第9話
しばらく歩いていくと、そこには傘をさしてアジサイの茂みを眺めている美少女(顔は傘に隠れて見えなかったが、絶対美少女に決まっている)がいた。
皆さんも身に覚えはないだろうか?
後ろ姿が気になる女性をさりげなく早足で追い抜かし、振りかえって顔を拝見したことを。大抵の場合、そこには期待と現実の絶望的なまでの落差を発見するだけであるが。
傘のはしから覗く制服を垣間見るに、同じ北高生徒のようだ。俺は必死になって顔を覗きこもうとしたが、どの道そんな必要はなかった。向こうから俺の不純な気配に気づいて振りむいてくれたからだ。
「あ」
「あ…長門……」
二人がそう呟いたのは、ほとんど同時だった。
……まあ、大抵こんなもんだ。それにしても、よりによって長門とは…… 確か、ハルヒと一緒にゲーセンに行ったものの、あれからすぐに帰ったはずだ。それに、長門の家はこっちの方角じゃない。俺が長門を架空のユニコーンと勘違いしたのも、それが原因である。長門がここにいるわけがない、という思い込みがハナからあったのだ。
「で、ここで一体、何をしてるんだ?」
長門が黙って視線をそらし、対象物を指さす。
「観察してた」
そこには角を伸ばしながら葉の上をゆっくり前進している、かたつむりの姿があった。
「ふーん。かわいいのか?」
「ユニーク」
長門が少し指先で突っつくと、かたつむりは角を引っ込め、体を半分くらい殻の中に隠した。それからしばらくすると、ゆっくりと元の状態に戻って、葉脈の上をのそのそと動き出した。
不覚にも、ちょっとかわいいかも、と思ってしまった。
これがあの情報操作の代わりに見返りを求め、谷口の性格が半ば上書きされている長門でなければだ。
しかし、それを差し引いても、今の長門は――少しかわいかった。『ユニーク』という言葉も、かたつむりにたいしてはピッタリな形容だ。奇妙な生き物でありながら、どことなく愛嬌のある感じも、長門にすごく似合っていた。
「そういえば長門、どうしてここに――
来たんだ?と言おうとしたが、その言葉はついに言うことなく終わってしまう。
「あ」
むしろ俺は、無表情な長門が少しでも驚きの感情を漏らしたことに驚いた。
起こったことといえば、葉脈にたまった水がカタツムリの頭を直撃し、驚いて殻に籠ったカタツムリがアスファルトの地面に落下しただけなのだから。
地球人にとって、それは梅雨時にはよく見られる何でもない光景だったが、宇宙からやってきた長門にとっては珍しいものだったのだろう。おそらく、宇宙に進出していったという朝比奈さんの時代には、人類はこのようなことをたくさん経験しているに違いない。
長門はすぐに屈みこんで、壊れやすい真珠を摘むかのように、地面に転がるカタツムリの殻を指でそっとつまみあげた。
「死んじゃったの……?」
「いや、まさか。ちょっと手を出してみろ」
「…………?」
「いいからちょっと手を広げて、出してみろ」
長門は訳も分からず、といった感じだったが、とりあえず俺の言うとおりに手を広げた。
「いいか、じっとしてるんだぞ。絶対動かないようにするんだ」
そう言って、長門からかたつむりを拝借して、差し出された手のひらの上に置く。
しばらくは何やら訳も分からず見守っている感じだったが、やがてかたつむりがにゅうっ、と体を半分殻から出して、目を出し槍を出し角を出すと――長門の表情が少し変わったように見えた。
「ユニーク」
それはかたつむりの生態に関してなのか、それともかたつむりが手のひらを這う感触に対してなのかは分からない。多分、両方だと思う。
俺はかたつむりを長門の手から引き離すと、元の葉の上に戻した。そいつは、また何事もなかったかのように葉脈の上を這い始めた。
長門が、今度はまた別のかたつむりをつまんで、手のひらの上に乗せた。
だが、そいつはいつまでたっても殻から出てこなかった。
