15/23.母性

 さて、彼らに与えられた幸運の、最後のひとつ。

 それは意外にもウォードという男が、今で言う『イクメン』だったことだ。

 ミーマという女性の名誉を傷つける、それを覚悟で事実を記そう。

 実は『マヒトを育てる』と宣言した翌日、ミーマは早くも、

 (言うんじゃなかった……)

 と、自分の決断を後悔しはじめていた。

 しかし、どうか彼女に幻滅することなく、もう少しだけ話を聞いてほしい。

 今の立派な宿舎を見つける前、まだ決まった住処もなく、朽ちて削れた大木のうろに入り込み、風雨を避けるしかなかった頃だ。食物こそ豊富だが、山火事が恐ろしいので、余り大きな火をけず、

 (寒い!)

 マヒトを抱いて、必死に夜の寒さをこらえていた。

 森が豊かなことの裏返しで、やたらと虫がいる。蚊だのハチだのアブだの、クモだのムカデだの、有毒昆虫も普通に生息しているし、蛇も出る。

 だがそこまではいい。ミーマも戦士だ、寒さも虫も、我慢しろというなら、する。

 それより一番キツいのは、

 (眠れない……!)

 これだ。

 既に一度書いたが、マヒトのような新生児は、とにかく授乳間隔が短い。1日1時間ごとに12回は普通の話で、そうすると事実上、になる。眠っても、眠りが深くなる前に次の授乳時間が来てしまうのだ。

 しかも赤子が泣くのは授乳だけではない。

 排泄でオムツが汚れても泣く。そのほか、特に理由がなくても泣く。ところかまわず虫がウロウロしていれば、なおさらのことだ。

 (こういう拷問あったわよね、確か)

 ミーマの記憶は確かで、受刑者に断続的な刺激を与えて不眠にする拷問は存在する。脳の判断力が極端に鈍化し、最後には発狂や死亡することもある。

 鐘撞リンガーであるミーマは、戦闘中どんな場所でも、短時間であっても睡眠をとる訓練を受けているし、1日や2日なら不眠不休で戦うことだって可能だ。

 だがマヒトの育児は、

 どれほど精強な戦士でも、ろくろく眠れない状況下では、ものの数日と保ちはしない。それを考えれば、を先読みしたミーマの絶望は、むしろ当然の話なのだ。

 (なんで私がこんな目に)

 そんな思考が頭をかすめ、同時に、そんなことを考える自分を嫌悪する。

 (この子が可愛くないの?)

 自答する。

 もちろん、マヒトは可愛い。

 最初に卵から生まれてきたのを見たときからずっと、本当はそう思っていた。

 全身にほとんど体毛がなく、練って固めたクリームのように白く滑らかで、もちもち、ふにふにと柔らかい。真っ黒な瞳は黒曜石のようにキラキラして、くりくりとよく動く。顔に体毛がないのは猿殻サルガラに似ているが、それよりさらに毛が少なく、そのため表情がとても豊かなのも素敵だ。

 ミーマの顔を見て、ちょこっと唇を動かしただけで、

 (笑ってる)

 と分かるのだ。

 それを見ているだけで、泣きそうなほど幸せな気分になれる。いや、マヒトの重みひとつ、ぬくもりひとつ感じられるだけで、どれだけミーマの心が満たされるか知れない。

 なのに、、なぜこんなに辛いのか。

 (ひょっとして、私には母性がないのか?)

 そんな疑いさえ浮かんでくる。

 誤解のないよう先に書いておくが、ミーマは決して母性に欠けてなどいないし、まして異常者なんかではない。むしろ逆、誰かを愛したいと切に願い続け、身を切り裂かれるような苦難を越えて、ようやくその願いにたどり着こうとする、優しく、そして強い女性だ。

 いや、そんな特殊な事情を抜きにしても、ごく普通に母親になる資格を持った、どこにでもいる女性なのである。

 それでも悩む。それでも苦しむ。

 夜中に泣きわめくマヒトの声にたたき起こされ、心臓の鼓動を不快に乱されながら、目やにでバリバリの目をこすり、

 (いっそあの時、逃げていればよかった)

 マヒトを置き去りにし、ウォードに殺させていれば。いや、むしろ自分ならはりを使って、苦しませることなく……

 (だめ!)

