第15話

 翌朝、俺はいつにない調子の良さで登校した。

 つい昨日に地獄の底から這い上がってきたばかりというのに、なぜ調子がよかったのか?

 答えは簡単。あの日長門の家で、愛とかたつむりたっぷりの誕生日ケーキを食った瞬間から今日の登校まで、俺はずっと寝続けていたからだ。もちろん、その間にSOS団全員の訪問を受けたり、晩御飯の雑炊をかきこんだりはしたが、夜寝るのも早かった。リンゴを食った後、風呂からあがって一応学校の宿題に手をつけてみたものの、30分ほどで今までの体力を急激に消耗。やっぱり病み上がりに性にもないことをやるもんじゃなかった。とにかく「これはいかん、また病気が再発するかもしれん」と自分の健康を第一に考えて寝た。ちなみに、朝はいつも通り7時に起きた。

 道理でいつものハイキングコースの足取りが軽いと思ったわけだ。

 まあ、足取りが軽かったのは梅雨らしからぬ快晴だったこともあっただろう。

 それも相まっていつもより早い時間に校門をくぐり抜けて教室にたどり着いたわけだが、残念なことに1時限目の古典から早速寝てしまった。これに関しては俺自身でもしまったとは思ったが、俺の絶好調より古典教師の催眠術のほうが一枚上手だったということでご了承願いたい。

 俺はかろうじて授業終了間際に目を覚ましたものの、すでに項羽は漢の大軍に突入し、自分で自分の首を刎ねた後だった。

 この時間に当てられなくて良かったと思う。昨日あれだけ古泉に怒りをぶちまけて今日になって助けてくださいとは、控えめで謙虚な俺にはさすがに言えない。

 しかし、こうも居睡してしまったのには原因がある。あれだけ寝ておいて原因がどうこう言うのは政治家が勝手に借金を作りまくって勝手に増税するのと同じかもしれないが、まあ、どっちにしても俺の方はまだ可愛い話だ。

 まず、その日は月曜日だった。月曜日には全校生徒を集めて行われる、校長先生の季節のあいさつから始まるくだらない話を聞かなければならない。それも朝とはいえ、そろそろ陽が高くなりだす頃。この一年でもかなり暑く日差しも容赦ない時期なら、なおさら体力を消耗するのも仕方のない話。グラウンドで直射日光を浴びていると、網の上で焼かれるサバみたいに汗が噴き出してくる。もちろん、サバほど食欲をそそるものではないが。

 グラウンドでは、すでに時間がきているというのに盤上にコマを散らかしたみたいな状態だった。みんなダルそうだったが、ひとりだけさっきまで冷蔵庫の中にでもいたのかと疑いたくなるような顔をした生徒がいた。

「やあ、どうも、おはようございます。昨日は悪いことをしてしまったようですね」

「いや、俺の方も言いすぎたと思っている。おまえにも悪気があったわけじゃないのにな」

「悪気がなければすべて許されるわけでもないですよ。昨日の僕は――なんというか、少し浮かされていたんだと思います」

「まあ、良く分からんが昨日は世界の危機を間一髪で避けたみたいなんだから、お前が浮かされるのも仕方ないことだ」

「とにかく、これからはあなたのプライバシーにまで踏み込むようなことはなるべく避けるようにします」

 ああ。そうしてくれると助かる。

「まあいい。昨日のことはお互い水に流そう。俺たちまでいがみ合っても何もはじまらん。それより古泉」

「なんでしょう」

「まわりの空気の温度を10度くらい下げる超能力とかが実は備わってしまっている、なんてことはないか?」

「本当に、そういう能力があればいいですね。涼宮さんにそれとなく言ってみてはいかがですか。それか向こうの長門さんに頼んでみるとか」

 古泉が示した先には長門が氷の像みたいに無言で――というより、もはや無音で突っ立っていた。この騒がしいグラウンドの真ん中に、ポッカリと穴でも開いたみたいな、そんな感じの防音閉鎖空間が自然と出来上がっていたみたいだ。

