12/23.産声

 ミーマの叫びは、わずかに遅かった。

 かっ!

 蛻殻ヌケガラの巨大な鎌首が、ウォードの身体をぶら下げたまま、ぶん、と左右に振り回された。つられてぶぉん、ぶぉんと、まるで子供が遊ぶ水風船のように、ウォードの巨体がもてあそばれる。

 「うぉ?!」

 ぎじっ!

 蛻殻ヌケガラの骨に食い込んでいた戦斧が引っこ抜け、ウォードの巨体が小さな虫のようにすっ飛ばされた。

 ぼぐん!!

 ウォードの身体が、円形神殿の石柱に激突。不幸中の幸いで、直撃ではなく半身をぶつけただけ。そのままキリモミ状態で森の中に突っ込み、うつ伏せでばたり。

  すっ飛んだ戦斧が、近くの樹の幹にぐさり。

 「ウォード!」

 森の木々を抜け、ミーマが駆け寄る。

 「大丈夫だ、生きてる」

 ウォード、さすがに声は弱々しいが、それでも肘をついて上半身を起こす。差し出される回復剤も断る。

 ずん!!

 円形神殿の内側で、蛻殻ヌケガラが暴れる。ミーマが持つ卵に向けて突進しようとするが、見えない何かに阻まれ、神殿の円から出られないようだ。

 これが封印というものなのか、しかしウォードもミーマも、そんな現象を見るのさえ始めて。

 「出て来られねえのか……?」

 ウォードがつぶやくが、ミーマは答えないし、答えようもない。ただの言葉を信じるなら、蛻殻ヌケガラは魂を食って外に出るという。もしミーマの手にある卵がヤツの魂であるなら、逆に言えば現状、蛻殻ヌケガラは封印の外には出られないはず。

 だがいずれにせよ、2人にもう逃げる力はない。ただ呆然と見上げるのみ。

 ずん! ずん! どがん!

 蛻殻ヌケガラの巨体が暴れる。周囲の空気が爆発的に振動し、ミーマのヒゲがびんびんと、下手くそな弦楽器のように弾かれる。よほど不快なのだろう、そのたびに丸い耳がぴこぴことしぼみ、全身の毛がイライラと逆立つ。ウォードとて意地で平気な顔を作ってはいるが、腹の底には重い恐怖が、低く垂れ込めていた。 

 どずぅぅん!

 蛻殻ヌケガラで2人のほうへ突進し、封印に激突する。禍々しく並んだ牙と、青黒い喉の奥が丸見えになるほどの至近距離。猿と猫、2人の奥歯がそろって、ぎり、と嫌な音を立てる。目をつぶらず、にらみ続けたのがせめてもの意地。

 どぉん! がすん!

 が、しかし封印とやらは破れない。やがて、

 ず、ず、ずずずぅぅぅ

 青黒い沼が、まるで底の栓が抜けたように、中心に向かって収束を初めた。生意気にも水よろしく渦を作り、ずるずると円を狭めていく。

 そして巨大な蛇骨型の蛻殻ヌケガラも、出現時と反対に尻尾から、中心部へと吸い込まれる。ぶんぶんと頭を振って抵抗するが、流れには逆らえない。

 くわっ!

