第2話

 翌日、授業終了の鐘が鳴ると同時に俺はまた文化部棟にある部室へと足を運んだ。もし、今日も朝比奈さんの様子がおかしければ何らかの対処法を考えなくてはならないだろう。どうやら朝比奈さんがやって来た遥か未来においても、ハルヒのセクハラまがいの暴虐に対する有効な防衛方法は見つかってないらしい。だったら、現代にいる人間で何とかするしかない。

 ハルヒの性格や行動はもはや矯正不可能だとしても、朝比奈さんの受けたストレスは早く何らかの形で発散させてやった方がいい。そうでないと朝比奈さんまでハルヒのような性格に……それは無いかもしれないが、やっぱり朝比奈さんがかわいそうだ。

 部室へと続く長い廊下を歩いてゆく俺。

 部室前まで来て気づいた。なんだ、半ドアになっているじゃないか。

 俺がそのドアの隙間から部屋を覗き込んだのは、決してうっかりドアのカギを締め忘れた朝比奈さんの生着替えを見たいからではなかった……いや……やっぱり正直に言おう。

 正直、1割ぐらいはそんな希望的観測があった。それが男のロマンというものだし、打席に立ったバッターは常にヒットを狙っていくものだ。もし、君たちが俺のことを変態豚とかおっぱい星人だとか覗き魔だとか呼びたければ、どうぞご勝手に。好きに呼んでいただいてけっこうだ。

 だが残りの9割は、純粋に何かいつもと違う感覚がしたからだった。半ドアにも関わらず、そのドアは開けられることを拒絶しているかのよう俺には感じたのだ。

 中にいる人間(離れしたやつ)に悟られぬよう、そっと覗きこむ俺。

 そこにいたのがメイドに変身中の朝比奈さんであったならどんなに良かっただろうか。それをハルヒに見つかって変態呼ばわりされて2,3発殴られるなら、どんなに良かっただろうか。必死に言い訳している最中に古泉がやってきて冷たい微笑で見下されるならどんなにか良かっただろうか。

 残念ながら、そこにいたのは口に白い棒状のものを咥えている朝比奈さん(変身済み)と口から煙を吐き出す古泉と、その二人の傍らで相も変わらず無表情で椅子に座って読書に耽る長門ユキの三人だった。

 俺は信じたくなかった。古泉が手に持っているのは紛れもなく煙草だったが、朝比奈さんが咥えているのはチュッパチャップスの棒か何かだ、きっと。美少女は甘いものを欠かさない。それが世界の公式のはずだ。

 「ゴホゴホッ」朝比奈さんは世界の公式を完全粉砕しながら、むせて煙を吐いた。

「昔のひとってこんなものを吸ってたんですねぇ~」

「お味はいかがでしたか?」古泉がたずねる。

「うーん……正直言うと……あまりおいしいとは感じませんね……」

「そうですか……残念です。ちょっとでもストレス解消になれば、と思っていたのですが」

 おいおい、そんなものでストレスを解消させようとするなよ。ことによっては、俺だって黙ってないぞ。

 「古泉君は、よくむせずに平気ですね」

 「ええ。まあ、慣れてますからね。それに超能力は脳に非常に負荷がかかるんです。それを和らげるためには、煙草というのは非常に効果があるんですよ。もちろん、健康には随分と悪いみたいですが。まあ、僕は脳が疲れたときに一・二本吸うくらいですから、大した影響はないでしょう」

 このまま放って置いたら将来麻薬にも手を出すのではなかろうか。いや~、脳が疲れたときのリフレッシュに、大麻はちょうどいいんですよ。LSDやモルヒネもなかなかいいですね。アヘンやコカインも強力で疲労がたまった時なんかに効果を発揮しますが、何せ値段も高いし強力なので初心者にはお勧めできないですね。などと言いながら。毎日が小春日和であるかのような微笑をたたえて。

「そろそろ涼宮さんが来る時間ですね」

 そう言うと、好青年はポケットから携帯灰皿を取り出して短くなった白い棒をそこにねじこんだ。

「朝比奈さんも、そろそろ」

 だが、美少女メイドは古泉の差し出した灰皿を無視して長門の方へつかつかと歩み寄った。

「その本、そんなにおもしろいんですか?」

「まあまあ」

「どのあたりがおもしろいんですか?」

「ユニーク」

 朝比奈さんはブチギレた。それは、ハルヒのように感情を表に出すようなタイプのキレ方ではなかった。朝比奈さんの表情はキレる前と後で何の変化もしていない。それこそ、ヒューマノイド・インターフェイスみたいに。

 朝比奈さんは長門がページをめくろうと手を伸ばした瞬間に、まだ長いままの煙草を思いっきりそのページに押しつけた。ページの焦げた部分から白くて細い一筋の煙があがった。それは、本が助けを求めて差し出した細い腕のようにも見えた。煙の先には、昨日に夕陽の中で見せたのと同じ微笑をたたえた朝比奈さんの顔があった。