「多分、死んでるんだろうな」
原因は分からないが、冬眠中にそのまま死んでしまい、葉にひっついたままになっているのかもしれないし、天敵に食われたのかもしれないし、ただ単に寿命で死んでしまったのかもしれなかった。
「でも、さっきはこうしてると動いた」
「長門、死んでしまったものはもうどうしようもない。お前には少し分かりづらいかもしれないが……」
「情報生命体に死の概念はない」
だろうな。残念ながら、死の概念のない生命体と死ぬ運命にある人類とでは、勝敗は戦う前から決まっていたのかもしれない。
「まあ、地球上の生き物全ての宿命だな。一回死んだら、もう2度と動くことはないんだ」
俺の説明では、これが限界だった。
「少し、分かったような気がする」
「こいつは、元の場所に戻しておいてやろう。仲間もいるし、それが一番いいと思うぞ」
「死んでいるのに?」
「う~ん……よく分からないけど、こいつが生きていたから、かな? スマン、俺にもそこら辺はよく分からないな。とにかく、かえしてやるのがいいと思う」
「分かった」
長門は軽くうなずくと、トロトロと葉の上を這い進むさっきのかたつむりの隣りに、死んだかたつむりの亡骸を置いた。かたつむりは、いきなり現れた仲間の亡骸に、すこし戸惑いを感じたかもしれない、しきりに触角を伸ばしていたが、死んでいると分かると方向を変えてまたノソノソと這い始めた。おそらく、かたつむりに人間に理解できるような感情などないだろうが、それでも触角を下げている様子は悲しそうに見えたし、仲間の死を悟って立ち去る様子は――雨のせいもあってか、本当にさびしそうに見えた。
「キョン君も――
周囲は、雨音と遠くで走る車がまき散らすドップラー効果のかかったエンジン音が、かすかに聞こえるだけだった。
「どうした、長門? なんかききたいことでもあるのか?」
長門はしばらく黙っていたが、すぐに間近で見ていても分からないくらい微かに口を動かした。
「キョン君もかたつむり好き?」
そんなようなことを、灰色の瞳をじっとこちらに向けて言った。
長門から『ある意味』こんなに答えにくい質問をされるとは思ってもなかった。かたつむりなんて長門と遭遇しなければ英単語並に俺の視界の隅を流れ去ってゆくだけの生き物に過ぎなかっただろう。
俺はしばらく考えた末、
「まあまあ、かな」
と曖昧でどうとでも解釈できる返事をしておいた。
「そう」
短くそう言うと、長門は視線を元の場所に戻した。
しかし、さっきのかたつむりは消え去っており、這った跡だけが葉脈に沿って草陰へ伸びているだけだった。
「それじゃあ、そろそろ帰ろう。俺も久々に早く帰ってゆっくりしたいしな。長門も、こんなところにずっといたら風邪ひくぞ」
そう言って立ち去ろうとした時だった。
「明日、家に来て欲しい」
「え?」
俺は一瞬、訳が分からなくなった。
「誕生日、用意して待ってるから」
ああ、そういえばそんな日もあったな。我ながら今改めて思い出したのが恥ずかしいくらいだ。結局、部室での俺のさりげないアピールを聞いてくれていたのは『スタンド・バイ・ミー』を読みふけっていた長門だけということか。
「ああ、別にいいぞ。ハルヒの特訓で遅くなるだろうけど、それでもいいなら」
「構わない。待ってるから」
そう言って、長門は静かに雨の中へ消えていった。
俺が今まで述べてきたことの中で、もし先程のシーンだけを読んだものがいたら、これからは少し変わっていて不思議だけどかわいらしい少女、長門との微笑ましい心の交流が描かれるときっと思うことだろう。
もちろん、そういう展開になることなどあり得ないのは、あのシーン以外の部分をちょっとでも読んだ方なら分かっていただけるはずだ。
にも関わらず、当の本人である俺はあの時、無防備にも長門の誘いに二つ返事でOKしてしまった。
