第12話 誕生日ケーキ
玄関の扉をくぐると、すでに外は暗くなっていた。と言ってもそれは日が完全に沈んだからではなく、あの晴れていたはずの空を今にも落ちてきそうなほど厚い黒雲が覆っていたからだった。
庭を横切って道路に出ると、『ヤ』のつく自営業者ご用達の黒いBMWが止めてあった。
「これ、あいつらの車かしら?」
「多分そうだろ。それにしても、やっぱりああいう人間はこういう車に乗ってるもんなんだな」
スーツも黒で車も黒とは。ガラの悪さを選挙カー並に宣伝して走り回っているようなもんだな。
「本当にムカツクやつらだったわね。どうせ安いチンピラのくせに」
ハルヒが車の中を覗き込みながら言った。スモークガラスでよくは見えないが、別に特筆すべきようなものはない。まあ、こんな見えるようなところにヤクやハジキを置いとくやつもいないし、おそらく鶴屋屋敷の資産価値鑑定が目的でふらっと立ち寄っただけだろう。
「今頃は、お前の代わりにマッサージチェアに座ってるかもな」
「ようし、SOS団をナメたらどうなるのかを、教えてあげるわ」
「ちょっと待て、何をする気――
言いかけた時には、ハルヒは右足を大きく振りかぶって、車のドアを思いっきり蹴った。
車体が見事にへこみ、同時にそこに映りこんでいた、驚きで呆然としている俺や古泉の顔も奇妙に変形した。俺の言ったことがハルヒを余計な怒りに駆り立てたのかと後悔したのも束の間。
「もう一発!!」
今度は前へ回り込んで足を大きく頭上に振り上げながら俺たちに純白のパンツを見せつつ、フロント部分にかかと落としを喰らわせた。高級ベンツは、一瞬で事故車のようになった。何にせよ、ハルヒに狙われた時点で事故だと思って諦めるしかあるまい。
「さあ、みんな全力で逃げるわよ! ほら、みくるちゃんも走って!」
むろん、今までのどのピンポンダッシュより全力で走った。
遠藤さんには気の毒だが、ハルヒに狙われた時点で事故に遭ったと思って諦めていただくしかあるまい。
そう考えると、俺の人生はつくづく事故だらけだな。
電車に乗って家に帰ろうという頃、日は完全に沈んで辺りは真っ暗になっていた。帰宅する会社員にまぎれながら、SOS団員が一人、また一人と駅を降りていく。
最終的に、俺と長門の二人だけになった。俺の降りる駅が近づいてくる。
「今日、来てくれる?」
突然長門にこう切り出された時は、正直迷った。これ以上遅く家に帰ると、さすがにまずい。最近ずっとハルヒに付き合わされて遅くなっていた上に、今日も長門の家に寄って、ということになれば、間違いなく遅くなりすぎる。
「今日はいろんなちょっと色々あったし、長門も疲れただろ。明日はちょうど休みだし、延期しないか?」
「誕生日は、その人が生まれたことを祝う日。今日でないと、意味がない」
「まあ、それはそうなんだが……」
別に一日くらいずれてもいい――どうせ家に帰っても何もないのだから。疲れた中でやるよりは仕切りなおして明日にした方がいいのではないか。
最後のダッシュが効いたのか、全身に疲れが溜まっていた。こうやって電車の中で立っているだけでも億劫だ。
「やっぱり、明日にしよう」
アナウンスと共に電車が停止し、ドアが開いた。俺は電車を降りようとしたが、すぐに長門は特大マシュマロが当たっていた部分の袖を掴んで、引きとめた。
「今日でないと、せっかく準備したのが無駄になってしまう」
上目遣いでそんな風に懇願する長門を見て、それでも引き止められぬ者などこの世にいるのだろうか。項羽でも引きとめられたかもしれない。項羽の好みは知らないけども。
「分かったよ。せっかく長門がそこまで言うんだったら、好意に甘えるとするか。でも、あまり遅くなる前に帰らないといけないから、そんなに長居はできないぞ」
「それでもいい」
ドアが閉まります、ご注意ください。プシュー。
「一体何を準備してくれているのか、楽しみだな」
「秘密」
多分、ケーキかなんかだろう。誕生日を祝うのはケーキと昔から相場が決まっている。長門が必死になって地球人の事を調べて用意してくれたんだ、精いっぱい喜んで、楽しもう――そんな甘い考えを、このときになっても捨てきれないでいた。
すでに電車のドアが閉まった時点で、仏の蜘蛛の糸は切れていたというのに。
