第11話
誰もいないのは重々分かっていたつもりだったが、一応「お邪魔します」と言ってから俺は玄関へと足を踏み入れた。当然のことながら、売り家には誰もいるわけもなく、ただでさえ広い家が余計に広く感じられた。晴れた日とは言え、電球もついてないとなると暗くて余計に不安になってきた。
「おい、ハルヒ」
「涼宮さぁん……」
朝比奈さんが健気に呼びかける。
「う~……やっぱり人のいない屋敷って、ちょっと怖いですね。なんていうか、不気味な感じがして……」
恐怖に駆られた朝比奈さんが、俺の腕を掴んで体をすり寄せてきた。特大マシュマロの感触が、服の上からも伝わってくる。
非常に残念ながら、その時だけは鶴屋さんのことは完全に頭から消し飛んでいた。いかなる神の幸運と不運の巡り合わせかは知らないが、腕に押し付けられた低反発クッションの感触に、俺は全神経を集中させていた、いや、させねばならないだろう。
古代ローマ人は言った。運、不運は神々の巡り合わせ、人の義務は巡り合った運を逃さずに掴むことだ、と。ならば、俺のやるべきことはこの幸運を掴んで離さないことではないだろうか。
「これは困りましたねえ。呼びかけても返事がない」
並のことでは動じない古泉ですら、やや困惑を隠しきれないようだった。
「仕方ない、中に入って探すしかないな」
靴を脱いだ。フローリングの冷たい感触。
朝比奈さんも、俺の腕をより一層強く掴みながらフローリングへと足を踏み出していった。当然、この世のよくできた物理法則によって特大マシュマロもより強い力で俺の腕に押し付けられることになる。
俺はそうさせるために、わざと暗い屋敷の中に乗り込んで行き、恐怖心を煽ったのだ。しかもハルヒを探すという大義名分もあり、いかにも団員想いのように見える。
古泉や長門も、俺に続いて屋敷に上がり込んだ。
ハルヒがこの広い屋敷のどこに行ったのか、予想は全くつかなかった。とりあえず奥のほうに進んで行こう。廊下の突き当たりの部屋とか、かなり怪しそう。
長い廊下の途中、壁にキレイなイルカの絵がかかっていたが、屋敷の雰囲気のせいで醜悪な深海魚のように見えた。廊下の突き当たりまで進んでいくと、夕陽も差し込まないのでとても暗かったからだ。
長門ばかりか、4人とも無言だった。この時ばかりは古泉も心の中に話しかけてこなかった。
俺はみんなが見守る中、慎重にドアノブを引いた。一同無言ではあったし、やはりここは言い出した俺が率先してドアを開けるべきだと思ったからだ。
高級な屋敷に似合わない、情けない音を立ててドアは開いた。
中は真っ暗だった。
黒い壁が立ちはだかってきたような、それくらいの暗さだった。かろうじて、鶴屋さんが以前使っていたであろう高級そうな家具類が闇の中、薄ぼんやりと見える。
「この中に入っていくんですか……?」
朝比奈さんのか細い必死の訴えも、暗い部屋の中へ消え去っていった。
「涼宮さん、いるなら返事してください」
古泉の呼び掛けも、虚しい木霊を生み出すだけだった。
「いませんねえ……」
「仕方ない、一応中に入ってみるか。朝比奈さんは、ここで待っていてください。アイツを探すだけなら、俺と古泉だけで十分ですよ」
「そんなぁ……こんなところで待つなんて嫌ですよ……」
俺の腕を掴む手に、さらに力が入った。それに伴い、俺の腕は半ば埋め尽くされんばかりの勢いで特大マシュマロに食い込んでいる。
「わたしも一緒に探しますから」
そこまで言われて断れる意思力を持った人間など、この世にいるだろうか?女とホモを除いて。まあ、後から考えれば、このとき朝比奈さんが俺についてきたのは、長門と二人っきりになってしまうのが嫌だったからかもしれない。
何にせよ、このときはハルヒを探すので必死だった。このまま帰ってしまう訳にも当然いかないだろうし。
意を決して、何歩か足を踏み込んでいく。古泉や長門もついてくる。俺は転んでしまわないように、床の突起や何かに気をつけながら足を動かしていった。
中は想像した通り、相当広い。リビングだろうか。
だが、今一番探しているものは見当たらない。この暗い部屋には、もういないのか。
「古泉、そっちには何かあったか?」