ネズミがネズミ捕りにハマるように。キャサリンがボブのドライブに気軽についていくように。
多分、ハルヒに課せられた特訓で疲れていて判断力が鈍っていたのと、長門のあの日の仕草や表情が、不覚にも俺の苦い記憶を忘れさせたからだと思う。前に家に行った時も怪しげな話を聞かされただけで実害は何もなかったのだから、今回も別にどうってこたないさ、と高をくくっていたのかもしれない。
何にせよ、その日の俺は、明日を少し――いや、かなり楽しみにしながら家路につき――そして眠りに就いた。
「ほんっと、あいつムカツクわ!!!」
部室に入って開口一番、ハルヒはそう言って拳を机に叩きつけた。
「何が『あれぇ~、まさかこれが本気だなんて言わないよね?』よ!! 厭味ったらしいことばっかり言って…… いい? 絶対勝つの! 何が何でも勝つのよ!! 徹底的に!!! 容赦なく!!!!」
机に憎っくきコンピ研部長氏の顔が張り付けてあるかのように、何度も拳を振りおろしながら(振りおろすたびに、パソコンの本体がガタガタ揺れた)言った。
(すいません、一体何があったんですか? ちょっといつもと違うような……)
古泉がいれば心の中で呼び掛けるところだが、残念ながらトイレでタバコでもふかしているのか、ここにはいない。俺は小声で、たまたま近くにいた朝比奈さんに声をかけた。
ハルヒは相変わらずヒトラーばりの演説を続けている。
(実は……
そう言って朝比奈さんが小声で話したことを要約すると、昨日俺たちがゲーセンから帰ってすぐに、コンピ研の部長氏がやってきたらしい。部長氏はハルヒに戯れでひと勝負挑んだのだが、これが見事なまでにハルヒの完敗だった。まあ、当然と言えば当然の結果と言える。ほとんど抵抗する間もなく瞬殺、しかも、最後のラウンドでは気絶したところに敵ながら気持ちよくなるくらい一撃必殺が決まり、流石のハルヒも茫然としていたところに先のような捨て台詞を残して立ち去って行った、という。
それで帰り道、俺たちにあんな台詞を言ったわけか。
「本当に期待してるよ」
「あの団長さんよりもね」
確かに、朝比奈さんの話を聞いてから思い出すと、かなり厭味ったらしい言い草だ。偶然とはいえ、わざわざ俺たちにまで言うところが特にな。別に、俺たちを発見してもそのまま通り過ぎればよかっただけのことなのだ。やっぱり、部長氏の前世は卑劣なサンドバックで間違いないだろう。
「二人で何楽しそうにおしゃべりしてるわけ?」
気が付いたら、ハルヒの演説は終わっていた。
「いや、ちょっと古泉がどこに行ったのか、きいてたんだ」
「それでキョン、誰かいい助っ人はいたの?」
ああ、そういや昨日帰り際にそんなこと言ってたな……
「いや、昨日のことだからな。まだ探しているところだ」
ていうか、そんな早く見つかるわけがない。
「誰か目星付けてる人くらいはいるんでしょうね?」
「問題解決に向けて努力してまいりたいと思っております」
「まるで政治家答弁ね。今度は選挙ポスターにキスでもしてきたの?」
妙にトゲのある言葉だったが、今は無視しておくのが一番だろう。
「いや、それにしても昨日の今日だぞ。俺の友達でそこまでゲームする奴なんていないしな」
「谷口は?」
「アーケードに関しては俺ら以上に初心者だろうな。それにアホだぞ」
あいつがやるようなゲームはエロゲーくらいだ。それに、長門には谷口の性格が若干(それほど多くはないと信じたい)上書きされているみたいだし、近づけることでさらなる悪影響が出るとも限らない。内面だけでなく、外面も上書きされたら……しかもそいつが「キスしてくれたら協力してあげる」とか言って迫ってくる……考えただけで洗面器3杯分のゲロを吐きそうな気分になる。
「まあ、アホならしょうがないわね。それにオールバックだし」
