第17話 異世界へ
家に帰ると、冷めた晩御飯を無視して2階の自室に直行した。
一応、机の上には世界史のノートが広げられているが全くのアウト・オブ眼中で、頭の中では別のことを考えていた。
鶴屋財閥崩壊についてである。
まず、お見舞いに来てくれた朝比奈さんの言葉をよく思い出してみる。
朝比奈さんは鶴屋財閥を崩壊させる気はない、と言っていた。
なぜ崩壊させる気はなかったのか?
簡単なことだ。未来において多分、鶴屋財閥は健在だったからだ。
『だった』と過去形を使うのは、鶴屋さんにはかわいそうだが仕方がない。俺の予想ではすでに未来は変わっちまったんだからな。
あと、朝比奈さんは「禁則事項を『もう一回だけ』破ります」とも言っていたような気がする。ということは記念すべき一回目の禁則違反は今回の株式介入で決定的だろう。
まあ、そもそもが未来を変えるために現代に来ているんだから、多少の手違いはどうでもいのかもしれない。ハルヒじゃないが、俺も過去をいつまでも悔やんでも仕方ない。俺としてはその「もう一回」の方を未然に防ぎたいところだ。
さて、もう一つの要因――古泉の秘密情報リークについてだ。古泉がいうところの『ちょっとしたお灸』らしいが、これは単なる情報流出では片付かないほどの大打撃を鶴屋財閥にもたらしたみたいだ。
銀行という場所は企業の機密情報が飛び交う場所で、それが漏れ出したとなれば銀行の信用が土台から妹歯建築と化す。もっとも、肝心の会計にも妹歯主義が大胆に導入されていたらしく、そう言った改ざんは古泉と愉快な仲間たちによって広く天下に知れ渡ることとなった。加えて、これは後で知ったことなんだが、どうやらそういった失態からどこかの新聞が『鶴屋銀行は倒産する』というデマを流したらしい。
しかし、このデマは計ったかどうかしらんが近い未来の出来事となった。
デマが発端となり、全国にちょっとした取り付け騒ぎが発生したそうだ。そういやニュースにもなってたな。4時間くらいかけて化粧したと思われるニュースキャスターのお姉さんがそんなことを言ってたような気がする。おかげで銀行は最後の金と信用まで失ってしまったという。
爺さんなら5秒で炭火焼鳥になっちまうだろうこの火力のどこがお灸なのか理解に苦しむが、相手がイージス艦では火炎放射器くらいもってこないとお灸にもならんのかもしれん。
そして最後の鶴屋電機のリコール問題である。これも「あ、ちょっと間違えちゃいました、てへ」(朝比奈さんがそういうなら俺は喜んで許すだろうが)で済むようなことではなく、死者こそ出なかったものの死者が出てもおかしくないくらいの欠陥が全国各地で見つかった。当然リコールで、まずは該当製品を回収して無料で修理し、ついで発売中の製品についてもすぐさま小売店から自主回収、しばらくは販売を自主禁止である。
この一連の騒動も、選挙期間中の政治家であれば大変喜びそうなくらい大々的にマスコミで宣伝、もとい報道され、結果消費者の信頼は完全に地に落ちた。
他の製品も全く売れなくなってしまった鶴屋電機は、それでも生き残りをかけて再起を図ることにしたのだろう。だが、世の中先立つものは金である。鶴屋銀行にその金があれば良かったものの、肝心の親玉銀行はその頃には倒産していたか、でなくとも倒産寸前の状況だったのは間違いない。
結局他の銀行から金を借りるしかない。そして、それを契機に鶴屋電機は完全に鶴屋財閥の傘下から抜けることになった。鶴屋電機という、財閥傘下でも有力な企業が抜けたことによって、他の傘下企業も完全に財閥を見限った。もとより、財閥なんてすでに時代遅れの象徴みたいなアンモナイトのごときモンである。株価の不安定もあって、資金調達に苦しむところはすぐ他の銀行に畑の大根みたいに引っこ抜かれていったであろう。
そして平らな地平線だけが残った、というわけだ。
以上の鶴屋財閥崩壊に対する見解をノートに書き込んでゆく。だいたい間違ってないとは思うが、俺が重視したい問題はそこではない。
実行犯は誰なのか、だ。
株価操作は朝比奈さん。
情報リークは古泉。
では残るリコール問題は?
