涼宮ハルヒの絶望

松本優佑

第1話

 放課後、俺はいつもと同じくたいした活動もしていないSOS団の部室で、いつもと同じく好青年古泉一樹と将棋をしていた。ハルヒが部室にいない時はこうやって古泉とゲームをしていることが多く、最近のブームはもっぱら将棋だった。ブームといっても、俺と古泉、二人きりの寂しいブームではあったが。

古泉の中飛車が、中央を突破し俺の美濃囲いの陣形を崩そうとした頃だったと思う。

「お茶がはいりましたよ~」

 子猫が喋り出したかのような声でそう言いながらいつもと同じくお茶を運んできたのは朝比奈ミクルさんだ。

 俺はいつもと同じく「ありがとう、朝比奈さん」(俺のため『だけに』こんなおいしいお茶を淹れてくれて)と言おうとしたが、そのセリフは朝比奈さんがどうやったのか知らないが、摩擦力十分の平面上で足を滑らせたことによって「ありがと――までで遮られてしまうこととなった。

「あ、ごめんなさい……すぐにタオル取ってきま――

 立ちあがろうとした途端、今度はお茶で濡れた床で足を滑らせて転んだ。メイド姿の巨乳美少女が服を濡らしながら床に倒れている光景など、AVや同人誌以外の世界ではそうそうお眼にかかれるものではない。俺はこの幸運をもたらしてくれた神に心底感謝した。こんな朝比奈さんが見れるのなら、昨日洗濯したばかりの制服にお茶をかけられようが美濃囲いが水攻めにされようがお茶が熱くてちょっと火傷しようがそれは正当な対価というものだろう。お茶が灯油だったとしても許す。神が許さなくても、俺が全力で許す。

 古泉が俺のイスに座ってなくてよかった。もし古泉のイスに俺が座っていたら、こんな幸運には巡り合えなかったから。

「これ、使って」

 今までずっと『回想のビュイック8』から目を離さなかった長門が、俺にハンカチを差し出した。

「そんなに気を使っていただかなくても……」

 と言いつつ、内心では狂喜乱舞する俺。まあ、普段からハルヒのわがままに付き合わされている身分なので、たまにはこういうボーナスがあってもいいと思う。

 「はやく拭かないとお茶がしみ込んじゃいますから……」

 健気な朝比奈さんは立ち上がって俺の代わりに長門の差し出したハンカチを取ると、すぐに俺の制服の黒くなった部分を拭き始めた。腕が、朝比奈さんの胸の双子山に何度も触れそうになった。

 「ではこの勝負は僕の勝ちということで、もう一度初めから指し直しますか」

 古泉の勝ちなのが気に入らなかったが、そんなことはもはやどうでもよかった。なぜか、俺の心の中は勝利したかのような快感で満ち溢れていたからだ。

 「なぁ~にやってるの、ミ・ク・ルちゃん!」

 ハルヒが突然部室に入って来た。機嫌がよさそうだったが、俺と朝比奈さんが楽しそうに戯れている光景を見て、その表情は一変した。

「キョンなんか雑巾で十分よ!」

 いきなり俺の顔に掃除用の雑巾を押し付けてきた。

「待て、そこは濡れてな……うお!」

 容赦なく押しつけられる雑巾に俺は声を詰まらせた。やばい。このままだと呼吸もできなくなってしまう。

「アハハハ、お二人とも楽しそうですね」

 古泉が勝ち誇ったような笑顔でそう言った。いや、もちろん目は雑巾で隠されていたから実際に顔が見えた訳ではなかったが、俺の透視能力では雑巾のシミよりハッキリとそれが見えていた。



 窒息死を免れた後、いつも通りマッタリとした時間が流れ下校時間も間もなくという頃――古泉は将棋で俺をコテンパンに叩きのめし(古泉は本当に将棋が強かった。予知能力でもあるんじゃないのか?)、「なかなか白熱した勝負でした。今日はもういい時間なので、そろそろ帰らせてもらいますね」と言い残すとさっきの憎たらしい笑顔をぶら下げて颯爽と部室を後にしていった。

 ハルヒは……おそらくトイレにでも行っていたのだろうか、古泉が帰宅した時は部室にいなかった。

 部室には、窓から差し込む夕日で三つの長い影が壁にまで達していた。ひとつは俺。ひとつは朝比奈さん。ひとつは長門ユキ。

 ずっとこの状況が続くものだと俺は思って疑わなかったし、むしろそれを望んでいたかもしれない。ずっとハルヒのわがままに付き合わされるのだろうが、それはそれでいいような気がした。ここにいる皆とのかけがえのない思い出は、今は何でもないようでいて、きっと一生の……ワインというのがふさわしいかもしれない。時間が経つほど価値を増してゆく宝物だ。もちろん、俺は未成年なのでワインなど飲んだこともなかったのだが、とにかく、そうなるであろうことをこの時は信じながら、朝比奈さんが淹れ直してくれたお茶を一口すすった。