「ええ、もう一つ扉があるようですね。開けてみます」
だが、その先はさらに暗い廊下が、この広い屋敷のどこかに伸びているだけだった。おそらく中庭に面した廊下なんだろうが、サッシには雨戸が閉められており、外の光は全く入ってこない。まあ、そのお陰で特大マシュマロを心ゆくまで満喫できるのではあるが。
「さすがに、この奥には行ってないだろうな」
「そうだと思います。いったんここから出て、別の場所を――
「きゃーーーーーーーー!!」
朝比奈さんの悲鳴が、古泉の言葉を完全に消し去った。
「何か……生温かいのがわたしの耳に!!いやあ!たすけてくださぁい!!」
周囲が突然明るくなった。暗いのに慣れつつあったのか、一瞬眩しさに戸惑った。だが、すぐにハルヒが背後から強姦魔のごとく朝比奈さんに抱きついて、耳にかじりついているのが見えた。
「電気、ついた」
どうやら、長門が照明のスイッチを押したらしい。売り出し中とはいえ、まだ電気が通っているようだ。おかげで、朝比奈さんの特大マシュマロが俺の腕に当たって卑猥な形に大きく変形している様がよく見えて、ああ、俺の方が歓喜の悲鳴を上げそうな予感。
不謹慎なことだが、この状況をもたらしてくれた鶴屋さんと幸運の女神に少し感謝してしまったくらいだ。
「ひええええええ!!」
「あはははは!!みくるちゃん、ビビりすぎだって!なにもそんなに驚かなくてもいいじゃない」
とはいうものの、暗闇でいきなり耳をかじられたら、朝比奈さんでなくとも誰だってビビるに決まってる。あの谷口ですら多分ビビると思う。
「あ、そうそう、みくるちゃん。キョンにしがみついてるみたいだけど、止めといた方がいいわよ。こいつ変態豚だから」
「だって、涼宮さんが驚かすから……」
「いや、ちょっと待てよ」
「しがみつくなら古泉君の方にしといたほうが、結果的にいろんなものを守ることになるわよ」
「いろんなものって……?」
多分、朝比奈さんは俺と長門のアレを見てなかったのだろう。あの時の朝比奈さんは眼球を根性焼きされた状態で、とてもじゃないが俺や長門にかまってられなかったんだろうな。まさに不幸中の幸いである。
部屋が明るくなったのと不審者の正体がハルヒだったのが解明されたせいで、朝比奈さんの恐怖も消えたのだろう、同時に特大マシュマロも俺の腕を離れていった。
まあ、仕方のないことだ。
「みくるちゃんは、そこまで知らない方がいいわ。マジでヒくから。それよりも」
そこまで言うと、ハルヒは様式化された植物の模様が織り込まれている高そうな絨毯の上を横切り、フカフカの皮のソファを踏み越えて、マッサージチェアにどっかりと腰を下ろした。
「さすが、鶴屋さんのお家ね。こんないいものがあるなんて」
まずは電源を入れてから指圧モードにし、肩と腰集中マッサージコースをさりげなく選択する。この指の動作をゲームに生かせれば、コンピ研ともいい勝負ができるのにな。高まるモーターが一度静まってから、チェアの中のアンマがゆっくりと動き出す。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
子供が扇風機に向かっているような声。
「う゛~ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛、授業と部活で疲れた体には最高ね」
皆さんも分かっている通り、ハルヒは授業のほとんどを寝て過ごしていた上に(不思議とやつはあてられることがないから余計に寝たい放題だった)、部活(というかハルヒの暇潰しに伴う雑用)もだいたいは部員に押し付けている。そんなヤツに限って、である。
会社で大した仕事もしてないようなしょぼくれたオヤジに限って、仕事が終わると大した用もないのに居酒屋によく飲みに行く。そして、「酒でも飲まないとやってられねえ」とか言いながら同僚や家族の陰口を叩く。
大して保険料も払ったことのない年金暮らしのジジババに限って、政治家や最近の若者批判を滔々とはじめる。
授業中寝ているだけで、部活でも雑用を全て他人に押し付けるようなクソ女に限って……まあ、あとは言わなくても分かるよな?