どこぞの名探偵でなくとも分かるような簡単な答えだぜ。
長門しかいないじゃねえか。
動機はよく分からないが、現鶴屋家当主は『機関』とかいう組織に首を突っ込み過ぎるような人だ。もしかしたら宇宙人側にも何らかの接触をしていたのかもしれない。
そして邪魔になってきたので体よくお払い箱にされた。
いや、まどろっこしい説明なんぞ不要かもしれん。なんせぶっ壊れた宇宙人端末が何をするかなんて予想できるわけがない。それこそ、ただの気まぐれかもしれない。
もしくは鶴屋さんは妙に鋭いところもあるので、ひょっとするとSOS団の秘密を知ってしまったのかもしれない。しかしあの鶴屋さんがハルヒに「ねえ、実はハルにゃんは神様なんだってさっ!」とか言うだろうか。
言うわけねえ。
言うわけねえが、もし鶴屋さんを親の会社の都合で転校させることができれば、さらに言うわけねえということになる。念の為の保険としてそういう措置をとったということは十分にあり得る話だ。
まあ、正直言って今までの話は全て俺の推測で本当は違うのかもしれんが、おおよそこれでいいだろ。たぶん、あの3人が実行犯で間違いない、と思う。
もう一個大事なことがあったな。黒幕だ。
これらの事件は単発では大打撃だが、財閥崩壊まではいかないだろう。しかし3連コンボ場外ホームランとなれば話は別だ。偶然か?
しかしハルヒは「黒幕がいる」と言っていた。だいたい、これら全てが偶然重なったなんてあり得るか? 確率的にあまりありそうにないよな。
といって、宇宙人、未来人、超能力者を操れるような人間か何か知らんがそんなすごい黒幕なんて想像できるか?
俺もできないね。できたら後ほどテレパシーで答えを教えてやって欲しいくらいだ。
そこまで考えていたところで、携帯が鳴った。どうやら古泉が到着したようだ。
さて、これから鶴屋さんを迎えにいかなくちゃな。
車は家から少し歩いた場所に止めてあった。
なんかヤケに柄の悪い黒い車だと思ったら、中にいたのはもっと柄の悪そうなオッサンだった。
「よう、坊主。久しぶりだな」
全くうれしくない『久しぶり』だったが、俺はドスのきいた渋い声の主を見て驚愕した。
「遠藤さん……ですか……?」
「ハハ。正解だ。覚えておいてくれてうれしいね」
このときほど記憶力を無駄に使用してしまったことを後悔したことは、今振り返ってもない。後になって、どうしてこの記憶力を勉強に使えないのだろうかと真剣に悩んだ。
「ええ、まあ。名刺、もらったんでよく覚えていますよ」
とにかく、ここは俺の無限の資源、オベッカを使うのがいいだろう。
「まあ、とにかく座れよ。話はそれからだ」
そのまま港の倉庫の裏にでも連れて行かれそうな雰囲気だった。
俺が後部座席の奥に身を滑らせたすぐ後に、古泉が乗り込んできて俺の横に座った。
「それでは、例の場所へお願いします」
古泉がそう言うと、遠藤さんはギアを変えて滑りだすように車を発進させた。
すでに帰宅ラッシュの時間も過ぎたのか、車はまばらだった。
「おい、古泉」
俺は聞きたいことがいっぱいあった。鶴屋さんのことやなぜ遠藤さんがここにいるのかも。どうみてもただの運転手には見えなかった。
「まあまあ。そんなに慌てなくても、順を追ってちゃんと説明しますよ。ではどこから説明しましょうか」
古泉は少し考えていたが、すぐに遠藤さんが話しだした。
「まずは俺の正体から話してやるのがいいだろうよ。そっちのほうが分かりやすい」
「そうですね。では遠藤さんから種明かしを」
「ああ。実は俺はな、フフ、異世界人なんだよ」
赤信号で車を止めると、自慢げな顔をこちらに向けて
「ちょっと驚いたか?」
と言ったが、正直そんな程度では俺は全く驚かなくなっていた。それどころか、なんか笑いながら言われて少し信頼できなかったので古泉にきいてみた。
「本当なのか?」
「ええ、本当ですよ。彼、遠藤さんは正真正銘まごうことなき異世界人です」
「じゃあ、あの鶴屋屋敷の一件もお前と遠藤さんの芝居だった、てわけか」
「そうです。あのまま放っておけば、涼宮さんが鶴屋さんの屋敷に居ついてしまうかもしれませんからね。僕が遠藤さんを呼んで、ひとつ協力してもらったんですよ」
アハハハ。作り物のような笑い。
「まあ、そう驚くのも無理はねえよな」
