16/23.冬
島の秋が過ぎ、とうとう冬が来た。
海が荒れ、ボートで海へ出られない日が続く。波で
「悪りい、あんま獲れねえや」
1日外に出て集めた食料が、それでも1日分の食事に足りず、ウォードはそう言って謝ることが多くなった。もちろん秋の間の備蓄は十分で、まず飢え死にの心配はないのだが、それでも食卓に上がる料理はスープ、それもだんだんと薄めになっていく。
そしてウォードとミーマの間にも、沈黙が流れることが増えた。
2人とも明るく振舞いはするが、失ったものへの傷や痛みが癒えたわけではない。
夜、悪夢にうなされ、夢の中で涙にくれる。また、お互いに相手のつらい寝言や、泣きながら飛び起きる様子を何度も見ている。
「ルールー……!」
「チーシェル……!」
お互いの子の名前を呼びながら同時に飛び起き、バツの悪い顔を見合わせたことさえあった。
特にウォードは冬に入ってから、よく眠れなくなったようだ。気温が下がり、日照量も減少する冬に、精神のバランスを崩す症状は、今で言う、
『季節性の
で、あったかもしれない。
活発で陽性なウォードに限って、まさか
しかし責任感の強いウォードが、食料集めという仕事が
加えて、ミーマやマヒトに決して弱みを見せようとしない、そのプライドも。
(やっぱり線を引かれてる)
ミーマはウォードの態度に、それを感じている。
無類のイクメンぶりを発揮し、ミーマを手伝ってくれる彼だが、それにしても、
『あくまでマヒトのため』
というスタンスを崩さない。ミーマ自身に寄りかかることもなく、また寄りかからせようともしないのだ。
しかもミーマは、このウォードのイクメン家庭人ぶりが、決して彼だけの資質ではないことにも気づいていた。
(……奥様の教育よね、これは)
同じ女として、どうしても気づいてしまうのだ。
本来なら、ろくに家庭なぞ
愛情豊かで優しく、しかし意志強固で辛抱強い。妻として、あくまで夫を立て、といって自分の望みも我慢せず、知恵と真心をふんだんに駆使して、良き家庭を作り上げる。
『賢夫人』
まさに、そう呼ぶにふさわしい女性の姿が、ウォードの向こうに透けて見える。
(これは私が選び、私が育てた男です)
そう言われている気がするのだ。
悔しさ、そして自分が女として負けている、という卑下の心も当然ある。
だがそれよりも、ミーマには、
(私はズルをして、得をしている)
という気持ちの方が大きい。
ミーマが、島の生活で感じている快適さも、頼もしさも、なんなら楽しさも、本来はミーマのものではない。今は亡きその
要は他の女性が育てた男の、美味しいところだけをつまみ食いしているだけなのだ。それがミーマに、
(いいのかなあ……?)
という疑問を抱かせる。彼女の心を、どこか宙ぶらりんのままにさせているのだ。
が、日に日に弱っていくウォードを見るにつけ、
(いつまでもこのまま、ってわけにはいかない)
ミーマ自身も、腹をくくることに決めた。
縫いぐるみに話しかける乙女な内面を持つ半面、ミーマという女性は基本的に実務派だ。小麦粉がなければヤマイモ、肉がなければ魚、砂糖がなければ干しガキ、ハチミツで料理を作る。
『無いからできません派』ではなく、『あるものだけで何とかするぞ派』なのだ。
(認めよう)
ミーマは腹をくくる。
ウォードの亡妻・キャルルは、きっと素敵な女性だった。自分のように汚れた身体と、半狂いの心と、血まみれの手しか持たない女とは、まるで似ても似つかない賢婦人だったのだ。
(でも、今は)
そう、今この時、この島にいるのはミーマと、ウォードと、マヒトだけ。そしてお互いがお互いを、もはや疑問の余地もないほどに必要としている。
ウォードにはマヒトが、マヒトにはミーマが、ミーマにはウォードが、
(どうしても必要なのだ)
揺るがない前提ができた。
早朝、まだ外は暗く、ひゅうひゅうと冷たい風の音だけが響く中、大きく燃える暖炉の前でマヒトに乳を含ませながら、
(では、私になにができるだろう?)
