第4話

 ふと眼が覚めると、そこは古典教師の子守唄が響き渡る教室だった。昼休み後の授業ということもあってか、日頃から生存率の低い古典の授業の生存率がますます低くなっていた。とりあえず起きているのが半分――その内意識がはっきりしているのはさらに半分といったところか。

 腕枕でしびれている腕に鞭打って無理やりシャーペンを握りしめる。

 ノートには古典の板書の代わりに、A~Dまでの選択肢が確かに俺の字で書かれていた。BとCの間の紙はふやけていた。きっと、寝ている間に涎が垂れたのだろう。


 A.あきらめて素直にハルヒに不思議を提供する

 B.長門か朝比奈さんのどちらかに帰ってもらう

 C.かっこいい超能力使いの古泉君が何とかしてくれるだろう(色々パワーアップしてるし)

 D.これは全て夢である。うっそぴょーん


Dだ。これがベストアンサーだ。俺はしびれが取れず、持っていたという自覚さえまだなかったシャーペンの先をノートに押しつけると、夢見心地のままDのところにグリグリと丸をつけた。ふとその下に目をやると「ファイナルナンサー?」と書かれていた。ああ、そうさ、ファイナルアンサーだよ。古泉君がどうにかできる訳ないだろうし、Aはまだ何とかなるだろうが面倒くさいし、Bは実行不可能だろう。

 “逃げちゃ駄目ですよ”

 「うお!」

俺が思わず上げた声で、古典教師の子守歌が一瞬で鳴り止んだ。同時に、今まで眠っていた者たちが沼から復活したゾンビのように起き上がってこちらに視線を向けた。

「どうした? 久しぶりに怖い夢でもみたのか?」

ギャハハハハハ。古典教師の古典的なジョークに、クラスの全員がサディスティックな笑い声をあげた。俺の後ろに座っている涼宮ハルヒも、さっきまで隣で大砲が鳴っても起きないと思われる程爆睡していたのに関わらず、いつの間にやらこの笑いの輪に加わっていた。それも、ひと際大きな笑い声をあげて、だ。

「じゃあ、教科書の今説明したところの漢文を読み下し文にしてもらおうか」

俺はクラスの期待を背負って立ちあがった。もちろん、この期待というのは失敗してさらに笑いのネタになってくれという期待であり、真後ろの席の奴からは特に熱い期待が寄せられていた。

じっと黒板を見る。そこには7×5列の漢字の塊と、その傍に何やら訳の分からぬ記号が振られていた。俺が読めるのはカタカナだけだぞ……

……まさに四面楚歌だな。もう、素直に諦めるか……俺が無条件降伏の言葉『分かりません』を口にしようとしたとき、救世主(メシア)が舞い降りた。

“力は山を抜き気は世を蓋う……”

古泉、お前、分るのか?

“ええ、昨日やったところですからね。ノートにそう書いてありますよ”

ありがとう、古泉、心の友よ。お前が死んでも、俺はお前のことを3カ月くらいなら忘れないだろう。

“まあ、僕も少し責任を感じてますので。あと、勝手に殺さないで下さい”

すまん、つい、でき心で……

“僕が言った後に復唱してください。それではいきますよ”

「力は山を抜き 気は世を蓋う

 時に利あらずして 騅逝かず

 騅逝かざるを奈何すべき 虞や虞や若を奈何せん」

開いた窓から、初夏の湿った風がカーテンをふわりと揺らしながら舞いこんできた。

 教室は、しばらくの間晴れた日の太平洋みたいに静まり返っていた。みんなの期待を無残にも裏切った俺は、このままでは非常に気まずかったので、自分の方から言い訳してみた。

 「いやー、俺って超らっきーだなぁ。昨日、ちょっと予習しといたとこがたまたま出るなんてさ」

 交通事故があったので見に行ったところ、怪我人も誰もいなくてむさいおっさん二人が言い争いしていただけで『なんだ、誰も死んでねえのかよ』と思って立ち去る野次馬の心境が、今、正にこの教室において3Dで完全再現されていた。特に後ろの奴ね。

 「じゃあ、ついでに和訳してみろ」

 あまりの沈黙に、古典教師も若干とまどいを隠せないでついそんなことを口走ってしまった。だが、今思い返すに、この時は普通に『分かりません』で通っただろう。書き下し文には出来たわけだし、和訳については『よく分かりませんでした』で古典教師の2,3の厭味な小言を聞くだけで済んだはずなのだ。しかし、救世主が俺の心を惑わせた。

 “和訳もノートに書いてあります。僕が読みますので、さっきと同じように復唱してください”