「謝ってください」

 朝比奈さんが手を離した後も、煙草は地面に突き刺さったミサイルみたいに本のページにそそりたったままだった。さらに顔を近づけて言う。

「昨日のこと、早く謝ってください」

 無言のままの長門。目線も本から動かさない。

「朝比奈さん、それは少しやり過ぎですよ」

 古泉が仲裁しようとしたのだろうか、朝比奈さんに近づこうとした瞬間だった。

「きゃああああああ!!」

 長門は素早く本に刺さった煙草を拾いあげると、朝比奈さんのクリクリした瞳に撃ち返したのだ。あまりの苦痛に両手で顔覆い隠す朝比奈さんだったが、長門はその隙を見逃す気はないようで、がら空きになった胴体みぞおち部分にいつの間にか閉じたハードカバー本を叩きこんだ。

「ぐえっ」

 およそ美少女キャラに似つかわしくない呻きを漏らすと、朝比奈さんは体の自由すらきかなくなったのか、床に倒れ込んだ。長門は無言で立ち上がると、本を大上段に振り上げ――振り降ろそうとしたが腕は動かなかった。なぜなら、その時には流石に俺も静観している場合ではないと思って部室に入り、振り上げられた長門の手首を掴んだからだ。そのまま放っておいたら、間違いなく朝比奈さんの頭には今頃スティーブン・キング著『デッド・ゾーン』ハードカバー版(回想のビュイックはもう読み終わったらしい)がゾンビの頭の斧みたいに突き刺さっていたことだろう。

「落ち着け、長門!」

「放して、キョン君。こいつはここで殺さなきゃだめ」

 俺の拘束を全力で振りほどこうとする長門だったが、それを許す訳にはいかない。長門の気持ちも十分良く分かる。やってもない悪事でネチネチ言い寄られ、挙句この暴挙。本当に朝比奈さんはどうしてしまったのだろうか。

 だが、こんな方法じゃ根本的には何も解決しない。もっとちゃんとした形で――

 “甘いですね”

 ん、何だ? 急にどっかから声が……今流行りの天国からの手紙か? 俺の両親はまだ元気なはずだが……

 “違いますよ、僕ですよ、僕。古泉一樹です”

 な、急に何なんだ、これは?

 “俗に言う、テレパシー、というやつですよ。今、僕はあなたの脳に直接メッセージを送り込んでいる”

「大丈夫ですか、朝比奈さん」古泉が駆け寄る。

「ふぇ……」

「これは酷い……」

 テレパシー? お前、そんなことできたのか? だいたい、能力は閉鎖空間内だけじゃなかったのかよ。

「早く病院で診てもらわないと……」

 “なぜか最近、急にいろんな超能力が僕に備わってしまったんです”

 ハルヒが望んだから?

 “詳しい原因はわかりませんが、おそらくそうでしょう。もちろん、能力を涼宮さん本人の前で使わないというのは変わりませんが”

 じゃあ、どうして今頃テレパシーなんかしてきたんだよ。

 “二つあります。まず、このお二人の決着はそう簡単にはつきません。なぜかは後で詳しく説明しましょう”

 んで、もう一つは何なんだよ。

 “もう一つは……さっきのことを内密にお願いできませんか?”

 さっきって……煙草のことか?

 “そうです。バレたら色々まずいですし、僕としても吸いたくて吸っている訳ではないんです。いわば、超能力の副作用的なものでして”

 分かった。内緒にしておく。

 “ありがとうございます”

 お前に感謝されても、ちっともうれしくないね。

「キョン君、放して」

 そういえば古泉とテレパシーしている間、ずっと長門の手首を掴んだままだった。

「放すから、朝比奈さんにこれ以上何もしないと約束してくれ」

「分かった、約束する」

 俺の頭には、手を離した瞬間、ハードカバー本を振り下ろす光景がよぎったが――

 “大丈夫です。長門さんはあなたに対して決して嘘をついたりはしませんから”

 勝手に人の頭に入ってくるな。それにどうしてそんなことがお前に分かるんだよ。

 “これも詳しくは後で説明しますが、長門さんはあなたに対して特別な感情を抱いている”

 とにかく、俺は長門を信用して手を離した。

 古泉の言った通り、長門はゆっくりと手を下すと机の上にハードカバー本を置いた。

「痛いですぅ……助けてくださぁい……」

「自業自得」

 一遍の慈悲もなかった。

「とにかく、早く治療しないと……最悪の場合失明ということも……」

 “すいません”

 何だ?

 “長門さんに、情報操作で朝比奈さんの傷を治してくれるように頼んでくれませんか?”