こっちの疑いを驚きと受け取ってくれたようだ。
「一体、どうして異世界人が機関と一緒にいるんですか」
「ええと、それはだな……あれ、たしかここら辺に置いといたはずなんだが」
遠藤さんはダッシュボードをガサガサと探って何かを探しだした。それを見た古泉はすぐに何を探しているのか悟ったのだろう、ポケットから何かを取りだすと
「どうぞ」
そう言うといつの間にか遠藤さんが口にくわえていた煙草に火をつけた。ちょうど信号が青になったので車を走らせる。
「サンキュー。それはだな、俺たちの事情を知っててかくまってくれるとこ、ていえば『機関』しかなかったからさ」
煙を吐き出しながらそう言った。
「あなたは、『世界には同じ顔をした人間が3人いる』という話を聞いたことはありませんか?」
今度は古泉が煙を吐き出しながら俺に語りかけてきた。おいおい、ここは湾岸工業地帯か? だいたいいつの間にお前もちゃっかり吸ってるんだよ。
「失礼。しかし、あなたも話くらいは聞いたことはあるでしょう?」
遠藤さんが気を利かせてくれたのか、車内の空気清浄機の電源を入れた。煙がファンの中へどんどん吸い込まれてゆく。
「ああ。ドッペルゲンガーとかそんなもんのことか」
「ええ。まあそんなところですね」
「あんなモン都市伝説の類だと思ってたぜ」
「しかし実際にあなたの目の前にその異世界人の方が存在している――まあ、口だけで言っても説得力がないでしょうから、ちょっとした証拠をお見せしましょう」
古泉はそう言うと遠藤さんに何か耳打ちし、その柄の悪そうなオッサンは今度こそダッシュボードからなにやら怪しげなA4くらいの大きさの封筒を取り出すと古泉に手渡した。
古泉が中から2枚の紙を取り出し、そのうち1枚を俺に見せた。
「こちらが今、目の前にいる異世界の遠藤さんです」
少し大きめの顔写真が貼ってある。写真の横に書いてあるデータは俺にはよく分からなかったが、確かに顔は遠藤さんそのものだ。
「そして、こちらが同世界、つまり我々と同じ世界に住む遠藤さんです」
もう一枚の方には、喫茶店で難しい顔をしながら難しそうな新聞を読んでいる遠藤さんの写真が、それも明らかに遠くから撮ったと思われる写真が張り付けてあった。
少なくとも、俺が見たかぎりこの二人は瓜二つ、全く見分けがつかなかった。
仮に、明日俺の目の前に俺の知らない方の、つまりこの世界の遠藤さんが現れて「よお、また会ったな」と言われればそのまま何の疑いもなく信じてしまうだろう。
「両者は外見だけでなく、指紋やDNAも完全に一致、趣味・嗜好・性格もほぼ同じであるということが、機関の調査で判明しています」
ここまで調べるなんて御苦労なこった。
「だが、古泉。別にお前のことを疑っているわけじゃないが、同じならそれを捏造することも簡単にできるんじゃないか」
コピー機に通すだけで簡単だ。写真は遠藤さんにそれっぽい恰好をさせて撮ればいいだけの話だろう。
「ええ、確かにそうです。フフフ」
なんだ、その気味の悪い笑い方は。
「遠藤さん、そこの角を曲がって30メートルくらい進んだところでいったん車を止めていただけませんか?」
「あいよ」
遠藤さんの巧みなハンドルさばきで車は古泉の指定した場所にピッタリ停まった。
「もうすぐ現れるはずですよ。ほら、言ってるそばから――来たようです」
これにはブッたまげたね。なんせ遠藤さんの双子かと思われるほどよく似た人物が、建物の角から現れたんだから。たぶん会社帰りだろう。着慣れたスーツ姿だ。
こっちの車はスモークガラスだし、車内の電気もすでに消してあったので向こうに悟られることはなかった。そのままもうひとりの遠藤さんは信号を渡って暮れなずむ街の中へ消えて行った。
古泉が肺いっぱいに吸い込んだ煙をゆっくり吐き出しながら言った。
「どうです、これで少しは信じていただけましたか?」
少しどころか多いに信じるね。信じるから、将棋で勝ったときの小憎たらしい微笑を俺に向けるのを止めて欲しい。
「じゃあ話も終わったみたいだし、そろそろ車を出してもいいかな?」
遠藤さんの問いかけに、『いいとも!』とは言わずに
「ええ、そうですね」
と普通に答える古泉。つくづくおもしろくねえ野郎だ。
「そして少し話は変わりますが――あなたがもし自分の分身を自由に生み出せるとしたら、一体どうしますか?」