 俺は寝起きだったこともあってか、判断力が鈍っていたのだろう。考えるのも面倒くさかったので、いとも素直に古泉の言う通りに従った。

 「力は山を抜き、気は天下を覆うほどだったが、時の勢い悪く負けてしまい、敵陣の最中で脱出することすらできない。しかもセフレの虞姫が妊娠した、どうしよう」

 俺が自分で何を言った、いや、言わされたのかを理解したのは、数秒たって教室が爆笑と失笑に包まれた頃だった。男子は、特におっぱい大好き谷口君はだいぶ受けていた。まさか、古典の授業でコイツがこんなに爆笑しているさまを拝見できるとは思ってもいなかった。腹に手をあて、体をのけ反らせ目に涙を滲ませながら机をバンバン叩き「もう止めてくれ! 限界だ!」と言いながら爆笑していた。女子のほうは、これはもはや笑いというより侮蔑に非常に近いクスクス笑いであって、特に後ろの奴は全く笑ってなんかいなかった。

 “アハハハハ。すいません、ついでき心で”

 お前、ハメやがったな! くそっ、ここにも笑っている奴がいたか。

「確かに、それは困るな。お前も、和訳以外のときもうっかりミスには気をつけるようにな。それと、昼間は遠慮しとけよ、そういう夢は」

古典教師の婉曲的下ネタに、またもやおっぱい大好き谷口君をはじめとする男子全員が笑い、女子が乾いた笑い声をもらした。

古典教師は、笑い声が完全に消えて静かになるまでたっぷり5秒は俺をクラスの晒しものにした後、ようやく満足そうな表情で

「はい、座っていいぞ。まあ、確かに予習してきたようだから、平常点5点つけといてやるよ」

と言い渡した。

“羨ましいですね。今のだけで平常点が5点ももらえて。僕も古典はあまり得意でないので、すこし分けて欲しい位ですよ”

誰が分けてやるか! だいたい、今のだったら50点くらいはもらわんと俺の気がすまん。

“いいじゃないですか。何の努力もしないで寝ていただけで5点ももらえたんですよ。感謝されこそすれ、恨まれるのはお門違いというものです。という訳で、後で3点分けてくださいね”

 ちゃっかり多く取ってんじゃねえぞ、クソッタレ。しかも後ろから強烈な非難の視線を感じるし……

 古典教師は俺をさんざん痛ぶって満足したのか、上機嫌で授業を再開した。この騒動のせいで、もはや誰も眠りにつく者はいなかったので、それも上機嫌の一因だった。チラッとハルヒの方を見ると、こっちは逆にものすごく不機嫌そうな表情だった。谷口はこっちに向けて親指を立てた拳を突き出して微笑んでいる。俺はこのときだけ谷口が羨ましかった。谷口なら、下ネタを言ってもいつものことだから気にもされなかっただろう。

 おい、古泉。まだいるのか?

 “はい、何でしょうか?”

 だいたいお前、何の用があって俺にテレパシーしてきたんだ?

 “すいません、うっかり大事な用件を忘れるところでした”

 この騒動のせいで、夏休みが来るまでクラス中からいやなあだ名で呼ばれるのだろう。特に谷口は下ネタの時だけIQ180くらいはありやがるからな。考えただけで憂鬱になってきた……

 “今日はオセロと将棋、どっちにします?”

 どっちでもいいよ……好きな方を選べ。

 俺は、心の中で投げやりにそう答えた。

まあ、どうせそんなオチだろうとは思ってたよ……

 


 6時限目の授業が終わり、俺はいつもと同じように部室へと向かった。部室に入ると、すでに朝比奈さんはナース服に着替えていて、長門は椅子に座って『スタンド・バイ・ミー』を読んでいた。二人の表情には、今のところ闘争の気配はない。多分、隠しているだけだろうが。

 朝比奈さんがお茶っ葉を缶から取り出してポットに入れ、ガスコンロの上に置いた。

 チチチチチチ。

 火花の音がしてコンロに火がついた。お湯なんて湯沸かし器でも使えばいいのにと思っていたが、朝比奈さんが言うところによれば(これは一昨日の事件より前に聞いた話だ)ガスコンロで沸かした方がおいしくお茶を淹れられるそうだ。もっとも、今となっては朝比奈さんがコンロについているガスボンベで長門を攻撃するために、そうしているようにしか見えないが。ライターで火をつければ、簡易火炎放射器の出来上がりというわけだ。

 もっとも、長門がそんなチャチな攻撃でヘバるとは思えないが、嫌がらせ程度にはちょうどいいだろう。

 古泉はと言えば、もう机の上に盤を開き、将棋の駒を並べていた。

 「遅かったですね。さあ、早く始めましょう」

 いつもの笑顔は、春先の新緑のように爽やかだ。この初夏の湿った熱気にも関わらず。

 「結局また将棋か」

 カバンを机の上に置いて椅子に腰を下ろす俺。

 「ええ。また新しい戦法を仕入れて来ましたから。正直、ちょっとワクワクしています」

 全くワクワクしないシチュエーションだったが、俺だってそう簡単に負けてやる訳にはいかない。特に、今日は古典の授業の仇を取らねばならないのだから。

 “始める前に、一つ聞かせてもらえませんか”

 古泉が俺に、振り駒の5枚の歩兵を渡す。

 そんなことより、俺の約束がまだだろう。昼休み約束したはずだ。洗いざらい全部話してもらう、ってな。

 掌で駒をよく振る。ここが肝心なところだ。ここを怠ると武運が逃げてゆく。

 “あれで必要な情報は全部話しましたよ”

 いや、長門のことはまだ聞いてない。一昨日の約束じゃあ、確か長門がビッチになった理由と、朝比奈さんの変節について説明してもらう約束だったはずだ。確かに朝比奈さんの変節については説明してもらったが、長門の変節の方はまだだ。まさか忘れたなんて言わないだろうな?