 それは猫に魚の手術を頼むようなもんだ。それより早く医者に診て貰おう。

 “さっきお話したとおり、長門さんはあなたに特別な感情を抱いています。あなたの言うことなら、さっきのようにすぐに聞いてくれるはずです。それに、この怪我……現代医療では完治は厳しいでしょう。これは同時に朝比奈さんのためでもあるんです”

「とにかく、一刻を争う事態です」

 古泉が声にだしてそう言ったのは、長門にも聞かせるためだったのだろうか。

「助けて……くだらぁい……」

 もはや考えている時間などなかった。確かに、長門なら何とかしてくれそうだ。破壊された教室を一瞬で元に戻し、野球大会でホームランバットを製造した長門なら、朝比奈さんの眼の治療くらいどうってことなさそうだ。

「長門、気が進まないことだとは思うんだが、朝比奈さんの傷、お前の情報操作でチャチャッと治してやってくれないか。もう十分苦しんだし、反省している」

「でも、わたしの心の傷は治らない。たとえどんな情報操作をしても」

「う……」

 俺は言葉に詰まってしまった。確かにそうだが、いくら自業自得とはいえ朝比奈さんも可哀想だった。

「条件がある」

 長門の方から条件を持ち出すなんて珍しい。

 でも、それは俺に何とか出来ることなのか?まさか、俺の目を引き換えにとか、寿命が半分になるとか、そんなんじゃないだろうな……

「キスして」

「え?」

 俺はまたもや返答に窮した。これは本気で言っているのか?この非常事態において……

 “いっそ抱いたらどうですか?”

 うるせえ。お前は少し黙ってろ。他に方法はないのかよ……

 “一応言っておくと、長門さんのあなたに対する感情は90%の好奇心と10%のエロスが入り混じったようなものですね”

 何か納得いかねえ……

 “まあ、長門さんもようやく人間らしくなってきたということで、何とか条件を聞いてあげてくれませんか?”

「キョン君がキスしてくれたら……わたしの心も癒されるから……」(ちょっと顔を赤らめる)

 くっそー、しょうもない知恵ばっかり身につけやがってアバズレ宇宙人め……小説と現実の世界をごっちゃにしてやがる。

 “早くしてください”

 はいはい、やればいいんだろ、やれば!

 “あなたも素直じゃないですねえ”

 うるさい!とにかく黙ってろ!

 俺は長門の肩に両手を置き、目線を合わせた。

「本当に、朝比奈さんを治してくれるんだな?」

「安心して」

 後で考えると、『約束を守るから安心して』とも『ただのキスだから安心して』とも、両方の意味で取れる意味深な言葉だと思った。

「痛いですぅ……」

 苦痛に呻く朝比奈さん。

 早くしなければ。

 俺は覚悟を決めると、息を吸い込んでから一気に長門を引き寄せてそっと唇を重ねた。

 え?どんな感触だったか、て? それは教えない。どうして、俺のことを変態豚とかおっぱい星人とか、挙句に覗き魔呼ばわりするやつに教えなければならんのだ? これは当然の報いだ。自業自得だ。

「朝比奈さん、大丈夫ですか? 朝比奈さん」

 古泉の呼びかけに対し、しばらくは何の反応も見せなかった朝比奈さんだったが、すぐに眼の痛みが消えたことに気づいたようだ。

「あれ? 急に痛みが……それに、視力も戻ってる……」

 良かった。まだ問題は多く残っているが、これで問題解決の土俵には立てたわけだ。俺が二人をどうやって仲直りさせようかと考え始めたときだ。

「へえ、なかなか上手じゃない。どこで覚えたの、そんなこと」

 声をする方を眺めてみると、そこにはSOS団暴君であるハルヒ閣下がじっとこちらをご覧になっているではないか。

「覚悟は出来てるわよね? 変態豚ヤロウ」

 “大丈夫ですよ。いざという時は、また長門さんに何とかしてもらいましょう。アハハハハ”

 笑ってないでどうにかしてくれ!



 そうやって俺の平穏な学園生活は、このときから音を立てて急速に崩れ去っていった。ハルヒがSOS団を作ってから少々のことは覚悟していた。これを読んでいる君たちは、きっとハルヒが巻き起こすドタバタでちょっと不思議で爽やかで青春な冒険を期待していることだと思う。しかし残念ながら、これから俺が話すのはそういう『どこか非日常的な学園コメディ』とは少し違うようだ。ここで繰り広げられるのは、ハルヒ(ファック)でミクル(シット)でユキ(ビッチ)な学園暴力闘争の断片、それも不完全で不格好な断片にすぎない。それでも続きを読みたいと言うなら、どうぞ、先へ進んでもらって結構だ。俺の見てきたことを教えて差し上げよう。さあ、ついて来てくれたまえ。

 ああ、そういえばあいさつを忘れていたな。

 ようこそ、我らがSOS団へ。

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