

 俺はため息ともゲップともつかない空気を口から吐き出した。全く、お前らのやっていることはエグイとしかいいようがないな。

「いえいえ、『エグイ』のは僕らではなく、涼宮さんの方ですよ。鶴屋さんが異世界に迷い込み――そこで朝倉さんに出会い――僕らが迎えに行く――そして異世界の朝倉さんは格闘ゲームプロ級の腕前――これが一体どれだけの確率だと思います?」

 多分、鶴屋財閥が崩壊するくらいの確率だろうな。

「ひとつだけ言えることは、涼宮さんはこの勝負に関して絶対勝利するつもりでいる、ということです。どんな違法、無法な力を行使してでもね。普段なら彼女の力がこうやって異世界に及ぶことなどあり得ない話ですから。もしそんなことが許されるなら、全ての並行宇宙が滅茶苦茶になってしまう。ある宇宙Aの涼宮さんが、とある思いつきで別の宇宙Bを勝手に改変する、そしてその改変によって今度は宇宙Bの涼宮さんが宇宙Cを改変する……指数関数的玉突き現象でカオスは全ての並行宇宙へと広がってゆくでしょう」

 不思議なことに、さっき目覚めたばかりなのに早速眠くなってきた。古泉が長い話をするたびに『たまたま偶然』眠くなるなんてすごい確率だと思う。そう考えると古典の教師もなかなかの確率の魔術師といえよう。

 しかし俺は鶴屋さんの安らかな寝顔を見るためだけに、眠気に耐えながらクーラーで乾燥する目を開けておく必要がある。

 鶴屋さんは座席に座って手すりに寄りかかりながら、夢の中の草原を走り回っていた。

 多分。

 とにかく、鶴屋さんの寝顔は無邪気で罪がなかった。夢の中まで俺を奴隷扱いしているような、後ろの席で爆睡している鬼畜女(ハルヒ)とは違ってな。

「やがてカオスが極限に達すると、全ては虚無に却ってゆくでしょうね」

「お前、明日から新興宗教の教祖にでもなれよ。けっこう稼げると思うぞ」

「遠慮しておきます。他人に担がれるのは、なんとなく苦手なので」

「担ぐのは得意だけどな」

「大正解です」

「担ぎあげた後、突き落とすのが楽しくて仕方ないんだろ?」

「アハハ、それは誤解ですよ。だいたい、改札で『アレ』を落としたのはあなたの不注意じゃないですか」

 相変わらず痛いところを突いてきやがる。

 まあ、確かに俺の不注意だったと言えなくもない。そこら辺は認めてもいいが、お前のあの釈明は駅のホームに散らばっているゲロよりたちの悪いシロモノだったじゃねえか。朝倉からは完全に変態だと思われただろうな。

「ええ、完全にね」

 電車の窓から放り出してやりたい。もっとも今のこいつなら本当に放り出されたとしても、次の駅辺りで「やあ、またお会いしましたね」と爽やかな笑顔で乗り込んでくることだろうが。

「しかし、あなたが寝ている間にばっちりフォローしておきましたので、ご安心を」

「なんてフォローしたんだ?」

 神社のおみくじくらいの期待を込めてきいてみた。

「3次元の女性には興味がない、という風にね。あなたはアニメの美少女にしか興味がない、という設定にしておきました」

 もう隕石が降ってきても大丈夫って感じの頼もしい笑顔をこっちに向けてきたが、どうやら隕石はすでに落ちた後のようだった。それも特大のやつが。どちらにせよ、すでに朝倉の誤解が解けることはないだろうと諦めていたけどな。

 でも、古泉、とっさの言い訳にしてはまあまあだよ。

「そう言っていただけると嬉しいですね。改札のときと同じく、時間を止めて考えた甲斐があるというものです」

「お前、もう無敵だな」

「そうでもないですよ。この能力にも弱点と言うか、副作用がありましてね。時を止めている間、息を止めなければならないんです」

「費用対効果は充分だろ」

 MP5でバハムートを召喚できるくらいの効率だ。

「以前とは大違いだな。前は例の閉鎖空間内で、変な赤い玉になるだけだったからな」

「そうなんですか」

「覚えてないのか?」

「ええ。ただ、なんとなく以前の状況に戻らなくてはならないような気がするんです。おそらく、僕もあなたと同じく前の世界の方が楽しかったんでしょうね。こんな超能力なんて使えなくても」

 俺には十分、これ以上にないくらい楽しんでいるように見えたが古泉がそう言うんだからそうなんだろう。

「それほど楽しくもないものですよ、実際に使ってみると」

「そんなもんかね~」

「そんなもんです」

「「次は~終点~終点でぇ~す、 お降りの際はぁ、傘などお忘れ物がないよぉ~ご注意くださぁ~い」」

 駅員独特の間の抜けたアナウンスが響き渡った。と同時に、鶴屋さんが乙女の純情夢世界から戻ってきた。鶴屋さんは眠い目をこすりながら何とか状況を把握しようとしていた。

「ん……? あれ、もう着いたのかいっ?」

「いえ。しかし、もうすぐ到着しますよ」

「ん~っ」

 両腕を上に大きく伸ばしてから

「ふぁ~っ!」

 と大きなあくびをした。流石は鶴屋さん。あくびまで若干テンションが高めだ。

 「最近疲れてるのかなぁ。なんかよく変な夢を見るんだっ」

 少し笑いながらそう言った。後ろの車窓から見える夜景に、八重歯が映えた。

 


 駅を降りたら、そこで鶴屋さんとは別々になった。鶴屋さんはそのまま街の灯りの中へと消えてゆき、俺たちは待ちかまえていた遠藤さんの車に乗り込み、また鶴屋さんとは違う灯りの方へ向かっていった。

 車の中では特に会話はなかった。というより、俺自身が満腹感とアルコールのほろ酔い気分とで、ほとんどあっちの世界へ飛び立っていたからではあるが。

 そのまま家の前まで送ってもらい、車を転げるように出てから2階の部屋へ直行した。途中、酔いが回っていたせいで階段を登る途中で足を踏み外してしまった。あとコンマ何秒か遅れていたら病院か天国へ直行していただろうが、なんの偶然かそのときは体がすぐに反応し、手すりを掴んで事なきを得た。

 「キョン君、だいじょうぶ?」

 妹が階下から俺を見上げながらそう言った。

「ああ、何ともないさ」

「ふ~ん」

 妹は俺の横をさっさと駆けあがって2階の部屋へ消えていった。

 なんか今日はやけに疲れた。きっと駅のホームでダッシュしまくったせいだ。

 残りの階段を登る途中、宿題のことがチラッと快速急行くらいのスピードで頭の隅をかすめたが、当然全くやる気はおきず、そのままベッドへ直行した。

 ベッドに駆け込み乗車すると徐々に意識が薄れてゆき、すぐに寝ているのか起きているのか分からないような領域にさしかかった。

 全く……俺はただの高校生だぜ。あんまり無茶はさせないでくれよ……

 俺の周りの人間は、どうして俺にばかり重荷を背負わそうとするんだ…………

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