 あるいは無念の表現か、最後に一度だけ巨大な口を開けておいて、蛻殻ヌケガラの姿は見えなくなった。と、ほぼ同時に青黒い沼も姿を消し、元の石組みの円形神殿だけが残る。

 朝日が神殿の隅々までを照らし、鳥のさえずりが周囲に戻ってくる。悪夢は終わった。

 そして。

 「ルールー……」

 ウォードがつぶやく。

 「チーシェル……」

 ミーマがつぶやく。

 神殿の円の縁に、海豚殻イルカガラの少女と、彼女に抱かれた獅子殻シシガラの赤子。その姿からは、もう禍々しい青黒さは消え去り、湧き水のような透明さに変わっている。

 清浄で、そして朝の風にすら溶けていくようなはかなさ。

 『ととさま』

 ルールーが微笑む。

 『ひゃお』

 チーシェルが笑う。

 それは確かに幻ではなかった。しかし、まるで幻のように。

 それきり、2人の姿は朝の空気の中へと消えていった。

 瞬きもせず、その光景を見つめていたウォードとミーマは、2人の姿が消えてしまった後も、やはり長いこと瞬きをしなかった。

 あの光景を瞼に、いや魂にさえ刻みつけるように。

 「……これで、よかったのか?」

 「さあ? でも、確かなこともあるわ」

 ミーマが、瞬きを止めたまま言葉をつなぐ。

 「少なくとも、

 「ざまあみやがれ、か。ま、良しとすっか」

 2人の戦人イクサビトから、力が抜ける。

 「理屈はわかんねえが、アイツらがきっと、うまくやったんだろうぜ」

 「そうね。貴方の娘さんが、ね」

 「お前の息子もな」

 2人の、いやイクサは終わったのだ。

 2人とも、まだ瞼を閉じない。娘と息子が消えた神殿を、じっと見つめていた。だが、やがてウォードの瞼がばちん、と音がしそうなほどの勢いで閉じられ。続いてミーマの瞼も閉じられる。

 閉じた2人の目から、涙があふれた。

 もう一度でいい、お前が笑ってくれるなら。

 ただ一度でいい、貴方が笑ってくれるなら。

 ウォードとミーマ、父と母。2人の願いは叶った。

 

 願いは叶ったのだ。


 「う、う……」

 「あ……あ……」

 2人の喉から嗚咽がもれ、やがてそれは慟哭へと変わっていく。

 「うおおおおおお!!!!!」

 「ああ……あああああああ!!!!」

 ウォードが拳で力の限り己の膝を、そして苔むした地面を叩く。

 その横でミーマが、狂ったように地をい、身をよじる。

 思えば2人ともに、大切な人を亡くした後、まともに泣いたことはなかった。こうして声の限りに、命の限りに、悲しみと悔しさを露わにしたことはなかった。そうすることに、心でブレーキをかけ続けていたのだ。

 助けられなかった。そばにいてやれなかった。

 守ってあげられなかった。愛してあげられなかった。

 すべては自分のとが。なのに、どうして泣くことができるだろう。

 そもそも、誰のために泣くのか。可哀想な亡き人のためか、あるいは可哀想な自分のためか。だとしたら醜悪でさえある。


 何もできなかったくせに、いまさら泣くな。


 だから、この慟哭を封じてきた。

 だが、もういい。

 ここはカラモンも、名も地位も、すべて無意味な海と地の果て。見るものもいない、神様さえ目を背ける外法の瀬戸際だ。

 こんな場所まで来て、命をかけて戦って、死にそうな目にあって。

 2人のカラは、やっと泣くことができたのである。

 そして、どれくらい泣いただろうか。

 など、いつぶりの話かわからない。むしろ、よくまあそんなに泣く体力があるもんだと感心するほど、2人は泣いた。

 朝日はすっかり昇りきり、辺りが昼間の光に包まれる頃。


 かりっ。


 小さな音で、2人はようやく泣くのをやめた。

 かりかり、ぱりっ。

 なにか硬いものを引っ掻いて、小さく砕いていくような音。

 「卵」

 ミーマがつぶやく。長時間泣いたせいで、もの凄い鼻声、そしてガラガラ声だ。

 「割れてやがる……げ、ほ」

 ウォード。こっちはもうガラガラどころではない。声が潰れきって、ほとんど無声音でしゃべっている。

 そんな2人の眼の前で、地面に置かれた卵にヒビが入り、ぽろり、と穴があく。それを見て、

 だっ! とばかりに、猿と猫が

 そりゃ、あんな目にあった直後だ。正体不明、なにが出てくるかも分からない卵の近くになんぞ、頼まれたって寄りたくはない。森の中を脱兎のごとく走り、すごい勢いで再び例の大木を登る。

 高い枝の上、一瞬だけ顔を見合わせ、そしてまた卵を注視。

 ぱりぱり、ぱり……ぼろ。

 卵がとうとう上下にぱっくりと割れ、がぽろり、と地面に落ちた。そして、

 「ひゃああああああああん!!!!」

 泣き声。いや、が響いた。

 「うホ?!」

 「にゃっ?!」

 ウォードとミーマ、それぞれに素の声が出てしまった。

 「ひゃあああああ!! ひゃああああああ!!!」

 産声が響く。ウォードとミーマ、2人がまた顔を見合わせる。

 真っ黒い顔に、同じく真っ黒い目を真ん丸に見開いたゴリラと、口ヒゲから尻尾の毛までバリバリに逆立てたユキヒョウ。さっき戦っていた時でさえ、ここまでではなかった、という緊張ぶり。2人とも戦いにこそ慣れているが、こんな状況は初体験なのだ。