ミーマは考える。そして。
朝。
中身の具はともかく、量と熱量だけはたっぷりあるスープを朝食に平らげ、いつもの食料集めに出ようとするウォードを、
「今日は私に付き合って」
ミーマが引き止めた。
そして、今まで放置していた寝所棟を開け、中に詰め込んであった二段ベッドをすべて外に運び出し、ざっと掃除をする。
「意外と広いな」
ウォードの感想通り、寝所棟は体育館、とまではいかないが、ちょっとした剣道場程度の広さがあった。だが暖炉がないため、屋内でも温度は外と同じ。2人の息が白い。
隅っこにマヒトを入れた竹籠。寒くないよう毛布でぐるぐる巻きにした上、太い竹の筒にたっぷりと熱湯を入れ、厚く布巻きにした湯たんぽを添える。
その時には既に、ウォードにもミーマの意図が分かっていた。
ミーマの手には、板状に削った細長い竹に、布を厚くかぶせた竹刀。
ウォードの盾と斧も、いつ作ったのか毛布製の厚いカバーが被せてある。
ミーマの足はブーツ。ウォードはサンダル。
「兜はいらねえか?」
「お好きに」
ウォードの都合を無視し、ミーマが、かっ、と靴底を鳴らして竹刀を構える。手の甲は上。親指と人差指を支点に、手首で刀身の重さを支えるいつものスタイル。
尻尾をくわえるルーティンはなし。本気ではない。
「
ウォードが顔をしかめる。気合声が終わる前に、ミーマの竹刀がおでこのど真ん中を撃ち抜いたのだ。ノーモーションからの飛び込み突き、真剣なら即死。
「……剣を目で追っちゃ駄目。絶対に追いつけない。体全体で感じるの」
ミーマが構える。手の甲は上。
「
ウォードが、今度は大盾をぐっ、と前面に押し出してくる。ミーマの視界の大半が盾でふさがれ、剣筋が大幅に限定される。
(これは悪くない……でも!)
ミーマの脚がステップを踏む。彼女の、いや
一見すると、ポンポンと跳び跳ねるようなステップの方が俊敏に見えるが、ミーマの動きには無駄な上下動がなく、ゆえに最適・最短距離を正確に算出して動くため、結果として敵を殺すのは、こちらの方が速い。
「?!」
ミーマが一瞬、盾の下に踏み込み足を見せておき、次の瞬間、右方向へ移動。盾の上から剣を放り込む『
ぴしっ!
盾をくくりつけたウォードの左腕を、ミーマの竹刀が上から撃ち抜く。
轟!
それをものともせず、空気を引き裂いて大盾が突進してくる。しかしミーマが速い。
きゅ、きゅきゅ!
両足の
ぱん!
盾の突進を蝶が舞うようにかわし、逆にウォードの大盾の真下を潜る『
ふたたび左手首を痛打。もし真剣なら、筋肉への損傷と出血で、もう盾を上げることもできまい。
きゅきゅ、きゅっ!
ミーマのブーツが、寝所棟の床に張られた石畳を
「まだまだ」
「
ウォードが前進、再び大盾をミーマに肉薄させてくる。『
その意味で、膨大なパワーとスタミナを有するウォードが、ひたすら前進というスタイルを取ることには、実は合理性がある。
しかし。
きゅっ!
ミーマの足さばき、そして剣さばきから生み出される神速の回避と攻撃には、正直まるで効果がない。
それからたっぷり1時間、ウォードはミーマの剣に
マヒトの泣き声で、やっと中断、休息になった。オムツと授乳の時間だ。
「はっ、はっ……」
さすがのウォードも息が上がっている。全身の毛を
対するミーマは息すら切らさず、平然と立ったままマヒトに授乳。
「はぁ……はぁ、
石の床にあぐらをかいたウォードがボヤく。だがミーマはにこりともせず、
「
ウォードを見つめ、宣言する。
「そして春になったら、あの
「……む」
ウォードの顔つきが変わる。
「あの
「だから今度は自分で来る、ってか? なんのために?」
「
ミーマはずばり、と言う。
「あのバケモンの力で国を奪って、王様になろうってのか」
「王位どころか、世界すら奪えるかもしれない」
「ああ……」
ウォードが沈黙する。
「だからこそ、あの
ミーマが現状と、対応すべき問題をひとつずつ提示する。ウォードもうなずく。
「だが俺では到底、その女に勝てん。そういうことだな?」
「そう。そして私でも勝てない」
1時間、わざわざ無意味にウォードを翻弄したわけではない。
「じゃあ、どうする?」
「力を貸してほしい。私も力を貸す」
ミーマの言葉に、ウォードがよいしょ、と立ち上がる。
「共闘、ってわけだな。……敵の戦力は?」
「あの女が動かせるのは、あの
「ふむ」
ウォードが腕を組む。昨日までの彼とは、顔つきが明らかに変わっている。それはまぎれもない、
「森の中に、罠を張れそうな場所がいくつかある。敵がその人数なら、最後は籠城って手もあるな」
「高所を抑えましょう。島の頂上に
「ああ、丸太の
ウォードの声に力が
「あの神殿とやらはどうする? 壊しとくか?」
「でも、あれ自体が『封印』だとも言ってたし、現に
「だな。だけど放っとくってのもな……うし、手は打っとくかよ」
ウォードの全身から立ち上る、この陽性の熱気。鬱も気落ちもどこへやら、ミーマには突如、眼の前に噴火寸前の火山が出現したようにさえ感じる。
(成功……!)