 “いえ、ちゃんと覚えていますよ”

 駒を盤上に投げた。歩兵がキリキリと回転する。

 じゃあ、話してくれよ。

 “長門さんについては、少なくともあなたの方が詳しいんじゃないでしょうか。いろいろと個人的にも会ったりしているようですし。我々ができるのは正確な情報がない以上、不確かな推測でしかありません”

 表が2枚、裏が2枚。もう一枚は、勢いよく盤上から転がり落ち、隣に置いた俺のカバンに当たって止まった。

 “とりあえず、あなたが知っている長門さんのことを話してくれませんか。その後、あなたの情報を分析して、わたしの『より正確になった』僕の推測をお話しましょう”

 古泉は盤からこぼれた駒をつまみあげると、俺に渡して言った。

 「これで表が三枚。あなたが先手ですよ」

 


 長門は、正直かわいいけど、ちょっと変わった子だと思っていた。文芸部員という、一種のマイナーな文化部の中でさらに本だけが友達の孤立した人間だと、最初はそんな風に考えていた。

 とはいえ、夜に自宅に来るように誘われたときに、ありえないと分かっていながら俺も全く期待しなかったわけではなかった。俺はこの時点では、長門にも普通に両親がいるだろうから、どうせこの訪問はたわいない世間話をして終わるに決まっていると思っていた。でも、たとえそうだったとしても、こんなかわいい少女の部屋を見る機会など、そうそうありもしないのだ。俺は、自分はなんて幸運なんだろうと思っていた。もし朝比奈さんみたいに過去に戻れるのなら、その時の自分に教えてあげたいよ。そいつはクソビッチだってな。

 もう分かっているだろうが、そこで長門が話し始めたことは世間の常識から何万光年も離れた、NASAもビックリ、インド人もカレーを吹き出し、ウルトラマンも思わずジュワ!て叫んでしまうような話だった。

 最初、長門が自らを宇宙人だとのたまった時には、恐怖すら感じた。自分は「生まれてから3年しかたってない」と言ったときには、これは新手の宗教の教義でも聞かされているのだろうかと思った。

この地球はじつは神的存在の宇宙人が創ったものだとか言ってもおかしくなかったし、この部屋に勧誘員が潜んでいて、帰ろうとする俺を無理やり奥の部屋へ連れ込むのではないだろうかとまで考えた。しかし結局、その日は俺が心配したようなことは何もなくて、いつもよりちょっと遅く家に帰ったせいで母親に「晩御飯が冷めた」とか、そんな小言を言われただけで済んだ。

 俺が、長門を本当に宇宙人だと信じるようになったのはある日の出来事からだった。

 事件自体はお前も知ってるだろう。

狼の縄張り争いにチワワが巻き込まれた。まあ、とにかく、朝倉に追い詰められた俺の脳内にショボイ走馬灯が駆け巡る頃、長門が助けに来てくれて、なんとか一命をとりとめることができた。長門は、その時の戦闘で俺をかばってナイフやら折れたパイプやらを体中に刺されたりしたが、何とか朝倉を破壊することに成功した。

だいたい俺が経験したことを要約するとこれだけだ。

今思うとあの時の傷の後遺症か何かが長門を変えてしまったんだろうな。修理しようにもバックアップ自体は長門が文字通り粉々にブッ壊したから修復しようもなかったんだろう。

え? 他に何かなかったか、て? いや。今のが全てだ。

あ、いや、待て。そういえばその後しょうもないことがあったな。

長門が教室を元通りにした直後、谷口が忘れ物を取りに来たんだよ。自作の、これまたあいつ自身と同じくらいできの悪いしょうもない歌を歌いながら。あいつが教室に入ってきたとき、ちょうど俺は倒れ込んだ長門を起こそうとしたところだった。

そしたらあいつ、何か勘違いしてすぐに教室を出て行ったよ。まあ、俺と長門が放課後の教室で学園モノAV的なことをしてるとでも思ったんだろうな。

今日の古典の事件と合わせて、俺はしばらく卑猥なあだ名で呼ばれることになるんだろうな。

あ、待て。そこに角を打つのは禁則事項だ!

……お前は相変わらず痛いところを突いてきやがるな……



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