「いや、遠慮しておく」

「そのほうが無難でしょうね」

 まあ、そうだろうな。

 俺と古泉はこのままこのまま話をしていたら、ときどき暑さとハルヒを愚痴りながら永遠に話をしていただろうが先に教師の方が我慢できなくなったようだ。

 いつまでたっても整列すらできない生徒たちに怒号をあげながら、牧羊犬みたいに追い立てて並べていった。

「そういえば、昨日は鶴屋さん、見つかったのか?」

「いいえ。困ったものです。涼宮さんは、完全に鶴屋さんに固執していますからね」

 そういう古泉の表情は全く困った様子もないように見えた。

 俺はこれからの対策――特にコンピ研対策についても話し合いたいところだったが、あいにく教師の怒号が近くまで迫ってきたので、急いで自分の列へ戻った。

 戻ったら、女子はとっくの昔に全員ならび終えて静かに朝礼の始まるのを待っている。

 普段はよくしゃべるくせに、こういうときはさっさと並んでさっさと朝礼を終わらせるのが得だと知っていやがる。

 あのハルヒですら――というより、損得勘定のシビアなハルヒだからこそ、というべきだろうか――すでに黙って列にもぐりこんでいる。まあ、ハルヒの場合は学校で喋るような相手がほとんどいないのも一因だろうけどな。なんせあいつは俺以外の一般人とは喋らない。

 並び終えて静かになったとき、ようやく校長の長くてつまらないスピーチが始まった。

 ふとハルヒの方を見てみると、『つまらない説教をするジジイはさっささと死ねばいいのに』と汗だくの顔に書いてあった。

 それにしてもなあ。

 本当に話の長いジジイだ。

 皆も分かってくれるだろう。こうやって校庭に突っ立ている一分一秒ごとに貴重な体力は汗として流れ、蒸発してゆく。

 貴重な青春の1ページが、校長の毒でも薬でもない言葉で埋められてゆく。

 いい加減にしないと、マジでハルヒに殺されてしまうぞ。



 そうやって1時限目の古典は陥落したものの、残りの授業はなんとか持ちこたえることができた。

 核爆弾が落ちてきても続くだろうと思われる、絶望的なまでにつまらない授業。

 今度古泉に時間の流れを早くする超能力がないかどうかきいてみるか。



 ようやく昼休みになった。核爆弾は落ちてはこなかったが、まだ残りの授業は長い。

 ハルヒは昼休みのチャイムが鳴ったと同時に墓場から復活したゾンビみたいに起き上がると、そのまま購買部の方に走って行った。まあ、校舎の影を、直射日光をさけて走るやつの動きは吸血鬼並だったに違いない。

 教室の向こう側で谷口が手招きしていた。横に国木田も座っている。

 やれやれ。またいつものメンバーか。

 このところ、このいつものメンバーというのが曲者だった。つい最近の古典での漢文語訳事件のせいで、谷口が俺に執拗に下ネタを振ってくるようになったからだ。

 そして大抵は、谷口が俺に新コレクションのAVを貸してやろう、という話になってしまう。

 もちろん食事中であるし、根がお上品で繊細な俺とっては、こんな谷口にホトホト困っている。教室内にも付き合いがあるから仕方なく借りていているものの、これ以上の密輸はヤバい。

 まずクラス内に露見するリスク。誤訳事件で俺の変態度は谷口に及ばないにしてもそれに半馬身くらいの差で迫っている、とクラスからは見られている。正直、これ以上しょうもないところで注目されたくない。

 そしてもう一つの懸念が持ち物検査のリスク。これでバレたら本当に俺の学園生活は終りになってしまう。退学になることはないだろうが、少なくとも学校内での居場所は確実になくなる。昨日の水溜りが今頃蒸発してゆくようにして。