 「い、行くぞ」

 「ええ……ええ」

 木を降りる。が、敵陣に突撃する時だって、もう少しリラックスしているだろう。ウォードもミーマも降りる途中、何度も足を滑らせる。しまいにはミーマの美脚がウォードの首に絡みついた上に、逆さまでぶら下がるという、なにか面白いパフォーマンスみたいな状態で、どすん、と地面に落下。

 木を降りる、ただそれだけで猿も猫も汗びっしょり。

 そろそろと割れた卵に近づく。卵の中身が見えてくる。

 ピンク色の肌。黒い頭髪。ちっちゃな手足。

 「……猿?」

 まずミーマが、ウォードに訊いた。だがウォードは首を振る。

 「似てるが……しかしあんなツルツルの猿殻サルガラいねえぞ。むしろ海豚殻イルカガラみてえだ」

 「でも、それとも違うわよ。毛が無いだけで」

 猿と猫がぼそぼそ、と言葉を交わす。

 「ひゃあああああ!! あああああ!!!」

 謎のカラは、泣き続ける。

 「……どうするよ、コイツ」

 「どうするって?」

 ウォードの質問に、ミーマが寄せた眉を吊り上げる。

 「コイツがあの蛻殻ヌケガラとやらの魂だってんなら、どう考えてもヤベえだろ?」

 ウォードが、のろのろと言葉を紡ぐ。

 「『殺す』ってこと?」

 「そういう手もある、ってことさ」

 ウォードは、のっぺりとした顔で答えた。それが必要なことならば、感情を消し、やるべきことはやる、そういう顔だ。

 「どうする?」

 「私に決めろっていうの?」

 ミーマが鋭い目を向けるが、ウォードは無表情のまま、

 「仮にコイツを『殺さない』ってんなら、コイツに乳を飲ませるのはお前だ」

 ずばり、と突く。

 「!」

 さすがにミーマ、言葉に詰まる。だが言われてみればそうだ。どういう巡り合わせか、今、ミーマの身体は授乳期にある。だが、相手は正体不明の卵から生まれた、カラも分からない赤子なのだ。

 「……貴方は? どう思うの、ウォード?」

 訊き返してみるが、

 「俺がどう思ってようが関係ねえ」

 ウォードは、むしろ冷たく、

 「お前が乳をやれねえ、ってんなら、そこで話は終わりだ。まさか俺が乳はやれねえからな」

 その状況判断は容赦がない。だが一方で、

 「別にお前に押しつけようって、そういう気はねえんだ。こんな得体の知れないヤツに、乳なんぞ飲ませる気になれなくったって、そりゃ当然だからな」

 少しだけ言葉を緩める。だがすぐに無表情に戻り、

 「お前が乳をやらないってんなら、コイツを殺すのは俺がやる。それでチャラってことにしようや」

 ミーマが決め、ウォードが手を下す。残酷だが、確かにフェアと言えないこともあるまい。

 ミーマはしばしの沈黙のあと、

 「私が、お乳を飲ませると言ったら……?」

 「後は俺がなんとかする」

 ウォード即答。

 「この島で一生暮らすことになったとしても、お前らを飢えさせねえ。凍えさせもしねえ。この俺のカラが動く限り、な」

 その誓いは。

 「確か、この下に水場があったな。とりあえずそこまで行こうぜ」

 ウォードが提案し、赤子を卵殻ごと、両手で持ち上げる。血まみれの手で赤子に触ることはできない。血液は極めて腐敗しやすく、その表面が一瞬でも外気に触れたなら、その血はもうと表現されるべきものだ。戦場で広がる伝染病を目の当たりにしてきた戦人イクサビトのウォードは、腐った血の恐ろしさをよく知っていた。

 赤子を連れた2人は無言で歩き、水の湧く場所へとたどり着く。

 森の一角に、直径にして2メートルほどの水たまりがあり、水深1メートルほどの水底から水が湧いていた。真っ白な底砂が激しく踊る様が、湧水量の豊かさを示している。湧き出た水はひたひたと広がって緑の苔を育て、最後は小川となり、森の下へと消えていた。

 「ちょっと待ってろ」

 誰に言ったのか、ウォードが水辺の苔の上に、赤子を卵殻ごとそっと置く。水に群がっていた小鳥や羽虫が、それに驚いていっせいに逃げ散っていくのは、湧き出る水が安全な証拠だ。だが、それでもウォードは慎重に辺りを探索したり、土を掘り返たりして、不審な動物の骨や死骸がないか確認する。水に毒性があれば、必ず死骸があるものだ。