そんなことはひとつに決まってる。
「その分身に学校に行って代わりに勉強してもらう」
さすがの分身も毎日だと嫌になるだろうから、なんなら交代制にしてやってもいいかな。二人いれば、あのハルヒにも勝てるかもしれない。
「まあ、そんなところでしょうね。しかし、世の中そうそう『良い人』ばかりではありません。もし異世界人が何か犯罪をしたとしたら、どうでしょうか?」
当然、罪はこの世界にいる人間に及ぶだろう。
「ようするに、もう一方の自分に罪を着せて自由に完全犯罪ができる、てことか」
「ええ。しかし、もっとタチの悪いことにこの両者が手を取り合ったとしたら?」
「たぶん、二人とも思考回路もそっくりだろうから、ろくでもないことばっかりやらかしそうだな」
特に異世界からもう一人ハルヒがやってきたら、相当ヤバいことになりそうだ。想像したくもない。
「さらに、もしこちらの世界の自分が、元の世界とは違って金持ちだったりした場合も厄介です。下手をすれば殺してでもその人になり替わろう、ということになりかねませんからね。とにかくそういった諸々の事情があって、機関では異世界人を見つけてはかくまっている、というわけです」
「そりゃあいい。どうせ異世界人、ていうのは最近になって増えてきて機関のお偉方はその原因をハルヒのせいだと考えているんだろ?」
「なかなか理解が速くて助かります」
煙で輪をつくりながら笑ってそう答えた。
遠藤さんが異世界人だということは俺もよく分かった。
「けれど、俺たちはこれから鶴屋さんを迎えに行くんだよな? いったいこの話がどう関係するんだ?」
「それは、今から僕たちが異世界へ行くからですよ」
古泉は0円スマイルを向けて俺に言った。
「鶴屋さんが飛ばされてしまった異世界にね」
フーッと吐きだした煙で、さっき空中に作った輪を吹き飛ばしながら。
それから細かい疑問を遠藤さんや古泉にきいているうちに――遠藤さんが異世界では金融業に従事していたこと――そしてその経験を生かして今回の騒動で屋敷を差し押さえるのに成功したこと――鶴屋屋敷に乗り込んだときにいたチンピラみたいなのも異世界人で、昔は暴走族だったらしいが今は更生したこと――あと車をへこませてごめんなさい――いいよ板金屋のオヤジ脅して修理させといたから――誠に申し訳ありませんでした――いや冗談だって、そんなにビックリするなよ(正直これが一番びっくりしたね)――鶴屋屋敷についた。
遠藤さんは車で待機し、俺と古泉のふたりで勝手口から屋敷へ入り込んだ。
どう見ても前にみたことある屋敷と完全に同じだ。扉の『売り家、現在買い手募集中!』の張り紙まで同じだ。
「ここが異世界なのか?」
「いえ、まだ違いますよ。しかし、ここには異世界への扉がある」
古泉が遠藤さんからもらった鍵を差し込む。なんだか重い金属音とともに扉は開いた。
「さあ、どうぞ」古泉が執事のように開いた扉へ俺を導く。
これが異世界への扉だったとはな。俺はアンパンマンみたいに勇気を振り絞って扉を通り抜けた。
「あんまり変化はないな」どこかへ飛ばされる、という感触など何もない。ただ長い廊下が前と同じく、暗闇の中へ伸びているだけだ。
「いえ、まだ違いますよ。そう焦らないでください」
お前が思わせぶりな演出をするからだろ。
「僕は『異世界への扉がある』と言っただけで、何もこの扉がそうだとは言ってませんよ」
シレッと言いながら電気をつけた。つくづくいけすかない野郎だぜ。まあいい。それならサッサとその扉を探して鶴屋さんを連れ戻してくるまでさ。
「扉は、2階の鶴屋さんの部屋の中にあるそうです」
古泉に先導されて2階の部屋へお邪魔した。
中は鶴屋さんらしくきれいに片付いている。それでいて机の上にはミニサボテンや熊のぬいぐるみなど、女子高生らしいアクセントも忘れない。流石である。ハルヒもちょっとはこれを見習って欲しいくらいだ。心中を投影したような悪魔的カオス空間の部室にはもううんざりしてるんだぜ。
「んで、まさかここが異世界とか言うんじゃないだろうな?」
年頃の女の子の部屋だ。ある意味異世界とも言えなくもない。
「まさか。機関の超能力者によれば、この中のどこかに異世界への扉が隠されているそうです」
