第10話
退屈な古典の授業(兼、俺を含む8割方の生徒のための睡眠時間)が終わった後、SOS団一行は鶴屋さんの行方を探索することになった。
俺が部室から教室へ戻って行った時に、すでにハルヒが席についていたことから、何かあったに違いないとは思っていた。そうなければ、アイツが俺より早く席についているなどあり得ない。表情から察するに、それほどいいことが起こったわけでもなさそうだし。
最初は鶴屋さんにスカウトを断られたのかと思っていたが、どうやら鶴屋さんが学校に来ていないようなのだ。
放課後のチャイムが鳴ってから、真っ先に校門をくぐって坂道を下るSOS団。久々の陽光が気持ち良かった。ハイキングコースもこういう日には悪くないと思う。雨の日は傘をさすのも面倒くさいが。
「ミクルちゃんは、何か知らないの? 一応、同級生でしょ」
ハルヒが『一応』という単語を強調してきいても、朝比奈さんはうつぶいて押し黙ったまま、答えようとしない。余程答えにくいことなのだろうか。おそらく、風邪の類ではなさそうだ。
「クラスの他の人に聞いたんだけど、その人も同じ反応だったわね。だから、何かあったのは確かなのよ」
その点は俺もそう思う。そういえば、古泉は鶴屋さんに何が起こったか知っているのだろうか?そう思いながら、俺の横を歩いている古泉の方に顔を向けた。一瞬、古泉と目線が合った。
“ええ、知っていますよ”
やはり、知っていたか。だが、詳しい事情は朝比奈さんからここで聞けるだろう。朝比奈さんも、どの道ここまで来てしまった以上、話さないわけにはいかない。ハルヒの好奇心は、もう誰にも止められないのだから。
「みなさん、新聞は読みますか?」
「何よ、急に。まあ、わたしはテレビ欄以外読んだことないけどね」
「自慢げに言うことじゃないと思うぞ」
「じゃあ、アンタはちゃんと新聞読んでるっていうの?」
そう言われると、答えに窮する。俺もだいたいハルヒと同レベルで、テレビ欄とボコちゃんくらいしか読んでない。
「まあまあ、お二人とも、今は朝比奈さんの話を聞きましょう」
会話が変な方向に流れるのを察知したのか、古泉が割り込んできた。
「そうね。で、鶴屋さんはどうなったの? クラスの人も、いくらきいても教えてくれなかったしね」
朝比奈さんはそれでもまだためらっていたようだった。しかし諦めたのか、しばらくの間を置いて、ようやく話はじめた。
「鶴屋財閥が崩壊したんですよ」
聞いた瞬間、俺は嘘だと思った。いくら新聞を読まないというハルヒも、俺と同じことを思ったろう。(と信じたい)
鶴屋財閥と言えば、日本でも屈指の財閥一家であり、その傘下企業の売り上げを全て合わせると国家予算に匹敵するとか、どうとかこうとか。しかしいくら不景気とはいえ、そんな鶴屋財閥が簡単に崩壊するなどとは、にわかに信じ難かった。
説明するまでもないだろうが一応言っておくと、鶴屋さんはその鶴屋財閥のご令嬢である。
だが、朝比奈さんがこんなところで嘘をつくわけもなく、そうなってくると鶴屋さんのことが本気で心配になってきた。家自体が日本屈指の大富豪だから、鶴屋さん一家がすぐに生活に困るということはないだろう。
とはいえ、鶴屋さんの心に甚大な影響を及ぼす可能性は、十分に考えられる。
「財閥崩壊は、少し前のことなんです。それからも、鶴屋さんはいつも通り学校に来ていましたし、今日も来ていると思ったのですが……」
気丈な鶴屋さんのことだ、最初のうちは何とか平静を装ってはいたものの、だんだんと財閥崩壊の重圧がのしかかってきたに違いない。
「これは絶対に事件ね。事件の臭いがするわ。裏で誰かが鶴屋財閥崩壊を仕組んでいたのよ。何とかファンドとかファインダーとか」
ハルヒの目が輝き始めた。ちょうどゲームにも飽きてきた頃だし、いい暇つぶしのネタができて喜んでいる――だいたいそんなところか。
「私たちも鶴屋さんとは少々お付き合いがあるわけですし、様子を見に行くのもいいかもしれませんね」
古泉が、さも今知ったかのような口調で答える。
「一応、今日の分のプリントをもらってあります。家に行くのは、ちょっと気が重いですけど……」
「大丈夫よ!わたしたちが行けば、きっとこの事件も解決よ!」
こいつは本当に、全く、一文字たりとも、新聞を読んでいないのではないだろうか?
