12/23.産声
ミーマの叫びは、わずかに遅かった。
かっ!
「うぉ?!」
ぎじっ!
ぼぐん!!
ウォードの身体が、円形神殿の石柱に激突。不幸中の幸いで、直撃ではなく半身をぶつけただけ。そのままキリモミ状態で森の中に突っ込み、うつ伏せでばたり。
すっ飛んだ戦斧が、近くの樹の幹にぐさり。
「ウォード!」
森の木々を抜け、ミーマが駆け寄る。
「大丈夫だ、生きてる」
ウォード、さすがに声は弱々しいが、それでも肘をついて上半身を起こす。差し出される回復剤も断る。
ずん!!
円形神殿の内側で、
これが封印というものなのか、しかしウォードもミーマも、そんな現象を見るのさえ始めて。
「出て来られねえのか……?」
ウォードがつぶやくが、ミーマは答えないし、答えようもない。ただきいきい男の言葉を信じるなら、
だがいずれにせよ、2人にもう逃げる力はない。ただ呆然と見上げるのみ。
ずん! ずん! どがん!
どずぅぅん!
どぉん! がすん!
が、しかし封印とやらは破れない。やがて、
ず、ず、ずずずぅぅぅ
青黒い沼が、まるで底の栓が抜けたように、中心に向かって収束を初めた。生意気にも水よろしく渦を作り、ずるずると円を狭めていく。
そして巨大な蛇骨型の
くわっ!
あるいは無念の表現か、最後に一度だけ巨大な口を開けておいて、
朝日が神殿の隅々までを照らし、鳥のさえずりが周囲に戻ってくる。悪夢は終わった。
そして。
「ルールー……」
ウォードがつぶやく。
「チーシェル……」
ミーマがつぶやく。
神殿の円の縁に、
清浄で、そして朝の風にすら溶けていくような
『ととさま』
ルールーが微笑む。
『ひゃお』
チーシェルが笑う。
それは確かに幻ではなかった。しかし、まるで幻のように。
それきり、2人の姿は朝の空気の中へと消えていった。
瞬きもせず、その光景を見つめていたウォードとミーマは、2人の姿が消えてしまった後も、やはり長いこと瞬きをしなかった。
あの光景を瞼に、いや魂にさえ刻みつけるように。
「……これで、よかったのか?」
「さあ? でも、確かなこともあるわ」
ミーマが、瞬きを止めたまま言葉をつなぐ。
「少なくとも、これを企んだ連中の思い通りにはならなかった」
「ざまあみやがれ、か。ま、良しとすっか」
2人の
「理屈はわかんねえが、アイツらがきっと、うまくやったんだろうぜ」
「そうね。貴方の娘さんが、ね」
「お前の息子もな」
2人の、いや4人の
2人とも、まだ瞼を閉じない。娘と息子が消えた神殿を、じっと見つめていた。だが、やがてウォードの瞼がばちん、と音がしそうなほどの勢いで閉じられ。続いてミーマの瞼も閉じられる。
閉じた2人の目から、涙があふれた。
もう一度でいい、お前が笑ってくれるなら。
ただ一度でいい、貴方が笑ってくれるなら。
ウォードとミーマ、父と母。2人の願いは叶った。
願いは叶ったのだ。
「う、う……」
「あ……あ……」
2人の喉から嗚咽がもれ、やがてそれは慟哭へと変わっていく。
「うおおおおおお!!!!!」
「ああ……あああああああ!!!!」
ウォードが拳で力の限り己の膝を、そして苔むした地面を叩く。
その横でミーマが、狂ったように地を
思えば2人ともに、大切な人を亡くした後、まともに泣いたことはなかった。こうして声の限りに、命の限りに、悲しみと悔しさを露わにしたことはなかった。そうすることに、心でブレーキをかけ続けていたのだ。
助けられなかった。そばにいてやれなかった。
守ってあげられなかった。愛してあげられなかった。
すべては自分の
そもそも、誰のために泣くのか。可哀想な亡き人のためか、あるいは可哀想な自分のためか。だとしたら醜悪でさえある。
何もできなかったくせに、いまさら泣くな。
だから、この慟哭を封じてきた。
だが、もういい。
ここは
こんな場所まで来て、命をかけて戦って、死にそうな目にあって。
2人の
そして、どれくらい泣いただろうか。
泣き疲れるなど、いつぶりの話かわからない。むしろ、よくまあそんなに泣く体力があるもんだと感心するほど、2人は泣いた。
朝日はすっかり昇りきり、辺りが昼間の光に包まれる頃。
かりっ。
小さな音で、2人はようやく泣くのをやめた。
かりかり、ぱりっ。
なにか硬いものを引っ掻いて、小さく砕いていくような音。