どうせならゴーグルアース並に「机の上から2番目の引き出しです」とかいう風に特定して欲しいもんだが、仕方ない。あまり他人のプライバシーに超能力で踏み込むのはよくないしな。それがどんだけ嫌なことなのか、俺も身をもって体験済みだ。
とりあえず、古泉と二手に分かれて広い部屋を捜索することにした。
まずは机の引き出しだ。有名な青い猫もここから登場するし、一番怪しい場所でもある。
開けてみると、中にはかわいらしい文房具やらが散乱していたが到底異世界には見えなかった。ここで俺には一抹の不安が芽生えたので、念のために他の引き出しも全部開けて調べてみる――よし大丈夫だ、コンドームはない。俺が断言するから安心していい。
「ちゃんと調べていますか?」
「ああ、ばっちりだ」
たったひとつの真実を告げて捜査を続行する。
そういえば、ベッドの下も定番だ。調べてみると、見たこともないような少女マンガが並んでいた。後はよく着るような普段着。
ここにもコンドームや避妊薬はなかったから安心していいだろう。
あと他に怪しいところといえば、クローゼットの中くらいか。ナロニア国物語ではここから異世界に移動したし、ひょっとしてビンゴじゃないのか――だが開けてみるとそこは俺の部屋と同じくらいの広さがあるウォーク・イン・クローゼットだった。おそらく外行き用だろう、高級そうな服がところ狭しと並べられていた。中には和服もある。
ここも隅々まで探したが見つからなかった。
収穫なく引き揚げたところで、ちょうど古泉が声をかけてきた。
「見つかりました。ここですよ」
意外とあっさり見つかったんだな。古泉の方に歩み寄り、コイツの指さす方に目をやる。
そこには服の下につける布切れ――いや、もう遠慮せずにはっきり言ってしまおう。
要するにパンツやブラジャーがきれいに折りたたまれて、ぎっしりとタンスの引き出しの中に詰まっていた。
さすが我らが古泉先生、これは世紀の大発見だ。今からヤフオクで売りさばこう。だが、その前に意外と黒が多いことはハルヒに報告しといたほうがよくないか? あいつも同じ年頃の女子がどんな下着をつけているのか、きっと興味があるだろうし。
「まさか本当にこんなところにあったなんて。僕も信じられませんよ」
邪馬台国の場所を特定する重要な遺跡を掘り当てた考古学教授のような口調で言った。
「少し確認してみますね」
俺は、多分その下着の中からひとつ摘まみ出して検分するんだろうと思っていたが、そこはさすが、古泉教授のやることは俺の想像を遥かに超えていた。
教授は両手で引き出しの取手を掴んで体を固定すると、勢いよくその頭を下着の海へ突っ込んだ。
「どうやらこれで間違いないようです」
ブラジャーの隙間から古泉のくぐもった声――今まで聞いた中で一番確信のこもった力強い声だ――が聞こえた。こんだけ気合いを入れて確認してくれたら鶴屋さんも本望というものだろう。
しかし俺の方はといえば――正直いうとこのジメジメした季節に、背筋にうすら寒いものを感じていた。
古泉の勇気と根性には大いに好感が持てるが、いくら谷口でもこれは引くだろう。当然、ウブな俺ならドン引きだ。
どうやら明日になったらみんなに古泉は遠くの学校へ転校したと伝えておいたほうがよさそうだな。多分ハルヒのやったことの後始末に超能力を使いすぎて、脳細胞が半分くらい死滅してしまったんだろう。市内にいい脳神経科の病院があったはずだ。大丈夫、3カ月に一回くらいはお見舞いに行ってやるよ。
俺がそんなことも考えているとは知らず、古泉はようやく鶴屋さんの下着が織りなす異世界桃源郷から顔を上げた。こういうときになんて言えばいいのか、俺は全く分からなかった。そりゃそうか。日本語作ったやつも、こういう事態を想定して作ってくれたわけではないしな。
だがそんな心配をよそに、頭の右側にブラジャーをぶら下げた古泉が先に口を開いてくれた。
「そういえば、あなたは普通の人でしたね」
そうだ。俺が平均的地球人だとすれば、今やお前はアンドロメダ性人か神の寵愛を受けた下着性人だ。どっちにしても、俺の手の届かない人間になっちまったんだよ。
「あなたにも分かるようにしますので、少しの間だけ目をつむってもらえますか?」
俺は言われた通りに目をつむると、古泉の未来に神の御加護があるように祈りを捧げた。