 今度は国木田も手招きしだした。俺もハルヒ程友達が少ないわけではではないが、そんなに多いわけでもない。一緒に昼を食べる人間など、結局こいつらしかいない。

 よっこらせ。

 口から小さい呟きとともに立ち上がろうとしたとき、後ろからそれと同じくらい小さい声で「ここに座ってもいい?」というのが聞こえた。

 反射的に「ああ」と承諾してから振りむいて、断っておけばよかったと心底思った。

 すでに長門はハルヒの席に座っていた。

 もう、この時点で予想はできていた。谷口の大好きな学園物のギャルゲーではこのあとどういう展開になるのか――そしてそれが長門の人格に組み込まれていることも。

「お弁当、作ってきたの」

 長門が取りだした弁当を見て、俺は唾をのんだ。

 まだ中は見えないが、おおよその見当はついた。

 すぐに助けを求めようと谷口の方へ振り返った――が、やつはもう諦めたのか国木田と弁当を食べ始めていた。

「大丈夫。今度は、ちゃんと地球の文化を研究してきたから」

 そういいながら、長門は弁当を包んでいるナプキンをほどいた。

 長門の白くて細い指が弁当のフタにかかる。ここまできたら、もう長門の言葉を信じるしかなかった。俺は、この弁当箱の中身が鮭や卵焼きやウィンナーをタコみたいに切ったやつであることを本当に、心の底から、多分生まれて初めて真剣に、神に祈った。

 ――弁当のフタが完全に持ち上げられた。

 普段なら学校の授業と同じく全く気にもかけないような弁当の具でも、このときだけはそれらが高級レストランのフルコースにも匹敵する料理に思えた。

 ――フタが横に移動していく。ちらりと白いものが見えた。

 多分、ご飯だろう。問題は残りの具材が何かだ。

 胃の底からこみあげてくる吐き気が抑えきれない。

 ――ついに、フタが完全に開いた。

 あそこに見えるのはなんだろう。小さい頃、野原で追いかけたバッタに似ていなくもない――ふとそんなことを思ったりしたが、もうどうでもよかった。

「イナゴのバター炒め」

 その横には黒い塊があった。さらによく見てみると、ひとつひとつに小さな肢と触角が突き出ているのがわかる――なんだ、小さい頃、巣穴にお湯を流し込んで『ありま温泉』とかやってた蟻さんじゃないか。まさかこんなところで会えるなんて思ってもみなかった。

「蟻の油揚げ。白いのは蟻の卵蒸し」

 ああ、俺がご飯だと思ってたのは実は蟻さんの卵だったのか。どおりで光沢が米らしくなかったわけだ。蟻の黒山に添えるようにして、小学生の頃プールの上を飛んでいたのと同じトンボさんが横たわっていた。虚ろな目は、もうどんな色の空も映すことはないだろう。あの夏の強烈な太陽すらも。

「トンボの酢漬け」

 弁当の一番端には、何やら衣で包まれた物体があった。衣の上からでは良く分からないが、形からみて多分――

「ゴキブリの天ぷら」

 しぶとい悪友だ。俺が生まれた時から、そしていまもどこかで見守っていてくれている、そんな悪友。困難に立ち向かう勇気、退かぬ心。それを忘れないよう、いつも教えてくれる存在。

 この長門の弁当には懐かしい思い出がたくさん詰まっている。

 長門の箸が動いた。ゴキブリの天ぷらに蟻の卵蒸しを乗せると、なにやらタレをつけて持ち上げ――その箸はそのまま俺の顔へと動いていった。

「あ~ん」

 止めてくれよ、と思ったが、長門はそんなことおかまいないしに容赦なく俺の口の中へゴキブリの天ぷらを押し込んだ。卵。先に口の中で弾ける。次々と誘爆するように弾けてゆく。弾けるたび頭の中に遠い声が聞こえるような気がした。友の呼ぶ声。いや、俺が呼んでいるのか。だが、友の姿は見えない。俺はいつの間にか、草原を走っていた。

 ついに歯が、天ぷらの衣を切り裂いた。サクサク感。もはや、何を噛んでいるのかさえ分からなくなってきた。これは本当にゴキブリなのか。本当はエビ天ではないのか。しかし、直感がゴキブリだと告げていた。