そんな疑問がちらっと頭をかすめた。
――鶴屋財閥――
鶴屋財閥(つるやざいばつ)は、鶴屋亀次郎よって設立された日本4大財閥の一角を成していた、大財閥のことである。
江戸時代末期、16歳で江戸へ出てきた亀次郎は、両替商の丁稚奉公として働くことになるが、やがて店をついで独立。独立してからは銀行業などにも事業を拡大し、着実に富を築き上げていった。進取の気性に富み、幕末期には幕府によって厳しく制限されていた貿易関係の方面にも進出、当時としてはまだそれほど有名でなかった坂本竜馬の元を訪れ、貿易会社兼政治結社「亀山社中」の設立に尽力する。社名の『亀』は鶴屋亀次郎の名前に由来するとも言われている。この頃から、類まれな商才と行動力を惜しみなく発揮している。性格もさっぱりとした大らかな性格であったようで、この時知り合った後藤象二郎が後に征韓論争で敗れて下野したときには惜しみなく資金援助するなど、助力を惜しまなかった。三菱財閥創始者の岩崎弥太郎とも、このときの関係で親交がある。
維新後は解散させられた海援隊(旧亀山社中)の一部を引き継いで鶴屋商事を設立、武器や食料品など、あらゆるものを扱う総合商社として発展し、やがて政府御用達の商社と言われるほどの発展を遂げる。
亀次郎本人の性格もあってか、事業拡大は当時はやりの石炭、鉄鋼、造船、紡績といった工業はもちろんのこと、電力、通信、海運、観光、果ては子供用の玩具など、あらゆる分野に拡大していった。このときの本業である銀行業の投資は、安田財閥の「天下一のとりしまりや」と呼ばれた厳しい投資に対して、「唯一無二の放漫投資」と呼ばれたほどだった。しかし、亀次郎の大局を見極める目はこのときも惜しみなく発揮され、投資のほとんどは莫大な利益を生み出すこととなり、銀行業を中心とする鶴屋財閥の基礎はこの頃に出来上がったと言っても過言ではない。
日清・日露戦争のときは、政府に厖大な武器・弾薬を供給するなど、戦争遂行に大きく貢献することになる。
戦争終結後の亀次郎は経営の第一線を退き、次世代の教育のためにいくつかの学校を建設、それは今でも残っている。更に晩年になると、財閥では珍しく子供用玩具の業界へ進出、日本ブリキ玩具(のちの京都アニメーション)を設立した。もっとも、この会社は亀次郎が孫を喜ばせるために趣味ではじめたのがきっかけと言われている。
第二次世界大戦後は、亀次郎の孫の亀吉が3代目社長として就任。戦後の日本経済の成長に合わせて堅調にその業績を拡大してゆくが、やがてバブル期になると鶴屋財閥代々の放漫投資が裏目に出て、一気に莫大な不良債権を抱えることとなってしまう。
それからは一時投資を控えるなどの対策を取り、苦しいながらも失われた10年を耐え抜く。しかし2008年、アメリカ発の金融危機によって、またしても莫大な不良債権を抱えてしまう。折しも、投資対象を手詰まりになりつつある国内から国外へ移したときのことだった。また、タイミング悪く、鶴屋電機のリコール問題、それに端を発するグループ企業全体の株価乱高下による市場信用の失墜、機密情報の漏えいなどが重なり、金融も金融以外の部門も疲弊していった。
そしてついに201X年、鶴屋財閥は不良債権を支えきれないと判断、今まで鶴屋財閥の基盤となり続けた銀行は倒産、財閥傘下の企業もこれを機に傘下から散ってゆくこととなる。
(出典:フリー百科事典『Wikipedia』)
坂道を下ったところで電車に乗って何の変哲もない駅を降りると、そこは閑静な高級住宅地だった。
住所だけを頼りに東奔西走しながら、鶴屋家には全くかすりもしなかった。何度も同じところを行ったり来たりしたせいで、黒塗りのベンツが置いてある和風の屋敷は伊集院さんのお宅であることがよく分かった。今度機会があれば行ってみようと思う。
