第3話
翌日から、毎日の歯磨きは針に糸を通すような作業になっていた。
昨日のあのクソ女が放った左フックは、俺の顎先へと誘導ミサイルみたいに見事に命中した。拳が当たったと思った瞬間、俺の目の前はドラクエのゲームオーバー画面みたいに真っ暗になった。本当に死んだかと思ったが――どれくらいの時間がたったのか知らないが、ようやく目を覚ましたときには並べたパイプイスの上に横たえられていた。最初はぼやけていた視力が元に戻ると、すぐ近くに例のうすら笑いを浮かべた古泉の顔があった。
俺の顔は姉ちゃんのケツか? と言いたかったが、すでにそれどころではなかったのでそれは言わずにおいた。どうやら、俺がゲームオーバーになった後に古泉が被弾個所に氷を当てて冷やしてくれたみたいだったが、のちの結果から見るに、文字通り焼け石に水だったらしい。まあ、あのまま部室の床にほったらかしにされるよりは数段マシだと思って神と古泉に感謝するしかない。
その日、俺は昼休みに校舎裏のベンチで古泉と待ち合わせをしていた。やつが言っていた『後で説明する』とか言ってたことを説明してもらうためだ。
ここは校舎の日陰になっていて、この暑くなりだした季節にはちょうどいい気温だし、集まってくる生徒も少ないから落ちついて話をするには絶好の場所だった。おしゃべり女子は教室にいるだろうし、大抵の男子は運動場へ行く。不良がたむろしてシンナーでも吸ってそうな場所ではあるが、俺の通っていた北高はそこそこにお行儀がよかったのでそんなやつはいなかった。ただ、俺が先に到着して古泉を待っている間、いつの間にやってきたのか鬱陶しいアベックが隣りの席でいちゃつきだした。
だが俺が心底『この世から消えてください』というような目でしばらく見つめていると、思いが通じたのかすぐにどこかに消え去った。俺にはテレパシーの素質があるのかもしれんな。
古泉はそれからすぐにやってきた。
「やあ、お待たせしました」
こう言う時の古泉の笑顔はまた一段と憎たらしく見える。やつは俺のベンチの隣りにドカッと腰をおろした。
「昨日は災難でしたね」
「顔を近づけすぎだ」
「おっと、失礼」
「とにかく、お前の知っていることを全部教えてもらうぞ」
「そう焦らずに。そうですね……どこから説明しましょうか」
確かに、昨日は訳の分からないことが多すぎた。俺は喋るだけでも口の中が痛んだので、なるべく口を動かさないようにして言った。
「まず(まふ)、長門(ならと)と朝比奈さんの関係からだな」
自分でも情けない発音だが仕方ない。
「いくらなんでも、あの大人しい長門があんなに怒ったところを俺は見たことが無い。前から恨みでもあったような感じだ。あの嫌がらせは、前から続いていたのか?」
その可能性は高いと思った。実際、長門は俺が止めたときに『ここで殺さなきゃダメ』とまで言っていた。『ここで』ということは過去から継続して、つまり過去完了ということだろう。
「ふふ」
「何だ、気色悪い笑いを……」
「御名答です。まず、朝比奈さんがやって来た未来の状況についてお話しましょう」
古泉が専門用語を散りばめて(人類がシェフィールド推進装置を開発して銀河中心部まで進出するようになったころ、その中心部でダークマターの質量変化によってはじめて存在が観測された……うんたらかんたら、どうたらこうたら)話したことを要約すると、朝比奈さんがやって来た未来では、人類は今では考えられないような効率的・反則的スーパーエンジンを開発し、銀河の中心部へと航海できるようになったらしい。そこで新たな新天地を見つけた人類は平和的繁栄を築き上げました、メデタシ、メデタシ、で話が終わってくれればありがたいことだったのだが、銀河中心部にたどりついた宇宙船は有史以来の人類の悲願とも言えるものを発見してしまう。
そう、地球外知的生命体、それも人類とは異なる形態の知的生命体だった。
そして人類はその知的生命体と仲良しになって隣人愛を育みながら共に繁栄を築き上げるのであった、メデタシ、メデタシ、とは問屋が卸さなかった(その時代に問屋があるかどうかは知らないが)。とにかく、色々なスッタモンダがあった末に人類はその知的生命体と銀河の覇権を巡る全面戦争に突入してしまったのだ……
口が痛いので、色々聞きたいことはあっても黙っていた俺だったが、ここまで話が進んだところで俺は郵政民営化について熱く答弁する政治家よろしく、大げさな身振り手振りで話す古泉一樹首相を途中で遮って一つの疑問を投げかけた。
「ちょっと待て。話が全く見えん。それがどうして朝比奈さんと長門の確執につながるって言うんだ?」
「鋭いあなたなら、もう薄々感づいていると思っていましたが」
うーん……
ダメだ、分らん。というか、こいつらの言ってることはもう一般高校生の思考の範疇じゃ理解できんだろ。
「もっとよく考えてください」
そう促されても、分らんもんは分からん……いいや、ちょっと待てよ。