オールバックがどう関係してるのかよく分からなかったが、とりあえずこれも無視しといた。
「じゃあ、国木田は?」
「国木田に勝負事に勝つような闘争心があると思うか?」
「なさそうね」
「前もって言っとくが、俺の妹はUFOキャッチャーしかできんぞ」
その上反抗期でもある。俺に素直に協力してくれるとは思えない。この前なんて、たまたま目を覚ましたらベッドの横でハサミを持って立っていた。「図工で使うの~てへっ」なんて言ってたが、あれは明らかに図工以外のことで使うような目だった。
「じゃあ、あの子でいいわ」
「あの子、て誰だよ?」
「ほら、ミクルちゃんの同級生に自称天然美少女(ワロス)とかいうハイテンションガールがいたじゃない。名前なんだっけ、ミクルちゃん?」
「その人、知ってます。自称天然美少女(テラワロス)とか言ってて、クラスでも話題になってました」
「だから、その自称天然美少女(グランドテラワロス)の名前は何なのよ」
「クラスの人に『自称天然美少女(ヴォルカニックテラワロス)は誰ですか?』て聞けばすぐ分かります。有名ですから」
「だから、その自称天然美少女(グランドヴォルカニックテラワロス)の名前を聞いているの!ミクルちゃん、その自称天然美少女(グランドヴォルカニックテラワロス・ドラゴンインストールバージョン)と同じクラスなんでしょ?」
「名前は知っていますよ。でも、名前より自称天然美少女(ライトニンググランドヴォルカニックテラワロス・ドラゴンインストールバージョン)の方がクラスで有名ですよ」
「正直に言ってね。ミクルちゃん、自称天然美少女(新世紀ライトニンググランドヴォルカニックテラワロス・ドラゴンインストールバージョン)の名前を忘れたんでしょ?同級生の名前を忘れたのを知られたくないのは分かるけど、キョンみたいに政治家答弁に逃げちゃ駄目だからね」
「もちろん、覚えてますよ」
「自称天然美少女っていう子(新世紀ライトニンググランドヴォルカニックテラワロス☆ドラゴンインストールバージョン)、髪の毛がお尻の穴まで届きそうなくらいあって、おでこがツルツルしてて堅そうな子よね?」
「ええ、そうですよ」
「じゃあ、名前は?」
「そこまで分かっていれば十分探せますよ」
「そんなことは問題じゃないの、名前は何なの?今度は!名前を!!はっきりと!!!答えてもらうから!!!!」
「ふぇえ……そんなに睨まないでください……」
「忘れたなら、素直に忘れたって言えば今回は許してあげるわ。それか、早く名前を言いなさい!この」
「ふぇえ~、やめてくださぁい!!」
「どっちか素直に白状しなさい!」
ハルヒが例によって朝比奈さんの服を脱がせようとしだしたので、俺はついに口を開くことにした。
「こら、やめろ、ハルヒ。朝比奈さんが言ってるのは、鶴屋さんのことだろ」
だいたい、この前一緒に草野球したのを覚えてないのか、と言いたいところだったが朝比奈さんも覚えてないようなので、口に出すのは止めといた。ハルヒだけでなく、朝比奈さんまで馬鹿にすることになってしまう。それに、そろそろ止めないと内心でどこまで鶴屋さんをあざ笑うつもりなのか、少し心配になってきてたところだし。
「そう、そいつよ!」
そいつが犯人だわ!て言いたそうな感じだな。
「早速スカウトしてこないと。ヤツの悔しそうな顔が目に浮かぶわ!」
「おい、ハルヒ、何も鶴屋さんがゲーム得意と決まったわけじゃ――
バタン!!タタタタタタタタ…………
行ってしまった。もう帰ってこなくていいぞ。
多分、鶴屋さんはゲームそのものをやったことがないと思う。名前をようやく思い出した喜びに惑わされて、完全に我を忘れている。あのさっぱりした性格の鶴屋さんであるからハルヒのスカウトを快く引き受けるであろうことは想像に難くないが、これで古泉のお荷物がまた一つ増えてしまうことになった。