家に着くと、雪女が鍋焼きうどんを食しているくらい珍しく、長門が少しはしゃぎながら(といっても表情にほとんど変化はなく、少なくとも俺にはそう見えたというだけだが)地球人男性9割方の予想通り、ケーキの最後の盛り合わせを一生懸命完成させようとしていた。
ケーキの端をスプーンで少しだけすくって味見する。
「ばっちり」
両手で大事そうにケーキの乗った皿を抱えながら運び、目の前の机の上に置いた。
長門作誕生日ケーキの俺の第一印象は――これは何だろう? だった。
ケーキのクリームには――おそらく――かたつむりのグチャグチャにかき混ぜられた死骸が塗りこまれていた。ミキサーかなんかでグチャグチャにしたのだろうと思う。ケーキの端から飛び出した目玉がまだ生きているのか、それともお好み焼きにかかったかつおぶしのように何らかの力によってか、ピクピクけいれんしながらこちらを見ている(ように見えた)。
一瞬これは食べ物ではなく、宇宙人的な何らかのインテリアのようなものかと思ったが、さっき長門が味見をして「ばっちり」と言っていたのだからやはり食べ物のつもりなのだろう。もし俺に古泉のような予知能力が備わっていて、このケーキ(のようなかたつむりのお墓)を事前に見ることができたなら、さっきのところで長門の懇願を振り切って電車を降りていただろう。それからまっすぐ家に帰って、いつも通り冷めた食事が食卓に並んでいる光景を見て誕生日なのに何もないなんて、冷たい家族だなあ、とか心の中で不平を漏らしながら休日はまたもやハルヒの不思議探索に付き合わされていたことだろう。
だが、俺は電車を降りなかった。
その結果、冬の鼻づまりをもたらす、あのしつこい鼻汁めいた色をしたかたつむりの死骸が一面に塗りこまれたケーキ(といえるのなら)が俺の目の前にある。
「あ、忘れていた」
いったんは座った長門がいそいそと立ち上がり、台所のほうへ向かった。
長門はまたもやミキサーを取り出した。ミキサーはかたつむりの中身をかき混ぜるときにも使ったのだろう、中に緑色の体液がこびりついたままになっているのが俺からでもちらっとかいま見えた。見たくもなかったが、映像が目に飛び込んでくるのだから仕方あるまい。
何を忘れていたのだろうと思っていたら、長門はミキサーの中にかたつむりの殻を投入し始めた。カラカラと乾いた音を立ててミキサーをあっという間に埋め尽くす。
やがてミキサーのスイッチを入れる音と同時に殻は細かく砕かれてゆく。
ひと通り砕き終わったら、それを皿の上に出して長門の3分クッキングは終了。
あとはケーキの側面に塗りつけるだけ。
「これでカルシウムもばっちり」
皆さんもぜひご家庭でお試しあれ。
「こういうのは鮮度が大事だから…… だから絶対、今日来て欲しかった。早速だけど、ちょっと食べてみて」
いそいそと包丁で化物じみたケーキを切り分けはじめる。
「キョン君の好みに合わせて作るのはすごく大変だったけど……でも私なりに一生懸命頑張ったから」
確かに、かたつむりは好きだと言ったが、それは食材としての好き嫌いではない。いまさら言っても、もう遅いが。
「とにかく、食べて」
6分の1に切り分けられたケーキが、小皿に乗せて差し出された。
俺は、ひょっとしたら中のスポンジの間のクリームにはかたつむりが入ってないのではないかという、はかない希望を抱いていた。そうならば、適当にその部分だけ食べてごまかそうと思っていた。だがその希望も一瞬で打ち砕かれた。
で~んでんむ~しむし、か~たつむり、お~前の頭はどこにある?
スポンジの間にあった。ついでに内臓もあった。
久々に外の空気に触れたせいだろうか、目玉が背伸びするように、うにょーと伸びてきた。
「あ、そうだ。本で読んだことがある。親しい男女はこういうときにどうするのか」
長門は俺のそばまで寄ってくると、長門からの物体Xの切れはしをフォークですくった。
「あーん」
さっきの伸びた目玉が、フォークの上からじっと俺を見つめている。
その距離はだんだんと縮まってゆく。
ついに、俺の口の中へ、ほとんど無理やり物体Xは放り込まれた。
「どう、おいしい?」
ゲッツ・アンド・ターン、そしてリバース。
胃の中身を――昼間食べた消化しかけのチキンカツも含めて――全て小皿の上に吐いたところで、俺の記憶は完全に途切れている。
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