「長門さん……」

 朝比奈さんが目の前に立ってそう問いかけても、長門はほとんどページの残ってない『回想のビュイック8』から目をそらすこともなく

「何?」

 とだけ短く答えた。そういや、この本は確かスティーブン・キングという人が作者らしい。

「ひとつききたいことがあるんです……」

この人、海外では超売れっ子作家らしいが、俺は海外の小説なんて特に興味ないので長門に教えられなければ一生知らないままだったかもしれない……日本の小説でも大して興味がある訳ではないのに。名前に“キング”が入っているが、別に王侯貴族とはなんの関係も無いことだけは長門に聞いて知っていた。

「それと、質問する前に、二つだけ約束してもらっていいですか?」

「何?」

 窓から差し込む夕日に照らされている二人の美少女……それだけで古泉に将棋でボコボコにされた傷は癒され、ハルヒに雑巾で痛めつけられた眼球も癒されてゆく。

「まず、わたしの質問に正直に答えてください。それと、もう一つは、もしかしたらわたし、すごく失礼なことを言ってしまうかもしれないです……だけど、決して悪気があってそう言うわけじゃないんです」

「分かった。言って」

 最後のお茶をすする。お茶を飲み干した後に見えた湯飲みの底は、今でも色鮮やかなまま記憶の片隅にへばり付いている。この後、世界が大きく変わってしまうというのに――俺はこれからもいつもと同じ日常が続くと思いこんで、呑気にお茶をすすっていたのだ。

「本当に正直に答えてくださいね」

「早く言って」

 長門の言葉に珍しく感情が現れたように聞こえた。

「さっきお茶を運んでいるとき、わたしに足をひっかけましたよね?」

 一瞬、地獄が凍りついたような静けさが部室に漂った。『足をひっかける』?長門が?

 確かに、位置的にそれは十分可能だったが、それを言えば朝比奈さんが何の突起もない平面上で転ぶ確率も十分ある訳でして――

「そんなことはしていない」

 長門は俺の予想通りそう答えた。そりゃそうだ。長門は無口だが決してそんな悪いことをするような人間……ではないが、とにかくそんなことは絶対にしない。むしろ、ハルヒの方がやりそうなことだぞ、それは。もちろん、ハルヒはそのときまだ部室に来てなかった。

「そんなことをしても何の利益にもならないし、そもそも身に覚えが――

「どうしてそんな見え透いた嘘をつくんですか?」

 朝比奈さんは長門の無実の訴えを途中で容赦なく遮った。

「もう、あなたしかいないんですよ。ふふ、宇宙人って嘘をつくのが下手ですね。いつもは無口な長門さんがこんなときだけ必死になって否定して。すぐにわかりました」

「私は本当に足なんてひっかけてない。信じて」

 長門の訴えは、半分はこの状況を静観している俺に向けられていたのかもしれない。俺は止めようと思った。きっと、朝比奈さんは普段からハルヒのおもちゃにされてストレスが溜まっていたのだろう。だからこんな風に長門に当たっているだけだ――この時は無邪気にもそう考えていた。

「しかもなんですか、あれ。ハンカチなんか取り出して。見え見えのアリバイ工作に引っかかるとでも?」

 アリバイとは現場不在証明のことで、この場合は使い方を間違っている。朝比奈さんが言いたかったのは『疑いをそらすための偽装工作』あたりだろう。

「違う。あれはキョン君が火傷しそうだったから――

「宇宙からわざわざ友愛の精神を講義しに来るなんて、人のいい宇宙人なんですね。そうやって必死に否定するから嘘がばれるんですよ」

 夕日を浴びて真っ赤になった朝比奈さんがニコッと笑った。

 もう、ここらへんにしとこう。憎たらしい笑顔は古泉だけでたくさんだ。俺は空になった湯飲みを机の上に置くと、二人を止めるために立ちあがった。

「ただいま~! あれ、三人ともどうしたの? そんなところでボーッとしちゃってさあ」

 ハルヒがタイミングよく帰ってきてくれた。おかげで、この地獄のような修羅場を何とか切り抜けることができそうだ。

「さあ、ミクルちゃんも着替えて着替えて! 今から帰る準備をしなきゃね」

 俺は黙って部室を後にした。

 また、明日になればいつも通りの日常が始まるのだろう。いや、そうに決まっているさ。

 朝比奈さんもまたいつも通りに戻って、世界は同じように回り続ける――そうに決まっているさ。決まっているはずなんだ。

 帰りの坂道を下りながら、そんなことを自分に言い聞かせていた。

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