「何か気付いたようですね。多分それで当たりだと思います」
横を向くと古泉が、一般的女子なら運命の鼓動と甘酸っぱい恋の予感を感じるに違いない魅力的な笑顔を、俺の顔から5センチのところで浮かべていた。
「とりあえず、近すぎだ」
「これは失礼」
「お前の言いたいことが分かった。その地球外知的生命体というやつが長門の種族である、情報生命体という訳なんだな。しかも、長門一族と人類は――
歴史上の異文明どうしが引き起こす最も普遍的で、最も厄介なイザコザを抱えている。それも、戦争という最悪の形で。
「お察しの通りです。しかも――たちの悪いことに、戦時下に成長した朝比奈さんは宇宙人を悪者と教えられて育った。いわば、未来から送られてきた宇宙人撃退用ターミネーターと言う訳です」
そういうことだったのか。とりあえず、その未来人の類まれな人選センスにはお礼を言っておきたい。できれば、あと2,3人ほど朝比奈さんのような美少女ターミネーターを追加してもらえれば感謝の極みである。
「第二次世界大戦の時の日本が、アメリカ建国時代にスパイを送り込んだようなものか。ワシントンを殺害しようとして」
「全くその通りです。長門さんはこの時代の涼宮さんと接触することによって、停滞していた情報生命体の自立進化のカギを見つけたんです。朝比奈さんの目的は、長門さんがその“カギ”を見つける前に宇宙へ帰ってもらうことです。そうすれば、未来における情報生命体は数段弱くなる……なにせ、彼らは進化できなかったことになるのですから」
なるほど。朝比奈さんも、未来の宇宙戦争が生んだ悲しき犠牲者という訳なのか。いや、俺達がそう思っているだけで、案外当の朝比奈さんには被害者という感覚自体がないのかもしれない……
「それにしても、現代人にとっては迷惑もはなはだしいな……」
校舎の向こうの校庭から、学生の無駄に元気な声が響いていた。たぶん、くだらない玉蹴り遊戯で盛り上がっているんだろう。黙ってそこで野グソでもしてればいいのにな。
「ええ、確かに。我々現代人の意図なんてお構いなしの、時空を超えた代理戦争ですからね、これは」
「お前の所属している『機関』は、どんな風に考えているんだ?」
「お偉方の方針は、基本的に以前あなたにお聞かせしたのと変わりません。涼宮さんに事実を隠蔽する、もしものときは僕の新しい能力を駆使してでも。それに加えて、長門さんと朝比奈さんの闘争にもし一般現代人が巻き込まれそうになったら、それも全力で守る」
「その、なんて言うんだ、お前の能力を使って、二人の仲裁をするとか、そんなことは方針にはないのか? ただ、自分たちの身を守るだけなのか? もしかしたら、未来から来た朝比奈さんの攻撃で長門が地球人嫌いになって、その結果、宇宙戦争が起こった可能性もあるじゃないか」
「なかなか鋭いところを突いてきますね」
働き出したニートを見るような目でこちらを見て言った。
「『機関』でも一応その意見は出ました。二人を講和させれば問題は根本的に解決するのではないか、と。しかし――そうですね。仮に二人の現代における闘争が原因で、未来に宇宙戦争が起きたと仮定してください。次に、さっきあなたが仰ったたとえ、戦争中の日本が建国時のアメリカにスパイを送り込んだと仮定してみます。そして、そのスパイは見事ワシントンを殺害することに成功します。その結果、アメリカと言う国も建国されなかった、とします」
俺は腕を組んで考えていた。
「おかしいな」
「そうですね。もし、アメリカが建国されなかったなら、そもそも日本とアメリカの戦争そのものが起きなかったことになる。そうなれば、当然スパイを送り込む必要性もなくなる……」
「スパイが送り込まれなければ、アメリカは歴史通り成立し、結局日本との戦争は避けられない……ということか。矛盾してるな」
「そうです。仮に、僕たちが朝比奈さんと長門さんの講和に成功したとする」
古泉がこちらを見て言う。
「そもそも宇宙戦争は起きたことにならないから……」
俺はそう言いながら古泉を見つめ返す。
「朝比奈さんが現代に来たという事実は消滅する」
さっきとは違って、一件、何の矛盾もないように見える。朝比奈さんがやって来て嫌がらせをしたから宇宙戦争が起きたのであれば、朝比奈さんが現代に来たという事実とともに未来の宇宙戦争という事実も消え去るからだ。二つは同時に消え去る。天秤の両方の重りを同時に取り去るだけだから、天秤の均衡は崩れない。もちろん、朝比奈さんがいないことになってしまうのは寂しいことだが、未来の多大な犠牲は避けられる。それに、朝比奈さん自身は(戦争のなくなった)未来で有意義な人生を送るだろうし、現代を巻き込んだ代理戦争も避けられる。何も矛盾はないように見えたが……
「しかし、ここで涼宮ハルヒという存在が大きく僕らの前に立ちはだかってくる」
古泉が俺を指さして言った。テレビに出てくるクイズ番組の司会者みたいに。さあ、こちらのパネルをご覧下さい!ドン!