で、肝心の鶴屋さんの家だが、結局は古泉の遠隔視によって俺たちはようやく目的地にたどり着くことができた。
「どうやら、ここがそうみたいですね」
朝比奈さんが3,4メートルはあろうかという何やら高級そうな石でできた城壁(塀と呼ぶべきなんだろうが、平民の俺にとっては城壁に見えた)を見上げながら言った。
「とにかく、インターホン押せば誰か出てくるでしょ」
ハルヒが人差指を伸ばしてボタンを押す。
「執事とか出てきたりして」
「まあ、もしかしたらいるかもな」
「そいつが犯人かも。こういうのは意外と身内の中に犯人がいるものなのよ」
「だいたい、事件、ていうのは何のことなんだよ」
「決まってるじゃない、鶴屋財閥の崩壊のことよ」
「さっき朝比奈さんが説明してくれただろ。あれは不況だとかリコールだとか、経済的な不幸が重なってだなあ……」
「犯人はこの屋敷にいるに決まってるわ!!」
いきなり大声を出すな、と言いたい。インターホンより余程向こうに伝わるだろう。不審者が来たということが。
「これだけの財閥を崩せるとなると、黒幕自体、相当のお金持ちね。さらに黒幕に集まる天才ハッカーが株価操作、執事をスパイとして送り込んで機密情報をリークさせたと見るのが妥当な線ね。きっと鶴屋さんは黒幕に関する秘密を知ってしまったんだわ。もしかしたら、学校を休んでいるのではなくて、学校に行けない状況にあるんじゃないかしら」
推理というのは往々にして他人を納得させるためではなく、自分を納得させるためになされることが多い。このことのいい見本だ。
「なんか、ちょっと怖いです……」
朝比奈さんがチワワのようにぶるっと震えながら言った。しかしまあ、長門の顔面にトイレ専用雑巾を押し付けるこの人に、怖いものなどなかろうて。俺はチワワの仮面を外した朝比奈さんが一番怖いよ。しかし、その仮面を被っている間は一番可愛いんだよなあ。
未来人の人選センスは、やはり間違ってはいなかった。
「もしかしたら、鶴屋さんは今頃どこかの地下に捕らわれてるのかも。そして、想像を絶するような拷問が鶴屋さんを……」
「ひえ~!!やめてくださぁい!!」
「あははは! みくるちゃん、怖がり~」
どちらかと言うと、朝比奈さんは怖がらせる方が得意なんだけどな。平和な未来に戻ったら、ぜひとも女優になることを強くお勧めしたい。もしAV女優になって『朝比奈みくる密着セックス24時』なんてDVDが発売されたら、自分用、保存用、谷口への自慢用の3点購入することを約束しよう。
「それにしても、ちょっとばかり出てくるのが遅すぎませんか?」
古泉が言うとおりだった。
「ハルヒ、もう一回押してみろよ」
「どうしてよ。次はキョンが押しなさい」
ピンポンダッシュかよ。しかし、ハルヒの言いたいことも分からないでもなかった。これだけの屋敷、鶴屋さんや家族の人がいなくても、誰か人がいるはず。それが予想外の沈黙で出迎えられたことに、ハルヒですらちょっとした戸惑いを感じたのだろう。実際、俺も戸惑っている。インターホンのボタンが、起爆スイッチになっているかのような、そんな感じがした。
「団長の命令は絶対だからね!」
こういうときだけ権力を使いやがって、クソめ。
さっきと打って変わって、騒がしかった住宅街の一角は、元の閑静さを取り戻していた。4人が無言で俺を見つめている。はいはい、押せばいいんだろ、押せば。
勇気を出して、インターホンに手を伸ばす。親指の爪の先が白くなるまで、しっかりとボタンを押した。
ていうか古泉、お前は遠隔視で中を見れるんじゃないのか? どうなってるか、もう知ってるだろ?
“いいえ、前にもお話しした通り、超能力を使うのもけっこう大変なんですよ。最近はゲームでの消耗を補うのに、かなりのニコチンを補充していますしね”
なら仕方ないか。古泉の健康を一方的に犠牲にするのは忍びない。
それにしても、この念話は大丈夫なのかよ?