 暗く、しかし異様なほどに甘美な妄想を振り払おうとする。だが物騒な衝動を一時的に消しても、不安は去らない。

 (私が殺さないとしても、もし母乳が出なくなったら……?)

 この島にはミーマ以外、マヒトに母乳を与えられる者はいない。だから、ミーマの母乳が止まれば、どうしようもなくマヒトは死んでしまう。その時、自分は?

 (その時は、今度こそ私も死んであげよう……ああ、でもそうなったら、チーシェルになんて言えばいいのだろう)

 、とでも言えばいいのだろうか。それで許してもらえるだろうか。

 怖い考えばかりが浮かんでくる。

 マヒトの身体を強く抱きしめ、その温もりを自分の心の温もりへと換えようとする。だが、そうでもしなければ心の安定が保てない、という点で、既に自分はヤバいんじゃないか。

 (私はヤバい……)

 その思いはに移っても変わらなかった。生活が快適になったからといって、マヒトのために眠れない、その状況は同じだ。新たなや、充実の調理設備は、もちろんありがたかった。だが仕方ないとはいえ、そのためにミーマの仕事も増える。掃除に料理、裁縫……。

 (……無理!)

 逆境に耐えることに関しては、まさにのはずのミーマでさえ、この有様である。逃げ場もなく追い込まれた彼女の心の城塞は、その地盤から崩壊寸前となっていた。

 そんな時。

 そんなミーマを救ったのが、意外なことにウォードのだったのだ。

 といっても、別に大したことをしたわけではない。ある日、昼食を食べた終えた午後、

 「マヒト、俺に預けなよ」

 そう言うと、革の胸甲を着けてベルトをゆるめ、胸との間にできた空間にマヒトを放り込むと、オムツの換えを持つ。

 「腹減って泣き出したら帰る。それまで好きにしてるといいや」

 それだけ言うと、家を出ていってしまった。 

 ただこれだけ。

 たったこれだけのことだったが、しかし結果、これがミーマを救うことになる。

 家の中が、しん、と静まり返る。裏の湧き水が流れる音と、少し離れた森で、鳥が盛んに鳴いているのが聞こえる。

 (マヒトがいない)

 それを実感したミーマの緊張がぷつん、と切れた。ふらふらと暖炉の前にうずくまると、そのまま崩れるように倒れ、眠りに落ちた。

 夢も見ない。悪夢も、一ノ鐘ファーストリンガーの《レギュラー番組》さえ映らない眠り。

 (……ん)

 目を覚ます。どれぐらい眠ったろうか。しかし、大した時間ではないはずだ。

 

 あああああああー! ああああああー!!


 家の外から、マヒトの泣き声が聞こえた。石切り場の谷に、何度も木霊が帰る。また、いつもの繰り返しだ。

 だが床から身体を起こし、立ち上がろうとして気づく。

 (……あれ?)

 身体が、頭が、少しだけ軽い。脳と血液の代わりに、が詰まったみたいだった頭の奥が、ぐらいまで回復している。

 深呼吸をひとつ。スッキリシャッキリ、とはさすがに行かないが、

 「おーい」

 ドアを開けながら、ウォードが呼びかけてくる。手には、ひとつかみほどのキノコが入った桶。家を空けた間の収穫は、時間が短いだけに少なめだ。

 「マヒト、腹減ったってさ」

 胸からマヒトを出し、ミーマに渡すと、自分はさっさと裏口へ。何をするのかと見ていたら、なんとオムツを洗い始めた。途中でマヒトが汚したのだ。

 洗い場にうずくまった大きな背中がこちょこちょと動き、最後にぎゅう、と絞る。表の物干し場にぱんぱん、と広げて干し、代わりに乾いたオムツを1枚取る。

 戻るころには、ミーマの授乳も終わっていて、

 「ほい」

 マヒトを受け取って得意のゲップをさせ、また胸に放り込む。

 「じゃな」

 出ていった。どこへ行くとも、ミーマに何をしろ、とも言わない。といって別に優しい言葉も、ねぎらいもない。

  「……」

 また1人になったミーマが、今度はちゃんと毛布を被ってもう一眠りすると、起きたころには夕暮れが近かった。

 あわてて大鍋を持って裏へ出、鍋に水を張って、干したキノコを放り込む。今はまだ干して日が浅いからイマイチだが、そのうち十分な出汁が取れるようになるだろう。

 ウォードが採ってきたキノコはぶつ切りにして鍋に入れ、干し魚と海藻を放り込む。臭み抜きに適当なハーブを加え、煮立ったら藻塩とショウガで味を整えるのだ。

 (もうすぐ、2人が帰ってくる)