それからハルヒは足にもマッサージ機能が付いていることを超能力でも使ったのか一瞬にして悟り、すぐさま太もも揉みほぐしモードを選択、脚部アンマが動き出すと余程気持ち良かったのか、足の指をピクピク痙攣させていた。
「そうだ、みくるちゃん」
こいつがうれしそうに呼びかけるときは、大抵ロクな用事ではない。
「え? なんですか?」
「そこのリモコン取って」
朝比奈さんは言われたとおりに、屋久杉の机の上に置いてあるテレビのリモコンを取るとマッサージチェアでくつろぐハルヒに渡した。
「はい、どうぞ」
「そうじゃないのよ」
じゃあどうなんだよ。
「せっかくこれだけの屋敷にいるんだから、それなりのシチュエーションを考えなきゃ駄目じゃない」
「シチュエーション……? ええと……」
「たとえば、これだけの広い屋敷なんだからメイドさんの一人や二人くらいいてもおかしくないでしょ」
今度は朝比奈さんも納得した。
「はい、どうぞ。ご主人様。今日も一日、大変でしたね」
「ホント、一人馬鹿な部員を持つだけでどっと疲れるわね」
ハルヒが俺の言いたいことを見事に代弁してくれた。
「なんか、いい番組やってないかな~」
ハルヒのエゲツナイ指さばきによって、映画のスクリーンかと思うほど大きな最新型液晶テレビの画面はナショナルジオグラフィックからイギリス国営放送へ変わり、地方放送局のくだらない御天気ニュースを一瞬ですっ飛ばし韓流ドラマっぽい映像を華麗にスル―して甲高い声で「何とお値段、セットで1万9800円!」と言うのが聞こえた頃にはハリー・ポッターが魔法のほうきでこちらに向かってきておりハリーがボールを掴もうとした瞬間に指揮棒を魔法の杖のように振りまわす映像とともにクラシックチャンネルに移り変わって指揮者が振り上げた腕を下ろしてオーケストラが最後の音を奏でる直前、山田君が楽太郎師匠の座布団を全部持っていくシーンに移り、そこでようやくハルヒの指は止まった。
「日本人なら、この時間に笑天は外せないわよね」
確かに土曜の夕方は笑天で決まりだろうが、まさかハルヒの口からその言葉が出るとは思わなかった。超意外だぜ。普通の番組に興味があるなんてな。
「菊三ラーメン、てやっぱりまずいのかしら?」
「そんなことよりハルヒ、もう帰るぞ」
「これ見終わってから」
お前は子供か。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
この頃には、もはや完全に鶴屋さんを探すという目的は失われ、ハルヒの鶴屋屋敷乗っ取り計画がスタートしていた。
「決めたわ、今日からここがSOS団第一支部よ!」
おい古泉、お前からも何か言ってやってくれよ。一応副団長だろ。
“私が何か言ったところで焼け石に水です。解決策があるとすれば、早く鶴屋さんを見つけることですね”
確かに古泉の言うとおりだった。そもそも、最初の目的はコンピ研との戦いの助っ人として鶴屋さんを誘おうとしたのだが、それが今や鶴屋さんを探すことに成り下がってしまっている。しかもその『鶴屋さんを探す』ことすら、言いだしたハルヒ本人は完全に忘れ去り、三裕亭円楽師匠の大喜利で爆笑している。
肝心の円楽師匠の座布団は、全部持っていかれたが。逆にそれがさらなる笑いを生み出しているのかもしれない。
とにかく、だ。
「第一支部、て言っても、ここは鶴屋さんの家であってだな、勝手に使うと不法侵入で訴えられるんだぞ。お前だってこの前コンピ研が部室に入って来た時に『人権侵害だ』とかなんとか言ってたじゃないか」
「一応、インターホンは押したじゃない。それに、私たちは鶴屋さんにプリントを持ってきてあげたの。鶴屋さんが取りに来るまで、ちょっと待たせてもらってるだけだから」
ちょっと前まで名前も忘れていた癖に何言ってやがる。だいたい、お前のほうが余程政治家答弁だろ。
そう言いたいところだが、ハルヒ相手では馬耳東風どころか火に油を注ぐ結果にしかならない。余計意地になって鶴屋屋敷に居座ろうとするだろう。
「朝比奈さん」
俺は小声でそう呼びかけた。
「はい?」
「鶴屋さんの携帯の番号か、メールアドレス知ってませんか? 直接鶴屋さん本人に居場所をきいて、持って行った方がいいですよ」
「すいません……わたし、鶴屋さんの番号、しらないんです。アドレスも……」
よく考えれば、朝比奈さんも結局鶴屋さんの名前すら忘れていたのだし、当然と言えば当然か。
「古泉はどうだ?」
「すいません、僕も知りませんね」
でも超能力で捜索できるだろ?