 切り裂いた衣の隙間から、肉汁のようなものが溢れてきた。

 俺はまだ草原を走り続ける。たぶん、あの坂を越えた先に友はいるはずだ。それだけを信じて。

 だんだんと視界が白くなってきた。かまうものか。

 それでも、走る。そうすれば口の中の味から逃れられる。そう信じて。

 走る。ただ、坂の上だけを目指して。

 視界。だんだんと白くなってゆく。待ってくれ。そう叫ぼうとしたが、声はでなかった。

 待ってくれ。あともうちょっとなんだ。

 草がなびいている。かすかに見えた。

 視界が、完全に白く染まった。



 今度は夢も何も見なかった。目を覚ましたとき、俺はすでに薬品臭いにおいが充満する保健室に運びこまれていた。まさかこの俺が身体測定以外でこの部屋のお世話になるとは思ってもいなかった。

「ホント、お前には同情するぜ」

 白いベッドの横から声がした。いや、ベッドだけでない。保健室全体が白一色だった。枕もシーツもカーテンも。天井も

「谷口。国木田もか」

「うん。谷口と二人で運んだんだけど、大変だったよ」

「お前らが運んでくれたのか」

「ああ。だいたい俺ら以外にだれがやるんだよ」

 くやしいことに、その通りだ。それからは3人でとりとめもない話をした。

 そしてそろそろ弁当を食べに教室に戻ると言って谷口が立ち上がると、去り際に「愛妻弁当作ってもらってるようなやつは、もう友達じゃねえよなぁ」と言い残して行った。

 俺からしたら、あんなゴミ処理場の残飯に匹敵するブツを弁当などと呼べるかどうか疑問が尽きないところだったし、ぜひとも谷口にも試食願いたいものだった。

 それでもまだ「これは愛妻弁当だ」と主張できるのなら、仕方ない。俺と谷口はもう友達ではないことになる。

 かつての友人が立ち去ってから、意外な人間(ばなれしたやつ)が入ってきた。

「また酷い目にあったんですね」

 そうだと言いたいところだったが、言ってしまうと長門を悪者にしてしまうような気がした。いや、間違いなく悪者にしてしまうだろう。たぶん、日曜日に長門は地球の食文化について必死に調べたはずだ。後で俺も調べたところ、確かにゴキブリや昆虫を食う文化は地球の各地に存在しているらしい。

 「口では言えないほど酷かったんですね」

 俺が下手なことを言えずに沈黙しているだけなのを、どうやら肯定と受け取ったようだ。最初の一瞬は俺も朝比奈さんが来てくれたことを喜んでいたがこんなターミネーターモードの朝比奈さんと正面切って話をするくらいなら、まだ見舞いに来てくれなかった方が気楽だった。

 とはいえ、このまま俺が黙っていたところで朝比奈さんは長門をいくらか罵ってから帰っていくだけだろうし、それでは二人の関係になんらいいこともない。

 俺もそろそろ覚悟を決めて言うべきかもしれない。たぶん朝比奈さんには不快に思われるだろうが、それでも言うべきだと思った。

 「たしかに酷いかもしれない。でも長門に悪気はなかったんです。長門はいわば宇宙人で地球の文化も全然知らなかったんですから」

 「キョン君、大丈夫ですか?」

 「ああ、もうだいぶ具合もよくなってるから、5時間目の授業から――

 「そういう意味じゃないんです」

 俺は一瞬わけが分からなくなった。どうみても朝比奈さんの様子のほうがおかしい。

 「あれだけのゲテモノ料理を食べさせられてそれでも相手をかばうなんて、普通じゃないです」

 「いや、俺はべつにかばってるわけじゃないんだ。ただ――なんていうか――今回のことは俺と長門の問題であって、朝比奈さんがどうこうするようなことじゃないと思って」

 朝比奈さんは、それを聞くと椅子に座ったままうつむいて黙り込んでしまった。

 やはり、まずかったか。しかしこのまま俺の方が黙っていれば、長門が悪者ということで押し通されてしまっただろう。下手をすれば、なんらかの報復をすべきというところまで話は進んだかもしれない。もちろん俺には報復なんてする気は一切ない。ただ元通り仲のいい二人に戻ってもらいたいだけだ。