ミーマは内心でガッツポーズを決めたい気分だった。
正直なところ、本当に
イクメンもよし、家庭人もありがたい。毎日食料を探し、ミーマやマヒトの腹を満たすことも大切だ。
だがやはり大猿ウォード、せめて半身は
(こちら側の彼を、お貸し下さい)
ミーマが心の中で、今は亡きキャルルに、そっと断りを入れる。だが決してキャルルに対する対抗心や、まして嫉妬からではない。
(どうかお願いします。私とこの子には、彼の力が必要なのです)
その気持ちは、いっそ敬虔とさえいえただろう。
授乳を終え、また眠ってしまったマヒトを元の籠に戻す。
「でも、やっぱり最大の障害はあの
「言うじゃねえか、おい」
ウォードがにやり。
「だから私と貴方の同時攻撃で、あの
「もろはうち、ってなんだ?」
きょとんとした顔のゴリラ、自分の技を知らなかった。
「知らずに使ってたの?!」
「おう。技の名前とか、そういう細けえこと教えてくれねーんだよ、リュウグウのセンセイ」
聞けば
『お前にはコレだ、大猿』
と、たった1つ、『
「ま、それで負けたことねえから、名前なんかどうでもいいけどよ」
「……」
どんな師匠かは知らないが、師匠のせいだけでもない気がするミーマである。
「まあいいわ。とにかく構えて」
ウォードが『
(あの女の視点……)
ミーマが、自分の中に
そこからウォードの構えが、どう見えるか。
「……盾をもう少し下げて、斧もあと2センチ下げる」
「あと5センチ、腰落とせる?」
「こうか?」
外見は雑に見えるが、ウォードの動きは意外にも精密だ。
(よし)
今や
「その姿勢でいいわ。……撃って!」
ぶぉん!!
ミーマの合図と同時。怪鳥が翼を広げるように、大盾と戦斧が前後へ振り抜かれる。予備動作なし、ウォードの巨体が突然、爆発を起こしたかのような攻撃。寝所棟の床をキレイに掃き清め、水を打っていなければ、この爆風だけで大変なことになっただろう。
「だめ。直前に盾が揺れた。もう一度構えて……盾が高い。よし、撃って!」
ぶぉん!
「うん、今の感じでもう一度!」
ぶん!
「威力が落ちた。もう限界? まだよね?」
「
ウォードが叫ぶ。彼とてひとかどの武人だが、こうして黙ってミーマのしごきを受けているのは、彼なりに思うところがあるのだろう。
「そのままで、あと10回! いち!に!さん!し!」
ミーマ師匠の掛け声が響き、同時にぶん、ぶぉん、という爆風が寝所棟の中で荒れ狂う。汗と湯気、そして熱気が、いつしか寝所棟内の気温さえ上げている。
ミーマとウォード、真剣勝負の視線が火花になる。
「……10! 構えを解かない! 10秒休憩して再開」
「
ウォードが息を整える。あっという間の10秒。その間も、2人の視線は外れない。
「はい、いち!」
ぶん!
「2!」
ぶん! と、左右に大きく振り抜かれた大盾と戦斧が、ふたたびウォードの胸の前に畳まれる、その瞬間、
つ、とミーマの身体がウォードの間合いに入った。手に竹刀はなく、そのままウォードの腕の中へ。
2人の視線は外れない。
「……3。私にキスして」
ほんの一瞬の間。
「……ん」
「ん」
ウォードの唇が、ミーマのそれに重なった。
「4。離さないで」
どん、とウォードの右手から戦斧が落ち、ミーマの手で大盾も外される。
「5。もう一度、キスを」
2人の唇が、まるで溶け合うように深く。そして、
「6……」
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