「卵」
ミーマがつぶやく。長時間泣いたせいで、もの凄い鼻声、そしてガラガラ声だ。
「割れてやがる……げ、ほ」
ウォード。こっちはもうガラガラどころではない。声が潰れきって、ほとんど無声音でしゃべっている。
そんな2人の眼の前で、地面に置かれた卵にヒビが入り、ぽろり、と穴があく。それを見て、
だっ! とばかりに、猿と猫が逃げ出した。
そりゃ、あんな目にあった直後だ。正体不明、なにが出てくるかも分からない卵の近くになんぞ、頼まれたって寄りたくはない。森の中を脱兎のごとく走り、すごい勢いで再び例の大木を登る。
高い枝の上、一瞬だけ顔を見合わせ、そしてまた卵を注視。
ぱりぱり、ぱり……ぼろ。
卵がとうとう上下にぱっくりと割れ、上の屋根がぽろり、と地面に落ちた。そして、
「ひゃああああああああん!!!!」
泣き声。いや、産声が響いた。
「うホ?!」
「にゃっ?!」
ウォードとミーマ、それぞれに素の声が出てしまった。
「ひゃあああああ!! ひゃああああああ!!!」
産声が響く。ウォードとミーマ、2人がまた顔を見合わせる。
真っ黒い顔に、同じく真っ黒い目を真ん丸に見開いたゴリラと、口ヒゲから尻尾の毛までバリバリに逆立てたユキヒョウ。さっき戦っていた時でさえ、ここまでではなかった、という緊張ぶり。2人とも戦いにこそ慣れているが、こんな状況は初体験なのだ。
「い、行くぞ」
「ええ……ええ」
木を降りる。が、敵陣に突撃する時だって、もう少しリラックスしているだろう。ウォードもミーマも降りる途中、何度も足を滑らせる。しまいにはミーマの美脚がウォードの首に絡みついた上に、逆さまでぶら下がるという、なにか面白いパフォーマンスみたいな状態で、どすん、と地面に落下。
木を降りる、ただそれだけで猿も猫も汗びっしょり。
そろそろと割れた卵に近づく。卵の中身が見えてくる。
ピンク色の肌。黒い頭髪。ちっちゃな手足。男の子。
「……猿?」
まずミーマが、ウォードに訊いた。だがウォードは首を振る。
「似てるが……しかしあんなツルツルの
「でも、それとも違うわよ。毛が無いだけで」
猿と猫がぼそぼそ、と言葉を交わす。
「ひゃあああああ!! あああああ!!!」
謎の
「……どうするよ、コイツ」
「どうするって?」
ウォードの質問に、ミーマが寄せた眉を吊り上げる。
「コイツがあの
ウォードが、のろのろと言葉を紡ぐ。
「『殺す』ってこと?」
「そういう手もある、ってことさ」
ウォードは、のっぺりとした顔で答えた。それが必要なことならば、感情を消し、やるべきことはやる、そういう顔だ。
「どうする?」
「私に決めろっていうの?」
ミーマが鋭い目を向けるが、ウォードは無表情のまま、
「仮にコイツを『殺さない』ってんなら、コイツに乳を飲ませるのはお前だ」
ずばり、と突く。
「!」
さすがにミーマ、言葉に詰まる。だが言われてみればそうだ。どういう巡り合わせか、今、ミーマの身体は授乳期にある。だが、相手は正体不明の卵から生まれた、
「……貴方は? どう思うの、ウォード?」
訊き返してみるが、
「俺がどう思ってようが関係ねえ」
ウォードは、むしろ冷たく、
「お前が乳をやれねえ、ってんなら、そこで話は終わりだ。まさか俺が乳はやれねえからな」
その状況判断は容赦がない。だが一方で、
「別にお前に押しつけようって、そういう気はねえんだ。こんな得体の知れないヤツに、乳なんぞ飲ませる気になれなくったって、そりゃ当然だからな」
少しだけ言葉を緩める。だがすぐに無表情に戻り、
「お前が乳をやらないってんなら、コイツを殺すのは俺がやる。それでチャラってことにしようや」
ミーマが決め、ウォードが手を下す。残酷だが、確かにフェアと言えないこともあるまい。
ミーマはしばしの沈黙のあと、
「私が、お乳を飲ませると言ったら……?」
「後は俺がなんとかする」
ウォード即答。
「この島で一生暮らすことになったとしても、お前らを飢えさせねえ。凍えさせもしねえ。この俺の
その誓いは。
「確か、この下に水場があったな。とりあえずそこまで行こうぜ」
ウォードが提案し、赤子を卵殻ごと、両手で持ち上げる。血まみれの手で赤子に触ることはできない。血液は極めて腐敗しやすく、その表面が一瞬でも外気に触れたなら、その血はもう腐っていると表現されるべきものだ。戦場で広がる伝染病を目の当たりにしてきた