ああ、天におわします我らが神よ、いつか古泉イツキが普通の人間にもどれますように。あと、せめて刑務所だけは勘弁してあげてください、アーメン、ソーメン、シクラメン。
「大丈夫です。それでは、目を開けてください」
目を開けて驚いた。
なんせ、それまで下着がギッシリ詰まっていたはずのタンスの中が空っぽになってたんだからな。かわりに、どこまでも続く真っ暗な空間だけがそこに広がっていた。
「おい、これは一体どういうことなんだ」
「どういうことも何も。これが我々の探して求めていたもの、そう、異世界への扉です」
それは雰囲気でなんとなくわかる。どう見たってタンスの中がこんなに広いわけないしな。ウォーク・イン・タンスなんて聞いたことすらない。
「それよりも、どうして今まで見えなかったものが急に見えるようになったんだよ」
「僕が最近、自分の意思とは無関係に新しい超能力を身につけている、そこまでは大丈夫ですよね」
俺は無言でメンドくさく頷いた。
「また最近、新しい超能力を習得したんですよ。今回の能力は、どうやら他人に超能力を譲渡する能力みたいです。こういう異世界へのワームホールというのは、普通の人間には一切知覚できません。」
なるほど。宇宙人、未来人、超能力者かそれに準じる存在でないとそもそも見ることすらできないというわけか。
「なので、あなたにはさっき目を閉じてもらっている間に超能力者になっていただきました」
ほう、それはすごい。ついに俺も世界を救う超能力者の仲間入りか。思わず両手を広げてその手のひらを眺める。
「一体どんな能力が俺に譲渡されたんだ?」
時を止める能力か? 遠隔視や未来予知もなかなか使い勝手が良さそうだな。ハルヒがよからぬことをたくらむ前に阻止できるかもしれん。それかオーソドックスに念力か? だったら暇つぶしに妹のクマのブーさんのスプーンをみじん切りにしてやろう。
「いえ、あなたに譲渡した能力は、臭いを消す、というものです」
えらく地味だ。どんなときに使えばいいのかもわからない。
「別に臭いなんて消さなくても納豆ぐらい食えるぞ。まあ、回転寿司の安っぽい磯臭さが消えるのはありがたいが」
「いえ、その能力はもっと特定の場合にしか効果を発揮しません」
「いったいどんな場合なんだよ」
「つまり、体から放出されたメタンガスの臭いを消す場合です」
「要するに」
俺は一瞬躊躇した。言えば負けのような気がしたが、自分の能力くらいは把握しておきたい。
「それはオナラということか?」
「まあ、端的に言えばそういうことになりますね」
古泉の微笑に、猿が餌欲しさに瓢箪の中に手を突っ込んで抜けなくなったのを見て憐れむような色が混ざった。いい加減にしないと、俺はいつかその顔にオナラの親玉を叩きこむことになるだろう。
だが古泉はそんなこと僕にはお構いありませんねといった感じで、得意満面に追撃を始めた。
このとき俺は初めて『死体殴り』の本当の意味を知ったね。
「ちなみに、スカシ専用のようです」
言い終わった瞬間、古泉の口の端が大きく持ちあがった。どうやら爆笑をこらえるのに必死のようだ。よぉく分かったよ。ちゃんと保険には入っているかな? これから階段を降りるときは背後に気をつけた方がいい。
「そんなこと実験してるお前も相当笑えるぜ」
俺はせめてもの反攻を試みた。
「いえいえ。実験はあなたに任せますよ。僕はただ、そういう能力が身についたと直感で認識できただけですから。涼宮さんのおかげでね」
およそ10秒で撃退されたようだ。
古泉は急に真面目な顔に戻ったが、その1ナノメートル下には爆笑が渦巻いていた。もしデスノートブックを拾ったら死因のところは『ボットン便所に落下して臭死』で決定だな。俺にその超能力を譲渡したことを後悔しながら、ジワジワ死んでいくがいい。
「まあ、そんなことは置いておきましょう。それより、僕たちにはやらなければならないことがあります」
古泉が改めてタンスの引き出しの中を指さした。
その黒い空間をまじまじとよく眺めてみると、ボットン便所より薄気味悪く見えてきた。
まあ鶴屋さんを助けるためだ。覚悟を決めるしかあるまい。
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