 「朝比奈さん、いい機会だからもう全部言いますね。俺は未来がどうなっているのか、古泉から聞いてだいたいのところは把握しているつもりです。なので、朝比奈さんが長門を嫌いな理由は、現代人としてある程度は理解しているつもりです」

 「何がいいたいんですか?」

 いつもと違ってなんの抑揚もない口調。俺はイージス艦ばりの威圧感に別な意味でまたしても吐き気がしてきたが、それをなんとか抑えこんだ。

 「だから……それでもいいます。長門と争うのは、もうやめにしましょうよ。朝比奈さんの未来の問題を解決したい気持ちもわかります。でも、このままじゃ結局何も解決しない。そうでしょう?」

 「やっぱりキョン君、おかしくなってますね。たぶん、情報操作で人格を改造されてるんだと思います」

 「そんな……長門は少なくともそんなことするようなやつじゃないし、俺にもそんな自覚は全然ありませんよ」

 「自覚がない、ていうところが逆にあやしいんです。洗脳された人間にその自覚がないのと同じです。そのうち、あのかたつむりのケーキをおいしく食べるようになってますよ」

 朝比奈さんの目に憐れむような光がさした。多分何を言っても無駄だろうが、言わなければならないような気がした。ここで黙り込んでしまうと、それこそ洗脳されたと認めるようなもんだった。

 「仮に洗脳されているとしても、俺の言ってることはその前と変わりません。未来人と宇宙人が前みたいに仲良くなってもらいたいということは」

 「もう、戻れないんです」

 朝比奈さんの目が、沈みゆく夕陽を眺めるような遠い眼つきになっていた。多分本当にどうしようもないんだろうな。夕陽が沈むのを止められないのと同じで。

 「もうそろそろいかないと」

 朝比奈さんがそう言って立ち上がった。

 「最後に、ひとつだけキョン君に教えておかないといけないことがあるんです。鶴屋財閥の崩壊、あれ、実は私のせいなんです」

 「え?」

 またもや、わけが分からなくなった。いくら未来から来たとはいえ、たった一人で財閥を崩すなんてできるはずがない。演技かどうかしらないが、いつもはハルヒにおっぱい掴まれて苛められるだけの女子高生にすぎないのだ。

 「でも、それって多分禁則事項ですよね」

 「ええ、そうですよ」

 意外にもあっさりと認めた。

 「未来の人間なら、株価を調べるくらいなんでもないですから。ちょっと操作すれば会社ひとつに打撃を与えるくらい、キョン君にもできますよ。ちょっと予想外の出来事が重なって倒産しちゃいましたけど」

 「俺は遠慮しときますよ。その言い方だと、本当は倒産までさせる気はなかったようですね」

 「たぶん、私が介入したことによって微妙に歴史が変わっちゃったんだと思います」

 考えられない話ではなかった。まあ、あれだけの超能力を見せつけられて宇宙人のゲテモノ料理を食わせられれば自分の死以外はなんでもこいだ。だが、それを除いて考えてみても、歴史に小さな力が加えられただけで思わぬ方向へ行ってしまうのは、俺ら常人の人生を振り返ってもすぐに納得のいくものだろうと思う。

 あのときああしていれば。そう思わずに生きていくのはテストで100点をとるより難しい。

 ましてや、財閥といえども昔のような一枚岩ではなくなっているだろう。俺も新聞のニュースで見たがけっこういろんな問題が複合して起こったらしく、単純に朝比奈さんの株価操作だけで倒産したわけではなさそうだ。

 ただ、とどめの弾を撃ち出す引き金を朝比奈さんが引いたことは確かだろう。朝比奈さんは当てるつもりはなかったが、微妙に変化した歴史の力が加わって弾は鶴屋財閥へと導かれていったというところか。