 ウォードの獲物が魚なら、オーブンで塩焼き。貝なら鍋に加えてもいい。エビ・カニだったらどうしよう。ウォードのリクエストを聞いてみようか。

 ついでに冷たい水で思い切り顔を洗う。頭の中のが、さらに程度まで復活した。

 受水槽の水に顔を映し、思いついて笑顔を作ってみる。

 に。

 「……よし!」

 笑顔が、一瞬で戦士の顔になる。失いかけていた闘志が、熾火となって心の奥を揺らす。

 家のドアが開く音。

 さあ迎撃用意。

 「おーい、帰ったぜ」

 「おかえりなさい」

 ミーマの迎撃は笑顔。作り笑顔だって笑顔、破壊力は十分。だってほら、ゴリラがぎょっとした顔。

 (勝った!)

 ミーマはぽかんとしたウォードから、悠々とマヒトを受け取ると授乳を開始。今度はコイツだ。

 (さあお飲みなさい。そして寝なさい)

 今回のウォードの収穫は、いくつかの鳥の卵とヤマイモ。やはりマヒトを抱えて、あまり遠くへは行けないようだ。

 「よろしい、ならばケーキだ」

 ミーマが宣言。ヤマイモと卵、そして干し果実だけでケーキを焼く。

 「としては、の提案に賛成である」

 ウォードがおどけて、敬礼を返したものだった。

 その後もウォードは、少なくとも昼間、天候が良くて外に出られる日は必ず、こうしてマヒトを連れ出し、一定時間、ミーマの側から離した。ミーマはその間、夜の間に不足した睡眠を取り戻すもよし、家の仕事をするもよし、自由に過ごすことができる。その代わりにウォードは夜、寝るのである。

 なんだ、そんなことで解決するのか、と拍子抜けしそうだが、要するにすべての鍵は、

 『睡眠時間の確保』

 これに尽きるのだ。

 どんな屈強な心身の持ち主も、睡眠が取れなければ折れる。逆に睡眠時間が十分であればあるほど、逆境に対する耐久力は飛躍的に向上する。

 もちろんタイミング悪くマヒトが泣き止まなかったり、雨がふったりして授乳のペースが崩れてしまうこともあった。が、また程度まで悪化する。だが、ミーマがよくそこで踏みとどまれたのも、

 (そのうち必ず眠れる。ウォードがこの子を預かってくれる)

 その確信があったからだ。その間にも、だんだんマヒトが成長し、胃が大きくなってが増え、授乳間隔が伸びてくる。感が減り、夜も比較的長く寝てくれるようになる。

 (大丈夫、戦える)

 ミーマはこうして、戦場に戻ることができたのだ。

 愛情や母性は大切なものだが、しかし残念ながら絶対ではない。

 休息と睡眠、それがあってこそ、はじめて機能するのである。

 「よかったよ。寝られねえと辛えからな」

 ウォードは、ミーマが焼いたケーキを頬張りながら、膝に寝かせたマヒトのほっぺたをふにふに。

 彼が所属した渦潮紋ウズシオモン舟手組ふなてぐみでは、とにかく睡眠が重視される。船は狭く、また船酔いもある長期の航海はストレスがたまりがちだが、これに耐えるには、

 『寝るに限る』

 のだそうだ。なので、船で寝られない者は、新兵段階でハネられることもある。

 「キツそうなヤツを見つけて寝かせるのも、上の仕事さ」

 そういって笑うウォードに、ミーマが、

 「ありがとう」

 珍しく礼を言う。が、ウォードは急に表情を真顔に戻す。

 「礼を言われる筋合いはねえ」

 いっそ冷たいとさえ聞こえる声。

 「お前にへたばられちゃ、マヒトが大変だからよ」

 あ。

 今。

 (『線』を引かれた?) 

 「それに『寝かせてくれ』ってなあ昔、に頼まれたことでな」

 加えて、《地雷》まで踏んでくれた。

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