“それだと、広大な範囲を遠隔視で捜索しなければなりません。おそらく、セブンスター1カートンは必要になるでしょう”
くそ、ニコチン大魔王め。
「じゃあ長門は?」
「知らない」
早くも捜査は暗礁に乗り上げた。
「おい、ハルヒ」
まさかの希望に賭けてみる。
「鶴屋さんの携帯の番号かアドレスか、知ってないか?」
「知ってるわけないじゃん。あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
事件は早くも迷宮入りしてしまった。
その迷宮に、突如として予期せぬ客が現れた。
ノストラダムスでも予言不可能な、予期せぬ客だ。
閉じてあったドアがゆっくり開いて、そいつは入って来た。
「やけにくつろいでるじゃねえか」図太い、ドスの効いた声。
俺はとっさに声のする方へふり向いた。
そこには見たこともない柄の悪そうなオッサンが立っていた。黒服黒メガネ、ネクタイまで黒い。俺の初見の印象では『死神みたいなやつ』だった。年は40歳半ばくらいか。
「何よ、あんたたち。急に入ってきたりして」
「んだと。ここはガキの遊び場じゃねえんだよ」
もう一人、今度はいくらか若そうな男が入ってきた。30歳ぐらいか。こちらも先程と同じく、黒服黒メガネである。不思議と、こっちの方はガラは悪そうだが死神とまでは見えなかった。排気ガスで膨らませた風船みたいな、町の安っぽいチンピラと言った感じか。
「まあ、待て。そんな喧嘩腰になってもしょうがないだろう。多分、制服から察するに鶴屋の娘の友達かなんかだろ?」
「お察しの通りです」
古泉が答える。こういうときには、機関で大人との付き合いのある古泉に任せておく方がいい。いざとなったら超能力で何とかしてくれるだろうしな。
「今日は鶴屋さんが急に休んだようなので、みんなで家にプリントを届けに来たんですよ」
「お前ら外の張り紙が見えなかったのかよ」
ガラの悪い方の黒服が凄んできた。
「さっきから何なの、こいつ。喧嘩売ってるわけ? 友達のうちに遊びに来ただけじゃない」
「あんまり大人をなめない方がいいぞ。俺は女子供でも容赦しないからな」
「まあ待て、俺たちは喧嘩しに来たわけじゃない。いきなり俺らが入ってきたら、このお嬢チャンもそりゃびっくりするだろうさ」
そういうと、死神じみた方が小さい紙切れをふところから取りだした。
「まずは自己紹介からだな」
なぜかその紙切れを俺が受け取る。
「帝哀グループの……遠藤さんですか」
あまり、聞いたことのない会社名だった。
「早い話が金貸しだな。後は察しがつくとは思うが、貸した金の代わりにこの家を差し押さえたんだ。だから、所有権は帝哀側にある、ということだ」
だから、お前らは出て行けということだった。
「じゃあ、鶴屋さんが今どこにいるか教えてよ」
ハルヒも、ここはあまり深入りしないことに決めたようだ。内心では、せっかくの居心地のいい第一支部をもう少し堪能したかったのだろうけど、まあ、差し押さえられたんじゃ仕方ないな。悔しいことに、理は向こうにある。
「知らねえな。鶴屋家からは、とれる物は全部とった。それでこっちとは完全に縁を切った。でも、律儀だと思うよ。会社の借金を、創業一族の最後の責任とか言って私財をなげうって返したんだからな。そうやって返せたのは借金全体のごく一部にすぎないにしてもだ」
なんだか、遠藤さんの説明を聞いていると、教師の説教を聞いているような気がした。
「残りの借金は会社の方から引っ張ってくるから、俺たちにすれば鶴屋家のその後の行方なんてどうでもいい。さあ、これで分かっただろ。分かったらさっさとここから出ていくんだ。もうひとつ分かっているとは思うが――
遠藤さんはもう一人のチンピラを指して、口元を少しゆがませながら言った。
「こいつは女子供でも容赦しない」
俺はハルヒが何か反論するものだと思っていたが、流石のハルヒも遠藤ロジックの前では、一人の女子高生にすぎなかった。
気まずい沈黙が流れた。
「そんな事情があったのですか」
ようやく古泉が口を開いた。
「今日のところはお騒がせしてすいませんでした。とりあえず、早く帰ることにします」
「それがいい」
俺たちは黙ってさっきの扉からぞろぞろはいでてゆき、またしても長い廊下を玄関まで歩いて行った。
出ていくときにチラッとテレビの画面を見ると、菊三が司会にネタを先読みされて、座布団を全部持っていかれるのが見えた。
そしてハルヒも、極上の座布団を突然現れたガラの悪い山田君に奪われた、というわけである。
や~ね~。
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