“友人同士はタダなんですよ”
俺は電話番号を教えた覚えはないのだが。
「やっぱり、誰も出ないわね。これ、壊れてんじゃないの?さっきから全然音鳴ってないみたいだし。もう一回押してみて」
今度はあまり抵抗なく押した。
ハルヒなんかは、インターホンに耳を近づけて音を拾おうと必死だった。おかげでこいつの生温かい吐息が俺の手にかかった。学校の授業もそれくらい熱心に聞けばいいのにな。
「やっぱり、何も音もしないわね」
数秒間、沈黙が続いた。結局誰もいないというのは少し疑問が残るが、ここらへんで引き上げなくてはなるまい。朝比奈さんが持ってきてくれたプリントは、郵便受けにでもいれておけばいい。
「こっちのドア、開いてる」
長門が久々に喋った。正門はしっかりと閉まっていたが、普段の出入り用の勝手口にあたる扉には鍵がかかってなかったのだろうか。長門が軽く引いただけで、意外にも安っぽいきしみ音を立てて、ドアは開いた。
「よ~し! みんなで鶴屋さんの家に突撃よ!!」
俺は撤退した方がいいのではないかと思ったが、ハルヒの前でそのようなことを口にできるわけがない。言いたいことが言えない状況は、人生ではよくあることだ。
それでも、庭を横切って行って、家の扉に貼ってある『売り家、現在買い手募集中!』と書かれた張り紙を見つけると――どうせハルヒのことだし、言っても聞かなかっただろうが、それでも一応――引きとめておけばよかった、と心底思った。
家自体は3階建ての白い洋風高級住宅で、お姫様でもいそうな感じの家である。
俺たち5人は、梅雨のせいだろうか、端が微妙にふやけている張り紙の前で茫然と突っ立っていることしかできなかった。しばらくしてから、(数秒だったが、えらく長い時間に感じられた)ハルヒがようやく口を開いた。
「どうやら、誰も住んでなさそうね」
「そうですね」
古泉が言った。『笑えばいいとも』の観客みたいに。
「プリント、どうしましょう……郵便受けに入れても、鶴屋さんは戻ってこないですし……」
「とりあえず、学校に持って帰りましょう、朝比奈さん。これは、先生に任せた方がよさそうですよ」
俺はそう答えたものの、これをどうやって先生に報告すればいいのか、また、報告したところで退屈な授業をする以外に何の能もない教師がこの状況をどうにか出来るのか、皆目見当がつかなかった。多分、教師としても鶴屋さんからの連絡を待つか、御慰めのホームルームを開くくらいしかできまい。この手のホームルームには「AV女優がイッたのでみんなでザーメンをかけましょう」程度の意味しかないと常々思っている。
俺は唐突に、野球大会に出場した日のことを思い出した。多分、この場の全員がそれを思い出していたのではないだろうか。なぜかそんな気がするし、それには妙な確信があった。わけの分からない4択問題の答えに2を書くような、青春時代独特の根拠のない自信のせいでは、決してない。
ゴールデンウィーク前、五月晴れの日に鶴屋さんと一緒に白球を追いかけた、その場面は今でも鮮明に思い出せる。今日と同じ、雲ひとつない晴天だ。鶴屋さんのおでこが眩しかったのを覚えている。長門の情報操作でホームランを打ったときに「うわ~、私ってめがっさ才能があるじゃないかっ!!」と人一倍喜んでくれた鶴屋さん。
それが今では二束三文の値段をつけられ、買い手募集中の札を貼られている。
目の前にあるものは、そういうことなのだ。今までに一度もお目にかかったことなどない鶴屋さんの家だけではなく、そこには鶴屋さんと過ごした思い出も詰まっているのだ。
「もう俺たちにはどうしようもないな。今日はここらへんで帰ろう」
「そうですね」と古泉。
お前は本当に『いいとも』の観客なのか?
“そうですね”
俺はしつこいギャグには突っ込まない主義なのでそのまま無視しておいた。
それに、肝心のゲストはここにはいない。あるのは空っぽになった屋敷だけだ。
「朝比奈さん、もうそろそろ帰りましょう。長門も、ハルヒも、みんなそろそろ帰ろうぜ」
「開いてる」
長門が、またしても扉を開けた。それは最初から開いていたのか、それとも長門が情報操作で鍵を開けたのか、今となっては分からない。
分からないが、ハルヒが鍵を開いているのを見て歓喜したことは間違いない。
「もしかしたら犯人の手掛かりが見つかるかもしれない」などと言いながら、驚くべきずうずうしさでズカズカと屋敷の中へ乗り込んでいった。
古泉が肩をすくめて両手を広げている。
仕方ない。どうせ中は人も物も何もない、空っぽになった家だろう。しかし、それでもハルヒは何をするか分かったもんじゃない。好奇心に駆られたやつを止めるために、俺たちは半ば仕方なく鶴屋さんの屋敷へ踏み込んで行った。
戸惑いを感じながらも扉を開けると、玄関どころか廊下の向こうの方まで、俺たちのつくった影が伸びていった。
陽は、すでに傾きつつあるようだった。
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