「ふう~、やっと出て行きましたね」
朝比奈さんが誰に言うわけでもなく、そう呟いた。
「マスコットキャラを演じるのも楽じゃないですね~、聞いてますか、長門さん?」
そういえば、俺が来た時にはすでに部屋の端っこでスティーブン・キング作の『デスペレーション』をずっと読みふけっていた。いつも思うのだが、一体長門はいつ部室に入ったのだろう? いつも俺が来た時には部室で悠然と本を読んでいる。中原を流れる黄河のように、はるか太古の昔からここにいた、とでもいうように。
「“備品”は楽そうでいいですね。座って本を読んでるだけでいいなんて、なんてうらやましい御身分でしょう」
空は梅雨の中休みで久々にスカッと晴れ渡っていた。部室の窓辺で太陽の光を浴びて読書するのは気持ちいいことに違いないだろうが――
「少し静かにして」
部室には早くも大雨をもたらしそうな積乱雲がモクモクとそこらじゅうを覆い始めていた。耳を澄ませば、雷鳴すら聞こえてきそうな感じだ。
「気が散るから」
「あらあら、すいません……長門さんの気持ちにも気付かずに」
もちろん未来においては戦争し合う敵同士なのだから、朝比奈さんに謝る気持ちは全くなかっただろう。つかつかとコンロの方に歩いて行くと、そのままヤカンのお茶を湯呑に入れた。あの、俺が世界の異変に気付いた時に飲んでいた湯のみだ。
「長門さんがもっと集中できるように、お茶の差し入れ……あ!」
そのまま、朝比奈さんは長門の頭上に差し出した湯呑を逆さまにした。ついに来た、と俺は思った。雨がやってきた。血の雨が降る前触れ。
ビチャビチャビチャとお茶が長門の髪を濡らし、長門の白い頬を伝ってゆく。その様は、読書して感動のあまり泣いているように見えないこともない。
「あ~、ごめんなさい、長門さん……うっかり手が滑っちゃって。すぐに拭くものもってきますね」
ロッカーを漁ると、朝比奈さんは両手にそれぞれの獲物を持って長門に言った。きっとおとぎ話に出てくる湖の妖精も、こんな感じだったに違いない。
「モップの先と」金の斧
「雑巾」銀の斧
「長門さんが欲しいのはどっちですか?」
「………」
何を思っているのか、眼鏡をお茶で濡らされても長門は無言だった。しかし、いくら情報統合思念体とはいえ、心の中は怒りで煮えたぎっているはずである。外は6月に似合わないカラリと晴れ渡った晴天だが、俺はジメジメした嫌な汗が溢れてくるのを止めておくことはできなかった。
「モップと雑巾、どちらがいいかきいてるんですよ?」
「………」
「答えられないんですね、分かりました」
長門の対応ににっこり微笑んだ朝比奈さんは、モップの先端のあのモジャモジャと雑巾を無造作にそこらへんに投げ捨てると、ロッカーから――今度は鉄の斧を取りだした。金や銀の斧みたいな装飾用じゃない、木の幹でも牛の首でも簡単に切れそうな斧。
「この素敵なトイレ専用雑巾が一番ちょうどいいと思いますよ」
まるで平和の万国旗みたいに誇らしく広げられた例の雑巾の端を、指でつまんで言った。
これから何が行われるのか――それは樵が木に向かって斧を振りかざしているのと同じく考えるまでもないことだったが、あまりに現実離れしていたため俺は受け入れることができないでいた。
まさかトイレ専用雑巾で長門の顔を拭くなどとは。それもケツの穴を拭くが如く、執拗に。
朝比奈さんは雑巾を持って近づくと、その『受け入れがたい現実』を何の躊躇もなく行った。
まず手始めに、長門の頬を伝って本のページに滴り落ちているお茶を拭き取った。朝比奈さんが押し付けた雑巾をようやく顔から離したときには、長門の眼鏡は異様な方向にねじ曲がり、斜めになりながら何とか顔に張り付いている状態だった。
次に、そのまま長門の後ろに回り込むと「どこかかゆいところはありませんか~」と言いながら髪にかかったお茶を同じく執拗に拭き取っていった。