「そろそろ部室に戻りますね。涼宮さんが待ってると思うから。ごめんなさい。お見舞いに来たのにこんな話ばっかりしてしまって」

「いえ、いいですよ。それより、最後にひとつだけ教えてくれませんか」

「なんですか?」

「鶴屋財閥の株価を操作しようと思った動機です」

 ただの気まぐれでそんなことをしたとは思えなかった。鶴屋さんの家の会社でもあるんだから。

「鶴屋さん、てけっこう鋭いところがあるんですね。なんていうか、たぶん私や長門さん、古泉君の正体に薄々感づいているというか。それがとうとう、私と長門さんのいざこざも感づいたみたいなんで、邪魔になる前に排除しようと思って。家庭が乱れれば、こっちにかまってるどころじゃなくなるでしょ?」

「まあ、確かにそうですね」

 ちょっと残酷だが、下手に巻き込んでしまうと死ぬ危険があるのは俺が身をもって体験済みだ。また鶴屋さんもハルヒと似たところがあって、いろんなところに首を突っ込みたがる性格でもある。

「俺はもう少しここで休んでいますよ。あと、朝比奈さんが禁則事項を破ったことは誰にも言いませんから。もちろん、古泉にも。だからそこら辺は安心してください」

「大丈夫ですよ、言っちゃっても。あともう一回だけ、禁則事項を破るつもりですから。とにかく、キョン君は早く体調良くなってください。涼宮さんがそれとなく心配してましたよ」

 朝比奈さんは立ち去った。俺の好奇心をビンビン刺激することを言い残して。

『あともう一回だけ』。確かにそう言った。

 正直なところ、体調はすでにほぼ元通りになっていた。

 でも――

『あともう一回だけ』。

 古泉にこのことを話したほうがいいのかもしれないな。

 朝比奈さんに『誰にも言わない』と約束した舌の根も乾かないうちに、俺はそんなことを考え始めていた。



 この日の最後の授業は世界史だった。まあ別にどうでもいい話なんだが、確か後漢末の三国時代が、ちょうどその授業の内容だったのは鮮明に覚えている。

 なんたって、友達の家でやったゲームでそんなのがあったので、俺も少しは気になっていたからだ。眼鏡をかけたムツゴロウのようなこの爺さんの授業を、俺が真面目に聞くのは有史以来の大珍事といってもいいくらいだ。

 なぜならこいつの授業は絶望的に分かりづらい上に、爺さんの字があまりに汚くてまるでエジプトの古代文字みたいだったからだ。最初はヒエログリフ講座と間違えてんのか、と思ったほどだ。なんとか判読しようと必死になっているうちに、これまた入れ歯の調子でも悪いのか聞きとること絶望的に不可能な古代言語で授業をサクサク進めていく。勇気と善意ある生徒が、このムツゴロウにもっとゆっくり話してくれるようにいったところ、辞書に載せてもいいくらいの見事な逆切れで教室中を唖然とさせた。怒りでさらに呂律が回らなくなって、余計に聞き取れなくなった怒声が多分廊下にまで響いていたと思う。各々の生徒がなんとか聞き取れた場所をつなぎ合わせて、ようやく爺さんが「生徒が教師に口出しするな」的なことを言っていたんだということがだいぶ後になって解明された。

 多分これからもこの授業を真面目に聞くことはないだろう。まさにヘレン・ケラーばりの三重苦を背負った教師だが、肝心のヘレン・ケラー精神に欠けてるんじゃしょうがない。

 そういう中でやっと興味をもった分野ができたというのに、結局三国志の部分はものの15分で終了した。俺はずっと魏が天下統一したと思っていたが、結局は魏の内部を乗っ取った晋が三国を統一したのも束の間、すぐに騎馬民族に滅ぼされて五胡十六国の戦乱の世に戻っていったという。

 歴史にもしもは禁物だが、もし曹操が赤壁の戦いで勝っていたら俺の思った通り魏が天下統一していただろう。

 三国時代が早くも過ぎ去って世界史の爺さんに全く興味がなくなったんで、俺はふと後ろを振り返ってみた。ハルヒは気持ちよさそうに真っ白なノートに頭を沈めて眠っていた。

 もしハルヒが歴史に興味を持っていたら――多分、こいつの能力は過去に対しても効果があるんじゃないか?