「そうだな……あのハルヒがマスコットキャラたる朝比奈さんの消失を望む訳がないか」
「もう一つ考えられることは、未来の宇宙戦争は別の原因で起こった、ということです」
「もしそうなら、長門と朝比奈さんが仲直りしたとしても――相変わらず未来の宇宙戦争は避けられない……」
ふと、ひとつ疑問が浮かんだ。というより、思いだした。それはこの議論が始まった時に訊いておくべきことだったのだが、議論のトリッキーな成り行きに完全に取り残されていた。
「お前、どうやってその未来のことを知ったんだ? まさか、それもお前の超能力のおかげなのか?」
「いえ。まあ、超能力というのは当たっていますが。『機関』に所属する他の超能力者にも僕と同じような現象が起こりました。その内の一人が身につけた予知能力によって、遥か未来のことが観測できるようになったんです」
「じゃあ、そいつに頼んで順番に歴史を追ってもらえば原因もはっきりするんじゃないのか」
「それも試してみました。が、残念なことに観測できる未来は、なぜか朝比奈さんのいた時代『以降』なんです。それ以前については急に霧がかかったみたいになってよく観測できない。まるで切り取って来た映画のワンシーンみたいに、そこだけよく見えるらしいんです」
「じゃあちなみに、宇宙戦争の後はどうなるんだ?」
ここではじめて古泉は俺の目から視線をそらした。おいおい、やめてくれよ。その道端で猫の轢死体見てうわ、みたいな目を。
「果たして、僕がそこまでお話ししていいかどうか……」
「おい、それはないだろ。ここまで話したんだから――知ってることは全部話してくれよ。秘密は絶対に守るから」
気が付けば俺の方から古泉に顔を近づけて懇願していた。もしあのバカップルがいたら、俺たちを間違いなくホモだと思っただろう。
それより、ここでテレビのクイズ司会者よろしく長いCMに入られてはたまったもんじゃあない。
「そうですね。ここまで話したのなら、あなたには最後まで聞く権利がある。でも覚えていてください。この話を聞いたら、もう後には引けない義務があなたにのしかかってくることを」
「分かった」
「では言いますね。数百年に渡る宇宙戦争は、最初の方こそ地球側の優勢だった。しかし、情報生命体は瞬く間に人類のテクノロジーの対処法を開発。自立進化を獲得していた情報生命体は、戦争初期で得た新たな人類の情報をもとにその後は有効な攻撃方法・防御方法を次々と編み出してゆき、反転攻勢。最終的には、最後まで抵抗を止めない人類を滅ぼしてしまいます」
「おわり?」
きっと間抜けな声で俺はそう問い返したのだろう。
「ええ、お終いです」クイズはもうこれでお終い、だから今日は早く寝なさい、かわいい坊や。
「ですが、不幸中の幸いというのでしょうか、その予知能力者が見たところによると、人類が滅んだ日も地球そのものは今と同じく青いままだったそうです。情報生命体は意外にもエコロジストだったんですね。なるべく地球環境を傷つけることなく人類を滅ぼしたようです。その人は、その後もしばらく黒い宇宙空間に浮かぶ地球の映像を見たそうですが、やがてその映像も真黒に塗りつぶされて――しまいには何も見えなくなったそうです」
「じゃあ、宇宙戦争『以降』って言っても、実質そこだけじゃねえか!」
語気を荒げた瞬間、口の中を針で突かれたような鋭い痛みが襲ってきた。傷口が歯に触れたのだろう。俺は思わず頬に手を当てた。
「我々も正直驚いています。まさか、人類がこんなことで滅亡するなんて」
俺も全く同感だ。平凡な市立高校で起きた嫌がらせが、未来の人類滅亡の要因になっているかもしれんとは。神様も無慈悲なことをしてくれたものだ。
「一応、機関の最終的な結論では『おそらく涼宮ハルヒによるものだろう』とみています」