赤子を連れた2人は無言で歩き、水の湧く場所へとたどり着く。
森の一角に、直径にして2メートルほどの水たまりがあり、水深1メートルほどの水底から水が湧いていた。真っ白な底砂が激しく踊る様が、湧水量の豊かさを示している。湧き出た水はひたひたと広がって緑の苔を育て、最後は小川となり、森の下へと消えていた。
「ちょっと待ってろ」
誰に言ったのか、ウォードが水辺の苔の上に、赤子を卵殻ごとそっと置く。水に群がっていた小鳥や羽虫が、それに驚いていっせいに逃げ散っていくのは、湧き出る水が安全な証拠だ。だが、それでもウォードは慎重に辺りを探索したり、土を掘り返たりして、不審な動物の骨や死骸がないか確認する。水に毒性があれば、必ず死骸があるものだ。
そして最後に手に水をすくって一口、口に含む。
「よし、大丈夫そうだ」
ウォードが水辺にべちゃっ、とひざまずき、泉に直接口をつけてごっ、ごっ、と水を飲む……というより流し込みはじめた。
ミーマも手に水をすくって、口に運ぶ。火山島が浸食された島の上、巨木の森によって蓄えられ、濾過された水は、いわゆる軟水。
(おいしい……)
口当たりがよく冷たい水が、激しい戦いと負傷で体液を失った身体に染み通る。
「なあ、こうしようぜ」
大きな腹がちょっと突き出るまで、文字通りたらふく水を飲んだウォードが、短く提案する。
「俺はこれから海の方へ出て、食えそうなもんと、使えそうなもんを集めてくる。
言いながら、砕けて枠だけになった大盾を腕から外し、近くの乾いた場所に放り出す。武器は腰の戦斧のみ。
「もしお前がコイツに乳をやれないってんなら、その間にどっかへ消えてくれ。後始末は俺がやる」
淡々とした言葉は、ミーマに負担をかけない配慮だろうが、あまり役には立っていない。
「で、島の中でも、2度と顔を合わせない。俺はどっちにしても、この島で朽ち果てるつもりだ。前にも言ったが、もしいつかウチの仲間の船が来ることがあったら、知らん顔して助けてもらうといい。俺のことは言うな」
軽く言い捨て、ミーマの顔も見ることなく、のっしのっしと泉を後にする。その背中に、
「ほんとにいいのね、私が決めて」
「……ああ」
まったくもって、嘘の下手な猿だ。
そして。
泉を後にしたウォードが、再び元の道を戻るころには、太陽もすっかり昇り切り、さしも鬱蒼とした森の奥にも、明るい日光が差し込んでいる。
背中と両手に荷物を満載し、のっしのっしと歩くウォードの姿は、まるでベテランの行商人か、下手をすれば夜逃げと間違われそうな格好。荷の大半はウォード、そしてミーマが殺した
(恨むな、っても無理だろうがなあ)
埋めた場所に、せめて秋の野の花を手向け、手を合わせていたのだ。
ウォードが、元の泉のそばに立つ。緑の苔に覆われ、木々に囲まれた水場に、今は日光が降り注ぎ、まるで別天地のような美しさだ。
しかし、そこには誰もいなかった。
ミーマも、赤子もいない。
「?!」
ウォードが大あわてで、がしゃがしゃと荷物を下ろす。下ろす間もキョロキョロと辺りを見回している様子は、ちょっと滑稽ですらある。
「……ここよ」
ミーマの声がした。泉のそばの、小さな
だっ、とウォードが駆け出し、藪の向こう側を覗き込む。
「ミーマ?!」
そこにミーマがいた。
泉の水で身体と衣服を洗ったらしく、破れた法服やブーツが近くの木に干され、キラキラと水滴を落としている。あら風が吹き抜ける泉の縁を避け、ここでウォードを待っていたのだ。
生乾きの、細く黒い下着だけを身に着けたミーマは、倒れた朽木の幹に腰掛け、手の指を1本、ぴんと立てて自分の唇に押し当てている。
「……」
無言のメッセージは、
(静かにしろ、馬鹿猿)
そして、ミーマの腕の中には。
ウォードの顔が、すっ、と藪の向こうへ引っ込む。
「食い物、集めてきた。今、火起こす」
できるだけ短く、必要事項だけを伝達。だがミーマにバレないはずがない。
「なに泣いてるのよ?」
「泣ひてねえほ、バカ!!」
涙混じりのドラ声に驚いたか、ミーマの腕の中で無心に母乳を吸っていた赤子が、むにゅ、と身をよじらせた。
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