 そして最後に手に水をすくって一口、口に含む。

 「よし、大丈夫そうだ」

 ウォードが水辺にべちゃっ、とひざまずき、泉に直接口をつけてごっ、ごっ、と水を飲む……というよりはじめた。

 ミーマも手に水をすくって、口に運ぶ。火山島が浸食された島の上、巨木の森によって蓄えられ、濾過された水は、いわゆる

 (おいしい……)

 口当たりがよく冷たい水が、激しい戦いと負傷で体液を失った身体に染み通る。

 「なあ、こうしようぜ」

 大きな腹がちょっと突き出るまで、文字通りたらふく水を飲んだウォードが、短く提案する。

 「俺はこれから海の方へ出て、食えそうなもんと、使えそうなもんを集めてくる。半刻はんとき(約1時間)ほどで戻る」

 言いながら、砕けて枠だけになった大盾を腕から外し、近くの乾いた場所に放り出す。武器は腰の戦斧のみ。

 「もしお前がコイツに乳をやれないってんなら、その間にどっかへ消えてくれ。は俺がやる」

 淡々とした言葉は、ミーマに負担をかけない配慮だろうが、あまり役には立っていない。

 「で、島の中でも、2度と顔を合わせない。俺はどっちにしても、この島で朽ち果てるつもりだ。前にも言ったが、もしいつかウチの仲間の船が来ることがあったら、知らん顔して助けてもらうといい。俺のことは言うな」

 軽く言い捨て、ミーマの顔も見ることなく、のっしのっしと泉を後にする。その背中に、

 「ほんとにいいのね、私が決めて」

 「……ああ」

 まったくもって、嘘の下手な猿だ。

 そして。

 泉を後にしたウォードが、再び元の道を戻るころには、太陽もすっかり昇り切り、さしも鬱蒼とした森の奥にも、明るい日光が差し込んでいる。

 背中と両手に荷物を満載し、のっしのっしと歩くウォードの姿は、まるでベテランの行商人か、下手をすればと間違われそうな格好。荷の大半はウォード、そしてミーマが殺したカラ亡殻ナキガラから剥いだ、衣服や武具、薬剤類だ。少し時間をオーバーしたのは、彼らの亡殻ナキガラを一通り、森の中に埋葬していたからである。もちろん、彼らが蘇らせようと命をかけた亡殻ナキガラも、できるだけ側に埋めた。

 (恨むな、っても無理だろうがなあ)

 埋めた場所に、せめて秋の野の花を手向け、手を合わせていたのだ。

 ウォードが、元の泉のそばに立つ。緑の苔に覆われ、木々に囲まれた水場に、今は日光が降り注ぎ、まるで別天地のような美しさだ。

 しかし、そこには誰もいなかった。

 ミーマも、赤子もいない。

 「?!」

 ウォードが大あわてで、がしゃがしゃと荷物を下ろす。下ろす間もキョロキョロと辺りを見回している様子は、ちょっと滑稽ですらある。

 「……ここよ」

 ミーマの声がした。泉のそばの、小さなやぶの向こう。

 だっ、とウォードが駆け出し、藪の向こう側を覗き込む。

 「ミーマ?!」

 そこにミーマがいた。

 泉の水で身体と衣服を洗ったらしく、破れた法服やブーツが近くの木に干され、キラキラと水滴を落としている。あら風が吹き抜ける泉の縁を避け、ここでウォードを待っていたのだ。

 生乾きの、細く黒い下着だけを身に着けたミーマは、倒れた朽木の幹に腰掛け、手の指を1本、ぴんと立てて自分の唇に押し当てている。

 「……」

 無言のメッセージは、

 (静かにしろ、馬鹿猿)

 そして、ミーマの腕の中には。

 ウォードの顔が、すっ、と藪の向こうへ引っ込む。

 「食い物、集めてきた。今、火起こす」

 できるだけ短く、必要事項だけを伝達。だがミーマにバレないはずがない。

 「なに泣いてるのよ?」

 「泣ひてねえほ、バカ!!」

 涙混じりのドラ声に驚いたか、ミーマの腕の中で無心に母乳を吸っていた赤子が、むにゅ、と身をよじらせた。

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