 しかし、こいつの寝顔を眺めていて思った。こいつにとって『スイコデン』なんて居酒屋の名前以外の何ものでもないだろう、てな。

 そうこうしているうちに、チャイムがなった。

 チャイムが鳴ったとたんにハルヒはタイマーでも仕掛けられているかのように目を覚ました。

「どうしたの。そんなにじろじろ見て。顔になんかついてるの」

「いや、よだれ垂れてるぞ。ノートも濡れてるし」

 俺が指摘してからやっと口の周りについたよだれを制服の袖で拭き取って、ふやけたノートのページに目線を落とした。

「真っ白だな」

「別にいいの。わたし、未来にしか興味ないから」

「そんな誇らし気に言うことじゃないだろ」

「だからキョンも過去をふりかえらずに、対コンピ研戦にむかって頑張るのよ。ただでさえ昨日寝込んでた分だけ練習不足なんだから」

「まあ、頑張るよ。なんせ俺の金が費やされてるんだもんな」

「どうやらわたしの先行投資の効果が出てきたみたいね」

 何が『わたしの先行投資』だ。俺流の皮肉をどうやったらここまで好意的に解釈できるのか。どう見ても『先行強奪』だろ。思わず眠気も吹き飛んでそう言い返してやろうと思ったが、かろうじて抑え込んだ。確か古泉が機関に頼んで経費で落としてくれると言っていた。俺の心の中の諸葛亮が「ここは耐えるのが上策」と言っている。

「ところで、昨日のケーキはどうだった? おいしかったでしょ。あれなら食中毒も一発で吹っ飛んだんじゃない?」

 非常に困る質問だった。正直に妹に全部食べられてしまった、と答えてもいいが、ハルヒが俺に満面の笑みを向けてそう質問している。うかつなことは言えなかった。

「ああ、すごくおいしかったよ」

「ほんと?! どこらへんがおいしかったの?」

 もうおいしかったんだからいいじゃねえか、俺の妹のほうに聞いてくれよ、と心底思ったがどうしようもなかった。すでに「おいしかった」と答えてしまった以上、今さら「食ってない」なんて言えるはずもない。

 ハルヒが期待を瞳に宿らせて俺の方を見ていた。

 なにか適当なことを言うしかなかった。

「ああ、クリームが違うね、クリームが」

 言いながらチラッとハルヒの様子をうかがう。表情に大きな変化はなかった。今ならいける。このまま押し込んでしまえ。

「なんていうかな、全体的にまろやかで、おしとやかなお姫様って感じかな。一口食べただけで、舌が赤ちゃんの肌のごとくきめ細やかな春の雲に優しく包まれたよ。まるで虹でろ過されたアルプスの天然水ように繊細でエレガント。その味は、まさに甘みの嶺上開花リンシャンカイホウ

「っぷ。なにそれ」

「まあとにかく、おいしかったということさ」

「気に入ってくれたみたいでよかったわ。けっこう選ぶのに苦労したのよねえ」

 よかった。完全にこのピンチを乗り切ったみたいだ。俺の頭脳にかかればハルヒひとりを煙に巻くくらいちょろいもんさ。

 このあとは定番のホームルームでお開き。ハルヒは珍しく掃除当番なのでしばらく教室に残るらしい。

「さきにあっちに行って練習しといて」

 あっちとはゲーセンのことである。

「サボったら死刑だから!」

「はいはい、ちゃんと練習するって。対戦ももうすぐだしな」

 正確には3日後だった。

 だがこのときは対戦前の不安よりもハルヒの追及をうまくかわした安堵感でいっぱいだった。

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