ああ、そうだな。未来で宇宙戦争が起こったのもハルヒのせいだし、古泉が変な超能力を身につけたのもハルヒのせいだし、世界同時不況で株価が下がったのもハルヒのせいだし、谷口がツタヤのピンクののれんを平気の平さでくぐって得た戦利品を若い女性がいるレジカウンターへと自慢げに持って行くのもハルヒのせいだし、地球が温暖化するのもハルヒのせいだし、ドラクエが予定通り発売延期になったのもハルヒのせいだし、派遣が首を切られるのもハルヒのせいだし、俺の妹が最近反抗的な口を利くようになったのもハルヒのせいだし――ついでに俺の成績が急降下したのもハルヒのせいだ。
「まあ、最後まで聞いてください。我々も、根拠なく何でも彼女のせいにしているわけではないのですから」
「しかし、長門と朝比奈さんのケンカがハルヒに悪影響を及ぼして、というのも考えられんことはないだろう。その場合は、やっぱり大元の原因は朝比奈さんになるんじゃないのか」
「急いで結論を出す前に、まず状況を整理しましょう」
頭まで痛くなってきた俺には大助かりだ。
「朝比奈さんがやって来た未来において、人類と情報統合思念体との間で戦争が始まった。そこで、人類は勝利するために朝比奈さんを、統合思念体が自律進化を獲得した現代へと送り込んだ。目的は、ハルヒと接触して長門さんが自律進化の“カギ”を手に入れることを阻止する。これが一つ目の“時間の輪”です」
「いままでさんざん説明してきたことだな。そんで、時間の輪・第二弾でハルヒのお出ましということか」
「そうです。お待ちかねの第二弾は、涼宮さんが何らかの理由で人類に絶望したことで未来の人類の歴史そのものが改編されてしまった、ということです。本来は滅びずに繁栄してゆくであろう人類の未来が、情報統合思念体と宇宙戦争に発展し結局滅ぼされるという方向に。一個目は未来から現代へ向う輪っかでしたが、二個目は現代から未来へ向う輪っか、というわけですね」
「あいつが人類に絶望する理由なんてたった一つだろ」
「そうですね。考えられることは、不思議が足りない。不思議欠乏症なんでしょう。彼女の心の中では人類は存続するに値しない種族だとみなされ、結果、近い将来で人類は滅亡することになる。それも、彼女が考えうる最も派手な亡び方で。もちろん、朝比奈さんがやって来た時代より前だと朝比奈さんの存在そのものが消え去ることになりますから、それより少し後の時期が人類滅亡にちょうどいいと思ったのでしょう」
「だから、本格的にハルヒが絶望して、今すぐにこの世界を改編する前に何とかしよう、てことか」
「そうですね」
何だ、結局いつもと変わらないじゃないか。やることは一緒だ。今度はそれに朝比奈さんと長門の講和条約締結が加わっただけだ。
「もっとも、今回は一つだけ――可能性は低いですが――懸念があります」
なんだ、まだあるのか? もうやめてくれ、おなかいっぱいだよ。
「もし他の普通の人間が予知能力を身につけて、もし人類滅亡の未来を知ったらどうします?」
「あ」
それは非常にマズイ。世の中には終末論をかざすキチガイ預言者の類がウヨウヨしている。彼らがもし本当の予知能力を身につけてしまって、本当の未来を見てしまったら……
「予知能力が無い私たちでも、確実によくないことが起こるのは簡単に予測できますね。どうせ滅びるなら、と捨てバチになった人間は何をしでかすか分かったもんじゃあないですからね。まあ、いくら何でもそのせいで人類が滅亡することはありえないでしょうが。しかし、今のところ超能力が身に着く人間、身に着く能力には何の規則性もありませんから、可能性としてはあり得る、と考えた方がいいでしょう」
タイミング良くチャイムが校舎中に響き渡る。昼休みが終わったようだ。
「もうこんな時間でしたか。話が長くなってしまいました。ではまた、後ほど部室でお会いしましょう」
古泉はベンチから立ち上がると、ボールを持って走り去る男子の一団に合流し、そのままコンクリートの校舎へと吸い込まれていった。
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