俺は、以前の事件の時を思い出していた。そう、長門が朝比奈さんの目に煙草の先を突っ込んで根性焼きにしたことを。
まさに目玉焼きだな。
俺はこんな状況にも関わらず、なんとなくそんなことを思った。
「わ~、綺麗になりましたね~」
額から、汗がダラリと流れる。
長門が本を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。そして、おそらく軽く3桁は超えるであろう握力で朝比奈さんの首を締めあげ、机の上に押し付けた。さあ、ついに来た。このまま長門が朝比奈さんを放り投げ、窓を突き破って中庭へ落下していく映像が俺の脳裏をよぎった。下のコンクリートに、踏みつぶされた虫みたいになって赤い血を飛び散らしている朝比奈さんの様子まで、リアルに想像できた。
「私の言うことをよく聞いて」
「くは……ッ……」
息が詰まって返事ができずないようだ。当たり前か。それにしても、長門の口調はどことなく子供にさとす母親のような感じがした。
「次はそこの窓から放り出す。聞こえた?」
朝比奈さんは首を縦には振らなかったが、十分に意思は伝わったとみて、長門は襟首から手を放した。しばらく咳き込む朝比奈さん。
すぐに酸素の供給も回復したと見え、ようやく息も整いだした。
長門の方はすでにボサボサに乱れた髪と眼鏡も情報操作で元通りになっており、何事もなかったかのように鎮座して本の続きを読み始めている。
「はあ…はあ、ハア……」
ごくり、と唾を飲み込んで完全に落ち着きを取り戻してから、長門に近づいてゆく。
「どうしても宇宙に帰ってはくれないんですね」
「私は、涼宮ハルヒを観察するためにここにやってきた。途中で任務を放棄することはできない」
「奇遇ですね。私も任務を放棄することはできません。ところで、今日はどうして私をそこから投げ飛ばさなかったんですか? 長門さんなら簡単にできたのに」
「今日はキョン君の誕生日だから。キョン君に汚いボロ雑巾になったあなたの姿を見せたくなかった」
「いつか後悔しますよ」
にっこり。梅雨の晴れ間が、朝比奈さんのまつ毛一本一本にいたるまで、鮮やかに照らし出している。それこそ、太陽より眩しいくらいに俺には思えた。もちろん、それを取り囲む空間は宇宙空間よりはるかに濃い闇ではあるのだが。
チャイムが切りよく鳴った。チャイムの音と同時に、ようやく日常世界があるべき姿を取り戻した。それが一時的な仮そめのものだとしても。
「キョン君も早く教室に戻らないと、授業に遅れちゃいますよ」
一部始終を傍観しているだけだった、いや、傍観することしかできなかった俺に、朝比奈さんはさっきの眩しい笑顔のまま、そんなことを言い残して立ち去って行った。
俺もそろそろ教室へ向かおうか。ハルヒが鶴屋さんをちゃんとスカウトできたかどうか少し気になるが、どうでもいいことだと思った。
立ち去ろうとする俺の背中に向かって、長門が言った。
「今日、準備して待ってるから」
俺にはこの梅雨の中晴れの出来事は、全て夢のように思えた。今のチャイムの音で目が覚め、ようやく現実世界へ戻ってきたのだと思ったのだ。
だが、もちろん、残念ながら、とでも言おうか、今起こったことは全て動かしようのない現実だった。
おっと、忘れていたことがあったな。
ゲッツ・アンド・ターン。
部室のドアノブに差し出された手を止めて振りかえる。俺が生まれた日にも輝いていたであろう太陽が、床に放置されたままになった素敵なトイレ専用雑巾と普通の雑巾とモップの先を照らし出していた。このままほったらかしにしておくのは、いかにもマズイだろう。
俺はそれら3つの斧を素早くロッカーの中に放り込むと、今度こそ足早に部室を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます